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【NPJ通信・連載記事】色即是空・徒然草/村野謙吉

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鈴木大拙と西欧知識人との深層関係 (下)

2024年8月8日

 鈴木大拙は、27歳(明治30年; 1897) から94歳(昭和39年; 1964) まで、国内と海外では欧米を主として活動したが、大拙の80歳代からの海外渡航歴を見れば、その行動力に驚嘆する。

 しかも、大拙の西欧体験は、一般の外国旅行者、商社マン、留学経験者らの経験と違って、彼が生きていた時代の欧米の著名な知識人との面識を通した知的体験であった。

 欧米知識人たちは、それぞれに大拙についての評価をしていただろうが、西欧の知的伝統に無い特異な禅という仏教言説と坐禅という身体的実践を体現した人物として、大拙に一定の敬意をもって接したのである。

 では、大拙は、どのような人物とあっていたのだろうか。
 イギリスにおいて仏教の普及につとめた人物に、ロンドン仏教会 (1924年設立) の創設者クリスマス・ハンフレーズがいる。

 彼は1946年、東京裁判で判事を務めるために来日した際、鎌倉の大拙を訪ねたことをきっかけに、以前から面識のあった二人はさらに深い親交を 持つようになった。
 大拙は渡英の時は彼の私邸に宿泊した。

 ちなみに、1946年4月23日と24日の2日間、禅を世界に広めた功労者として、鈴木大拙は昭和天皇皇后両陛下のために、仏教概論をご進講。4月30日は、カトリック信者の東京帝国大学教授・田中耕太郎が「キリスト教ニ就テ」と題してご進講。ローマカトリック教とギリシャ教の差違、イタリア国首相ベニト・ムッソリーニがヴァチカン国と条約(1929年のラテラノ条約)を結んだ理由、カトリック教が布教に格別熱心な理由につき天皇から御下問があったようだ。

 大拙は、戦後、皇室との連絡調整役を務めたといわれる R.H.ブライスとも昵懇であった。
ブライスは、当時の皇太子の英語教師であり、昭和天皇の人間宣言の起草に加わったことが知られている。

 英文で俳句についての著書をだして、今日にいたる英語俳句普及の先駆者となった。
 鎌倉東慶寺にあるブライスの墓は終生の友、鈴木大拙の墓の後ろにある。

* * *

 80歳以降の大拙の活動を以下、略述する。
・1950年 (昭和25年) 、大拙(80歳)は、前年の9月からハワイ大学で禅の講義を行なっていた
 が、2月にハワイからアメリカ本土に渡り、クレアモント大学において「日本文化と仏教」を
 講義。ついでロックフェラー財団の委嘱により、イェール大学、ハーヴァード大学、
 コーネル大学、プリンストン大学、コロンビア大学、シカゴ大学において「仏教哲学」を
 講義。
・1951年 (昭和26年) 2月~6月、大拙 (81歳)はコロンビア大学で「華厳哲学」を講義。
 夏季休暇に帰国した後、9月~翌年2月まで、クレアモント大学で講義。
・1952年 (昭和27年) 2月、大拙 (82歳)はコロンビア大学のゲスト・プロフェサーとなり、
 禅哲学を講義。夏季休暇に帰国後、9月からコロンビア大学で講義を続行。
・1953年(昭和28年)、大拙(83歳)は6月から10月まで渡欧。
 6月は、イギリス、スイスを旅行、ロンドンで講演。
 7月、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダを旅行、パリで講演。
 8月~9月、イギリスからスイスのアスコナで開催の「エラノス会議」に出席。その後、
 イタリアを旅行してローマにて講演後、イギリスへ。
 9月、ロンドンからアメリカへ行き、コロンビア大学にて講演、「禅の哲学と宗教」を講演。
 この年の欧州旅行では、カール・ユング、マルティン・ハイデガー、カール・ヤスパース等
 に会う。

 ところで鈴木大拙より以前、1929年4月~1931年8月にかけて滞欧していた人物がいる。
 哲学者であり浄土宗の僧となった山本空外(1902-2001)である。彼は文部省在外研究員として滞欧していたが、彼は滞欧中にヤスパース、ハイデガー、フッサール、ベルグソン等の哲学者たちと面識を得ていたようだ。

 山本は1941年に『國家倫理の構造』を出版、そこで皇国の倫理体系と大東亜生活圏と欧州新秩序を友となして「大和の指針」を明らかにする構想を述べている。しかし、2年4ヶ月の留学体験とその後10年を経た研究においても、ナチス・ヒトラーの国家社会主義体制の異常には気が付かなかったようだ。

 山本が同書で「ナチス世界観は人格の自由を承認するにとどまらず、要求さへする」と信じ込んでしまったのは、ナチス擁護のドイツ語論文の内容をまともに信じ込んでしまった結果だろう。

 大拙は1936年9月、ドイツのリューデスハイムで当地の「素朴な人々の口からきいたドイツ人の宗教感情や、ナチス運動に引かれている様子」を観察していたが、彼さえもおそらく当時のドイツにおけるヒトラーの異常な政策の実態には気がつかなかっただろう。

* * *

 1953年夏に撮影された、ドイツ・フライブルクで撮影された下の写真の人物たちは、だれだろうか?

 左端からデュルクハイム、女性、鈴木大拙、ハイデガー、同夫人である。

 ハイデガー(1889 – 1976)は、著名なドイツ人の哲学者で『存在と時間』の著者。

 筆者は、かって「形而上学とはなにか」を読んで、日本語訳とは言え、こういう文体で、こんな思考をする哲学があるのだ、と妙に感心した記憶がある。
 ハイデガーは職業的には形而上学者の著名な大学教授であるが、形而下の私生活では教え子との不倫でも著名である。

 35歳当時、大学で哲学の教授を務めていたハイデガーは、当時18歳であった教え子の、ハンナ・アーレントと交際。独身ならともかく、当時ハイデガーには妻との間に2人の子どもがいた。だから不倫である。

 ハイデガーの形而上・形而下の全身的問題は、彼がナチスにかぶれていたことと、学生の愛人ハンナ・アーレントがドイツ系ユダヤ人だったことだ。

 ユダヤ人的情念は、非ユダヤ人の欧米のキリスト教徒にも理解しがたいことかもしれないが、性愛は宗教をも超えるのだろうか。

 筆者は、人類史の根本的動因は「3つのセイ」、すなわち「聖と性と政」が一体化した情念と考えているので、著名な形而上学者が形而下の実践行動を起こしても奇妙なことと思ってはいない。

 しかし、ハイデガーについて通俗的なことに言及したのは、鈴木大拙の言う、西欧知識人の一般的傾向として「知識人と思想」の乖離が思い浮かぶからである。

 では、この写真の左端に映るデュルクハイムとは何者かであるが、彼については、後に大拙との複雑な関係があるので別稿にゆずる。

* * *

 交流の仕方は様々だが、大拙が面識を得て意見をかわし交流したと思われる人物には、中国人では胡適 (思想 家・外交官)と魯迅 (作家)、西欧人では、カール・ヤスパース (哲学者)、マルチン・ハイデガー (哲学者)、ジョン・ケージ (音楽家)、オルダス・ハクスレー (作家)、 カール・ユング (精神分析学者)、エーリック・フロム (精神分析学者)、ポール・ティリッヒ (カトリック神学者) などがいる。

 エーリック・フロムとは『禅と精神分析 (ZEN BUDDHISM & PSYCHOANALYSIS; 1960)』を共著で出版している。

 1950年代、アメリカのビート世代は大拙におおいに影響をうけたといわれる。

 1959年、ハワイ大学から東洋を代表する知識人三名が選ばれて名誉博士号が与えられた。
 インドのラダクリシュナン(インド哲学者、インド大統領)、中国の胡適、そして日本の鈴木大拙である。

 1964年4月、鈴木大拙、94歳は、インドのアジア協会よりバートランド・ラッセル (哲学者)、アーノルド・トインビー (歴史学者)らとともに第一回タゴール生誕百年賞を授与された。

 しかし、再三強調するが、鈴木大拙が西欧の思想と思想家に触れて感じていたことは、思想と思想家自身の乖離であった。

 そのような西欧の知識人等に高等教育で影響された学生たちが、経済人として政治家として社会で活躍すれば、自ずから表の社会的活動の理念と下半身の活動の欲求が乖離する傾向になり、一般大衆を支配する傾向を持つ様々なエリート層を構成するのも当然であろう。

 著名な近現代西欧知識人たちの性癖の研究には、ポール・ジョンソンの書『Intellectuals (知識人たち)』が好著である。

* * *

 英語で東洋の立場を世界に発信する重要性を指摘し、日本人にとって漢文の素養が大切であることを強調し、英語で世界に発信する仏教者・鈴木大拙の言葉を引用したい。
 
 「自分は世界人としての日本人のつもりでいる、そうした日本に―東洋に―、世界の精神的文化に貢献すべきものの十分に在ることを信じている。・・・西洋文化の精神を体得することは中々容易なことではない。
 日本文化のみが保存に価するものだと考えたり、西洋文化は、物質的だ、経済的だ、政治的だとのみ考えたりして、今度の戦争を起こしたような人たちには、到底わかるものではない。

* * *

 それからまた日本は敗けた、アメリカはえらい国だ、何でも彼方の真似さえして跳んだりはねたりして行けば、若いものの能事畢れりとすまして行くものが多くなったら、これまた大変だ。

 要するに、東洋でも西洋でも、政治の機構は自由を主としたものでなくてはならぬ、そうしてこの自由の出処は霊性的自由である。」(鈴木大拙「明治の精神と自由」1947年)

 鈴木大拙は、彼と面談した多くの人々が語っているように、だれに対しても一視同仁の態度で「随処に主」となって接していた。
世界的な著名人でも、お手伝いの女性にも同様であった。

 「この人の真価を十分に知るには対面するほかはない。
 鈴木大拙博士は儒教・道教・仏教などアジア古来の伝統にみられる「君子」がもつ名状しがたい資質を、すべて体現しておられるように思われた。
 博士と会って一緒にお茶を飲みながら、この「人」に会えたと感じた。
 それは、やっとわが家に帰り着いた境地にひとしかった」 (トマス・マートン; カトリック神学者)

* * *

 当時の記憶は定かでないが、私は1964年前後、鎌倉円覚寺の朝比奈宗源老師の下で夏季参禅会に参加していた。
 そこで鈴木大拙先生の講演を拝聴した。

 講演の話の内容よりも、なぜかわからないが、この「人」にお会いしたいと思った。
 どのように連絡をしたのか記憶にないが、1964年12月、20歳過ぎの学生の私は鎌倉の東慶寺に先生をお訪ねした。

 大拙先生は、文化勲章受章者、世界の D.T.Suzuki、94歳の著名人である。
 先生は、無名の学生の自分に昔からの知己のように、まったく自然に接してくださった。

 私は三島の龍澤寺で中川宋淵老師の下、禅のまねごとをしていた時の体験を語った。
 般若心経の最後の句「羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」の意味を尋ねた。
 先生は、私が浄土真宗ということで、親鸞についていろいろと質問があった。

 二人並んで椅子に腰掛けている傍に秘書の岡村美穂子氏がいて、一時間ほど過ごしたであろうか。
 私が退席する時、応接間から玄関まで見送ってきてくださった。
 すこしよろめいて、おっとどっこい、といってにっこり笑ったことが思い出される。

 その後すぐに、鎌倉から大拙先生の丁寧な手紙 (12月28日付け) が東京中央区小田原町(現在、築地)のわが家に届いた。

 「来春にでもなって日永になりましたら御目にかかり」云々とあって、
 「何事もおっくうになりました」と結ばれていた。

 1966年、大拙先生は、私の生家の目と鼻の先である聖路加病院で逝去された。享年96歳。

 鈴木大拙に弟子はいない。
 彼は徒党を作る様な師ではなかったし、自分は学者ではないともいっていた。
 大人物の謙遜ではなく、本当に、そうだと思う。

 彼は世界で一級の著名な知識人と交流があったにもかかわらず権力・権威・名声と無縁の人であった。
 そして「自己の究明」を求める鈴木大拙は、いわゆる西欧的な思想家ではない。

 晩年の大拙に身近に接していた志村武(著述家)が、ある時率直な(不躾な)問いを大拙先生にした。

 “親鸞聖人や道元禅師と比べてみると、先生はどこか違うと思うのですが、どこが違うのでしょうか?”

 大拙は答えた、
 “わしには真実がない”、「まこと」がないと。

 大拙先生は偉人というより、わたしには不思議な「ただの人」であった。
 だれに自慢することでもないが、わたしは、この世で、この「人」にお会いできて満足だった。

(2024/07/24; 2024/07/25)

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参考 :
『鈴木大拙ー 人と思想 ー』岩波書店; 1971.
『回想 鈴木大拙』春秋社;1975.
『鈴木大拙未公開書簡』禅文化研究所;1989.
山本幹夫(空外)『國家倫理の構造』;目黒書店;1941.
Paul Johnson: Intellectuals; HAPER & ROW; 1988.
佐藤平「鈴木大拙先生との出会い」;『宗教哲学研究29 巻 (2012)』

* 本文中、引用文の誤記、一定の内容について意図しない誤解などがあれば、ご指摘を受けて感謝をもって訂正したい。参考文献ついては、あくまで「参考」であって、その内容が適切か正確かどうかは、直接、当該資料に当たっていただき、読者にご判断をお任せしたい。

 

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