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“おいっ、こらっ”の放送行政

寄稿:飯室勝彦

2016年2月20日

これではまるで戦前に戻ったようなものではないか。新聞、テレビなどのメディアでは沈静化しつつあるが、総務相・高市早苗と首相・安倍晋三の放送法に関する発言についてあらためて考えたい。民主主義の根幹に関わるからだ。

高市発言は、「放送局が政治的公平性を欠く放送を繰り返したと総務相が判断した場合、放送法第4条違反を理由に、電波法に基づいて電波停止を命じる可能性がある」という趣旨である。

高市がここで言う「公平性を欠く放送」とは「安倍内閣や自民党に不利な放送」であることは言うまでもない。

高市は「行政指導してもまったく改善されず、公共の電波を使って繰り返された場合、それに対して何の対応もしないと約束するわけにはいかない」とも国会で答弁した。

これでは行政指導は「おいっ、こらっ。今度やったら……」という脅しに近い。権力批判はジャーナリズムの基本的使命だが、存立基盤を奪う電波停止命令をちらつかされては、放送局は政府批判を続けるのに大変な勇気を要するだろう。

だいたいこの問題で権力側が「公平」を持ち出すこと自体が笑止の至りだ。放送、つまり権力批判が公平性を欠いているかどうかの判断権も、その判断に基づいて処分する権限も、総務相、いわば批判される権力側にあるというのだから公平な判断、処分など期待できるわけがない。

仮に戦前の「おいっ、こらっ」警察にもそれなりの意義があったとしよう。それが一般の犯罪行為に関してであったとすれば、居丈高だったことはともかく、犯罪抑止には一定の効果があったかもしれない。

しかし、放送法第4条は、犯罪条項でもなく、処罰・処分のための規定でもない。言論・表現・報道の自由が尊重されなかった旧時代に対する反省から「放送の自由確保」のために生まれたのである。

2014年に放送されたNHKの連続テレビ小説「花子とアン」では、第二次世界大戦中の言論・表現の自由に対する制約を描いた場面がしばしば登場した。ラジオ放送の台本に「検閲済」のスタンプが押されており、出演者に放送局員がアドリブ禁止を念押ししただけでなく、出演した政府役人に追従笑いする局幹部の姿もあった。

もちろん新聞などの活字メディアも自由ではなかった。「発行停止」の脅しに怯えながら原稿の事前検閲を受け、権力機関、権力者の顔色をうかがっていた。

ジャーナリズムによる批判というブレーキが失われ、権力は暴走を繰り返して、日本人だけでなく近隣諸国民に甚大な犠牲と被害を強いた。

言論統制の危険性を学んだ先人たちは、「一切の表現の自由」を保障する日本国憲法のもと活字メディアに関する法規制を一切廃止した。新しく制定した放送法でも第1条に「放送の不偏不等、真実および自律の保障」をうたい放送の自由を最大限に保障した。

歴史的経過、第1条の趣旨から考えれば、政治的公平、多角的論点の提示などを求める第4条は、放送に対する外部からの介入を防ぎ、自由を守るための自律、自戒を定めた規定であることは明らかだ。多くの研究者もそのように理解しており、総務相の権力行使の根拠となり得るものではない。

論理的考察ができない安倍が高市発言を支持したのは予測範囲だが、「安倍政権こそ、与党こそ言論の自由を尊重している」という安倍発言は「悪い冗談」と言うしかない。

安倍と彼の率いる内閣、自民党には、高市発言の他にも「放送の自律」を無視したさまざまな“前歴”がある。

放送される前のNHK番組の内容について圧力をかけ、番組放送中に声を荒げて内容を批判し、テレビ局幹部を呼びつけて個別番組について釈明を求め、選挙前には「公平中立、公正の確保」を求める文書を送った……など数限りない。

安倍は「テレビ局に対してモノを言うのは結構大変なことだ」と言ってみたり、「局も反論出来るのだから」と介入を正当化したりする。高市はメディアの萎縮を懸念する厳しい指摘を「私に対する報道を見てもメディアは萎縮していない」と一蹴した。

一般論として放送局などメディアも批判には謙虚でなければならないが、問題は誰がモノを言うかである。一市民が意見を寄せるのと大きな権力を握った政治家が抗議するのとではその意味合い、メディアに与える効果は大きく異なる。

まして法的権限を背景にした発言は“脅し”に等しい効果を持つことを知るべきだ。それに「萎縮」の実態は報道された内容だけでは分からない。何が報道されなかったか、どのように報道されたかを分析してこそ萎縮の実相が見えてくるのである。

安倍や高市の発言姿勢からは「権力は謙抑的でなければならない」という民主主義のキーワードなどまるで念頭にないことが見て取れる。

大辞林によると「謙抑」とは「へりくだって控えめにすること」である。補足説明のために「実るほど頭の下がる稲穂かな」を引き合いに出して、「小人物ほど尊大に振る舞い、優れた人物になればなるほど謙虚になるものだ」と説く本もある。

放送法に関する二人の発言は、法的見解や政治的信条の表明であると同時に“知力レベルの表出”と受け止めれば興味深い。

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