【NPJ通信・連載記事】ビーバーテール通信―カナダから考える日本と世界―
ビーバーテール通信 第 9 回 北オンタリオの旅 (後編) 絶景スポットは日系人の強制労働の上に
小笠原みどり (ジャーナリスト・社会学者)
ここから旅は折り返しに入る。往路は、スペリオル湖北岸のダイナミックな地形に圧倒されながらも、最終目的地サンダー・ベイに早く着きたいがために、ガイドブックに載っている観光スポットは素通りして先を急いだ。なので復路は、とばしてきた景勝地に立ち寄りながら、何もかもスケールが大きいこの地域を味わいながら進むことにした。それに、サンダー・ベイで姿を消した先住民の若者たちの足跡を追い (中編参照) 、気持ちが凍え気味になっていた私たちは、なんとなく自然の癒しを求めてもいた。
大きな水しぶきをあげて流れ落ちるカカベッカ滝=2020年 8 月、撮影はすべて溝越賢
まず、サンダー・ベイからあと一歩だけ西に足を延ばし、40メートルの岩壁から流れ落ちるカカベッカ滝 (Kakabeka Falls) へ。正確には、この州立公園が今回の旅の最西端になった。豊富な水がいくつもの岩の段を滑り落ちていくのを、手が届きそうな距離で正面から見る。しぶきを上げながら落ちていく水は、滝壺に留まる間もなく、切り立った岩壁の渓谷を遥か遠くへと流れていく。ナイアガラに次いで、オンタリオ州で 2 番目の高さという滝は、長い間、先住民たちの聖地でもあった。朝早く、人もまばらな公園内で、滝から舞い上がる水蒸気を浴び、体だけでなく心も洗われるようだった。
続いて、いま来たばかりのトランス・カナダ・ハイウェイを東へ折り返して約100キロ走り、横道に入って、ウィーメット・キャニオン (Ouimet Canyon) を探す。駐車場から約20分、白樺と糸杉の小道を歩いて辿り着いた展望台からの風景は、目も眩むばかりの絶壁の下に、スペリオル湖に向かって広がる緑の湿地帯。思わず、「釧路湿原に似ている」という言葉が出かけて、急いで飲み込む。初めて見る壮大なものを、これまで見てきたものの範疇で理解しようとする癖は止めようと、行きに決めたばかりだった。ウィーメット・キャニオンは、釧路湿原でもグランド・キャニオンでもない。ここにしかない唯一無二の存在なのだ。
高さ150メートルにもおよぶ断崖が連なるウィーメット・キャニオン
実際、氷河によって造形されたこの辺りの地形はとてもユニークな存在だ。高さ150メートルの絶壁の下には、なんと北極圏と同じ野草が生息している、と説明書きがあった。その成り立ちは諸説あるが、氷河期にできた地層が地形の変化でパックリと開き、キャニオンの底辺部に表れたという説が有力だそうだ。だから地球の成り立ちを探るためにも、底辺部には学術目的以外では立ち入りが禁止されている。えー、夏はこんなに暖かい場所でどうして北極圏の植物が生きられるの ? などと、私たち 3 人が話していると、後ろから「日本の方ですか ?」と声をかけられた。
振り返ると、10代とおぼしき子ども 2 人を連れた白人男性で、今日は一緒に来ていないけれど、妻が日本人で、横須賀に住んでいたこともある、という。私たちがカナダで、どうせ周囲には分からないとタカをくくって日本語で言いたい放題しゃべっていると、実は隣にいた人が全部内容を理解していた、ということはこれまでも何度かあって、その度に肝を冷やした。見た目が日本人ではないから日本語を知らないという思い込みは禁物だ。今日は誰の悪口も言っていなくてよかった、とホッとしていると、その親切な男性スティーブは、私たちがケンケンガクガクしていた北極圏の植物について、改めて解説してくれた (英語で) 。この地域で育ったからここには何度も来ている、と言いながら、私たちの記念撮影も買って出てくれた。そして別れ際、彼の言った一言で、私たちの次の目的地が決まった。
「帰り道、スクライバー (Schreiber) という村を通り過ぎると思いますが、そこには戦争中、日系カナダ人の収容所があったんですよ。こんなに自然が険しく、孤立した場所だからスパイ活動はできないと、西海岸に住んでいた日系人を強制的に連れてきたそうです」
そんなことはガイドブックのどこにも書いていなかったし、私の周りの物知りたちも教えてくれなかった。何気ない「他人」との交わりで、目が開かれる。新型コロナのロックダウンで何カ月も「他人」と言葉を交わしていなかったから、尚更、耳がピンとそば立った。
スクライバー。それは往路、偶然出会った私たちに釣ったばかりのパイクを惜しげもなくくれたのロイドの住む村だった。一つの地名が、まったく別の意味を帯び、2度目の偶然に突き動かされた私たちは、スクライバーを目指した。
高速道路から湖側に入ったスクライバーの目抜き通りは、まるで西部劇に出てくるような殺風景さだった。線路沿いに古い駅舎が立ち、貨車の集積場があるほかは、商店が何軒かあるだけ。日系カナダ人収容所の痕跡はないかと車で集落をぐるぐる回ったが分からず、人影もほとんどない。ふと、小さな図書館に気づき、何か分かるかもと思ってマスクをつけて入り、カウンターに座っていた女性に聞いてみた。
レンガづくりのこじんまりしたスクライバーの図書館
「そう、ここの労働キャンプには、ブリテッシュ・コロンビア (B C) 州から若い日系人男性だけが連れてこられたそうです。建物はもう残っていませんが、この通りの先に記念碑がありますよ。当時の写真が図書館に寄贈されているので、お見せできるかも」
司書のリンダは早速立ち上がって、窓際の利用者用パソコンへと私たちを促した。図書館のホームページから、白黒で撮影された写真を探し出す。雪に覆われた山の斜面に立つ収容所と白煙を吐きながら通過する機関車の写真、長屋風の丸太小屋が並ぶ収容所の写真、木造の骨組みの前で記念撮影する10人の若者の集合写真など・・・ (これらの写真はまとめて「オンタリオ日系史」サイトに掲載されている) 。写っている男性たちの個人名も、データベースに記録されていた。歴史が、急に生身の姿で迫ってくる。
「彼らはここでどんな仕事をしていたんでしょうか」と尋ねると、「トランス・カナダ・ハイウェイの建設が主な仕事だったようです」とリンダは答えた。私たちがこれまで走ってきた、絶景続きの高速道路だ。絶景続きということは、それだけ高低差が激しく、自然条件も厳しい、道路建設にとっては困難な場所といえる。さっきまで自分たちが歓声を上げ、スペクタクルを楽しんできた場所が、強制労働によって建設されたことを知って愕然とした。
第二次大戦中、西海岸にいた日系カナダ人の男性たちが内陸部スクライバーに収容され、労働キャンプで働かされたことを記した碑
記念碑によれば、日系カナダ人収容所は1942―44年、スクライバーの集落の外に 4 カ所つくられ、トランス・カナダ・ハイウェイの建設に数百人の男性が従事した。第二次世界大戦中のカナダ政府は、敵国日本の出身者は、たとえカナダ生まれ、カナダ育ちの市民であっても、スパイ活動をするかもしれないと疑い、西海岸から立ち退かせて、財産などを奪い、各地の収容所にバラバラに移住させた。同じ敵国出身者であっても、ドイツ系市民が移住を強制されることはなかった。この扱いの差は、当時の白人たちが「日本人はけっしてカナダ人にはなれない」という強烈な差別感情を持っていたこと抜きには、説明できない。
「ここに収容された男性たちは戦後戻ってきて、スクライバーに記念碑を建て、数年前に講演もしています。私たちが制作した証言ビデオでは、B C 州での差別がひどかったので、スクライバーの暮らしはそんなに悪くなかった、と。ほら、この写真は差し入れに来た地元の女性を囲んで笑っているでしょう?」
確かに、リンダが見せてくれた写真の若者たちは微笑んでいる。が、そうだろうか、と私は返答に詰まった。奴隷だって生活に喜びを見つけることはある。差別が当たり前の毎日で、優しくしてくれる人と接すれば誰でも嬉しい。だからと言って、居住の権利や移動の権利を奪う極端な差別が薄められたことにはならない。だからこそ、カナダ政府は1988年、日系カナダ人たちに公式に謝罪し、賠償金を支払ったのではなかったか。そして、カナダ政府の反省は、差別を実体験した日系カナダ人コミュニティの訴えと、それを支援した他のアジア系住民の努力によって引き出されたと聞いたことがある。
リンダは別れ際、「戦争終結後、近くにあったドイツ人戦争捕虜の収容施設に移って、労働を続けた人もいるそうです」と話した。私たちの耳がまたピンと立った。こうなったら歴史の探索を続けよう。
「それはどこですか ?」「ネイズ (Neys) だったはずです」
何という偶然 ! 私たちが今夜泊まるのは、ネイズ州立公園ではないか。友人から「眺めがいい」とすすめられて予約したキャンプ場の下にも、歴史が埋まっていたのだ。
ネイズは、たくさんの流木が流れ着く美しい白浜だった。しかし、その一角に「Prisoner’s Cove」 (囚人の入江) という表示がさり気なくされていることを、私たちは見逃さなかった。やはり第二次大戦中、イギリス政府からヨーロッパで捕虜にしたドイツ軍兵士の収容を頼まれたカナダ政府は、この隔絶した地域に収容所を建設した。1940―47年にかけて、カナダ全体で約 3 万 4 千人の捕虜などを26カ所以上の施設に収容した、という看板が、キャンプ場の人気ないビジター・センターの側に立っていた。
ネイズ州立公園のビジター・センターには、第二次世界大戦中の捕虜収容所として始まった公園の成り立ちを紹介し、ドイツ人捕虜たちの写真が掲示してあった
そして戦争終結後、ドイツ人たちが送還された収容所に、スクライバーの日系カナダ人たちが移り住んだのだ。家族とも離れ離れになった日系人が1946年、財産を没収され、家族とも離れ離れになった日系人が1946年、仕事や家族を探すための一時滞在所として移り住み、「ネイズ・ホステル」と呼ばれた、とビジター・センターに表示されていた。その後、やはり高速道路の建設や木材の伐採をする労働キャンプに移っていった、と。
こうした展示や記念碑は、地域の歴史をたどるよすがにはなるが、記述が曖昧で、矛盾している場合もあり、とても事実を明確に知らせているとは言えない。表現は、どことなくオブラートに包まれていて、個人にとって過酷な現実についても、過酷さを生み出した側からの正当化がさり気なく折り込まれているように私には思えた。例えば、日系人敵視の原因として「真珠湾攻撃」が書き込まれていたり、ネイズ・ホステルは移転のための「よい場所」で「子どもたちには 1 - 8 年生の教育も施された」と記されていたり。事実ではあるのだろうが、どこに狙いを定めて書くのかという点で、収容所生活の理不尽さや根本的な問題点が薄められている印象を免れないのだ。日系カナダ人の人権を不当に奪った非を政府が公に認めているカナダでも、心情的にはどこかで隠したい、正当化したいという誘惑は残っているということだろう。まして植民地支配や人種差別に対して政府が個人への賠償を拒み続けている日本の場合には、この傾向はもっと強いかもしれない。
州立公園の始まりは捕虜収容所だったという事実にも揺さぶられながら、私たちは翌朝ネイズを出発した。便利な道路や人気のキャンプ場が、一皮むけば、差別や戦争に起源を持っていたことは、私たちの歴史を見る目を変えた。
スペリオル湖岸の険しく美しい自然に別れを告げ、行きに通過したスー・サン・マリーで 1 泊した後、スペリオル湖と接するヒューロン湖の北側から半島のように突き出たマニトリン島に入った。大きすぎて温まらないといわれるスペリオル湖の冷たい湖水を浴びた勢いで、隣の五大湖・ヒューロン湖にも足先を浸けてみたい、と思った。
淡水湖に浮かぶ島としては世界最大といわれるマニトリン島もまた、先住民の聖地であり、居留地 (リザーブ) が多くある。高速から橋を渡って島に入り、最初に気づいたのは、道がぐっと細くなり、アスファルトから亀裂が多いコンクリートに変わったことだった。これまでの高速なら 1 時間で着く道のりが、なかなかはかどらず、目的地に着く頃には午後 8 時を回り、8月の長い夏の日も暮れかけていた。キャンプ場にチェックインし、急いで目の前のビーチに出ると、夕焼け空の下に穏やかなヒューロンの波がさざめいていた。靴を脱ぎ、ズボンを膝までめくり、足を浸して、ほっと一息つく。
ヒューロン湖に浮かぶマニトリン島の夕暮れ
ここまで南下するとカナダ最大の都市トロントは、もう車で 3 時間ほど。新型コロナで外出できなかった人たちが、夏の休暇で一斉に近場へと繰り出し、マニトリン島も観光客でにぎわっていた。私たちも宿泊予約がなかなか取れず、島の最南端にある私設トレーラーパークの、しかも団体用敷地の一区画をかろうじて借りられた。円形広場のような団体用敷地は、すでに夕食後のパーティを始めた人々の笑い声と音楽であふれていた。これまで泊まってきた州立公園内のキャンプ場は、たいてい林で視界が遮られ、ある程度プライバシーがあったが、ここは木の杭で簡単に一区画分の目印が付けられているだけで、お互いに丸見えの状態だ。夕闇の中、隣からはニューエイジ風の音楽が流れてきた。
私たちは懐中電灯で手元を照らしながら、急いで夕食の支度をした。残り少なくなってきた手持ちの食糧から韓国ラーメンの袋を破り、ありあわせの野菜とぐつぐつ煮る。ふと、周りに木がないので、頭上にいつになく大きな空が広がっていることに気づく。満天の星空の下、辛いラーメンをすする。
隣の区画から黒い人影が近づいてきた。「やあ、楽しくやってるかい ? 僕はボリス」
ウクライナからカナダに来て、トロントで建築業をしているという若者が話しかけてきた。職場の仲間と休暇に来たんだと言い、しばらく星の話などする。そのうちボリスの上司で、かなり酔っ払っているトマスもやって来て、私のつれあいに仕事は何かと聞く。「写真家だ」と答えると、「何を撮っている ? ポルノか ?」と言って自分で笑う。「で、あんたの仕事は何かい ?」と私にも聞くので、私は説明するのが面倒で「彼の仕事の手伝っている」とウソを言う。すると、トマスは「俺の仕事を聞きたいかい ?」と聞いてくる。私は、この人はお酒だけでなく、マリファナ (大麻) でハイになっているのかもと思って「No」と答えたが、相手はお構いなしで「俺の仕事はなあ・・・とても人に言えたもんじゃねえぜ」などと、マフィア映画の主人公のように凄み始めた (カナダではマリファナの吸引は合法) 。
しかし、凄んで見せても、ここは団体用キャンプ場。結局みんな、コロナ下の息苦しい生活を束の間離れ、野外に出て、短い夏を深呼吸している。人間の怖さよりも、おかしみの方が先に立つ。私たちは、まだぶつぶつ語っているトマスに「おやすみ」を言って、フェイドアウトした。
あと 2 日で、私たちもキングストンのアパートに帰り着く。人を寄せつけぬ自然に分け入り、便利な生活の背後に不平等の歴史があることに気づき、他者と話すことから発見が生まれ、世界が広がることをかみしめた 2 週間だった。どこでも、誰もが人との触れ合いを求め、話したがっていた。いとおしいほどに。新型コロナにただひたすら意識を奪われる緊急事態から、束の間抜け出してよかった。私たちがテントに入り、寝袋に潜りこんで眠りに就く間も、星たちはかたときも休まず、動き続けていた。
〈了〉
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