日本国憲法の嘆きと願い

弁護士 澤藤統一郎 (2011年3月20日)

  私は 「日本国憲法」 である。
  人類の叡智の正統な承継者として1947年日本に生まれた。以後、主権者国民に育てられて地に根を下ろし、枝をひろげた大樹となっている。
  私の根幹を成すものは、「人権」 と 「民主主義」 と 「平和」 である。その各々は相互に関連し、相補うものとしてある。 とりわけ、至高の価値である国民個人の人権を擁護するために民主主義が円滑に機能することが、私の切なる願いである。

  このことを、私は、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、 その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである」 と高らかに宣言した。

  「人権」 とは、国民の命・健康・安全・名誉・自由・財産であって、私の最も貴重とするものである。 国民の代表者たる公務員・政治家は、その貴重な国民の人権を預かる者として、心して国民の福利のために献身しなければならない。
  ときに、この理をわきまえない不心得な政治家が現れることが心配でならない。

  石原慎太郎という首都の知事、何を勘違いしてか、公僕たる立場にありながら偉そうに国民に教訓を垂れたという。 「津波をうまく利用してだね、我欲を一回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心のあかをね。これはやっぱり天罰だと思う」 とは、 私にとって聞くに堪えない悲しい暴言である。

  本来石原は、被災した国民の命・健康・安全・名誉・自由・財産をいかに擁護し、いかに回復するかに心を砕かねばならない立場にある。 被災を 「天罰」 ということは、苦しむ国民の傷に塩を塗り込むことで、私の想像を絶する。 石原は、私の目の黒いうちは、知事としても政治家としても失格というほかはない。

  しかし、私は寛容にできている。私には直接に石原を失脚させる物理的な力はなく、胸を痛めるしかない。首都の主権者にお願いしたい。 私に代わって石原を諭して知事の座を退くよう力を尽くしていただきたい。その実現を私は待ち望んでいる。