【NPJ通信・連載記事】メディア傍見/前澤 猛
メディア傍見45 過ちを改むるにはばかることなかれ(1)―「電通・過労死」「新聞文化賞」に見るメディアのタブー
「相互批判」の始まり
このところ、新聞各紙による、メディア同士の相互批判が目立つようになり、歓迎すべき傾向だと思います。筆者は、先日、次のような書き込みをFacebookに載せました。
<中日新聞と東京新聞は連載「新貧乏物語」の一部にねつ造があったとして、10月末、検証記事を載せるとともに、編集局長やデスク、取材記者などを譴責処分にしました。
この問題を取り上げた各紙の中でも、朝日新聞のメディア欄で「匿名『チェックに難』」とした問題提起(11月5日付)が目を惹きました>
メディア内のタブーともされていた、こうした相互批判の壁が低くなったきっかけは、2年前の朝日新聞の重複誤報問題(「福島原発・吉田調書」及び「韓国慰安婦・吉田証言」)を各社が厳しく追及したことでしょう。
しかし、いまだに相互批判の多くは、問題を起こした社が自ら訂正・お詫び・懲戒処分などをした場合に限られるようです。言い換えると「出る杭は打たれる」という傾向が否定できないのです。それでも、メディア間の馴れ合いが当然視されていた時代と比べれば、日本のジャーナリズムは著しく変化した、あるいは前進した、といえるでしょう。
新聞社の盗難事件はボツ
かつては、メディアの責任放棄といってよい、次のような事例も少なくなかったのです。
27日(1966年11月)読売編集局内できのう起きた540万円の窃盗事件を朝日だけが社会面最下段にベタ5行で載せた。他紙は全く黙殺。
夜中に編集局隅にある編集庶務の金庫のロッカーが開けられ、25日の月給袋の未渡分と予備金が最初は1000万円なくなったという情報。
「読売社会部からの懇請で各社ボツにするようですが、どうしますか」というサツ回りの問い合わせ…タ刊はどこも載せず。社会部長は各社と連絡をとりながら、ついに「こちらからお願いすることも、いつあるかしれない…」とボツにした。
(「デスク日記」小和田次郎著、みすず書房1966年刊)
540万円というと、サラリーマン200人分の月給総額に近い大金でした(当時の平均月収は3万3000円。厚生省調べ)。にもかかわらず、まるで仲間内の笑い話ででもあるかのようにボツにしたのです。(注:没=記事にしない)
このように、重大な問題や事件でも、当事者が有力な企業の場合には、そしてメディア他社の場合にはなおさらに、メディア同士で見逃してきた事例にはこと欠きません。そして、そうした傾向は古い昔のことではなく、現にいまでも、見られるのです。
そこで、今回は、とくに二つの不祥事を通して、メディアが抱えているこうした病弊、あるいはジャーナリズムの後進性について、検証を試みることにしました。2回に分け、初回はまずそのうちの一つ「電通」の問題を追ってみます。
繰り返された「電通の過労死」
電通は、広告や企画、プロモーションなど、幅広いメディアを扱う国際的な大企業です。年間売上高は、単体で2兆円を超え、大手新聞3社とTVキー局5社の総計に匹敵します。
その「実力」故にか、これまで同社が抱える不祥事はニュースとして報道されにくく、外部に知られることが少なかったのです。そのため、11月18日の朝刊各紙に載った次の記事を見て、驚いた読者は少なくなかったでしょう。
【電通、「鬼十則」見送り 社員手帳 過労自殺受け検討】(毎日新聞の見出し)
毎日新聞は、続けてこう書いています。
【女性新入社員の過労自殺問題で電通は「取り組んだら放すな、殺されても放すな」などの言葉が並ぶ「鬼十則」という仕事の心構えについて、来年の社員貫手帳への掲載を見送ることを検討していると明らかにした…】
上図は1951年制定の「鬼十則」の一部です。社員のやる気と緊張感を鼓舞しようと意図したものでしょうが、同社では、この「檄」を文字通り「鬼」のように受け取り、とくに、その(4)や(5)を、過酷なしごきや過労死の正当化につなげてしまったのです。
【4.「難しい仕事」を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある】
【5.取り組んだら「放すな」。殺されても放すな、目的完遂までは…】
この「十則」削除のきっかけは「女性新入社員の過労自殺問題」でした。
電通でインターネット広告を担当していた高橋まつりさん(当時24)は、2015年の12月、社員寮から飛び降りて自殺しました。そして、この自殺は、それが労災認定され、2016年10月に遺族が記者会見したとき、はじめてニュースになったのです。
そうして、初めて明らかにされた事実は――高橋さんの時間外労働は15年10月9日からの1ヵ月間だけでも、105時間に達していました。実は、高橋さんが自殺する4ヶ月前に電通は三田労働基準監督署から労働基準法違反で是正勧告(行政指導)を受けていたのですが、やはりニュースにならなかったためか、その後も違法な時間外労働が常態化していました。高橋さんの労災が認定され、記者会見が開かれたあと、電通は、労働基準法違反の疑いで、本社と支社が東京労働局と厚生省の強制調査を受けました。同社のそうした恒常的な過酷労働の実態も、その時になってニュースになったのです。
国際語になった「Karoshi」
さらに、問題なのは、電通社員の過労死自殺が初めてではなかったことでしょう。
25年前の1991年8月、入社1年4か月後の大嶋一郎さん(当時24歳)が自殺しています。ニュースにならず、社会に知られていません。数年経った1996年3月、東京地裁は「社員は長時間労働と睡眠不足からうつ病にかかって自殺した」と認定し、電通に対して遺族に賠償を払うよう命じました。判決は、上司の〝パワハラ″(当時、この表現用語は使われていませんでしたが)、の事実も認定しています。その後、大嶋さんの労災が認められ、上告審で最高裁が電通の企業責任を認めたあと、差し戻し控訴審で和解になり、電通は、2000年6月、遺族に1億6800万円の賠償金を支払いました。ここで、やっと、かなり大きなニュースになりました。「Karoshi」が国際語として定着したのは、この事件が契機と言えるでしょう。
筆者は2003年刊の「AN ARSENAL FOR DEMOCRACY」(by Claude-Jean Bertrand。日本語版「世界のメディア・アカウンタビリティ制度」)で、日本の章を担当し、「日本―メディア界の窓を開く戦い」というタイトルを付けました。 そして、その冒頭でこの事件を取り上げ、「日本のメディア人の倫理観と行動は、日本最大のメディア関連企業、電通がかかわった訴訟がよく語っている」と書きました。
1991年の電通過労死を記載した「AN ARSENAL FOR DEMOCRACY」
しかし、電通の体質はその後も変わらず、同種の事件が繰り返されて、ようやく閉鎖的な社内風土が見直されました。「鬼『十則』」も65年ぶりに廃止されることになったのです。同社が抱えた古い体制は、社内外でかなり知られていましたから、メガ・メディアゆえに、見て見ぬふりをしてきた多くのメディアにも責任がないとは言えないでしょう。
日本は「民主主義未成熟国」?
上記「AN ARSENAL FOR DEMOCRACY」に関連して、筆者には忘れられないメール交換があります。ベルトラン教授(ストラスプール、パリ10両大学)とのやり取りです。
前澤「教授は、この本の『結び』で、こう書いていますね―
『2000年には、人類の大部分はまだ表現の自由を享受していないが、以前よりはデモクラシー国家が増えた。目につくのは、ラテンアメリカと東欧だ。多元的な民主主義が未成熟の国々―インド、日本、ブラック・アフリカ―にも、それは膨らんだ』」
これは興味深い指摘です。しかし、『多元的な民主主義が未成熟』という国々に日本を含めるはどうでしょうか?納得できかねます」
前澤の異議に対して、ベルトラン教授からは、「日本に関する判断の決定権はあなたに委ねます。あなたと比べれば、明らかに、日本につい私が知らないといえるでしょうから…」 という謙虚な返事が戻ってきました。
その後、筆者は、次のメールを送っているのです。
前澤「素早いご返事有難う。実は、私と違って、家内は『ベルトラン教授が、そのような観察や意見を述べるのは当然ではないですか』といっています」
まさに、家内のいう通りでしょう。多元的な民主主義の成熟度を、「報道・表現の自由」度で測る限り、当時のベルトラン教授の観察は、決して間違いではなかったといえるでしょう。しかも、「報道の自由」というメディアの成熟度が、昨今はむしろ停滞、あるいは後退しているのではないか、という危惧を、筆者自身もこのところ深めているのです。
その危惧が事実であることを語る典型的な事例として、次回は、日本新聞協会の「新聞文化賞」を取り上げたいと思います。
こんな記事もオススメです!