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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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ホタルの宿る森からのメッセージ
第22回「ベケロの死~森の先住民の行く末・その3」

2014年12月29日

▼相棒ガスコの登場

ベケロだけではない。ぼくは、のち「相棒」とも呼べるほどの先住民を得た。名はガスコという。彼は長年に渡りぼくの森でのガイドを務めてくれた。

若き日のガスコ©西原智昭

若き日のガスコ©西原智昭

ガスコに対して、はじめはどうもあまりいい印象をもたなかった。ベケロらと研究調査に当たっていた調査初期のころ短期間だけ森の中に一緒にいたことがある。このとき彼はわれわれの用意した缶詰を一切受け付けなかった。困った奴だなと思った。森の仕事には生ものの食糧はまずもっていけないので、缶詰を食べられないとなると厳しい。村でもぼくに話しかけるともなく、いつもぼくを遠くから見つめていた。ぼくが視線を返すと、ぷいとよそ見を向けた。付き合いにくい、変な奴だと思っていた。

その数年後、ぼくはガスコと森を歩くようになった。初めて彼と二人で森を歩いた時、それまでのお互いのなんとなしの相容れない感じを越えて、ぼくはそんなに緊張はしなかった。むしろガスコの方が緊張しているようだった。

そして、年月を経て、彼はぼくの最良の相棒といってよい先住民のひとりとなった。何年も森を一緒に歩いたし、何日も同じキャンプで生活をした。彼はしっかり仕事を引き受けてくれるし、基本的に無口なのも気に入っていた。何より強靭な体力の持ち主で、少々の強行軍でもへこたれない。しっかりとした任務遂行型だ。

屈強な先住民ガスコ(左側)©西原智昭

屈強な先住民ガスコ(左側)©西原智昭

ある日、テレビ撮影隊とチンパンジーを探しに森を歩いた。ガスコがガイドであった。乾期の森の中は、サルの声か、地面ではシロアリの歩くカサカサした音のみ。ゴリラ、チンパンジーの音沙汰は全くない。かなり遠くまで歩いた。すると、遠くからチンパンジーの声が聞こえる。ガスコはその音を追う。速い。がんばる。われわれは果たしてチンパンジーを発見した。たわわになるボト(ある樹木の現地語名)の木の樹上にいたのだ。撮影隊が一通りチンパンジーの撮影を終え、キャンプへの帰途に就く。小さなスワンプをいくつも越え、早足で夕闇せまる森の中を急ぐ。しかし、ガスコはこれっぽちも躊躇せず長距離を歩き、迷うことなく、疲れも見せず、キャンプにつながるゾウ道へ出る。さすがはガスコ、と言える瞬間であった。

ガスコは、村では他の先住民の仲間と同様酒飲みだが、森の中では困難をものともしない。度胸もある。植物名の知識については多少難点はあるが、動物追跡は抜群のセンスであるし、森のどこへ出ても怖気づかず、決して迷うことはない。好き嫌いが激しいところもメリハリがあっていい。ぼくがゾウの事故に遭ったとき一緒に歩いていたうちのひとりも、このガスコだ。頼りになる男のひとりだった。

しかし、彼もすでに、しかも老齢になる前に、病で鬼籍に入ってしまった。

▼相棒ガスコの素朴な質問

ある日、ガスコはぼくの仕事についてたずねてきたことがある。たわいもない先住民たちとの会話の中でのひと時である。「いつもトモはひとりで長期間森の中で仕事をしているけど、このあとどうするの?」とガスコに訊かれたことがある。「お前の人生のsukaは何だ?」というのだ。“suka”というのは“最終到達点”というような意味のリンガラ語である。

ただ長期滞在を継続しそれでその先どうなるのだ?そうした自問は常にあった。ただそのときは仕事にはそれが必要であったから、必然的に1日1日を積み上げていくしかなかった。当時の自分なりにしっかり日々を全うしていく努力はしていたと思う。同時に、ここで大病、大怪我をしたら生きては帰れない、という覚悟はきちんともっていた。村まで30km、しかも大きな湿地帯が3つある、万が一のときは歩いて戻れないのである。でもこれも自分自身による選択なのだ、文句があるならやめて帰れよ、と、繰り返し自分に言い聞かせていたことを覚えている。

しかしその先はどうなのだ?ガスコはそれをぼくに問うていたのである。研修プログラムで若いコンゴ人が育つとする。そして長期調査体制が整い、熱帯林の理解が深まりコンゴ人主導で保護や国立公園管理も進む。そのあと、おまえはどうするのだ?

ぼくはその素朴な疑問にただちに答えることはできなかった。

▼死んでいくということ

ボマサの人々にとって、ぼくはもっとも長期関わってきた異国人だ。しかもたいていの時間は森の中あるいは森から遠くないアクセスの悪い場所にいる。不慮の事故や病気により、万が一のこともある。彼らはそれを心配してくれた。ぼくは、すでにそのことを当時親にも話してあった。ぼくの親もコンゴ共和国のようなそんな遠い場所には行けないよな、と話していたことを記憶している。せめて骨のかけらだけでも日本へ送ってくれたらそれでいい、と。ぼくもンドキの森に埋められるのなら本望だ。

いずれにしても、人はときがたてば死んでいく。ボマサに住む先住民の古老たちもぼくの滞在していた長い年月の中で、病気や老衰などで亡くなっていった。森の知識に長けていた長老たち。果たして彼らを通して、先住民の文化は伝承されていっているのだろうか。とりわけ昨今は若い先住民は村住まいが多くなり、しかもわれわれの落とすお金の恩恵を受け、次第に町の文化に触れつつあるのだ。

先住民はこのままシティ・ボーイ化していくのか。確かに村では、出回ったお金で買ったお酒によりただ飲んだくれて陽気になっているかと思うと、たいていその酒が原因で嫁や仲間とけんかする。しかしぼくは森の中にいるときの生き生きとした彼らの横顔を決して忘れない。彼らの酒もなく嫁もいない森でいっしょに長期間仕事をしてぶつくさ文句は言うけれども、彼らの瞳はやっぱりまだ彼らも森が好きなのだろうなと思えるのに十分だ。

先住民ピグミーの伝統的な歌と踊りでのジェンギ©西原智昭

先住民ピグミーの伝統的な歌と踊りでのジェンギ©西原智昭

ある日、村でぼくを迎えたのは先住民の伝統的な歌と踊りであるジェンギであった。ぼくの歓迎のためではない。死んだ先住民ベレの弔いだ。楽しそうに踊っているのを見ると、これでいいのかなあ、と思う。人が死んで悲しんで、その悲しんだ人も死んでいく。あるときは楽しいことがあり、うれしいことがある。がその当事者もやがてこの世から消えてしまう。でも結局そのひとときひとときの積み重ねなのだ。

死は重たい。しかし先住民の人たちは死を悲しむと同時に、その人を弔う歌と踊りで楽しんでいるようにすら見える。それでいいのかもしれない。死んだ人はどうあがいても帰ってこない。あちらの世界で楽しく酒でも飲んでいてくれたら、かえってそれでいいのかもしれない。だから、こちら側でも楽しく歌を歌い踊るのだ。

ぼくのsuka?まだ答えは出ていない。ただまだ成し遂げていないことはある。それは死んでしまう前に達成したい、達成していく努力を惜しまないようにしたいとは思う。ガスコ、それでいいかい?あちらの世界で、何も患うことなく、へべれけになって、ぼくを待ってくれていたらいい 。(続く)

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