ブックレビュー 




マスコミはなぜ
「マスゴミ」と
呼ばれるのか


   日隅一雄 著
   現代人文社 刊
  弁護士の日隅一雄さんから新著の 「マスコミはなぜ 『マスゴミ』 と呼ばれるのか」 を送っていただきました。日隅さん、ありがとうございました。
  何よりも、新聞と放送の2大マスメディアで働く第一線の記者にぜひ読んでほしい1冊です。 本書は 「権力に縛られたメディアのシステムを俯瞰する」 との副題の通り、 日本の新聞ジャーナリズムと放送ジャーナリズムが実は 「新聞社」 や 「放送局」 の会社ジャーナリズムであること、 「新聞社」 と 「放送局」 の在り方を決めている要因が読者や視聴者ではなく、 国家権力 (総務省による直接の電波管理行政に代表される) とメディア企業の資本持ち合い (クロスオーナーシップ) と広告業界 (1業種1社制の不採用) の 3点セット≠ナあることを、具体的に指摘しています。

  新聞社の記者であれば、新聞販売が独禁法の適用除外となっている再販制度や特殊指定のことはある程度は知っているでしょう。 しかし、免許制の放送行政で、戦後間もなくは独立行政委員会が存在していたことを知っている記者は、 経済部や文化部の一部の記者を除けば、どれぐらいいるでしょうか。 逆に、放送局の記者の中で、新聞の戸別配達 (宅配) のことを正確に理解している記者はどれぐらいいるでしょうか。 クロスオーナーシップにしても、新聞社と放送局の系列関係は知識としては知っていても、それが 「表現の自由」 や 「知る権利」 とどのような関係にあるか、 常日頃から念頭においている記者はどれぐらいいるでしょうか。

  マスメディアが身上としている組織ジャーナリズムは、一方で個々の記者が細かく担当分野別に分かれて日々取材している状況でもあります。 政治部でも経済部でも社会部でも、特定の記者クラブに所属し、 専門分野で日々取材に明け暮れし (そこでは他社との熾烈な 「抜いた」 「抜かれた」 の競争があります) ていると、 自分たちが身を置いているメディア界の全体状況や足元全体を見回す余裕はなくなります。 わたし自身がそうでした。ましてやマスメディアの在り方を、そこで働く者同士の間で考え、広く議論する機会はなかなかありません。 本書は、「表現の自由」 や 「知る権利」 の観点に照らして、新聞や放送の 「会社ジャーナリズム」 が構造的に抱えているもろさや危うさを描き出していると言ってよく、 まずは記者の一人一人が身の回りの現状を理解し、問題点を把握するのに役立つと思います。

  本書はさらに、会社ジャーナリズムの内側、メディア企業の中の諸問題にも切り込んでいきます。 とりわけ編集権の所在について、もっぱら経営者に帰するとした日本新聞協会の 「編集権声明」 に疑問を投げ掛けている指摘は、 メディア企業とそこで働く記者個人の内心の自由との関係で重要な論点だと感じました (「編集権声明」 は1948年 (60年も前の声明です) 当時の文言のまま今日に至っているようです。 日本新聞協会の
ホームページ の 「取材と報道」 のページで読むことができます)。 労働組合の形骸化の指摘に対しては、計3年間の専従活動を経験したわたしとしては切なさと若干の異論もあるのですが、基本的には返す言葉がありません。

  続いて本書は1990年代末以降のメディア規制立法の動きを追い、2010年に法案提出とされる 「通信と放送の融合」 がはらむメディア規制、 表現規制の危険性を指摘し、最後に現状の改善への展望を示しています。

  繰り返しになりますが、1人でも多くの第一線で働く記者たちに読んでほしい1冊です。 経営者にも本書の指摘を真摯に受け止めてほしいことは、言うまでもありません。

評 ブログ 「ニュースワーカーK」 運営、元新聞労連委員長 美浦克教
ブログ 「ニュースワーカーK」 より (転載承諾済み)






 在日コリアン弁護士協会 著
 『裁判の中の在日コリアン』
 現代人文社 刊

  「日本を照らす鏡――在日コリアン」

  著者である協会は北でも南でもない在日コリアンである弁護士50名が集う団体である。本書はまず在日コリアン形成の歴史と法的地位の変遷を概観する。
  その上で裁判に登場した在日コリアンの人生をメンバーの弁護士たちがたどり、人間的共感をもって主人公たちの苦闘を記した。

  「中高生の戦後史理解のために」 というサブタイトルにふさわしい平易さと、包容力に満ちた文体がそろう。
  評者は、やさしさとはレベルを下げることではなく、書き手が問題の理解を一層進め、もう一段抽象と飛躍を高めることだという考えをもっているが、 いくつかの文章はそのことに成功している。

  たとえば、金嬉老 (キムヒロ)──寸又峡事件である。
  金嬉老は在日二世だった。幼くして父を失い、母とともに学校裏の庭にある掘立て小屋に住み、投石のいじめや侮辱に会いながら成長した。 その日の米にも困る生活だった。飛び抜けて感受性の強い彼にとって、思春期は、打ちのめされては立ち上がる日々の連続だったに違いない。 そのような人生の到達の末にできあがった反逆の精神と肉体の統合、それが37歳の金嬉老であった。 ヤクザ者と警察が投げつけた言葉は彼の心深くにマグマのように蓄積された悲しみと憤り、それは限りなく公の憤りに近いものであったのだが、 その爆薬に信管を与えるようなものであった。
  やくざ者へのライフル銃による殺伐とした暴力、警察への爆弾をもった突入の失敗のあと、 人質をとって旅館にたてこもって彼の人生の鏡に照らし出された日本社会の暗部を金嬉老はインタビュー画像で訴えた。 そこには現場にとびこんで言い分を聞いたジャーナリストの決死の行動があったことも記憶されてよい。

  彼のうったえは心ある人々に届いた。その力――知力は金嬉老の被差別の人生の中で鍛えられたのだろうという叙述に余人には記せない筆者の共感がこもる。
  それは事件の単純な説明の域を超えた響きをもつ詩(うた)といってもよいものだと思う。

  この団体の代表李宇海 (イウヘ) 弁護士が書いた。
  東京都の管理職を希望して拒否され、一審敗訴、高裁で劇的な逆転をとげたが、上告審で逆転敗訴した鄭香均 (チョンヒャンギュン) さんの物語も目を引く。

  上司に薦められたこともあって応募した管理職試験だったが、人事課から電話があった。
  「あなたは試験を受けられない。在日は (公務就任権がないという) 「当然の法理」 があるのを知らないのか」。
  普通に人生を歩もうとするのに、こんなに厚い壁があることがどれだけの人に知られているだろうか。
  東京都は高裁で完敗した。すぐに解決するはずの事件で主人公は7年も待たされた上弁論の通知が届いた。それは、逆転敗訴を示唆する出来事である。
  在日のまま初めて弁護士になる前人未踏の道を開いた金敬得 (キムキョンドク) 弁護士 (故人) の弁論は、人生をかけた壮絶なものだったという。

  ひょういつな表情に、いつも微笑みをたたえていた彼の弁論とはどんなものだったか。 暗く、圧迫感に満ちた石造りの大法廷にしみ入っていく在日第一号の法律家の声と、原告本人の胸中を察しながら読む。

  掲載された文章の一つひとつは、ある種の包容力をもち、浸透力をもっているように思われた。 在日コリアン弁護士が在日コリアンの人生の苦難と苦闘に言及するのだから、そこに響きあう 「うた」 があるのは当然なのだが、本書の説得力は何故生まれたのか。
  生活の実際の大変さといい、社会的なステータスといい、主人公と筆者たちには筆舌につくしがたい闘争の歴史があった。 この本に登場する主人公たちの人生の一つひとつは、自由と平等という近代の理念と矛盾する日本の社会の闇を照らし出し、 わずかだが、これこそ光だといえる根拠を示しているのではないか。
  本書は在日コリアンの、ではなく、日本列島という場に住む私たちのかすかな希望をうたっているのである。

  リベラル派を含めて、日本の知識人エリートの認識する宇宙には在日コリアンのことはすっぽり抜け落ちている。 本書でも正当に取り上げられているが、帝国日本が朝鮮半島住民に強制的に焼き鏝 (こて) のように記した日本国籍を、 サンフランシスコ条約締結で朝鮮半島への領有権を喪失したことを奇貨として、今度は日本に残留した朝鮮半島出身者から、 法律でもないいっぺんの法務省民事局長通達で剥奪した。そして国籍がないという理由で生きる権利さえ無慈悲に蹂躙した。 最高裁判所判例もこの措置を追認してきた。(塩見訴訟など) 残存する差別意識は、 こうした公権力の措置と世間の風潮によりかかってきた庶民の無意識の底に蓄積されてきた汚泥である。

  歴史のこの経緯に言及するのは代表的な憲法基本書ではたった一冊しかない。旧 「帝国」 大学の教授たちの教科書にはただの一行も言及がない。 この歴史認識は歴史の中での自己像を確立できていないこと、すなわち自分を知らないことになるのだと思う。

  市民社会――人間に内在する自由と平等という近代の希望 (あるいは夢) をこの日本で実現しようとすれば、帝国の作り出した歴史と恥部に苦しくとも光をあて、 それを制度上も精神の上でも乗り越えなければならない。


  本書は苦難の人生を歩んだ人々による日本の闇を照らしだす鏡かもしれない。

評 梓澤和幸 (弁護士)



いま蘇る小学校2年生の 「文集」

半世紀前からの贈り物
内田 雅敏 著  れんが書房新社

  お元気ですか。
  2005年10月から1年余にわたって蒲郡市の 「広報がまごおり」 に連載したエッセー 「半世紀前からの贈り物−今蘇える小学校2年生の 『文集』」 に大幅加筆し、 本書を作成しました。
  本書には、〈半世紀前、古びた木造校舎に小さな机を並べ、校庭で一緒に遊んでいた友人へのメッセージ〉 として現在から過去への発信、 「前文から 『愛』 を削除する自民党新憲法草案」、「イラク 『戦争』 とは何だったのか」 及び私と同世代の評論家佐高借さんに関するエッセー 「雄鶏は声を挙げるだけで卵を産めないが」 を収録し、さらに友情寄稿として同世代の弁護士、木村晋介さんの 「セピア色の裏側」、 作家、キツネ目の男? 宮崎学さんの 「1953年、時間はゆっくりと流れていた」 も収録し、跋文として世代的にはやや年長ですが、 『自動車絶望工場』 以来数々の問題作を世に問うているルポ・ライター鎌田慧さんより 「憲法が輝いていたころ」 をいただきました。 この一文から読み始めていただいても結構です。
  本書をいつか流し読み下さり、宣伝いただければ幸いです。
     2007年
                          内 田 雅 敏
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御  報  告

2007年12月30日
   諸先輩及び友人各位
内 田 雅 敏

  長い間、文集 「いつつぼし」 をめぐる 「物語」 にお付き合い下さり有難うございました。
  同封の一文にありますように、文集作成当時 (1953年) の雪組担任の先生がご健在であることが分かり、思いもかけなかったうれしい結末を迎えることができました。
  この間、同級生はもちろんのこと、北海道から九州まで全国各地の先輩、友人から様々な感想をいただき、新たに文集を作っているかのような気にもなりました。 文章の力というものはすごいものですね。
  それにしても、前記 「感想」 中の 「あの時代、時間はゆったりと流れていた。それに比べ今は……」 という共通の思いを考えるとき、 その 「ゆったりとした時代」 を過ごしてきた私達が現在のような慌しい時代を創り上げてしまったことにつき忸怩たる思いを禁ずることができません。


S・S 様

  突然お手紙を差し上げますことをお許し下さい。
  私は54年前の1953(昭和28)年GN小学校2年生のときに、お母様のH・S先生が担任をされた雪組で学んだ者の一人です。
  実はそのときに作成された「文集」──それもガリ版刷りでなく、活版刷りの──が出て来、それが当時の生活を非常によく表していますので、 わたしがそれを元にしたエッセーをG市報に1年余にわたって連載しておりましたが、今般同封のように 『半世紀前からの贈物─いま、 蘇える小学校2年生の文集』 という小本にまとめました。
  当時の同級生や先生方にもお配りしたところ、皆さん大変懐かしがっ下さり、様々な感想が寄せられました。 G地域以外の方々からも 〈住んでいた処は違っても、あの時代は日本全国皆同じであった〉 〈貧しかったが、時間がゆったり流れていた〉 等々の感想が届きました。
  現在のGN小学校の校長先生からも同封のようなお手紙をいただきました。
  3年前59歳のとき、本文の末尾 (101頁) で以下のように書きました。
  「当時8歳であった私たちも来年はもう還暦、早いものである。テレビの普及していない時代に幼少期を過ごすことができ幸せであったと思う。 黄ばんだ 『文集』 をしげしげながめていると、よくぞひっそりと生き残っていてくれたと思う。半世紀を経て蘇えったのだ。大切な 『宝物』 のようにも見えてくる。 ひらがなの 『さ』 と 『ち』 を間違えて使っている児童がいるのもほほえましい。
  このような 『宝物』 を遺してくれた当時の教師達に感謝したい。5人中4人の顔までは思い出せるのだが、何故か竹組担任の教師の顔だけが浮んでこない。 年齢からしてもう亡くなられた方が多いと思われるが、どなたかまだご健在で、この一文が目にとまれば嬉しいのだが。」
 今般、G市在住のT・Y先生 (私の中学校2年生の時の担任) からH先生のご健在なことを知らされ、お手紙を差し上げる次第です。
 もっともお聞きするところでは、H子先生も現在91歳という御高齢とのことですので、この小本をお読みいただけるかどうか分かりません。 もし、お読み頂けるようでしたらお渡し下されば大変うれしく思います。
 H子先生がご健在でいらっしゃるということは、私達同級生の間でも大きなニュースとなっております。
 どうぞよろしくお伝え下さい。
2007年11月7日
M・U


M・U  様

  初めまして。H・Sの長男、Sでございます。
  このたびは嬉しいお便りとともに、「半世紀前からの贈物」、文集 「いつつぼし」 をご送付いただきましてありがとうございました。 つい先日Y様より、母親の状況に関してのお電話をいただいて驚きましたが、 今回こうして母親のかつて若かりし頃の立ち振る舞いの一端を見せていただいたような気がして、誠に嬉しく思いますと共に、 54年前の母親の若かった頃の活動を誇りにも思っております。 大変驚きましたが母親は当時の教員生活の内容について、自宅では殆ど口にもしなかったため、私も母親の職業が小学校の先生と言う認識程度で、 何も知らず今となっては残念な思いもあります。

  母は、N市大空襲で当時軍属──A時計電機X、戦前は海軍の軍需工場でしたが、現在は計測器精密機械メーカーとして活躍しております。 私も同社に入社し昨年9月に退職しました。──であった夫 (私の父) を35歳という若さで失い、 その後は女手一つで私 (昭和18年生) と弟 (19年生) の2人の子供を抱え、戦後かなり苦労したと想像できますが、当時子供の目には毎日夜遅く帰宅のようで、 私共兄弟は祖母(母の実母)が母親代わりをして、私共兄弟も同じGN小でしたから学校で母親に会うのが嫌で仕方なかった記憶があります。

  Y様にはお電話で申し上げましたが、3年前にアルツハイマーと診断され、2年前より自宅から車で、約15分のO市の南のT町にあります、 同病専門のグループホーム (現在7名の個室付き団体生活です。) にお世話になっております。 今年の8月に、同ホーム内で転倒し、大腿骨骨折の手術で人工骨置換手術を行い、約1月入院しておりましたが、無事退院でき、現在は車椅子生活ですが、 内臓は大丈夫なようでお蔭様で91歳越えてなお、元気に過ごして貰えるのは感謝です。

  いただいた文集のコピー、とご著書さっそくグループホームに持って行き、本人にも見せましたが、 ニコニコしているだけでどうも今一つ反応がなかったことが残念ですが、代わりに私が全部読ませていただきました。すばらしい内容で感動致しました。

  母親の写真アルバムから適当に古い写真をコピーして同封させていただきます。見覚えがありましたら幸いです。 再度じっくりといただきました本を読み直し、母にもその部分、部分をまた気長に伝えたいと思っております。 頭はかなりボケてはおりますが、結構古い歌は歌いますし、文字も読めますので未だ可能性はない訳ではないかと思っております。

  改めて大変素晴らしい本をご出版いただき、多くの読者に目が触れますことを心よりお祈りし御礼の言葉に代えさせていただきます。
  先ずは御礼まで
2007年11月17日
S・S


S・S 様

  早速御丁寧なお返事と懐かしいH子先生の数枚の写真をお送りいただき大変嬉しく、感激しております。
  T高女時代の写真も見させていただきましたが、帽子の似合う素敵な女学生ですね。 私達にとっても清楚で凛とした優しい先生でした。ご家族とご一緒にくつろいでおられるおばあちやんとしてのH子先生もいいですね。
  いただいたお返事と写真コピーをかつての雪組の面々に見せたところ、彼らも大変懐かしがっておりました。

  小学校2年生の時、医者の誤診により隔離病棟に入れられてしまったことから、彼女の姉も含め一ヶ月近くも登校停止となり、 件の学芸会にも出席できず悲しい思いをした同級生の一人は、その際、H子先生が大変優しく接して下さったことを思い出し、 S様からのお返事を読ませていただき思わず涙してしまったとのことです。
  また4歳年上の姉ともどもH子先生に受け持ってもらった或る同級生は、日頃姉が 「H子先生」 「H子先生」 言っておったこと、その姉が昨夏亡くなったことなどを思い、 やはり涙であったとのことです。H子先生は本当に多くの子供達から慕われていたのです。

  ところで、S様らのお父様が亡くなられておられたことは、私も子供の頃からも存じおりましたが、やはり戦争でしたか。 私も子供の頃に父母などからN市やT海軍工廠への空襲の話を聞かされたことを覚えています。
  私が親しくしている在日の政治学者・K、T大教授もN市大空襲で兄を亡くしており、毎年命日には母親が入念な準備をし、お祀りをしていたと聞かされたことがあります。
  あの時代、H子先生やS様ご兄弟のような方がいっぱいおられたのですね。当時何も分かっていなかった私達でした。 そのような悲しみを内に秘め、私達子供に対しては、明るく接して下さったH子先生に本当に感謝いたしております。

  自衛隊のイラク派兵などなにやら、きな臭くなった昨今です。「テロとの闘い」 という語句がすべての思考を停止させてしまうかのような観すら呈しています。 「平和を守る闘いは忘却との闘いである」 といわれますが、敗戦の年に生れ、62歳になった私達も、 子供や孫達の世代に戦争のない平和な日本を伝えなければと思う日々です。 同封の小本 『靖国問題Q&A……特攻記念館で涙するだけでよいのでしょうか』 は、 市民運動や学生達との討論の中で生れたものです。「ご遺族」であるH子先生や、S様らにも是非とも御一読いただきたく思い、お送りする次第です。
  いつかH子先生に代って流し読み下されば幸いです。
  本当にご丁寧なお返事を有難うございました。

  三年程前にふとしたことから手にした文集 『いつつぼし』、このの文集をめぐっての過去と現在、時空を超えた想念の往復でしたが、 S様を介しての 「H子先生からのお手紙」 をもって締め括りを迎えることができたような気がいたしております。

  54年前、GM小学校、古びた木造校舎での2年雪組の一員として、H子先生がS様らご家族に見守られ、 残りの人生をお静かに過ごされることを、心よりお祈り申し上げます。
2007年11月19日    M・U


M・U  様

  すっかり冷え込みが厳しくなり初冬の感ですが、お元気でお過ごしのことと思います。
  折り返しご丁重なお便りとともに、このたびは 「靖国問題Q&A」 をご送付いただきましてありがとうございました。
  母の代わりに、早速一気に読ませていただきました。昨日は、母のグループホームでの家族会があり、いただきましたお便りとご著書を持参し、 母だけでなくグループホームの職員にもご紹介させていただきました。

  母は軍属であった夫の遺族会での年中行事の中で、靖国神社参拝コースも入れた1泊旅行を過去に何度も楽しんでいたようでしたが、 数年前からは残念ながらその楽しみもできなくなりました。無論母には政治問題は無関心で、 仲間とともに行楽の旅に出かけると言うだけの楽しみであったに違いないと思います。
  本来ならば私もその意志を継ぐのが自然なのかもしれませんが、ご著書にもありますように、 靖国神社が政治の道具にされている状況を以前から苦々しく思っていたこともあって、私は一度も靖国神社に参拝したこともなく、 今後もそのつもりもないのですが、政治と無関係な母の純粋な思いは決して否定するつもりもなく、 爆死した父親の形見(と、いってもたった1つ現場に残っていたといって母が遺品として受け取った学生時代の野球部のベルトのバックルだけですが。) とともに大事にしたいと思っております。

  遺族なら兎も角、政府高官による靖国神社参拝がどれだけ近隣の国々を初めとする国際社会にマイナスをもたらしたのかも反省しない政府に憤りすら覚え、 いただきましたご著書に我が意を得た思いです。
  母のタンスから同封の書面と古い写真がでて参りました。諄いかも知れませんが、ご覧いただければ幸いです。 昭和57年の日付になっておりまだしっかりしていた頃で、何を思っての文章か、途中で書くのを止めたのかも解りませんが、 波潤万丈で気丈であったのはむしろ母の方だったのかも知れないと今では思っております。

  3年前であれば、恐らく母自身でご返信を差し上げることができたことと思いますが、現在の状況では文字も満足には書けなくなり誠に残念ですが、 代わりの私の舌足らずな文章で大変ご無礼を申し上げます。
  いただきました2冊のご著書は、母のアルバムと共に大切に保管をしたいと思っております。 重ねてお礼を申し上げ、U様を始め同窓の皆様のご健康をお祈り申し上げます。
2007年11月25日
S・S


S・S 様

  寒い日が続き、今年も残すところあとわずかとなりました。
  ご家族の皆様お変わりございませんか。

  来年1月2日夕刻より、G市Tホテルにて私達昭和20年生 (一部21年生) の中学校の同級会がありますので、 拙本 『半世紀前からの贈物』 が少しばかり話題となると思います。 その際、S様からお聞きしたH子先生の御様子についてもかつての2年雪組の面々に話をさせていただくつもりです。きっとみんな喜んでくれると思います。
  同封のDVD、『紙屋悦子の青春』 は、黒木和雄監督の遺作で、昨年秋、東京岩波ホールで2ヶ月間程上映されていたものです。 わたしが最近もっとも感銘を受けた映画です。決して声高でなく、しんみりとした中で平和の大切さを淡々と訴えるもので、大学の人権論の講義で学生達に見せました。
  H子先生に代わってSさんらにも是非見ていただきたく差し上げる次第です。
  寒さ厳しくなる折、H子先生にはくれぐれもお体に気をつけられ、新しい年をお迎え下さいますようお祈り申し上げます。
2007年12月14日
M・U


M・U 様

  冬本番の今日この頃ですが、今年も残りすくなくなって参りました。
  先日は、ご丁寧なお便りとともにDVD 「紙屋悦子の青春」 をお送りいただきありがとうございました。母親の代わりに早速拝見させていただきました。
  戦闘場面もない、しんみりした構成の中、反戦の願いが大きく読みとれる作品で大いに感銘を受けた次第です。 特典映像からも、黒木監督の魂が胸を打つ思いがして参ります。
  恐らく3年前の母であれば一緒に鑑賞して感動できたかと思います。

  私自身もこれまで母と一緒に暮らしていて、家では戦争に対する恨みなど耳にしたこともなく、 新婚早々夫を失い、波潤万丈の戦後の混乱を乗り切った母親を何が支えたのか、 小学校の教師としての満足感だけが人生の全てであったとも思えないのですが、不思議な思いです。戦争が全てを惨くする悲惨さを殆ど口にせず、 国に対する愚痴すらこぼした姿を見たことがありません。家庭では惨めたらしいことや悲惨さが滲むような態度を敢えて拒むかのようにも感じたのも、 今にして思えば父親のいない私共兄弟に悲しい思いをさせまいとの思いからかも知れません。
  現在では、全てから解放された暮しの中で、グループホームで静かに平穏な余生を過ごしておりますが、表情は穏やかで時折戦前の古い歌を口ずさむこともあります。
  先にいただきました 「半世紀前からの贈物」、「靖国問題Q&A」 とともに、「紙屋悦子の青春」 は、母のアルバムとともに大切に保管し、 機会があれば母を知る方にお見せしたいと思っております。

  同封の写真は、ついこの前 (12/15)、母のグループホームのクリスマス会でのスナップです。足は自由が効きませんが、 幸い食欲はありますので何とか元気に年を越せそうです。
  新年の同窓会の折には、どうかU様より母の現況も同窓の皆様にお話しを賜れば幸いです。どうか健康にはご用心され、 明るい新年をお迎えいただきますようお祈り申し上げます。
2007年12月19日
S・S


  明けましておめでとうございます。
  本年もどうぞよろしくお願いいたします。

  暮には “半世紀前からの贈物” を送っていただきましてありがとうございました。読んでいますと走馬灯のようにすべてが思い出されてきます。 なつかしいものをありがとうございました。
  又、H子先生の息子さんのSさんの手紙も同封していただきまして、H子先生の御家族の方達を思い出しています。私の家の近くに住んでおられたのです。 私の父も満州で亡くなり、戦後は母が祖父から引きついだ魚屋を切り盛りしていまして、Sさんの祖母がよく来られたのです。
  Sさんの鉄道マニアの記事が新聞に掲載されたことがありまして、O市にいらっしゃるのだと思っていた少し後に、 H子先生と偶然A地区の護国神社の御霊祭でお目にかかり、姉とは言葉を交しました。3年ほど前くらいかな? と思っていましたが、 3年前からアルツハイマーを患ってということですので、もう少し前のことですね。
  お人形さんのようにきれいでやさしい先生も、なりふりかまわず働く我母も、そしてその子供、みんな戦争の犠牲者です。二度と戦争は起してはなりません。
  憲法改正に対する異議申立を底辺からも訴えるべきです。
  昨夏、戦争体験の朗読会を聞きに行きましたが、戦場だけが戦争ではなく、人それぞれがすべて戦争の犠牲者だと思いました。
  あの手紙を読ませていただいたら、急にHちやん (お父さんが戦死の同級生。旧姓A) の声がききたくて、「Hちやん、お母さんお元気?」 「元気、元気にしているよ」 とTELしました。
  戦争のない平和な世の中を次世代につづけられるように願わずにはいられません。
2008年 元旦
M・T


≪G市立N小学校現校長からの手紙≫

  前略。市役所企画課を通して、U様の 「半世紀前からの贈物」 五冊がGN小学校に届けられました。誠にありがとうございました。
  黄ばんだ文集が大切な 「宝物」 のようにも見えてくる、と書いておられますが、当時二年生の子どもたちが全身で書いた、 正に珠玉といってよい作文には心打たれるものがあり、 それらについてのエピソードなどを豊かな想いを込めて綴られた本書を手にして一気に読みひたっている自分に気づきました。
  私も去年の七月に還暦を迎えました。バナナ、大人用の自転車、三角ベース等々、実に懐かしく半世紀前の小学生時代が思い出され、昔はよかった、 温かさがあった、貧しかったけれど……と、心の中でつぶやいていました。作文の力は大きい、どんなに短い文章にもその子の生活が出ている、 その子の理解を深めるためにも、教師は子どもたちに文章を書かせた面もありますが、やはり書くことによる子どもの認識力などの力を伸ばそうとしたのでありましょう。 昭和27年6月の 「GNだより」 には、GN小学校の作文の成績が優秀との理由で、学校賞として厚生大臣賞をいただいたとの記事も載っており、 当時は盛んに作文指導をしていたことが分かります。中心になられた方は、T・S先生あたりではなかったかと思います。
  小五の時の悪戯小僧、“二階引っ張り上げ事件” 等の文章からもU様の小学校時代の “姿” がよく分かって痛快? です。
  いい本をいただき感謝しております。「ALWAYSの続3丁目の夕日」 が公開されました。古きよきGN小学校をも知ることができ、大変うれしく思っております。 今、GN小学校は児童数三百八十人となりました。
  でも、学芸会、運動会などちやんと行っています。今後ともGN小学校に対する温かいご支援、ご指導をお願い申し上げ、お礼と致します。
  U様の増々のご活躍をお祈りしております。
2007年11月3日
  GN小学校  S・Y
M・U  様




日本児童文学者協会創立60周年記念出版


「おはなし」 の力で戦争をイメージする、平和を考える

「おはなしのピースウォーク」

日本児童文学者協会/編

第1巻〜第5巻 (第6巻1月刊行予定)


会員作家の作品と協会の呼びかけにこたえた応募作品を収録。

従来の戦争児童文学の枠にとらわれず、今の子どもたちの心に響く新しい視点、 新しい表現方法で戦争と平和を描く画期的なアンソロジーです。
第1巻・まぼろしの犬・他 (絵・北見葉胡)
(古田足日・岡田依世子・中原光・島村木綿子・最上一平・木村研・川北亮司・西山利佳)

第2巻・扉を開けて・他 (絵・三村久美子)
(古田足日・白川タクト・守田美智子・高橋うらら・那須正幹・後藤竜二・きどのりこ・奥山恵)

第3巻・空はつながっている・他 (絵・梅田夕海)
(古田足日・大浦絵里・濱野京子・一色悦子・吉橋通夫・あまんきみこ・あさのあつこ・みおちづる・長谷川潮)

第4巻・傘の舞った日・他 (絵・山田花菜)
(古田足日・はたちよしこ・水谷すま子・島田和子・佐藤佳代・皿海達哉・村山早紀・加藤多一・藤田のぼる)

第5巻・地球の心はなに思う 他 (絵・石庭美和)
(古田足日・高木あきこ・小川英子・今関信子・とうやあや・佐々木赫子・李慶子・長崎夏海・相川美恵子)

新日本出版社刊
定価各 1995円 3巻セット 5985円 (1巻〜3巻) 小学校高学年以上向

新日本出版社
  151-0051 東京都渋谷区千駄ヶ谷4-25-6 電話 03-3423-8402 Fax 03-3423-8419

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『北朝鮮へのエクソダス』

テッサ・モーリス-スズキ著 田代泰子訳 朝日新聞社

  1959年からの25年間日本から北朝鮮に帰国した93,340人の人たちがいた。それは棄民だった。

  悲惨なその現実を著者は情報公開によって明かされたアメリカ、オーストラリアの公文書や、ジュネーブの国際赤十字委員会に保存されたファイル、 関係の地への旅、体験者たちのインタビュー、そして、断片をつなぎあわせる想像力と情緒によって解き明かしていく。

  日本という国の成り立ちを知るのに、在日朝鮮人とニューカマーの在日外国人問題を一つの像として結ぶのは大切なことなのだが誰も取り組んでいない。 私はあえてそのことに挑戦して 『在日外国人』 (筑摩書房 2000年) を上梓した。その執筆過程で率直に言って驚かされる事実に出会った。

  それは、戦後の出発にあたり、朝鮮半島に帰還せずに日本列島に残った朝鮮人を、日本の多数派権力が邪魔者扱いにして、 日本を占領するアメリカ当局に対してその全員を強制送還することを願い出たことである (吉田茂のマッカーサー宛書簡)。

  日韓併合(1910年)後の植民地支配の時代にあって強制連行、戦時労働力強制動員など、さまざまの態様で多数の朝鮮人が日本に移動させられた。 その数は二百万人にも及ぶ。戦後それぞれの個別の事情もあって帰国せずに日本に残った人がいたのだが、その人々は生活の困窮を余儀なくされた。 そのため生活保護をうける人々が少なくなかった。それは10万人以上に上ったという。 また、戦争直後の労働運動、平和運動の中できわめて戦闘的な一翼を形成していた。

  日本の支配層は社会保障の負担とこの人々の社会的存在を嫌悪して、先のような行動に出たのである。
  それは実現に至らなかった。しかし、形を変えて、岸信介政権の下で人道的措置の美名のもとに棄民は実現した。
  誰が始めたことなのか。

  本書によれば、日本の権力機構の一部が1955年には帰国事業を認めており、そのメッセージは頻繁に北朝鮮に送られた。はじめ北朝鮮政権の反応はなかった。
  このメッセージに、北朝鮮側が明確な反応を見せたのは、1958年9月8日になってのことである。
  この日、金日成が日本からの大量帰国歓迎を世界に向かって発表したのである。
  それは、大躍進政策推進のため北朝鮮に在留して戦後の再建を手助けしていた、 三十万人の中国人民解放軍が大量に帰国するその労働力の穴埋めを構想したものだった、と本書は論証する。

  そして、この大量帰国受け入れは、正常化しつつある日韓関係へのヒビ割れを企図するものでもあったというのである。 国力の向上を宣伝し、人道的に優位を主張し、日本と韓国との関係を混乱させることができる。
  日本、北朝鮮、ソ連はそれぞれ国家としてこの事業を推進、援助し、アメリカは沈黙によって対応した。

  本書に一貫しているのは、それぞれの国の支配層の野心の下で、情報を与えられずに人生最大の困難に直面させられた、多数の人々の酷薄な運命への共感である。

  板門店を北側から訪ねた作者が、顔は子どものようで、体の小さい兵士たちと出会ったときの情景。
  「兵士たちを見てこみ上げた (私の) 笑いは、すぐに消えてしまった。通り過ぎる自動車に青年の一人が顔を上げて、目と目が合った。 悲しげな、わずかに問いかけるような、つかの間のまなざし。

  あらゆる苦難に直面しながら、過去の世代の抱いていた、よりよい世界を築くのだという確信はない人の表情──土埃が巻き上がる道を、 どうなるかわからない未来に向かって、どこまでもトボトボ行くしかない現実に直面している人の表情だった。」

  否応なく、私たちは本書に登場する人々、とくに帰国させられた人の人生と同じ時代を生きてきた。
  この人々の運命を左右した多数派権力をそのままに在位させ、同時に、人道的事業として積極、消極のいずれかの態度で事業を支えた以上、 私たちの世代は、真実を知る責任がある。

  本書が「知られるべき真実」に貢献することは間違いない。


評 梓澤和幸 (弁護士)