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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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連載「ホタルの宿る森からのメッセージ」
第40回「森の中で生きるということ(その5)~ことば」

2015年9月27日

▼ことばことはじめ

まだ研究を始めて間もない25年前のことである。

何とかスムーズに調査は進めたかった。森のガイド役としての先住民たちの協力は不可欠だった。ボマサ村に居住するバンツー系農耕民の人たち(以下では、単に、村人と呼ぶ)とも良好な関係を保たなければならなかった。

村人と酒を酌み交わすことはスムーズな会話に役に立つ©西原智昭

村人と酒を酌み交わすことはスムーズな会話に役に立つ©西原智昭

それにはことばによるコミュニケーションがとりわけ大切なのはいうまでもない。村人、先住民ともに通じる、コンゴ共和国の第二公用語であるリンガラ語は少しずつ覚えていくしかなかった。見よう見まねのカタコトである。それで、ぼくは自分をちょっとずつ主張していく。森の中での調査という自分の仕事の内容を伝える努力をしたかった。

先住民たちと森を歩く日々が続く。うまくリズムが合わないときがある。ぼくがゆっくり歩きたかったり、ちょっと立ち止まって何かを観察したり確認したいのに、彼らはおかまいなしにずんずん前へ歩いていってしまうこともときどきあった。あるいは彼ら同士おしゃべりをし、ゴリラを探す注意を怠っていたりもする。そんなとき、ぼくはリンガラ語の単語を並べて、強い口調で彼らに話す。言ってみるものだ。そんなカタコトでも、ぼくの主張や調査で遂行したいことは少しずつ伝わっていったようだ。

25年前の筆者と森の先住民©黒田末寿

25年前の筆者と森の先住民©黒田末寿

飛躍的にリンガラ語が上達したポイントがあった。

はじめの3ヶ月の調査後ぼくは首都ブラザビルへ出た。そしてまったく一人でポトポトという名の市場へ行った。必要な補給物資を探し買うためだ。日本で研究室の先輩からコピーした英語・リンガラ語の小型辞書を携帯し、必要な物品を探し、ひとつひとつ値段の交渉をする。人々はきさくに応対してくれる。日本人が彼らの大衆言語であるリンガラ語を話すというので、面白がってどんどん話しかけてくる。みなぼくの仕事のことや森の中のことをたくさん聞いてくる。ぼくは知っている単語で何とか対応する。「待つ」という単語の命令形はすぐに覚えなければならなかった。なぜならば、わからない単語を聞けばそのたびに「待ってくれ」といって、片手に持つ辞書でその単語を確認するためだ。その繰り返しだった。

そうしたささいな経験を積み重ねることで、ぼくのリンガラ語は次第にひとり立ちしていく。

リンガラ語ということばは、コンゴ民主共和国(旧ザイール)の西半分と、コンゴ共和国のほぼ全土で共通するローカルなことばだ。コンゴ共和国の第一公用語はフランス語だが、ぼくには習ったこともないフランス語をいきなり習得するのは困難であった。文法は複雑だし、発音も容易でない。英語は通じない。であれば、もっと簡単なリンガラ語を先にマスターしたかったのだ。無論、実際森の中では先住民はフランス語を十全に理解できる人は少なく、リンガラ語の方が彼らとはスムーズにコミュニケーションができた。

ンドキへ行く前、京都でも少々のリンガラ語を習う機会はあった。ぼくの出身である京都大学の人類学研究室界隈には、コンゴ民主共和国(旧ザイール)の各地で研究をしてきた人類学者・霊長類学者の先輩方が何人かいた。みなリンガラ語をマスターしていた。そのうちの一人が、簡単な日常会話と数字などを事前に教えてくれたのだ。確かに文法は英語に類似していて、かつ、英語より簡単だし、単語の発音もほぼローマ字式で日本人にはわかりやすく発音しやすい。

筆者(手前)の後方にいるのが黒田末寿さん©西原智昭

筆者(手前)の後方にいるのが黒田末寿さん©西原智昭

しかし現地経験がないとなかなか実践的に会話などできるものではない。ンドキに着いた当初、現地の人との会話にはもっぱら、当時の直接の指導教官であった黒田末壽さんが立ち会った。黒田さんは長年旧ザイールでボノボの研究をしてきたので、リンガラ語はペラペラだった。ぼくは黒田さんの間近でリンガラ語を真似、実際に森の中では必需単語を教わる。森、川、動物、木、葉、果実、花、草、食べ物、水、大きさや重さに関わることば、色などなど。

そしてやがてひとりになる。もう選択の余地はない。実践のみだ。森の中で片言だが、森の先住民と話しだす。そしてすでに述べた市場での会話もあった。

リンガラ語の特徴のひとつは、単語の数が少ないこと。たとえば、色についてはとくに面白い。三つの表現しかないのだ。一つはペンベ(白)、二つ目はモインド(黒)、最後はモタニ(赤)。他の色はどうするのか。青は、モインドの範疇に入る。緑もそうだ。灰色とか、水色、そして透明はペンベになる。黄や橙、ピンクはモタニである。必要ならばフランス語から対応する色の単語を引っ張ってくる。ありがとう、ということばもフランス語からの借用が普通だ。

25年前の筆者と村の女性たち;筆者は女性陣にスムーズに受け入れられた©西原智昭

25年前の筆者と村の女性たち;筆者は女性陣にスムーズに受け入れられた©西原智昭

ボマサ村では、リンガラ語のほかローカルな土地のことばがあった。村人の話す言語、そして先住民の話す言語。両者はかなり単語が一致しているようだった。ぼくは先住民との森の中での日常生活を繰り返す中で、彼らのことばもほんのちょっとだけ覚えた。1,2,3という数字に始まり、あいさつ、「ある」「ない」「これ」「水」「行く」「話す」「食べる」「たばこ」などなど。今やリンガラ語は日本語と同じくらいふつうに駆使できるようになったが、残念ながら先住民のことばの方はまだおおかた理解できるに至っていない。

▼仏語習得談義

大学では、英語のほか、第二外国語でドイツ語を習得。学生時代、ドイツ語はかなり得意科目であった。しかし、仏語が公用語であるコンゴ共和国では全く役に立たない。さらに、学校などで必要な仏語を学ぶ機会すら持ったことはなかった。せいぜい、日本から仏語会話の本を持って行って、少しばかり基本を習得しようとしたくらいだった。しかし、もっぱら日常ではリンガラを使用していたので、仏語を使う機会はなく、到底役に立つ代物ではなかった。

アフリカに行き出した初期のころ、日本に半年ほどいたことがあったので、京都の日仏会館で仏語を週一回学ぶことにした。どのクラスに入るか、初めにいきなり口頭試験があった。相手は仏人で、「与えられた目の前の仏語の文章を声を出して読んで、その内容に関する仏語による質問に仏語で答えよ」というものであった。不思議なことに、文章は意外とすらすらと読めた。意味を理解できるかどうかともかくも、コンゴ共和国で聞きかじりしていた仏語の発音の仕方が脳みそのどこかに溜まっていたようで、アルファベットを追って割とスムーズに発音ができた。人間の言語習得とは面白いものだとそのとき思った。

しかし、内容はチンプンカンプンだった。質問の内容すらわからない。仕方ないので適当に、「ハイ」(Oui)とか「イイエ」(Non)とか答えた。それが本当に正解であったのかどうか知らないが、あるいは仏語の発音が評価されたのか、「君は中級クラスから入ってよい」と言われた。ところが、初めの中級クラスの授業で、たちまち赤恥をかくことになる。

クラスに集まった学生は決まって初級コースから上がってきた人たちばかりだ。仏人教師が、いきなり仏語で質問してきた。いきなりぼくを指して答を促している。新米の中級クラス入り生徒として注目していたのかもしれない。ぼくは馬の耳に念仏で、耳を真っ赤にしながらもじもじするしかなかったのだ。回りの学生は、何も答えられないぼくを見て、皆クスクス笑っていた。よほど、基本的な仏語にいる質問だったのだろう。

何カ月かこのコースに通ったが、授業はこうした感じでちっとも面白くなかったし、落ちこぼれであった。ぼくは中級コースに入るべきではなかったのだ。内容も、パリでの買い物の話ばかりで、旅行者には役に立ってもンドキの森の調査で直ちに役に立ちそうなものではなかった。結局、それで、何も成果のないまま、またコンゴ共和国に戻ることになったのである。

しかし、年月が経つにつれ、国立公園の近隣に存在する外資系の熱帯材伐採会社の白人と会う機会が増えてきた。仏人がほとんどだ。直接の会合だけでなく、無線連絡や、手紙や文書の作成で、仏語を使わざるを得ない状況に迫られた。「通じればいのだ」とそれだけ思って、多少文法や発音がでたらめでも、話すしかない、書くしかない、と開き直る。コンゴ人スタッフもぼくを助けてくれた。どこかの授業やコースでの理屈でなく、現場実践あるのみだった。

結果的に、仏語は急激に進歩することはなかったにしても、徐々にではあるが自然に習得していった。コンゴ共和国では「アフリカ人仏語」に慣れ、その発音は本場フランスでの仏語の発音より、日本人にはわかりやすかった。たぶん自然にそれに慣れてしまったのだろうか。一度パリに出たときにコンゴ共和国にて実戦で習得した仏語で仏人と話そうと息込んだが、ちっとも相手に通じなかったときは少なからずショックを受けた。25年たった今では、パリの生粋仏人相手であっても、日常会話はなんとかこなせるまでにはなった。しかし、文法などまともに勉強したことがないので、いまだに文章は正確には書けない。「でも、通じればいいのだ」という気構えで、メールなども仏語で何とかやり取りしている。

▼ことばは両刀の剣

「まずはことばができなくてはいけませんよね~」とこちらに来たいと思っている人は必ずぼくに尋ねる。確かに、ことばができたに越したことはないかもしれない。コンゴ共和国で何かをしようとするのなら、コンゴ人とのコミュニケーションは不可欠であるのは疑いない。

しかし、ことばができればそれでよいというものでもない。こちらに来て、25年、いろいろな事例を見てきたが、ことばによる齟齬や誤解がどれほど多いかということを痛感してきた。ことばができるからこそ、逆に対人関係を悪くする可能性を秘めているのだ。

ことばは意思を伝える道具ではあっても、些細な単語の使い方や、文脈や礼儀をわきまえない話し方によって、いとも容易に意思が伝わらないという両刀の剣なのである。ことばとは、おそろしい。特に、話し言葉は一度言えば「消しゴムで消せない」のだ。

特に外国人研究者や国立公園管理関係の外国人スタッフで雇用される人は、まず仏語を話せることが条件となる。しかし、仏語ができるがゆえに、地元の人とどれだけいさかいを起こしてきたか、ぼくは数限りなく見てきた。ことばは繊細なものであり、同じ言語であっても、下手をすれば相手に通じないのだ。相手も立場やその時々の気持ちも配慮しながらの、しかも可能な限り筋道の通った会話が肝要なのである。特に、バックグラウンドの異なる外国人とコンゴ人との間であればなおさらだ。

逆に、仏語など一つもしゃべれない人が、不思議と現地の人とうまく仕事が進むような例も数多く見てきた。ことばは片言でも、気持ちは伝わるものなのだ。それが誠意なのか、ジェスチャーなのかは知らないが、人間とはいかにも不思議なものである。というか、デリケートな人間関係の機微を理解している人なら、どこの国であれ、また自分の国であれ、ことばに頼らず、コミュニケーションはスムーズに行くのかもしれない。

もちろんだからとって、長期に滞在する場合は、言語の習得努力を怠るわけにはいかない。きっと必要なことは、新しい言語を学ぶ意欲(学ぶスピードは関係ない)と、瞬時ごとの-相手が誰であれ-ひと筋縄ではいかない人間関係とコミュニケーションの文脈に留意しながらの対人関係をいつでも学ぶ姿勢なのではないかと思う。自分を主張することも時には必要だが、「聞き上手」になることはもっと大切であろう。特に、コンゴ共和国の人の多くはまだ「ネット人間」ではない。面と向かっての、会話がはずせない。「メールを送ったから伝わっているはずだ」という考えは甘いのである(続く)。

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