石原慎太郎 「震災は天罰」 発言

弁護士 澤藤統一郎  目次

「日の丸・君が代」 強制にこだわる
(2011年4月9日)

  言葉には、その使われ方による歴史の手垢がついている。その手垢ゆえに嫌いな言葉は少なくない。「滅私奉公」 は最たるもの。 震災被害を天罰といった人物は、自身を表現する言葉としてマスコミの取材に 「滅私奉公」 を挙げている(7日付 「毎日」)。 嫌いな人物と嫌いな言葉、このマッチングに妙な納得感をおぼえる。

  「滅私奉公」 は、強者が弱者に押しつけた徳目として薄汚く手垢にまみれている。古くは、奉公の 「公」 とは主君であり、藩であり、商家の旦那でもあった。 要するに政治的・経済的支配への積極的な従順を美徳化したスローガンであった。

  明治期以後の 「公」 は疑いもなく 「天皇」 を意味した。「天皇が君臨する国家」 でもあって、臣民訓育の道具として意識的に利用された。 最悪の汚れた歴史。

  近代憲法は、個人の尊厳を確認するところから出発している。一人一人生身の個人が、完全に等しく尊い。 その個人が、各人の権利の調和を図りつつ、最大限に権利を伸長する手段として便宜国家を作り運営する。 国家そのものに価値はなく、「個人に奉仕する」限りでの存在意義である。「滅私奉公」とは、まったく相容れない。

  憲法の最大の関心事は、国民が作り与えた国家の権力が、国民個人の権利を侵害することのないように抑制することにある。 憲法典とは、至高の人権を、必要悪としての国家から防御するためのシステムなのである。

  したがって、個人と国家のスタンスをどうとるかという問題は、憲法にとっての最重要事項である。 国旗・国歌が国家の象徴である以上、国旗・国歌とどう向き合うかについては、国家の関与や強制が介入する余地はない。 国民の信託によって成立した国家が、国民に国旗国歌を押しつけるなどは背理なのだ。

  ましてや、「日の丸・君が代」 である。侵略戦争や排外主義、差別、思想弾圧等々の負の遺産と深く結びついているこの旗と歌を、 教育の場において職務命令で強制し、不起立者を懲戒するなどはもってのほかというべきである。

  人権に配慮のない 「天罰」 発言、国家主義にもとづく 「日の丸・君が代」 強制、そして 「滅私奉公」 の旧時代のイデオロギーは、 不気味な糸でつながっている。