【NPJ通信・連載記事】色即是空・徒然草/村野謙吉
「1984年」の倒錯世界と「茶の本」が教える和の世界(2の1)
本年(2024年)4月から1月間ほど、わたしは自分の人生の終活のような気分でワルシャワに滞在していた。
ポーランドとは人民共和国の体制の頃からの付き合いだ。
様々な思い出が取りとめなく浮かんできた。
1989年、共産党の国家における指導的役割が否定され、国名がポーランド人民共和国からポーランド共和国へと変更された。それから年毎にポーランドは明るく豊かになっていったように感じてきた。
しかし、2022年2月24日、ポーランドの隣国ウクライナへロシアが侵攻した。
「侵攻開始後の10日間で、ウクライナから105万人が国外に逃れ、そのうち最多の55万人がポーランドに入国した」と言われる。(1)
まったくの想定だが、日本海を挟んでいるとはいえ隣国の中国または韓国から一度に数千人の人々が日本海沿いの海岸に様々な船で到着したら、日本人はどのように反応するだろうか。
日本の為政者らは、また日本国民は、このような事態にどのように対処するつもりだろうか。
現在のポーランドは、わたしの観察したところ、ワルシャワの住宅地の公園に7、8人の子どもたちが遊んでいれば、1人はウクライナ人の子供である。
たまたま3ヶ所のホテルに滞在したが、客室を清掃する女性たちは、ほとんどウクライナ人の避難民だった。
戦闘中のロシアとウクライナを含む7カ国と国境を接しているポーランドの政治状況の複雑さは、列島日本の政治家たちには想像もできないだろう。
それでもポーランドには、一種の国民的暗黙の一体感が感じられて、治安もよく人々は穏やかに暮らしているように見える。
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かってヒトラーのファシズムとスターリン的全体主義に支配されたワルシャワから、複雑な思いを持って平穏な日本に帰国してまもなく5月15日、風光明媚なタトラ山脈のあるポーランド南部と国境を接するスロバキアで、ロベルト・フィツォ首相が同国中部の都市で銃撃された。
地球全体が内戦化しているような現在、かっての米ソ冷戦の基本構造は維持され、進化した米露の対立となった。
そこに中国が存在感を増して加わり、世界の対立状況は、これまでの歴史では考えられないように複雑で流動化しているようだ。
このような世界状況にインターネットのデジタル情報世界が地球の隅々に有機的に浸透し、国籍と国境を横断して各地の歴史的伝統を撹乱し、現在は、全体主義的な支配情念が世界中の人々の生活を支配しているような状況なのではないか。
そして今、常に背後から語りかけてくるような透明な認知戦の罠に気づくためにも、ジョージ・オーウェルの『1984年』を改めて熟読する必要を感じている。
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オーウェルは、当初「ヨーロッパ最後の人間 ( The Last Man in Europe )」のタイトルを考えていたが、執筆を終えた1948年の最後の二桁を倒錯して無機的でデジタルな響きを持つ「1984年」となった。
ちなみに、共産党宣言は、1848年に発表された。
わたしは1984年7月、作品『1984年』にちなんでロンドン大学で開催されたセミナー「バーナード・クリック教授主催のオーウェル・サマースクール」に参加した。
クリック教授は講演後、自分は読めないからと言って自著のオーウェルの評伝の日本語訳に自署してくださった上、パブにも誘っていただいた思い出がある。
わたしの手元にある『1984年』の原書は、1984年に出版された詳細な参考文献と索引のあるクリック教授のテキストである。(2)
『1984年』の世界:オセアニア(ピンク)、ユーラシア(オレンジ)、イースタシア(黄緑)。それらの間の白い地域は紛争地域と非居住地域。エアーストリップ1号(イギリスに相当する地域)はオセアニアの所属。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア)
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『1984年』には様々な読み方があるはずだが、この作品は、ギリシャ哲学のプラトン以来、西欧の知性の暗部に深く根ざした全体主義の黙示録である。その文献的考証については今は述べない。
そして、見方を変えて読み込めば、本書には支配者に有益で、かつ高度に危険な支配思想のソフトが組み込まれていると見ることもできる。
その意味において『1984年』を従来の共産主義体制の批判書と言う風に表面的に理解するのは禁物だ。
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クリック氏の注釈を参考にしながら読んでゆくと、ユダヤ・カトリック的情念が深く沈殿したかのような雰囲気の中に、現在の中国の台頭を予想していたかのように、世界は常に相互対立する3つの全体主義的超国家の勢力に分断され、そのうちの2大勢力の闘争が常に維持させられている。
『1984年』は、1と2と3の数を高度に象徴的に適応した言説であり、読者の世界政治に対する意識の深化に応じて、常に新たなメッセージが現れてくる。そこで3大政治勢力は象徴的な表現であって、現実の世界政治勢力と地理的にピッタリ符合しなくてもよい。
本書には、権力の本質、歴史の改竄、拷問を含む高度な洗脳技術、人間をunperson 化 (非人間化)する仕組み、人類の総背番号制、「自由」の言葉の背後の支配情念、個人的独裁者か少数エリートの権力組織か永遠に不明の Big Brother なる権力中枢、二重思考、エリートと大衆の分断などの様々な問題が黙示的に複雑にからみあっている世界が描かれている。
オセアニアにあるエアーストリップ1号(イギリスに相当する地域)を管轄する4つの省のうちの真理省は、情報管理・操作を行う最重要な部署である。
そして、オセアニアを支配する「党」が掲げるのは3つの矛盾した内容のスローガンだ。
WAR IS PEACE(戦争は平和)
FREEDOM IS SLAVERY(自由は隷属)
IGNORANCE IS STRENGTH(無知は力)
このスローガンのアイデアは、実はオーウェルがシェークスピアの作品のなかで最も評価している「マクベス」の冒頭に紹介される3人の魔女が発する矛盾した多義的呪文: “Fair is foul,
and foul is fair” に由来するだろう。
魔女たちが唱えるこの多義的呪文の和訳は、「公正は不正」、「綺麗は腐敗」などであるが、この呪文が使用される文脈によって、いかような意味にもなる。「公正は腐敗」かもしれないし、「腐敗こそ公正」かもしれない。
だが、これら3つのスローガンを唱え続ければ、正常な思考がに解体され、倫理観が麻痺してしまうだろうし、やがて麻痺していることにも気がつかなくなるだろう。
特に戦後マッカーサーの支配政策、さらにアメリカ政治全体の深層に働く支配情念、それらをさらに包み込んでいるアングロサクソン的言語支配構造の中にすっぽりと包み込まれていることに日本人が気がつくためにも、そして善意の各国の国民と悪の支配情念とを混同しないためにも『1984年』は必読書である。
ちなみに、父子2代にわたって大英帝国の植民地支配を実体験したオーウェル自身は、シェークスピアの英語を愛読し、イングランドの郷土に愛着し、反エリート主義で、人間嫌いとは程遠い、ささやかな庶民の家庭生活を限りなく愛おしむ人であった。
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* 本文、引用文の誤記、一定の内容について意図しない誤解などがあれば、ご指摘を受けて感謝をもって訂正したい。(筆者)
(1) 新潮社 Foresight: 「3800万人の国に960万人が流入――ポーランドがウクライナ避難民受け入れに成功した理由 」2023年3月1日 三好範英
(2) GEORGE ORWELL Nineteen Eighty-Four With a Critical Introduction and Annotations:
OXFORD, 1984.
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