ブックレビュー 


国分一太郎 『小学教師たちの有罪』 (1984、みすず書房)

2010.2.5 藤田勝久

  国分一太郎 『小学教師たちの有罪』 (1984、みすず書房)は、あの暗黒な時代を理解するうえで必読の書であろう。

  1941年(昭和16年)。
  特高、砂田周蔵は国分一太郎にモンキリ型にいいわたす。
  「君を北方性生活主義綴方運動と、雑誌 『生活学校』 を中心とする生活主義教育運動の件で、治安維持法違反としてしらべる。 ただし運動の時期の関係上、新治安維持法ではなく、旧治安維持法によってしらべる」−−と。
  「そしてその取り調べの経過と結果は、たんに、山形を地域として罪に問われた、わたくし個人に関すること、 また、いまは死んだわたくしの心の師であり友であった村山俊太郎氏、その他の知人に関することばかりではなく、全国各地で不当な弾圧をうけ、 罪をきせられたいくたの 「小学校教師たち」 の身の上に関係することなのである。
  わたくしは、あの弾圧事件のために、自殺したり、早死にしたりしたひとや、その妻たち、子どもたち、孫たちのことも思って、これを書きつづけようとしている。…」

  特高、砂田周蔵の取り調べは、以下の如くである。
  国分一太郎は砂田周蔵に命じられて、訊問調書、課題 「東北農村について」 を書き綴る。
  「…赤字農家にあえぐ借金農家は、このようにして、どん底の生活をつづけ、自分の子どもたちのために文化的環境を与えられぬばかりか、 かつかつの生存をつづけることのために、子どもたちの学習の権利をうばい、かれらを、半人前、あるいは三分の二人前の無償農耕労働にかりたてて、 文化的野蛮の状態におとしいれたのである。──
  わたくしたちは、これらのことがらを受け持ち児童の日々の姿、実際のありさまに見出し、たえず心をいためていたが……」──

  ようやくこのへんまでのことを書いたときであった。−−

  「…砂田警部補が、ふらりとやってきて、
  「どこまで書いたかね」
とたずねるといっしょに、机の上にあるわたくしが書き終わった分のザラ紙を、ひょいと手にとりあげた。 そして、しばらく読みつづけていたかと思うと、急にそれを机の上に投げだし、なにもいわずに、わたくしのほおを、右左とはげしくたたきつけ、 そのまま、ぐっとにらみつづけた。…」

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  砂田警部補が問いを書き、答えを書いていく。
  そして国分一太郎は、署名・捺印させられる。
  こうして特高の手によって綴り方教育が、革命的農民の育成組織の運動に化けていく。

  それから60年ほど経った。2004年(平成16年)。
  2月27日、立川で3人が逮捕された。

  腰縄を椅子に縛り付けられて、4畳半ほどの狭い取り調べ室に刑事が二人いる。
  大洞俊之氏は、目の前の机を蹴られそれが彼の膝を痛打する。
  大洞俊之氏、高田幸美氏、大西章寛氏の三氏は罵声を浴びせられ続ける。
  「立川から出て行け」 「自転車で立川を走れないようにしてやる」
  「立川の浮浪児」 「寄生虫」 「実家にも家宅捜索に行くぞ」
  「(障害者介助のしごとについて)隠れみのでやっているんだろ」
  「北朝鮮じゃ、こんな取り調べじゃすまないぞ」
  「二重人格 …」 …

  一日、6〜8時間の取り調べが22日間続く。
  親元に、「娘は、ヤクザの使い走りをさせられている」 と言う。
  6か所の家宅捜索。
  大西氏、 パソコン2台、電子手帳、携帯電話、印鑑、預金通帳を押収される。

  5月11日に保釈されるまで75日間の勾留となった。
  治安維持法下の時代と何ら変わることがない。
  検察庁、警視庁公安による刑の執行である。

  山形県警察特高係警部補・砂田周蔵は、内務省警保局思想課左翼係主任に警視正として栄転、戦後は警察大学校警備教養部長となった。
  内務省で砂田の隣室にいた、むごたらしい拷問で知られる特高・伊藤猛虎は戦後岩手県の村長となり、のち県議会議員となった。
  裁判官は一人も追放とならなかった。
  民衆を弾圧した判事は、何人もが戦後最高裁裁判官となった。
  国分を裁いた予審判事・長尾信は、松川事件一審裁判長として、「死刑5名、無期懲役5名、…」 の宣告を行った。

  治安維持法下の「特高」と現在の 「公安」 が全く同じに見える。
  裁判官もまた、戦前そのままである。