ブックレビュー 

  崔 善愛著
  『ショパン──花束の中に隠された大砲』
岩波ジュニア新書

弁護士 梓澤和幸

  ある人の人生をたどる評伝を書くとき、人は自分がどう生きてきたのか、そして今後をどう生きるのかを考えるのだろう。
  まして同じ困難に立ち向かった芸術家の人生であれば……。

  本書はピアニストによって書かれたショパンの伝記である。 偉大な作曲家の音楽はその人の生きた時代を色濃く反映する──それは著者がこの本に太く貫く思想である。

  ショパンが少年時代、青年時代と生きたポーランドはロシアの植民地支配のもとにおかれていた。それは民族の尊厳を蹂躙する苛酷な支配で、 ワルシャワには独立のための秘密結社が多数あった。1824年指導者のひとりウカシンスキは逮捕ののち、脚を鎖で縛られ、 重たい石を載せたリヤカーを押し、街中を歩かされた。人々はその姿を、涙を流しながら見送るほかはなかった。(本書22ページ)。

  ショパンの友人たちは独立運動に参加し、ショパン自身もその渦中にあった。 1830年5月末、ロシア皇帝ニコライ一世がポーランドを訪れたときの宮廷演奏会に、当然招かれるはずのショパンは招待されなかった。
  ウィーン、パリへの留学資金への奨学金申請が受理されなかった。
  独立運動との関わりが把握されていた、というのである(48ページ)。こういうエピソードはすでに名の知られた音楽家だったショパンの生き方を反映している。

  音楽家としての成長も克明にたどられている。8歳でポロネーズを作曲するほどの水準に達し、次々と一流の教師の指導を受けて、 ショパンは大きくなってゆく。
  ヨゼフ・エルスネルという教師の言葉は魅力的である。
  「(作曲の)規則はあくまで自分で発見すべきものである。その時々に自分で自分を乗り越えられるようになるために。 まだ見つかっていないものを見つけるための方法そのものを身につけるべきなのである」
  「自分の生徒から凌駕されなければよい教師ではない」(44ページ)

  1830年7月、フランスで7月革命が成就した。その影響はポーランドにも及び、騒然とした雰囲気をもたらした。 青年ショパンも革命家の集まるカフェに足を運び、独立運動家たちの議論に加わった。
  しかし家族、友人、教師たちはショパンだけに与えられた才能を何よりも大切に思い、武装蜂起の起こる前にショパンを脱出させ、 音楽の力でポーランドの悲劇を伝えてほしいと願った。悩み抜いたショパンは、切り裂かれるような思いを胸にして旅立つ。
  卓越した教師エルスネルと作曲科の学生たちが合唱曲で馬車にのってウィーンにむかうショパンを見送った。
  だが……。
  ウィーンに着いてわずか6日後にロシアの統治に抵抗する武装蜂起が起こる。いったん成功した蜂起も鎮圧されワルシャワはまた占領される。

  その頃書かれた日記。
  「おお神よ、あなたはおいでになるのですか。おいでになるのならどうして復讐してくださらないのですか─それとも神よ。 あなたもロシア人なのですか」(シュトウットガルトの日記)。
  言葉にできない憤り、紙の上に再現できない感情。誰の生涯にもそういうことはあるだろう。 ポーランドを取り戻す闘いの敗北と犠牲に、ショパンは苦しんだ。だが、絶望と憤怒は音楽の才能と一つになって強いメッセージを含んだ曲を、 時代を越えて私たちに送った。

  著者は 「うめき声や叫び声、すすり泣きというような言葉になる前に流れる、涙のような音」 と呼んだ。
  エチュード 「革命」 (第12番ハ長調)である。con fuoco 烈火の如くという作曲家の指示が付された。
  ショパンが独特に背負っていた感情を表す言葉、()AL(ジャル)についても書いておこう。
  作曲家リスト、詩人ジョルジュサンド、ショパンの三人だけがいる部屋で、ショパンのピアノに心ふるわせた詩人が、 曲の中に閉じこめている感情とは何かを聞いた。 ショパンは悔恨から憎しみに至るまでの感情を表す()ALだと答えた(132ページ)。

  著者は難民としてパリの日々を送ったショパンの胸中、ポーランドの人々の受難に共感し、音楽に絶えず表れる 「光と影」 をみごとに指摘している。
  このくだりは本書のクライマックスである。指紋押捺拒否訴訟に20年取り組み、 指紋押捺拒否ゆえに留学先のアメリカから帰国する際にはいったん入国を拒否され、 ついに協定永住権を奪われるという体験をしたピアニスト崔 善愛だけがなしえた仕事である。 作曲家の精神の痛みとそれに由来する音楽の輝きを映し出す著者の描写をたたえたい。

  病苦のゆえに異郷で孤独の死を遂げたショパンは、心臓を故国に埋めてほしいと切実に願った。 姉が遺言を実現し、今もそれはポーランドの大地に抱かれている。
  ショパンが伝えようとした自身の苦悩とポーランドの悲劇は、離散を強いられた人々の運命となって今も全地球に拡がっている。

  言葉を越えて無意識(ユング)に働きかける音楽という芸術が持つ力を信ずる人へ。それなしには生きられぬという人へ。 私はショパンと崔 善愛への尊敬をこめて本書を薦める。
  一心に読み切ったあと、音楽、とくにエチュード 「革命」 に耳傾けられよ。優美な旋律を越えてたち現れる低音部の、 圧倒するような音があなたの魂をふるわせるだろう。
  我が身を削るようにしてショパンの精神の軌跡をたどり、その音楽の真の姿を彫(え)り抜いた著者に感謝を捧げたい。

  付記  本の副題は作曲家シューマンの言葉からとったという。
  崔 善愛は21歳で指紋押捺を拒否。そのことを理由に留学先のアメリカからの再入国を拒否され、永住権をはく奪された。 二つの裁判を最高裁まで20年取り組む。
  国会に参考人として招致され、結果的には最高裁判決の結果を覆して14年ぶりに特別永住権を回復した。
  CDに 「()AL」 「Piano, my Identity」 (ともに若林工房)がある。