【NPJ通信・連載記事】一水四見・歴史曼荼羅/村石恵照
一水四見 靖国神社と「ヤスクニ」問題 (1)
わたくしであり彼であり
雲であり岩であるのはたゞ因縁であるといふ
そこで畢竟世界はたゞ因縁があるだけといふ
雪の一つぶ一つぶの
質も形も進度も位置も時間も
みな因縁が自体であるとさう考えると
なんだか心がぼおとなる・・・」(宮沢賢治「五輪峠(作品第十六番)」)
この詩は「わたくし」にかかわる縁起の最良の定義である、とわたしは思う。
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武器も使わず暴言も発せず、総理大臣という一人物がある宗教施設に静かに参拝する身体行為、それが13億余の人口をもつ他国と険悪な状況を生み出す。時に暴動をひきおこし当該関係国の政治、経済、民情などに緊張関係が生まれる。
これが死者に対する追悼・慰霊に深く関わる宗教儀礼の象徴の含意である。
何年前からかしらないが、日中関係が険悪な状況になってきている。
それについて、日本にも責任の一部がある、中国側にこそ責任がある、いや「そもそも靖国問題は、朝日新聞が作ったものじゃないか」などと様々な意見がある。
色々な評者が色々な事を、色々な立場で言い合っていて終始がつかないのが現状だ。
とにかく日中間で緊張がつづいている。現状での緊張の原因は様々あるが、その一つが安倍首相の靖国神社参拝である。
そのさなか11月9日の新聞報道によれば、小笠原諸島や伊豆諸島で中国のサンゴ密漁船とみられる船舶が出没している。
なぜ日本政府は中国に強気にでないのか、という嫌中感情が 日本人の中でいらいらとおこっているのも事実である。
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二カ国間で生じる様々な国際問題のなかで、靖国神社をめぐる諸問題は、世界の政治史上、かなり特殊な問題である。どのように特殊なのか。
靖国神社が「ヤスクニ」問題化しているのが、問題なのだ。その原因はなにか。
対外的にはTPP, 尖閣諸島、従軍慰安婦、国内では原発、少子高齢化、認知症患者などなど問題が山積している状況で、「ヤスクニ」問題はさっさと片付けてほしいと願っている。
特別予算がいるわけではない、日本文化の伝統の本質を了解すれば済むことである。
わたしは日本という国を、国内の治安がよく、社会関係に信頼があり、良好な国際関係をたもって、これからも安心して寿司を食いうな重を食べ、さまざまな文化活動が庶民の財布の範囲で参加でき、そして外国人にも楽しんでもらえる「和」国であってほしいと一人の市民の立場で願っている。
冒頭に宮沢賢治の詩をかかげたが、「ヤスクニ」問題は、それぞれの「わたくし」の「心がぼお」とならなければ解決のつかない問題であると思う。そのような思いで以下、いろいろと考えてみた。
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靖国神社は、宗教法人法第12条に基づき東京都知事による規則の認証を受け、同法の規定による宗教法人である。
「靖国神社」規則(昭和27年9月30日制定)によれば、
「本法人は、明治天皇の宣らせ給うた「安国」の聖旨に基き、国事に殉ぜられた人々を奉斎し、神道の祭祀を行ひ、その神徳をひろめ、本神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者(以下「崇敬者」といふ)を教化育成し、社会の福祉に寄与しその他本神社の目的を達成するための業務及び事業を行ふことを目的とする。」
そして、その社憲(昭和27年9月30日制定)によれば、
「本神社は明治天皇の思召に基き、嘉永6年以降国事に殉ぜられたる人人を奉斎し、永くその祭祀を斎行して、その「みたま」を奉慰し、その御名を万代に顕彰するため、明治2年6月29日創立せられた神社である。」
一般に神道には特別な教理がないといわれるが 「神道の祭祀を行ひ」、「「みたま」を奉慰し、その御名を万代に顕彰する」ことは、簡潔かつ明白な教理であるといってよい。ついでにいえば、教理とか宗教の定義自体が、明治維新以来、かなり一神教的価値観の範疇であつかわれていることに配慮がなければならない。
「ヤスクニ」問題を論じる前に、神道にかかわる、いくつかの要語の意味を確認しておきたい。
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「神道」については「神(カミ)」の観念が最重要である。
そのもっとも見事な定義を本居宣長に求めたい。
「凡て迦微(カミ)とは、古御典等(イニシエノミフミドモ)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に座ス御霊(ミタマ)をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何(ソノホカナニ)にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて、可畏(カシコ)き物を迦微とは云なり。(すぐれたるとは、尊(タフト)きこと善キコト、功(イサヲ)しきことなどの、優(スグ)れたるのみを云に非ず、悪きもの奇(アヤ)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云なり」(『古事記伝』)。
古事記などの古典に記されている神々から、さまざまな自然現象、人間はもちろん動植物まで、さらに一見悪い働きをする超常現象など、すべて「よにすぐれて可畏き」ものことは「カミ」である。
「カミ」は、通常の善悪の観念を超えた一切万物にかかわる、なにか畏敬すべき「もの・こと」である。
この「 なにか畏敬すべきもの・こと」への尊重のこころを、伊勢神宮に参拝した西行法師はうたった。
「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」
「知らねども」は「よにすぐれて可畏き・こと」であり、そこでこぼれた涙は「よにすぐれて可畏き・もの」であり、このような「もの・こと」に対する感性が神道の極意である、と思う。
幕末になって漸々と発達して来た一神教的思想に泥んでいた神道まがいの「国家神道」は、「よにすぐれて可畏き・こと」とは似て非なる「物」である。
では「社憲」にある「みたま」とは、なにか。「み」は霊的な意味をしめす接頭語とかんがえて、基本的言葉は「たま」であり、霊魂、たましいの同義語である。そして「霊魂」とは、
「身体の中にあり、そこから遊離すると信じられた不可視の存在。(霊)、(魂)、(たましい)、(たま)といわれ、命や心の別名をもされる(『岩波仏教辞典』),
の定義が大方の人々に受け入れられる穏当な定義であろうし、「社憲」の「みたま」もこの定義に適応していると理解してよいだろう。
いずれにせよ宣長の定義においても「カミ」と「ミタマ」とに融合の可能性があるから、やまと言葉でつぎの方式がみとめられる。
「タマ」→ 「ミ・タマ」→ (よにすぐれて可畏きもの・こと)→ 「カミ」
さらに仏教は「ひと」が「ほとけ」になる教えであるから、「タマ」→ 「カミ」の関係と意味的にフラクタルの関係にあり、これが神仏習合の根拠である。ちなみに「イノチ」は「タマ・タマシイ・ミタマ」の内実である。
しかし、やまと言葉の「カミ」に「神」の漢字をあてはめたところで「カミ」の観念が複雑になってきて、日本人の思考の根底に混乱が生み出されて来た。
さらに一神教(キリスト教)の God に「神」の漢字があたえられたために「カミ」の観念が、ますますややこしくなってしまった。一神教では「ひと」は God に絶対になりえない。仏教は一切の縁起・因縁を説いて、絶対性の善悪の観念をみとめないから、いずれの生命観をとるかに人々の自由である。
以上を頭の整理のために以下のまとめてみる。
(俗格) (尊格)
「ヒト」 => 「ホトケ」(ブッダ)・・・・・・仏教家の生命観
↓
「タマ」 => 「カミ」(神)・・・・・・・・・神道家の生命観
×
「人」 ≠ God(神)・・・・・・・・・・一神教徒の生命観
***
実体的に、しかも法人として現存している靖国神社になんらの問題はない。
そこに自由意志でだれが参拝しても問題はない。
しかし靖国神社の祀られているおおかたの「みたま」が、日本の国土で戦闘をした兵士たちではなく中国大陸、朝鮮半島で戦闘したという事実は、縁起的に――歴史的時空関係において是認しなければならない。
ともかく「ヤスクニ」問題を論じるにあたって、いたって常識的なことを以上にのべたが、「カミ〜タマシイ」の観念を確認せずにはまともな論議はできないと思うからである。 (2014/11/9 記)
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