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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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第70回「森の先住民、森林開発業と生物多様性保全の是非(その2)」

2016年12月31日

<この記事は、「アフリカ潜在力 第5巻 自然は誰のものか 住民参加型保全の逆説を乗り超える」(京大出版2016年4月 シリーズ総編者 大田至、編者 山越言、目黒紀夫、佐藤哲)に掲載された拙小論文第2章 『森の先住民、マルミミゾウ、そして経済発展と生物多様性保全の是非の現状』より転載一部加筆修正sしたものである>

▼エコツーリズム一考~経済発展と環境保全の狭間で

 コンゴ共和国も世界の流れの中で、経済的発展を目指すのは当然のことである。しかし、国独自の際立つ農業あるいは工業生産物がない中、経済確保のために自然資源に頼らざるを得ないのは回避し難いことである。先進国・新興国も、自然資源がまだ豊かに残っているコンゴ共和国などアフリカの地に目を向けるのも当然なことである。その主要産業が熱帯材伐採業なのである。熱帯材への国際的な需要がある中、それを直ちに、除することは不可能である。

 その一方で、野生生物を犠牲としないツーリズム業の推奨も挙げられるが、道路などの容易なアクセスの建設や、より多くのツーリストを招く宿泊施設などの建設の場所確保には熱帯林の伐採が必要となり、それ自体が熱帯林崩壊を促進しかねない。つまり、熱帯林地域では大規模なツーリズムを進行させるのは困難であるのが現実である(写真270)。したがって、ツーリズムは野生生物保全手段の一部にはなっても、伐採に代わり得る大規模な代替経済資源にはなり得ないのである。これは、ツーリズムで成功しているケニアなどの東アフリカ諸国や南アフリカ共和国・ボツワナなど南アフリカ諸国と異なるところである。熱帯林環境のもとでは、そうしたサバンナ地域的なツーリズムの伸長は見込めない。

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写真270:熱帯林の中ではツーリストは徒歩で移動しなければならない箇所が多い©西原恵美子
 

 さらにいえば、欧米主導型で作られてきた昨今の「エコ」ツーリズムについても、大いに反省の余地があるであろう。その定義は様々であるが、いったいどこまで「環境配慮型」と言えるのであろうか。エコツアーと称しながら、道路などによるアクセスや充実した宿泊施設などの拡大や便利さを望むツアー客は多いのではないだろうか。熱帯林の中に道を作ること自体、すでに森林破壊であり、またこれまで徒歩でしか移動できなかった静寂な森の中を自動車が騒音と排気ガスを出して走行するのはいかがなものであろう。また、エコツアーで訪問して来たツーリストが捨てたごみがどこでどのように回収され処分されているのか、確実に突き止めている人はほとんどいないのではなかろうか。特に熱帯林環境では、ロッジなどでも広い敷地が求められないため、ごみなどの廃棄処分の問題は深刻になり得る。

 アフリカ中央部熱帯林地域に訪れるツーリストの多くは、すでにアフリカの他の地域を巡ってきている。アフリカ中央部は政情不安やアクセスの困難さで、これまで訪問しにくかったのである。アフリカ中央部熱帯林地域は魅力的であるが、交通手段に多額な費用がかかるため、すでにツーリズムが確立し、その三分の一以下の費用で行ける東アフリカや南アフリカへの渡航を選んできた。すでにそうした場所で、サバンナゾウやマウンテンゴリラ(Gorilla gorilla beringei)などを観察してきたのである。高額をかけて訪れるアフリカ中央部熱帯林での観察の目玉は、勢い、サバンナ地域には存在しないマルミミゾウとニシローランドゴリラとなる。そうした特定の動物種に焦点を当てるツーリストがほとんどであり、結果的に、彼らの多くはそれら特定の動物種の写真を撮ることに夢中になり、生物多様性保全への貢献とは無縁であるように思えるのである。それを称して、「エコ」ツーリズムと呼ぶのであろうか。あえていえば、自らのそうした「自己中心的な」目的を果たすがための「エゴ」ツーリズムといってよいのかもしれない。

▼文化ツーリズムと先住民のあり方

 「文化」ツーリズムも然りである。熱帯林地域でも、動物を観察するだけでなく、現地の先住民の伝統的狩猟と踊りを見せましょうというキャッチフレーズが存在する。ツーリストにも「森の原住民を見たい」という好奇心が旺盛だったりする。ところが、そうした文化ツーリズムは自然体での先住民の活動ではなく、ツアー客のために仕組まれた「ショー」にしか過ぎない。それもまた、エコツーリズムの一環と呼ぶのであろうか。

 また、ぼくがこれまで経験してきた「住民参加型自然保護活動」の欺瞞についてはここでは詳細を触れないが、現実的に、現地の住民(先住民を含む)が雇われる・関わる形での文化ツーリズムによる経済還元を「住民参加型」と称している場合もある。しかし現実的に、ツーリズムなどによって現地に還元された貨幣の社会配分の実際を子細に追ったツアー会社もツアー客もまずいないであろう。残念ながら、多くのケースでは、村長などごく一握りの地域住民に富が集中してしまうのが常である。確かに、その収益の一部は先住民にも落ちるであろうが、すでに言及したように、さらに彼らの精神的荒廃を助長しかねない。さらにいえば、森の先住民もツーリズムの「道具」と化してしまう日も遠くないのかもしれない。それは、「先住民の文化の継承」とはまったく無縁なものである。

▼先住民の保全への役割と近代教育の是非

 いま差し迫っている問題は、熱帯林と野生生物の確保だけの問題ではない。先住民の今後のあり方も問われなければならない。定住化と貨幣経済の中で、そして彼らの依拠すべき森林と野生動物が急激に消失する中で、彼らの伝統的知識や文化、技能も喪失の一途をたどっている。彼らの従来のあり方の存在があってこそ、熱帯林の保全や野生生物保全、わずかに残された原生の自然や国立公園などを保守することができることを忘れてはならない。保全に必要となる、基本的な動物や生態に関する科学的資料を収集するための研究調査には、森を熟知する先住民によるサポートやガイドなしでは成立し得ない。保全を確保するためのパトロール隊にも、森をくまなく歩き、動物や密猟者などを的確に追跡できる技能を持つ先住民の存在は不可欠である。大規模にはできないにしても、野生動物の観察を可能にするツーリズムの発展には、森や動物に関する先住民の知識と技能があってこそ成立する。

 皮肉なことに、そうした彼らの先住民の伝統的知識・文化と技能継承に障害をもたらしているものに、先進国が持ち込んだ近代教育が挙げられる。たとえば、識字率の向上を謳い、先進国主導の政府やNGOによる教育プロジェクトはアフリカ熱帯林地域にまで広く及んである。従来は森に住み、近代教育などとは全く無縁であった先住民も、定住化に伴い、その子供たちはその定住している村にある学校へ半強制的に通わされる。その結果、本来は、親に追従し、森の中で、その伝統的知識や技能を知らず知らずのうちに学んでいた伝承口承による学習形式が崩れることになった。先住民の子供たちが学校に通うため、森に行く時間が激減したのである。現実的に、いま辛うじて伝統的な森の知識(たとえば植物の名前や薬用利用に関する知識)や技能(たとえば森を迷わずに歩けること、動物を正確に追えることなど)を持っている先住民は、中年以降の世代である。すでに、その先輩諸氏は、ぼくが関わってきた25年間の間に次々に死している。若い世代の先住民の中には、ぼく自身よりも森や動物の知識・技能に乏しい者がいるのが現実である。

 いったい、どこに解決の糸口はあるのであろうか。保全、先住民・地域住民、そして先進国からの需要の問題も含めた資源開発やツーリズムなどの経済活動、どこでバランスを取るべきか、という課題に行き着く。森と野生生物、先住民の存在を保守しつつ、経済発展を抑止しない。そうしたことは可能なのであろうか。

 ただし、このとき、「持続可能な」人間活動ということばには注意したい。持続可能と称し、自然資源の利用を優先させているケースが多い。熱帯材という自然資源の利用、あるいは先住民による伝統的な形での狩猟や採集という自然資源の利用など、いずれの場合も、利用ではあっても、「保全」が前提であることが肝要となる。


▼森林保全へ向けたFSC認証と先住民

 こうした中、保全と経済のバランスをとる熱帯林伐採業におけるFSC(Forest Stewardship Council)認証は注目に値する(写真271)。問題は、アフリカ中央部熱帯林地域において、植林が事実上不可能であるため原生の森にて伐採業を継続せざるを得ないという現況で、樹木伐採による熱帯林生態系全体での負の影響をどれだけ最小限にとどめるかという点である。これには、熱帯原生林を最大限保守していくという大前提のもとで、熱帯林生態系全体を壊滅的に崩す皆伐方式を防ぐために、あるいはランダムに伐採するのではなく、計画的に限定された区画で伐採すること、その伐採される植物種の対象を厳格に選定し直径も一定以上の大きさのものに限定すること、年間伐採量を厳格に規定すること、伐採された樹木から製材までの過程において違法材が入り込まないような透明性を確保すること、ある地域を伐採したらしばらく手を入れず自然回復を待つこと、などの配慮が必要となる。
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   写真271:FSC認証マークの付いた木材を搬出するトラック©西原恵美子
 

 キーとなるのは、野生植物である樹木は上記の条件のもと「合法的」に商業伐採されるにしても、その伐採区に棲む野生動物も合法的に保護されなければならないことである。すでに述べたように、アフリカの熱帯林に生息するマルミミゾウなどは、果実の種子散布を通じて次世代の植物を育む重要な存在であるため、マルミミゾウの狩猟は違法行為であるが、それを伐採区内で徹底阻止することで、その熱帯林の生態系が永続的に維持されることが保障され得る。こうした計画的伐採管理と野生動物の保全、そして労働者への社会的配慮などが一定の条件をクリアすれば、伐採会社は「環境・社会配慮型」のFSCとよばれる国際森林認証を持つことができる。

 アフリカの熱帯林では、主にヨーロッパ系の伐採会社でこうした動きがあり、ヨーロッパの熱帯材市場では、実際、認証付きの木材が中心となっている。こうしたFSC認証の林業が、今後、環境保全と経済発展の両面を成立させる方途のひとつであると考えられる。たとえば、仮に伐採道路が、過剰なブッシュミート狩猟や密猟、密輸を加速化する可能性があっても、認証制度にしたがい、それを適切に永続可能な形で管理することは不可能ではないからである。

 とはいえ、森林管理に関しFSC認証制度が完璧であると主張しているのではない。特にアフリカ熱帯林の場合、一度伐採が起こればその倒された周辺の植生は二次林植生となり、仮にマルミミゾウなどによる種子散布が励行されても、元あった森の姿に戻るには相当数の年月を要すると推察される。その点、伐採業自体が森林生態系の崩壊を招くことは疑い得ない。したがって、FSC認証を持っているからといって、すべての土地が伐採されるのは回避しなければならない。また、FSC認証の条件や監査にも、より一層の厳格な仕組みを構築する必要がある。同時に、アフリカ熱帯林に国々において伐採業に変わる大規模で永続的な経済発展のあり方も探らなければならない一方、先進国からの熱帯材の需要を逓減していく方途も肝要である。さらに、違法木材輸入の規制が緩い日本のような国は、迅速な厳格な法制度の整備が緊急課題である。

 定住化と貨幣経済の中で、先住民の暮らしを完全に元に戻すことは不可能であろう。しかし、自然保護区の確保と伐採区におけるFSC認証の推奨化を促進することで、彼らの依拠するべき森林や動植物が確保され得る可能性は残されている。先住民の暮らしを守りつつ、教育も並行する。そうした先住民への社会的配慮は、FSC認証におけるジウ権の中に含まれている。ただし、画一的な近代教育の押しつけではなく、先住民特有の教育の在り方を模索していかなくてはならないであろう。たとえば、最小限の学校教育を施すことはあるにしろ、子が親と森に滞在できる時間を可能な限り多くできるような配慮が必要となる。

 また自然界や将来のことを憂う先住民のことばは、彼らのごく一部による「つぶやき」でしかないが、そのことばを集団としてのボイスに盛り上げる形で、先住民の依拠する森を保全し、また彼らの伝統的知識や技能が次世代に伝承されるような集団的なメカニズムを模索しサポートすることが必要であろう。

 事態は危急である。研究者が森の先住民とのみ、遠く離れた原生林の中で、一緒に過ごし調査研究ができたような古きよき時代は終わった。研究者と自然保護従事者とがお互いを批判しあう時代も終わらせなければいけない。歴史的経緯を踏まえつつ、しかし現在進行中の現実をじっくり見据えて、分野を超えた学際的な議論が必要不可欠である。熱帯林に覆われるコンゴ共和国北部の事例では、バンツー系と地理的にも離れて生活している森の先住民の集落(それでもすでに定住化集落であるが)は、今日もはや数えるほどしかない(写真272)。そうした先住民独自の村にも伐採道路が届く日は極めて間近である。そして、残念ながらFSC認証を有する伐採会社の存在も現時点では稀であり、それ以外の大多数の伐採区では、森林が消滅していくだけでなく日々大量の野生動物が消失していっているのも事実である。
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   写真272:いまでは数少ない先住民のみの住む居住区での子どもたち©西原恵美子
 

▼先住民によるキリスト教談義

 最後に、ひとつのエピソードを紹介したい。先日、中年世代のある先住民の男とキリスト教について話す機会があった。外来宗教も、近代教育と似た現象で、先進国主導で、アフリカの奥地まで浸透している。コンゴ共和国ヌアバレ・ンドキ国立公園の周辺の村にも教会は存在し、日曜日には先住民も含め多くの「信者」が教会へ向かう。

 しかし、ぼくの対話の相手であった先住民と話が合ったのは、「いったい彼らは教会で何を学んでいるのだろうか」という点であった。もし聖書に基づいた説教であるのなら、姦淫や窃盗、暴力に関する戒めは当然学ぶはずであろう。しかし、現実的に、村や町ではそうした出来事は日常茶飯事に起こっている。さらに、この先住民が承知しないのは、「お布施」と称して、教会側が現金をしきりに請求する点であった。彼にとっては、もともと教会や神とは縁はなく、お金を施しても何の利益にもならないし、自らの生活環境の状況が変わるわけでもないという現実を見てきたからだ。「もし、祈るのであれば、聖書をじっくりひとりで読んで、心の中で神に祈ればよいではないか。教会に行く理由がどこにあるのか。教会に現金を渡すいわれはない」と彼の宗教・教会批判は続く。

 「祈りは心の中のもの」、素晴らしいことばだと思う。そして、彼ら先住民には、口承で伝わってきた先祖代々の先住民なりの掟や決まりがあり、それはキリスト教で説かれる戒律に決して劣るものではない伝統的基盤の上で成立している知恵である。「それさえ遵守すれば何も日常生活に不足はない。そうしてぼくらの先祖やぼくらは平穏に暮らしてきた。ましてやキリスト教や教会も不要だ。今もぼくは子供たちにそれを日々教えつつあるんだ」という。中年を越えた彼もあと何年生きているか知れない。しかし、こうした先住民がまだいると知ると、この記事で述べてきた憂いも多少和らぎ、勇気づけられ、そしてどこかに彼らの行く末に希望がかいま見えてくるような気もする。

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