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【NPJ通信・連載記事】一水四見・歴史曼荼羅/村石恵照

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一水四見(12)
混迷の世界状況に直面して――世界人としての日本人・鈴木大拙

2015年2月6日

「あらゆる時代の日本人のなかで、知的または精神的に、日本国の外の世界にもっとも広く、もっとも深い影響をあたえたのは、鈴木大拙である」(加藤周一『日本文学史序説下』)

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今年(2015)は第二次世界大戦終結から70周年である。

しかし過去70年間世界中が平和であったわけではない。

東アジア全体が平和であったわけでもない。

その間、1962年から1975年はヴェトナム戦争であり、 1976年 からはカンボジアでポル・ポトによる大虐殺があった。

それ以前の1950年に始まった朝鮮戦争は1953年に休戦となったが、南北朝鮮は現在も戦争の可能性を孕んだ休戦中あることを日本人は忘れてはならない。

さらに忘れてならないことは、朝鮮戦争に伴い、在日アメリカ軍から日本に発注された、いわゆる朝鮮特需である。

これが戦後の高度経済成長の基となって、神武景気、岩戸景気、オリンピック景気、列島改造論などなどの右肩上がりの好景気の始まりとなった。

独自の技術立国を自慢しているところの日本であるが、この時期に実はアメリカから多くの技術を取り入れていたことも忘れてはならない。

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歴史におこる様々な現象は、縁起的に、つまり――通時的かつ共時的に相互に連動している現象として――観なければならない。

歴史的縁起の因果関係を無視することを仏教では「邪見」という。

歴史の記録から自分の都合のよい場面のみを取り出して、自己の立場を是認して他方の立場を批判することを「辺見」という。

ものごとを固定的に認識して執着することは「常見」であり、原因と結果の連続性を無視することは「断見」である。

 仏教要語で「見」とは「知の欺瞞」のことであり、「見」の悪化状況を「見濁」という。

さまざまな「見」を離れることが「如実知見」としての「正見」である。

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大勢において西欧の近代知識人もそうであるが、日本についていえば、戦後、日本の知識人は驕ってきたのではないかと思う。

ここで「奢り」とは――仏教語で「憍慢」であるが――歴史的事象の一面を観念的に整理して固定的な歴史認識をすることであり、辺見と常見の合体した自省心の欠如である。

自省心とは、自らの内省にもとづいて、明るい面と闇の部分の両義性をもった人間性についての省察のことであり、これは人間の歴史への深い理解を導く「正見」にかかわることである。

自省が自虐ではないことは当然である。自虐は「常見」の一種である。

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そして自省心や内省心を持つことを最も要請されていて、それを得ることが最も困難な状況にある人々が、政権の中枢にある政治家たちである。

人間についての深い洞察がなければ、多くの国民の集合体である国家を国民のために適正に運営できないではないか。

しかし、政治家たちを教育機関で育成して社会に送り出しているのは、実際は大学教員を中心とした知識人たちであることを考えると、知識人の責任は重大である。

特に、戦後の日本の知識人は、仏典を含めた漢学の素養を欠如して、足が地に着かないような西欧直輸入の観念的な思考や解釈――辺見、常見、断見などの邪見――に翻弄されてきたのではないか。

西欧流のイデオロギーに依存して、歴史的事象を解釈したり解説したりしてきただけの戦後の知識人だったのではないか。

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今年日本の新年は、中東に活動する自称ISILなる組織によって拉致された二名の日本人ジャーナリストの殺害事件に始まった。

地球上の各地が内戦状況になりかねないような、予測のつかない歴史の状況が生じている。

深刻な問題に直面して様々な意見や批判を生産的にぶつけ合うことは大切だが、意見や批判をする人々に自己の意見の妥当性に当初から疑いをもたずに、自省心や内省心が欠如していては、意見の勝負、イデオロギー論争になってしまう。

だからジャーナリストたちや評論家たちが、喧々諤々の意見を述べていても、意見の固執があって思想的深みがないように思えるのだ。

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人間世界の混乱と困難の状況を仏教語では「五濁(ごじょく)」というが、そのなかで最も重大なのは「見濁」であるとされる。

「見濁」に泥む者は知識人であり、知と知識人の欺瞞と奢りに最も鋭い批判を加えたのがゴータマ・ブッダの縁起論であった。

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我々は未曾有の混迷の歴史的状況に直面しているようだ。

現代はスターリンとヒットラーの時代ではない。

世界を動かしている政治家、経済学者、社会学者らは、近代西欧の教育制度のもとに各国の大学において高等教育をうけた人々である。

そして自省心を欠いた彼らの一部が、国家機関や企業の要職をえて戦争を仕掛け金融を操作しているのが実状である。

このような歴史状況に直面して、近代西欧の、明治、大正、昭和の三時代を、しかも当時の西欧の一級の著名人と交流し、文字どうり世界を叉にかけて生き抜いた一人の人物を思い出す。

鈴木大拙(1870-1966)である。

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鈴木大拙は一世紀近い長寿(96歳)を享けたから、彼の生きた同時代人には、明治、大正、昭和を彩る多彩な人物像が重なっている。

彼の二十歳代には、勝海舟、徳川慶喜、福沢諭吉、内村鑑三、新渡戸稲造、 岡倉天心、 夏目漱石らがいた。

彼らはすべて、加速的に押し寄せてくる西欧文明の侵出をひしひしと感じていたことは確かだろう。

初めの3人は基本的に外面的政治に関わった人物であるが、後の4名は近代西欧の影響に直面して、日本人としての生き方を内面から見つめた人物である。

彼らはそれぞれに渡航して欧米の文明を直接体験し、思想と文化の観点から西欧の侵出によって顕在化されてきた日本と日本人の存在意義の問題に直面した。

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内村鑑三と新渡戸稲造は、ともに札幌農学校に学び、函館に駐在していたメソジスト系宣教師から洗礼を受けてクリスチャンとなった。

その後内村は1884年に私費で渡米したが、拝金主義と人種差別の流布していたキリスト教国の現実を知って幻滅、4年後に帰国してアメリカのキリスト教と一線を画した日本独自の無教会主義を唱えた。

彼が愛したのは「二つのJ」すなわちJapan とJesusであった。

彼は「How I Became a Christian (『余は如何にして基督信徒tなりし乎』)」と、

「Representative Men of Japan(『代表的日本人』)」をあらわした。

新渡戸は1884年、「太平洋の架け橋」になりたいと渡米、伝統的なキリスト教信仰に懐疑的となり、やがてキリスト友会(クウェーカー)の正式会員となった。

1891年、妻メアリー・エルキントンを伴って帰国。

その後国際連盟事務次長になるなど海外での活躍は周知のことである。

彼は英文の著述「Bushido: The Soul of Japan (武士道)」を書いた。

内村も新渡戸もクリスチャンとなったが、こころの底には、それぞれが理解する日本人の意識を厳然と維持していてゆるぎがなかった。

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天心は、米人フェノロサの影響のもとに東洋の美的文化価値と日本文化における道教の意義に目覚め、The Awakening of the East (1902) 、The Ideals of the East (1903)、The Awakening of Japan (1904)、The Book of Tea (1906)などの英文著作が 国内外で注目されたことは周知のとおりである。

天心はアジア人としての日本人であることに我が身をおいて精神的に自足していたようだ。

因に、フェノロサは日本文化に安住して仏教徒となり、彼の墓は大津市の法明院にある。

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以上の三人と比較して、夏目漱石はどうか。

漱石は、1900年、文部省より英語教育研究のため英国留学を命じられ渡英。

「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」など、おそらく当時の先進文明としての西欧と比較された日本の現状に様々な思いを抱きつつ「猛烈の神経衰弱」に陥り、漱石は急遽帰国を命じられ、1903年1月横浜港に帰着した。

漱石はキリスト教への関心を深めることはなかった。

しかし近代西欧の生活をロンドンで体験して西欧世界のハードとソフトの巨大な資産に大きな衝撃を受けたことは確かである。

彼の小説『心』、は明治天皇の御大喪と乃木将軍の殉死を中心として、西欧文明の侵出の時代の奔流の中で、明治がだんだんと遠くなっていく時代に直面した悩める知識人の心象風景のようだ。

漱石は鎌倉の円覚寺に参禅したり、『 心』には、仏教書を読む一方、時にかたわらの聖書を読んでいた悩める浄土真宗の青年が登場したりしているが、漱石自身は仏教にも深く立ち入らなかった。

西欧文明に衝撃をうけた漱石であったが、晩年の心境は「則天去私」であったといわれる。

伝統的な漢学的教養の価値と仏教の無我とを折衷したようなところに、自身の安心をえたようである。

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では鈴木大拙の場合は、どうか?

先の三名の人物と大分に趣が違う。

鈴木大拙、本名、鈴木貞太郎は明治3年(1870)年、金沢市に四男一女の末子として生をうけた。

6歳の時、医者であった父と死別し、20歳で母と死別したから、彼の耐乏生活は幼少期からはじまった。

明治初期の石川県の乏しい教育機会のなかで漢文を熱心に習得し、しかも限られた教育環境のなかで英語学習にも努力した。

しかし彼は岡倉天心、内村鑑三、新渡戸稲造らと違って、生来的に自己の究明に関心があったから、20歳から禅に関心をもちはじめて富山県の禅寺で参禅をはじめる。

21歳で上京して東京専門学校(今の早稲田大学)に学ぶが、正式に卒業したわけではない。

彼自身の言い分では、石川県での初等、中等教育以外、正式に終了した学校はないという。

この年、鎌倉円覚寺の今北洪川老師について参禅を初める。

23歳、遷化した洪川老師の跡を継いだ釈宗演老師がシカゴの万国博覧会における世界宗教会議に出席するにあたって、その原稿を英訳、それを夏目漱石に添削してもらう。

25歳、参禅して見性を得て、宗演老師から大拙の居士号を与えられる。

27歳、 明治30年3月、釈宗演の推薦で、中国文献などを出版しているポール・ケーラス(イリノイ州)のもとで働くために渡米。以後11年滞米。

38歳、 明治41年、米国を離れてイギリス、フランス、ドイツに往き、翌年 4月、39歳、スエズ運河を経て帰国。

44歳、 米国外交官の長女・ビアトリス・レーンと結婚。

それ以後は、日本で精力的に仏教、特に禅関係の著述をするかたわら、ふたたび海外での活動をつづけ、特に長期滞在を含む米国での活動は80歳頃からむしろ活発になっていった。

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大拙は27歳の年齢で渡米し、西欧文明の先鋭的な遺産をつぐ米国に単身11年余滞在し、その後さらに1年間を欧州で過ごした。

彼はだれにでも分け隔てなく接したから欧米人の人情の機微につうじ、当時の著名な西欧の知識人らと交流したから、西欧のキリスト教と技術文明について比較研究と思索を十二分にすることができた。

彼は禅の修道をとうして自己の究明という普遍の智慧の獲得に努めていたから、単身欧米の文明に囲まれていても自己に対する静かな自信を失うことはなかった。

彼は西欧思想の観念的思想体系やその論理的言語表現に魅了されたが、イデオロギー的思考に泥むこともなかった。

それどころか、西欧の科学的な発展は措いて、西欧の近代知識人に顕在化している、西欧文明を貫いている二元的対立思考と、とくに思想家と思想の分断に気がついていた。

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鈴木大拙は長年にわたる海外活動において多くの知識人たちと交流し、特に知遇をえた西欧人に深い影響を与えた。

彼の禅は、中国語ではなく日本語として英語辞書にZenとして掲載されている。

イギリスにおいて仏教の普及につとめた人物にロンドン仏教会(1924年設立)の創設者クリスマス・ハンフレーズがいる。

彼は1946年、東京裁判で判事を務めるために来日した際、鎌倉の大拙を訪ねたことをきっかけに、以前から面識のあった二人はさらに深い親交を 持つようになった。

大拙は渡英の時は彼の私邸に宿泊した。

因に、同年5月、鈴木大拙は 山梨勝之進(海軍大将、学習院院長)のはからいで 仏教を代表して昭和天皇と皇后に「仏教の大意」を進講している。その他の講師は田中耕太郎(カトリック)と斎藤勇(プロテスタント)である。

大拙は、戦後、皇室との連絡調整役を務めたR.H.ブライスとも昵懇であった。

ブライスは、当時の皇太子の英語教師であり、昭和天皇の人間宣言の起草に加わったことが知られている。

英文で俳句についての著書をだして、今日にいたる英語俳句普及の先駆者となった。

鎌倉東慶寺にあるブライスの墓は、終生の友鈴木大拙の墓の後ろにある。

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交流の度合いは様々だが、大拙が意見をかわし交流した人物には、中国人では胡適(中国思想家)と魯迅(作家)、西欧人では、カール・ヤスパース(哲学者)、マルチン・ハイデガー(哲学者)、ジョン・ケージ(音楽家)、オルダス・ハクスレー(作家)、 カール・ユング(精神分析学者)、エーリック・フロム(精神分析学者)、ポール・ティリッヒ(カトリック神学者) などがいる。

1950年代、アメリカのビート世代は大拙におおいに影響をうけた。

1959年、ハワイ大学から東洋を代表する知識人三名が選ばれて名誉博士号が与えられた。

インドのラーダクリシュナン(インド哲学者、インド大統領)、中国の胡適、そして日本の鈴木大拙である。

1964年4月、鈴木大拙、94歳は、インドのアジア協会よりバートランド・ラッセル(哲学者)、アーノルド・トインビー(歴史学者)らと共に第一回タゴール生誕百年賞を授与された。

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英語で東洋の立場を世界に発信する重要性を指摘し、漢文の素養が大切であることを強調する仏教者・鈴木大拙の言葉を引用したい。

「自分は世界人としての日本人のつもりでいる、そうした日本に―東洋に―、世界の精神的文化に貢献すべきものの十分に在ることを信じている。・・・

西洋文化の精神を体得することは中々容易なことではない。

日本文化のみが保存に価するものだと考えたり、西洋文化は、物質的だ、経済的だ、政治的だとのみ考えたりして、今度の戦争を起こしたような人たちには、到底わかるものではない。・・・

それからまた日本は敗けた、アメリカはえらい国だ、何でも彼方の真似さえして跳ったりはねたりして行けば、若いものの能事畢れりとすまして行くものが多くなったら、これまた大変だ。

要するに、東洋でも西洋でも、政治の機構は自由を主としたものでなくてはならぬ、そうしてこの自由の出処は霊性的自由である。」(鈴木大拙「明治の精神と自由」1947年)

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鈴木大拙は、彼と面談した多くの人々が語っているように、だれに対しても一視同仁の態度で「随処に主」となって接していた。

世界的な著名人でも、お手伝いの女性にも、猫にも同様であった。

彼は90歳過ぎても、 自分の着替えや下着の洗濯はすべて自分一人でやっていた。

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「この人の真価を十分に知るには対面するほかはない。

鈴木大拙博士は儒教・道教・仏教などアジア古来の伝統にみられる「君子」がもつ名状しがたい資質を、

すべて体現しておられるように思われた。

博士と会って一緒にお茶を飲みながら、この「人」に会えたと感じた。

それは、やっとわが家に帰り着いた境地にひとしかった」

(トマス・マートン;カトリック神学者)

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1964年12月、23歳の私は鎌倉の東慶寺に先生をお訪ねした。

大拙先生は、文化勲章受章者、世界のD.T.Suzuki、94歳である。それが、一介の青年の自分にまったく昔からの知己のように自然体で接してくださった。

私は三島の龍澤寺で中川宋淵老師の下、禅のまねごとをしていた時の体験を語った。般若心経の最後の句「羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」の意味を尋ねた。

先生は、私が浄土真宗ということで、親鸞についていろいろと質問があった。

退席の際、応接間から玄関まで見送ってきてくださったが、すこしよろめいて、おっとどっこい、といってにっこり笑ったことが思い出される。

その後、鎌倉から先生の手紙が届いた。

1964年、先生は東京の明石町の聖路加病院で逝去されたが、私の生家の目と鼻の先である。

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鈴木大拙に弟子はいない。

彼は徒党を作る様な師ではなかったし、自分は学者ではないといっていた。

大人物の謙遜ではなく、そうだと思う。

そして鈴木大拙は、いわゆる思想家ではない。

彼は世界で一級の著名な知識人と交流があったにもかかわらず権力とも権威とも無縁の人であったから、彼のエピゴーネンはいない。

鈴木大拙は、その人の存在自体が霊性的自由の結晶であった。

彼はまさに「世界人としての日本人」であった。

(*2015/2/5 記)

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