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新政権の落とし穴 ①
「寛容」と「自制」を失った安倍・菅政権が招く二極化

寄稿:辰濃哲郎

2020年12月24日


 一昨年、新潮社から出版されていた「民主主義の死に方―二極化する政治が招く独裁への道」 (ハーバード大教授のスティーブン・レベツキー氏、ダニエル・ジブラッド氏の共著、濱野大道訳、以下「本書」と記述) を読んだ。歴史上の独裁者が、そこに行き着く過程を分析して共通項を見出した研究の成果がまとめられている。

 独裁者は民主主義の制度を使って合法的に、そしてさりげなく民主主義を破壊していく。だが、ほとんどの場合、その一線を越えた瞬間を特定することはできない。なぜなら民主主義の浸食は目に見えないからだ、と説いている。

 安倍晋三政権と、その後を継いだ菅義偉政権の政治手法を振り返るために、もう一度、本書を読み直してみた。愕然としたのは、本書が言わんとする独裁への危機を示す数々の兆候が、両政権の実態と符合する点が、あまりにも多いことだ。感覚として持っていた「危うさ」が、現実のものとして迫ってくる本書の分析を軸に、安倍・菅両政権を辿ってみた。

 本書では、独裁への道を防ぐ緩やかな防波堤 (本書では「ガードレール」と呼んでいる) に、 2 つの要素が挙げられている。「相互的寛容」と「組織的自制心」だ。あいまいではあるが、憲法のように明文化されたものではないが、過去に政治の場で営々と受け継がれてきた規範こそが、民主主義の防波堤になっていた。これが壊されたときに独裁は始まっているのだと分析している。

 「相互的寛容」とは、政治的な対立相手を正当な存在として受け入れるという規範だ。イデオロギーや考え方が異なる相手に対しても、「反逆的、破壊的、あるいは常軌を逸した人間として扱ってはいけない。 (中略) 政治的寛容とは、意見の不一致を認めようとする意欲のことである」と本書では定義している。逆に言えば、寛容さを失って政敵を罵倒し攻撃すれば、やがて国民の二極化につながり、民主主義の破壊につながっていくことを様々な独裁者の例を挙げて証明している。

 もう一つの防波堤である「組織的自制心」とは、「法律の文言には違反しないものの、明らかにその精神に反する行為を避けようとすること」と定義している。たとえ合法でも制度上の特権を使って従来の規範を覆せば、それが独裁への道につながっていく。過去の政権があえて自制してきた規範を侵すことを戒めている。

 政治家が寛容さを失えば、対立心があおられて自制する心を失い、激しい言動で政敵を攻撃するようになる。日本に目を向けてみると、安倍―菅政権でも当てはまる場面が、いくつも思い浮かぶ。

 17年 7 月、東京都議選の最終日に秋葉原で街頭演説をした安倍氏が、一部の聴衆の「帰れ ! 」コールに向けて、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と声を張り上げた映像が記憶に残っている。この安倍氏の「こんな人たち」の発言について官房長官会見で問われた菅氏は、こう答えている。

 「民主主義国家ですから、選挙運動というのは自由だ。許容の範囲というのはあるし、きわめて常識的な発言じゃないですか。そうした発言を縛ること自体あり得ないと思う。 (帰れコールは) 人の発言を妨害するようなことだったので、総理はそういう発言をされたと思う。そういう人たちを含めて、日本は民主国家ですから。そういう中で発言をしたわけだ」と擁護している。

 選挙運動でのスピーチは自由で、妨害があったので反論したが極めて常識的、との言い分は、聞きようによっては理にかなっている。だが、そこに大きな落とし穴がある。対立する相手への寛容さが失われた末に自制できずに吐いた「こんな人たち」とは、まさしく分断を招く言葉そのものなのだ。自ら二極化を促し、「民主主義国家」と装ってはいるものの、実はこの言動は、その民主主義を破壊する第一歩であることに、安倍氏はもちろん菅氏も気付いてはいない。

 安倍政権が寛容さと自制を失った例は、まだほかにもある。

 19年 2 月10日の自民党大会で「悪夢のような民主党政権」とスピーチしたのに続き、 5 月には各派閥のパーティーでも繰り返した。自民党政権の批判には民主党時代の政権批判を、という安倍氏の定番だ。

 自民党大会直後の 2 月12日の衆院の予算委員会で立憲民主党会派の岡田克也氏が「自民党政権の重荷を背負って政権運営をしてきた。 (震災時の原発) 事故の根源的な原因は歴代の自民党政権だ」と「悪夢」の責任の一端は自民党にもあることを質した。これに対して安倍氏は「悪夢でなかった、それを否定しろとおっしゃるんですが、では、なぜ民主党という名前を変えたんですか」と問い返し、最後まで「悪夢」を撤回しないばかりか、敵対意識を煽っている。

 安倍氏が重用した女性議員のひとりである稲田朋美氏も、自民党が下野した後の10年10月の衆院議員本会議で質問に立ち、「詐欺とも言うべきマニフェストで政権をかすめ取ったのが民主党です」と政敵をののしったことがある。

 19年 5 月22日付の朝日新聞に、こういった自民党の攻撃姿勢が取り上げられている。同じく安倍氏が評価する森雅子参院議員も「 (菅直人首相は) 『空き缶』とか「すっから菅」とか言われてる」と茶化したことも明かしている。これらの言動に苦言を呈したのは、安倍氏ではなく、自民党重鎮だった伊吹文明氏だった。

 「国会で相手を口汚くののしってはいけない」

 安倍政権には、その意味するところは理解できなかったのかもしれない。だが、秩序や尊厳を重んじる規範を知る伊吹氏のような古い政治家には、我慢ならなかったのだろう。

 本書では、「 (民主主義の) 崩壊の流れは言葉から始まる」と指摘し、その例を紹介している。代表的なのはドイツのヒトラーだが、ペルーの独裁政権を築いたとされるアルベルト・フジモリ大統領も、政敵のことを「裏切者」「敵」とののしった。ベネズエラで反米社会主義の独裁を敷いたウゴ・チャベス大統領も、政敵を「腐ったブタ」と呼んだそうだ。

 こういった攻撃姿勢を露わにした指導者について「彼らの多くが最終的に一線を越えて、言葉から行動に移っていることがわかるはずだ。なぜか ? 大衆扇動家が権力の座に就くことによって社会全体が二極化し、パニック、敵意、相互不信の空気が作り出される傾向があるからだ」と分析している。

 その現代版がお馴染みの米国のドナルド・トランプ大統領ということになるのだろう。彼の言葉に踊らされる国民がいる一方、嫌悪感を抱く人との間で分断を招いていることは周知の事実だ。振り返って、わが日本はどうか。ネット社会では安倍親衛隊と反安倍の感情的な対立が分断を深め、建設的とは言えない排他的な言動の応酬が繰り広げられている。本書の言葉は、まるで今のこの日本を占っているかのようだ。

 本書では、さらに指摘する。

 「社会が深く分裂すると、それぞれの党派は両立しない世界観に固執するようになる。 (中略) 健全な競争を続けていたはずの両党が互いを脅威だと見なすようになる。相互的寛容が弱まるにつれて政治家は自制心を失い、どんな手を使ってでも勝ちたいという欲求を抱くようになる」

 「どんな手を使ってでも」と言われれば、これも思い当たる節がたくさん出てくる。12年12月の第 2 次安倍政権発足直後から、安倍政権は次々と危うい布石を打ってきている。合法的でさえあればどんな禁じ手を使うことを厭わない政権の姿勢がにじむ。

 憲法に抵触しかねない集団的自衛権の行使をにらんで、政権奪回翌年の13年には、安倍政権は政府における法の番人とも呼ばれる内閣法制局の長官ポストに、集団的自衛権の容認論者である外務省出身の小松一郎氏を起用した。法制局次官が昇格する前例が壊されたうえ、外務省からの抜擢も初めという異例の人事だ。

 案の定、それまで集団的自衛権の行使について「憲法上、認められない」との見解を維持してきた内閣法制局は翻意する。多くの憲法学者が「憲法違反」であると声を上げるなか、政権は内閣法制局の見解を盾に15年 9 月に安全保障関連法を成立させた。

 小松内閣法制局長官の病気により、14年 5 月からは生え抜きの横畠裕介法制次長が昇格したが、ひとたびできた流れを覆すことはできなかった。法の番人と呼ばれる機関のたったひとつの人事によって、従来の規範が合法的に覆された典型的な例だ。

 さらには、知る権利などに対する懸念から反対意見の多かった「特定秘密保護法」も13年12月に成立し、17年 6 月には、拡大解釈や恣意的な運用の危険性が指摘されていた「テロ等準備罪」 (共謀罪) も成立する。

 本書では、過去の独裁者が民主主義的な機構を打ち砕いた手法を分析している。① 裁判所を支配する、② メディアの買収、③ 政敵の逮捕、④ 野党に資金提供する実業家への圧力、⑤ 文化人への抑圧などを挙げている。

 米国のトランプ大統領は、政敵を「監獄へぶち込め ! 」などと公言しているが、日本ではそこまで露骨な民主主義を脅かす破壊行為はないと信じたい。だが、上記に挙げた ① ~ ⑤ のうちのいくつかは、すでに日本でも確実に進められていることに気付く。

 例えば、「メディア」だ。

 10月26日夜、NHKの報道番組「ニュースウオッチ 9 」に出演した菅氏をご記憶の方も多いだろう。学術会議の任命拒否問題について重ねて尋ねられると、菅氏はキャスターをにらみ付けながら手を振り下ろして、こう言った。

 「説明できることとできないことがある」「学術会議が推薦してきたのを、政府がいま追認しようと言われているわけですから」

 週刊誌の「週刊現代」によると、その後官邸の広報担当者から、「総理、怒っていますよ」「事前の打ち合わせと違う。どうかと思います」と予定にない質問であったことを理由に抗議の電話があったことが報じられている。

 菅氏は14年 7 月に出演したNHKの「クローズアップ現代」でも番組側と険悪になった過去がある。集団的自衛権を巡る菅氏の発言に対して、国谷裕子キャスター (当時) が食い下がって質問を続けたケースで、後に菅長官周辺がNHK側に抗議したと伝えられている。因果関係は不明だが、翌年には、その国谷キャスターが降板させられている。菅氏はこれらの抗議への関与を否定しているが、政権中枢の「抗議」は、メディア側には予想以上に重くのしかかる。

 日本では、メディアの買収こそないが、官邸のNHKの会長人事への介入や放送内容への横やりは頻発している。メディア側の弱腰もあるが、これまでの政権が「報道の自由」に安易に手を突っ込まなかったのは、それが民主主義の砦でもあるからだ。その規範が、いとも簡単に覆されている。

 政権末期に手を付けたのが、捜査機関の抱き込みだ。「菅氏に近い」とされていた黒川弘務東京高検検事長 (当時) の検事総長昇格に含みを持たせた定年延長問題が記憶に新しい。検察庁法で政権の人事への関与は制約されてきたが、国家公務員法を盾にごり押しを企てたのだ。

 そして菅政権発足直後には、文化人に手を付けた。学術会議の任命拒否問題だ。ここで気づくのは、菅氏の人事への執着だ。内閣人事局の権限が強化された安倍政権の時代に、官僚人事を掌握してきたのが菅氏だった。いまでも「 (政府の方針に) 反対するのであれば異動してもらう」と頑なな姿勢を崩さない。

 選挙で選ばれた国会議員が、国民のために実現しようとする施策に抵抗する官僚を変えるというのは、ある意味で筋が通ってはいる。だが、ここでも大きな落とし穴に気付いていない。

 まず、政権の方針が、すべて正しいと言い切れるのか。政治的な思惑と行政機構としての官僚の考え方には隔たりがあって当然だ。政権が間違っている場合もあれば、官僚側が間違っている場合もある。だからこそ、自由で遠慮ない意見を交わすことが大切のはずだ。イエスマンばかりでは、民主主義の危機というより、国が亡びる。

 為政者がひとたび人事権を握ると、媚びへつらう周囲を意のままに動かすことが可能となる。天下を取ったかのような錯覚に陥るほど、自分の目指す政治を実現させることができる。一方の官僚側にすれば、何が正しいかより、どうすれば左遷されなくて済むかの忖度が大切になってくる。官僚の自由な発言を封じ込めてしまう。人事権の掌握とは、いわば麻薬のようなものなのだ。

 過去の規範を逸脱した安倍―菅両氏の政権運営が、安全保障関連法などの批判の強かった法律を次々と成立させることにつながり、その延長線上に、黒川問題と学術会議の問題がある。寛容と自制の防波堤を軽々と乗り越えた安倍政権で、それを実現させた立役者が菅氏なのだ。

 本書が説く、重要な記述がある。

 「民主主義への攻撃はゆっくり始まる。しばらくのあいだ、市民の多くはそれに気づきもしない。 (中略) 個々のステップは取るに足らないようなものばかりで、民主主義を脅かしているようには見えない。 (中略) そのような動きの多くは、腐敗との闘い、選挙の “浄化” 、民主主義の質の向上、安全保障の強化といった合法的な目標の名目のもとで行われる」

 いちばんの悲劇は、菅氏本人も、そのことに気づいていないことだ。

 その菅氏は、政権の難局を独特のレトリックで正当化してきた。

 官房長官会見では、「全く指摘に当たらない」「全く問題ない」など正面から答えようとしないケースが目立った。だが、最も罪深いのは、都合の良い部分だけを切り取って正当化する菅話法だ。

 その最大の犠牲者になったのが、米軍基地問題にあえぐ、沖縄だ。
  (次回に続く)

 

プロフィール
ノンフィクション作家 辰濃哲郎 (タツノ・テツロウ)
元朝日新聞記者。2004年からフリーで医療問題や社会問題を手掛ける。医師会の権力闘争を描いた「歪んだ権威―日本医師会の積怨と権力闘争の舞台裏」(医薬経済社)、 3 ・ 11震災時に患者と職員64人が亡くなった石巻市の雄勝病院をルポした「海の見える病院」 (同) などの著書がある。

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