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【NPJ通信・連載記事】選挙へ行こう~自民党改憲草案と参議院選挙@2016

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「選挙に行こう」と僕は言う

寄稿:M.D(16年3月東海大学文学部卒業)

2016年7月9日

「選挙に行こう」という謳い文句は嫌いだ。本来投票という行為は孤独なものであり、つまり選挙など勝手にいくものだと思うから。呼びかけるものでも、促されるものでもない。自らの決断において、自らの責任において、沈黙をもって行う静かなる意思表示であるはずだ。だから、その前提を持たざる人たちに、日常において政治を意識しない人たちに、投票に行くことを促すことにあまり意味を見いだせない。

なぜなら、本来「選挙に行こう」ではなく、「選挙に行く前に考えろ」であるべきだからである。

しかし、先日僕は学生による投票を促すスタンディングを行った。それは文字通り投票を促すものであり、それ以上のものではなかった。参加にあたって葛藤はあった。そもそも僕は、本来「運動」からは距離をとった場所にいる人間である。その理由についてここで詳しく述べるつもりはないが、今までそうしてきた。

とはいえ、少し理由を述べる必要があるだろう。

率直に言って、「運動」とは、総じて熱狂を伴うものであるからである。「運動」のなかで発せられる声は、実質的にその内部に向けられたものに過ぎず、運動の参加者同士の意思確認以上のものにはならない。もしなるのだとすれば、それは潜在的に「運動」の内部にいた人間であったというだけである。このように「運動」は、そのモデルとして、閉鎖的な構造を持っているのである。つまり、僕はこの閉鎖性に問題を感じるのである。

とはいえ、だから「運動」に意味はないなどと断定するつもりは毛頭ない。ただ僕は、その閉鎖性の外に、できるならばその境界線の上にいたいと考えるのである。ゆえに、僕は「運動」というものからある一定の距離をとってきた。そして、今回もとるつもりでいた。まして投票に行くことを促すだけの運動には、参加することはないと考えていた。

しかし、今回は事情が違った。

理由は明白である。もし今回投票に行かなければ、本来あるべき「選挙に行く前に考える」という社会的な状況が、不断の社会的なコミュニケーションのあり方が、そもそもにおいて破綻してしまうからである。もちろんそれは、現状まだあまり形成されていなものであると思われる。しかし、このまま自民党など改憲勢力が3分の2以上の議席を確保するようなことになってしまえば、そういった社会を作っていくという芽すらつまれてしまうことになってしまう。それは、「運動」という社会的なコミュニケーションのある一形態(僕はそれを閉鎖的だと考えるわけだが)をも抑圧することになるだろう。

だから僕は、今回「選挙に行こう」と声を上げた。「選挙に行く前に考える」社会を作るために、今回は選挙に行かなければならないと考えるから。

あえて言おう、「選挙に行こう」と。

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