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【NPJ通信・連載記事】音楽・女性・ジェンダー ─クラシック音楽界は超男性世界!?/小林 緑

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クラシック音楽の問題点(21)
 「風の時代のクラシック音楽
   ~音楽史を神棚から降ろして」(2)

寄稿:谷戸基岩

2024年10月25日

 単なる「情操教育に良いクラシック音楽」ではなく、ある種の人々にとって「差し障りのある」作品を取り上げるという点は第3部の「社会情勢や歴史を反映した音楽への関心」も共通している。まず現在のクラシック音楽界でひとつの潮流となっている黒人差別、女性差別ゆえに不当に過小評価されている作曲家・作品の復興運動にスポットライトを当て、代表的な作曲家たちをひとりずつ取り上げた。フランス領グアダループ島出身のムラート(白人と黒人の混血)でフェンシングのフランス王者でありながらヴァイオリニスト・作曲家として大活躍しモーツァルトにも影響を与えたサン=ジョルジュ、ギロチン処刑前の審問で革命歌《ラ・マルセイエーズ》の即興演奏を披露し放免され、パリ音楽院のピアノ科教授に女性として初めて任命されたエレーヌ・ド・モンジェルーのピアノ作品がそれ。

 またもや戦争の時代に突入した感のある「風の時代」。そんな時代だから記憶にとどめておきたい作曲家がいる。ロシア、プロイセン、オーストリアによって分割統治されて国が消滅してしまっていた時代に真の愛国者として活動し、イタリアで客死したポーランドの作曲家オギンスキ。ワイダ監督の映画「灰とダイヤモンド」でも印象的に使われた「ポロネーズ《祖国への別れ》」を取り上げた。一方群馬県富岡市のローカルな話題だが、フランス19世紀の人気作曲家だったルフェビュール=ヴェリの代表作「修道院の鐘」を演奏。実は彼の娘はフランス政府から派遣された技術者と結婚し、明治初頭の富岡製糸工場に住み、しばしばピアノを弾き女工たちの憧れの的だった・・・私も数年前に初めて知った驚きの史実なのだ。

 第3部の最後にギャンブル依存症、薬物使用の疑い・・・など作曲家の知られたくない側面に光を当てた特徴的な作品も取り上げた。D.スカルラッティが550曲以上もの鍵盤楽器のためのソナタを書いたのはギャンブル依存症によって生じた負債を返済するためだったと言われているが、この日演奏していただいた2曲(K.443、444)はその依存症ぶりを髣髴とさせる。1960年代のロックの歴史では語られることの多い「サイケデリズム」は実のところクラシック、ジャズ、ロックなど「地の時代」に産業発展した音楽ジャンルに共通する「新奇さ」を表現するものといえよう。それは過当競争の極限の中で「新奇さ」の終焉に相当する「非日常性の探求」のひとつの表現方法として具現化する。ドラッグ・カルチャーの文学者であるド・クィンシーやボードレールの影響を受けた(彼らの作品からの引用がそれぞれの楽章冒頭に掲げられている)ギヨーム・ルクーの「チェロ・ソナタ」の第2楽章は明らかに常軌を逸しており、私は聴いた瞬間に「サイケ!」と思ったものだ。

 第4部の「著作権切れのポップな音楽とその活用法」では「高齢者には聞き覚えのある古い名曲」、「パロディ精神の曲」、「エキゾチシズム」の3つに分類して耳に刺激的ながら心地よい作品を揃えてみた。テレビ番組「ヒッチコック劇場」のテーマ曲「操り人形の葬送行進曲」の作曲者が「アヴェ・マリア」や歌劇「ファウスト」などで有名なフランスの作曲家シャルル・グノーであることは意外なほど知られていない。この曲など老人ホームで演奏したら大受け間違いなしのクラシック音楽と思うのだが・・・他にも小学校3年の鑑賞教材に指定されていたガブリエル=マリーの「金婚式」、ピエルネの「鉛の兵隊の行進」、シンディングの「春のささやき」など1950~60年代頃にはよく耳にしたものの現在では余り接する機会のない名曲を特集した。また1910年代に大活躍したフェリックス・アーントはラグタイムをベースに有名曲をパロディ化した曲で人気を博していた。そんな中から「神聖冒涜ラグ」、更にレス・ポールのカヴァーでも1950年代に再ヒットした大ヒット「ノラ」も組み入れた。「エキゾチシズム」のコーナーではハンガリーの作曲家サーントーの「日本にて」。出典不明(「六段」?)の「忠臣蔵」と日本民謡に基づく3曲(地搗き歌、権兵衛が種蒔く、祭囃子)から成る組曲。日本を題材にした作品は思いのほか沢山あるのだ。

 妻の小林緑からは女性作曲家の作品が少ないとクレームがついたので第4部「パロディ精神の曲」のコーナーでモーツァルトの弟子だった女性作曲家アウエルンハマーの「《おいらは鳥刺し》による変奏曲」を加え、午後の部と夜の部のアンコールとしてそれぞれのピアニストの譜めくりをお願いしていた優秀なピアニストお二人にも参加してもらい20世紀初頭に最も高い人気を誇っていた女性作曲家シャミナードの八手連弾曲「銀婚式」を取り上げた。アンコールといえば夜の部では八手連弾に先立ち、かつてラフマニノフが客席にいた時にヨーゼフ・ホフマンが行ったとされるアンコールを実践してみた。ラフマニノフの「前奏曲op.3no.2《鐘》」の最初の3つの和音を弾いてからショパンの「幻想即興曲」に繋げたのだ。ラフマニノフは聴衆からしつこく演奏を熱望される《鐘》の前奏曲を嫌悪しており、そのことをからかうかのようにホフマンはこのようなトリックを仕掛けたとされている。

 以上、コンサートの模様は準備が出来たら何らかの形で皆さんに公開しようと思っている。コンサートのご報告がこんなにも遅れたのは今年になってから私の心房細動発症と小林緑の腰椎圧迫骨折で私たち夫婦の日常生活が大きく混乱したためだった。そしてパレスチナ戦争の勃発など世界情勢がますます混沌とする中で音楽界も含め今後の情勢が読めなくなったことも影響した。

 今回の企画のバック・ボーンにあった考え方をまとめると次のようになる。それが「風の時代のクラシック音楽」の目指すべき方向性なのではないか、と私は考える。

① クラシック音楽が産業発展した19世紀に生まれた「J.S.バッハ原理主義」を克服し、正しい18世紀前半の音楽史を構築し直す必要がある。
② 「標題音楽」というある種の人々にとっては差し障りのある音楽は、今日の映画音楽がそうであるのと同様に多くの聴衆にとって面白いものなので、演奏する側が聴衆の嗜好をしっかりと把握し、状況判断をしながらもっともっと取り上げられるべき。
③ クラシック音楽であってもその作品は神の業績ではなく人間の業績。あくまでも演奏家にとっての道具。それゆえ作品の価値を判断するうえで作曲者の行動や作曲目的の善悪にも注意を払う必要がある。世界的に政治が混沌とした時代になるだけに過去に遡ってそうした視点からの歴史の見直しが欠かせない。それと同時に作品はもっと自由に扱われるべきだ。
④ それぞれの人にはそれぞれの音楽聴取の歴史がある。そうした歴史を大切にし、お年寄りにとっての真の「懐かしさ」を呼び覚ます音楽は何なのかをしっかり考察したうえで選曲することが老人施設などの演奏では大切。

 録音が存在しない19世紀に産業発展したクラシック音楽業界が、20世紀になり録音が存在している時代を迎えた。そこで基本的に演奏に供するための楽譜の販売ではなく録音されたディスクを販売のツールとする各種ポピュラー音楽と競合するようになった。そのためクラシック音楽業界は政治の中枢との強い結びつきをどのように維持するか、そのためにどうやってその存在意義を主張するのか、が問題になった。

 そうした中で20世紀においてクラシック音楽はその歴史を単純化し、語りやすくすることによりマスメディアの人間が扱いやすい(語りやすい)歴史観を構築してきたが、そのことによってクラシック音楽の重要な魅力の一つであった「レパートリーおよび演奏の多様性があり、そうした膨大なものの中からファンは自分の気に入るものを選ぶことが出来る」という趣味としての面白さにアクセスしづらくなった。ある種の権威主義によって消費行動を画一化することによってビジネスを効率化しようとする動きがマスメディアを活用した産業発展の中で生まれた。しかしそれが過剰となりとうとう限界に到達してしまったのだ。しかしマスメディアなどによって植え付けられる「他人と同じものを好きにならなくてはいけない」という強迫観念さえ克服できるならば、少なくとも著作権が消滅している作品に関して私たちは自由に自分の本当に好きな音楽を探求することが容易に出来る時代になっていることを忘れてはいけない。それを可能にしてくれているのが音源ならYOUTUBEなどであり、楽譜ならペトルッチのサイトなのだ。

 とはいえやはり一番大切なのは聴き手本人の、自分が本当に好きな音楽と出逢いたいという探求心であると私は思う。「風の時代」に必要とされるのは結局のところ個人個人の趣味の飽くなき探求である。そしてそれらの成果を丁寧に取り扱いつつ緩く大きなコンセンサスを形成することこそが真の「音楽史」の構築につながるのではないか・・・!

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