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日本ペンクラブ平和委員会主催
「戦争と文学シンポジウム」感想文

2016年12月5日

日本ペンクラブ平和委員会主催の「戦争と文学シンポジウム」が11月19日千代田区神保町の東京堂書店ホールで行われました。
浅田次郎、加賀乙彦、落合恵子のお三方が出演され、興味深い講演と討論を発表されました。
会場は満杯でしたが、若い世代から、学生、大学院生が参加して頂いたことは心強いことでした。
力の入った感想文が寄せられましたのでここにご紹介します。

              NPJ代表理事、日本ペンクラブ平和委員会委員長   梓澤 和幸

 
 
   シンポジウム「戦争と文学」の感想            
                                 寄稿 : 大学生

 今回のシンポジウムでは、諸先生方のお話からたくさんのことを学ばせていただきました。
 今まで、(恥ずかしいことながら)戦争文学というジャンルについてほとんど何も知りませんでしたが、浅田次郎さんのお話で、戦争のもとでみな同じ苦労をしたことが日本文学に新しい道を開くきっかけとなり、厳しい検閲のなか戦争の実態を活写する作品が生まれたと知り、是非拝読したいと思いました。
 また、加賀乙彦さんの、戦争と文学を考える上で二つの基礎となる法律「徴兵令」「姦通罪」についてのお話も、大変興味深かったです。
 落合恵子さんは、井上ひさしさんの作品を引かれ、狂った号令に対して自分たちは正気を保ち、生きていかなければならない、とおっしゃっていましたが、それを伺って、同じく井上ひさしさんの『太鼓たたいて笛吹いて』の一節を思い出しました。作家として行き詰まりを感じている林芙美子に対して言う、成功している音楽プロデューサー三木の次の言葉です。「明治から昭和にかけて、この大日本帝国を底の底で動かしているのは…戦は儲かるという物語。…儲かるばかりではない、戦はわくわくしておもしろい」。この「物語」に則ってさえいれば小説は売れる、と彼は悪魔のようにささやきます。もっとも、それを直接口にすることは品位にかけるので、国は「いろいろと美しい飾り」文句を並べます。恐ろしいことに、この物語は、国民の支持を受けて成り立っていると言うのです。「物語を決めるのは この国のお偉方 人気投票が行われる 国民は票を入れる 物語がここに成立 物語に誉れあれ これぞ全国民の意志である」。
 現政権への変わらぬ高い支持率を見ると、私たちは、美しく飾り付けられた恐ろしい「物語」に自ら進んで身を委ねているようにも思えてきます。このままでは、いつか、狂った号令に盲目に従って犠牲になる人々が、ふたたび出てしまうかもしれません。
 では、このような中で、私たちはどうしたら正気を保つことができるのか。私には、よくわからないのですが、今回のお話を拝聴して、文学作品を読むことがとても重要なのではないかと感じました。
加賀さんは、文学のもつ力について、本当に優れた文学作品は滅びることなく、無限の力を持っている、とおっしゃっていました。文学作品を読み、その具体的な話の中から、普遍的なもの(戦争は凄惨そのものであることなど)を感じ取ることは、私たちが正気を保つ力を養ううえで大きな意味を持つのではないかと思います。岐路に立って大切な決断をしなければならないときに大勢に流されないようにするためには、自分の中で支柱となる価値観のようなものがなければなりませんが、それは文学作品や哲学によって培われるものではないかと感じました。
 また、今の社会では、どこに向かうべきか、目的を語らず、手段の議論に終始してしまっているように私には見えます。向かうべき方向が見えずにふらふらしていると、美辞麗句や勇ましい言葉に騙されやすくなり、狂った号令への抵抗もできないまま容易に従ってしまいそうになります。この“目的”を考えるときに必要なのも、(人間らしく生きようとするときに避けて通れないような)普遍的なテーマを描いた文学や哲学などの教養なのではないかと思います。
 しかし、浅田次郎さんが、現在の社会では哲学や文学が不在であるとおっしゃっていたように、私も文学・哲学といった礎となる教養を身につける努力を怠ってきたと痛感しています。今回、このようなシンポジウムでお話を伺えたことは、大変貴重な機会で、とても刺激になりました。一朝一夕で身につけられるものではないことは重々承知しておりますが、戦争文学をはじめとする優れた文学作品に少しでも触れ、権力者の「狂った号令」に抵抗する力を養いたいと思います。ありがとうございました。
 
 
 
   2016.11.19日本ペンクラブ主催「戦争と文学」感想
                              寄稿 : 都内大学院生

 日本文学は、戦前まではヨーロッパ文学と異なり、政治性がきわめて薄かったが、「戦争」という普遍的な苦悩を共有したことで、日本文学の新しい形が生まれたという浅田さんの指摘が非常に腑に落ちた。確かに、日本で文学的とされる戦前までの作品は、どこか日常と切り離された空間にあり、「美」という永遠の理想を求めてさまよっている修行僧のような感じがあった。
 私は今回「紅旗西戎(こうきせいじゅう)吾がことに非ず」(注)という藤原定家の言葉を初めて知ったのだが、そのように達観して文学にいそしむことができず、71年前に戦場で悲しく散って行った文学青年たちの無念は、いかほどだっただろうかと、国民皆兵の悲劇について考えた。以前「わだつみの声記念館」を訪れたことがあるが、私よりも2~3歳も若い青年たちが書いた日記などを読むと、その時代の重苦しさやその時代に生きる苦悩というものがひしひしと伝わってきて胸が詰まった。現代も、戦争前夜のように重苦しく生きづらい時代ではあるが、その重苦しさは日常生活に埋もれ、まだ共有されるには至っていない。わたしも、「紅旗西戎吾がことに非ず」としたいが、そうもいかないことがとても苦しく、またその苦しさを言葉で言い表して共有できないことが大変もどかしい。この苦しさは時代の苦悩ともいうべきものであり、時代の苦悩というのは政治性と切り離すことはできず、日々政治について考えては頭を悩ませる日々である。
 「戦争と文学」とは、言い換えれば「時代の苦悩と文学」だと思う。個々人が背負った生きづらさや苦悩ももちろん文学として昇華させることはできるが、時代が背負った苦悩を表現できる文学の力は凄い。どうにもならないような時代の流れの中でも、周りの人を思い生きてきた人々の人生に、文学を通して思いを馳せると、絶望に陥りそうになっても、かろうじて希望を見出せる。この先どんな時代が来て、自分が生きたいようには生きられない状況に置かれようとも、文学の中にだけは、その苦悩が表現され、共有され、次世代に受け継がれていくと思うと、何千万分の一でも少しは無念が晴らせる気がするからだ。
 戦争という「非文明性」の中にあっても、それに飲まれまいともがき続けた人々の姿、人間性、を後代に示すことができる「文学」の力は、これから先も人類の希望であり続けるだろうと考える。

(注)「紅旗西戎」紅旗征戎吾ガ事二非ズ(ブログ)
時に源平争乱の時代。紅旗、つまり朝廷の旗(または天皇を奉じた平氏の旗と解する場合もあるようだが)による、征戎、つまり朝敵の征伐など、私は知ったことではない、という当時19歳の定家の非政治的・芸術至上主義を宣言したものとして知られている。
http://blog.goo.ne.jp/koukiseijyu/c/3252d330e4eea45719d4f895fbda3656

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