【NPJ通信・連載記事】読切記事
変えてゆく あきらめない
実質的改憲である第9条の政府解釈変更、それに基づく安全保障法制の成立で日本は重大な曲がり角を迎えた。「戦争ができる国」へ向かって突っ走り、「我が意を得たり」で連休を迎えた首相、安倍晋三は、改憲を策して実現できなかった祖父、岸信介の墓に詣で、一部とは言え自分が成し遂げたことを報告した。まるで家業報告のようだった。
その前、参議院で法律が成立するやいなやゴルフ場に飛び出し、さらに別荘で静養するなど、多くの国民の不安をよそに連休を楽しんだ後、「安全保障について冷静な議論をするべきだ」と異論は無知ゆえであるかのように切り捨てる一方で、今後の施政方針として経済重視を打ち出した。
日常性への回帰を演出することで新しい安保体制の危険性を忘れさせるのが狙いだ。
しかし、国会で可決されても憲法違反の法案が合憲になるわけではない。反対に可決、成立という現実は所与ではなく「つくられたもの」であり覆せないわけではない。
覆すため、多くの国民が「この法律は憲法違反」と言い続けるだろう。心あるジャーナリストは違憲立法の存在を決して日常報道の中に埋没させないだろう。
法律廃止へ向け胸に刻みつけておきたいことがある。
新たな9.18
法案が参議院の特別委員会で強行採決されたのは2015年9月18日だった。84年前のこの日が歴史的な日であると意識していた議員は採決の場にいただろうか。
1931年のこの日、関東軍は中国奉天(現シェンヤン)郊外の柳条湖付近で南満州鉄道の線路を自ら爆破しながら、中国軍の仕業であるとして一帯で軍事行動を起こした。満州事変である。軍は政府の不拡大方針を無視して戦線を広げ中国侵略を進める。
これがファシズム体制確立の端緒となり、日本は対中国戦争、太平洋戦争へと突き進む。歴史の重要な節目だった。
侵略戦争を始めた日に戦争を可能にする法案を強行可決する。偶然の一致にしても、満州事変を思い浮かべて採決をためらった与党議員は一人もいなかったのだろうか。国会議員の歴史認識が問われ、「第2の9.18」と語り継がれるかもしれない。
象徴的な元軍人の活躍
この日の委員会では象徴的な場面が出現した。答弁席には防衛相の中谷元、委員長席には自民党参議院議員、佐藤正久がいた。どちらも新法成立の牽引車だ。
両者とも防衛大学校を卒業して自衛隊幹部だった元軍人だ。佐藤は委員長、鴻池祥肇の不信任案を審議する間、筆頭理事として委員長役を務めた。法案採決の際は、与野党入り乱れ、委員長の声も聞き取れない大混乱の中で委員長のすぐ脇を固め、抵抗する野党議員をはじき飛ばした。
審議の過程では、自衛隊の統合幕僚長、河野克俊が昨年暮れ訪米した際、米軍幹部に「法案は来年夏までに成立する」と予告したことが問題になった。安倍はそれから4ヶ月後に米議会で同じことを言明して「法案が国会に出てもいないのに」と批判されたが、軍人が約束手形を切り政治家が裏書きした形だ。
日中戦争から太平洋戦争へと続く過程で、政治は軍に引きずられた。今回はシビリアンコントロールどころかシビリアンの暴走だが、防衛庁、自衛隊の現元幹部も論理構築に参画した。往時の情況と異なるとはいえ、軍事の政治に与える影響が大きくなっていくことは警戒が必要だ。
繰り返すまい60年安保
1960年5月、安倍が敬愛する岸信介は新しい日米安保条約の承認を得るため、国会に警官隊を導入して野党議員を排除させた。世論は暴挙と沸き返り、岸を退陣に追い込んだものの代わって登場した池田勇人の所得倍増論で尻すぼみになった。
岸同様に大衆蔑視の安倍はその再現に期待し、そのための経済政策ぶち上げだ。
しかし、今回の抗議運動が自立した個人の自発的な集まりによることを安倍は理解できていない。自主の精神は柔軟で個性的、持続的な闘い方を生み出すだろう。
17歳の決意に励まされ
2010年6月23日、沖縄慰霊の日追悼式典で、当時17歳の高校生、名嘉司央里さんは自作の詩「変えてゆく」を朗読した。
その詩は「当たり前に基地があって・当たり前にヘリが飛んでいて・当たり前に爆弾実験が行われている」と沖縄の現実を描き、「当たり前であってはならないものがいつの間にか入り込んでしまった・これで本当にいいのだろうか」と問いかける。
沖縄戦の悲劇も振り返り、「負である『戦争』を忌み嫌い、正である『平和』を深く愛する」世界にするために「変えてゆこう・平和で塗りつぶしていこう」と結んだ。
「これでいいのだろうか」という疑問から導かれた“17歳の決意”は、安倍政権と対峙する人々の心に響き、励ますに違いない。彼らも法案可決、成立という「つくられた現実」を変えてゆく努力をあきらめないだろう。
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