【NPJ通信・連載記事】読切記事
亡霊と“裸の王様”
「違憲じゃないという著名な憲法学者もいっぱいいる。」――内閣官房長官、菅義偉の発言には驚いた。半世紀以上もたって亡霊が出たのかとさえ思った。
衆院の憲法審査会で集団的自衛権の行使を可能にする新たな安保法制案を憲法学者3人がそろって「違憲」と断じたことに対して、菅は記者会見でこう述べたのである。
菅が懸命に支える内閣総理大臣、安倍晋三の敬愛する祖父、岸信介が1960年、日米安保条約改定をめぐる混乱の中で発した有名なセリフを思い起こした人も多かろう。
「後楽園は(プロ野球見物者で)満員だ。私には『声なき声』が聞こえる。」
国会議事堂や首相官邸を数十万のデモ隊に囲まれながら、岸は国会に警官隊を導入し新条約の承認を強行採決した。自分に都合のよい言葉だけを聞いた岸を真似するような菅の発言は、法案審議の今後を示唆しているようで背筋が凍る思いだった。具体的な名前を問われて出したのは、学者としてはあまり評価されていない「保守陣営の応援団」のような人物だった。
議会制民主主義を踏みにじった岸は、政権末期には権力こそ握っていたものの人心が離反し「裸の王様」と評されていた。そのもとになったアンデルセンの童話「裸の王様」の筋書きはこうだ。
王様のもとにペテン師が現れて「これは愚かな者の眼には見えない布です」と売り込む。王様には布が見えないが、愚か者と思われないために「素晴らしい」と高額で買い求め、その布で仕立てたという服を着ているふりをして町を練り歩く。家来たちも、街の人たちも洋服などやはり見えないのに愚かと思われたくなくて絶賛した。しかし、大人の思惑とは無縁な子どもが「王様は裸だ。」と笑い、やがて街の人たちも一緒に笑い出した。
この物語はさまざまな事例の比喩として使われる。
・客観的には間違っている権力者に対する追従
・権威、権力を誇示しても実際には孤立している情況
・周りがああ言っているのだから自分が間違っているに違いないと思ってしまう主体性放棄
・多数意見に引きずられて皆が同じように考え行動してしまう集団催眠……などだ。
集団的自衛権に関する憲法9条の解釈を強引に変更し戦争法を成立させようとしている安倍とその政権、さらに自民党の現状が「この童話」を使って語られることも多い。
確かに、自民党の中には、政府の憲法解釈は誤りで戦争法案は違憲だと分かっていても「違憲だ」と王様を諫める議員は希有だ。
登場人物もそろっている。的外れの砂川事件最高裁判決を持ち出して「集団的自衛権の行使は合憲」と言いくるめようとしている自民党副総裁、高村正彦は童話に出てくるペテン師のように見える。「王様」気取りの安倍はありもしない“合憲織り”の服を着ていると言い張り、家来たちもはやし立てている。
そんな中で政治的思惑などとは無関係な研究者が子供と同じ純な眼と頭で見て考え「そんな服はない。王様は裸だ。」と言い出したから王様や家来たちは大慌てになった。
実はこの経過の中にも岸の亡霊がちらついている。1959年、「米軍駐留は違憲」との一審判決が出た砂川事件について、高裁を飛び越して跳躍上告し、最高裁に「違憲とは言えない」とひっくり返させたのは岸政権だった。裏では違憲判決逆転のため駐日米国大使が岸政権に圧力をかけ、政権寄りの姿勢が目立った当時の最高裁長官、田中耕太郞と米国大使との密談では田中が上告審の日程や結論を予告していた。
祖父と孫による、平和憲法を骨抜きにする政治は50年余の時を挟んで連綿と継続している。日米安保条約の改定問題が重要段階を迎えていた1959年、自衛隊と米軍の一体化に拍車がかかるいま……背景の時代状況も酷似している。
童話と現実世界で決定的に違うのが結末だ。童話の王様は子供たちに指摘されて顔を赤らめ城に逃げ込むが、現実の王様と家来は「服を着ているかどうか判断するのは子供(学者)ではなく最高裁だ」と開き直っている。
本当に服を着ているという妄想にとりつかれているのか、「50数年前の祖父のように最高裁をコントロールできる」と考えているのか……。おまけに家来の一人は「憲法を現実に合わせて解釈、運用する。」と言わんばかりの答弁をして、後に釈明する始末だ。
岸は自衛隊にデモ隊を鎮圧させようとして当時の防衛庁長官、赤城宗徳に拒否されたが、国会には警官隊を導入して反対派の議員を蹴散らした。孫の安倍は、新安保法案の違憲性がますます明らかになった中でどう出るのか。
ここで決して間違えてはいけないのは、対立軸は「政権対学者」ではなく「政権対国民」であることだ。
日本は歴史の大転回という戦後最大の危機を迎えようとしている。マスメディアも国民一般も、あらゆる場所で、あらゆる機会に、自分自身の大声で「王様は裸だ。」と叫び続けたい。その声の高まり、広がりが平和憲法と国際社会からの信頼を守る。
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