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【NPJ通信・連載記事】高田健の憲法問題国会ウォッチング/高田 健

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憲法施行70周年に考えておくべきこと
(運動論に引きつけながら)

2017年2月13日

(1)
 今年の5月3日は日本国憲法が施行されて70周年(沖縄は「復帰」45年)である。先の15年戦争の敗戦の結果、日本はポツダム宣言を受け入れ、その結果として日本市民が手に入れた日本国憲法は、連合国間の矛盾をも反映して、象徴天皇制(第1章)に見られるような問題点を残しながらも、「非武装平和主義」、「基本的人権の尊重」、「国民主権」(民主主義)を憲法3原則とした、立憲主義を尊重する国際社会でも大変優れた先駆的憲法であった。
 日本国憲法の制定経緯については、国会の憲法調査会の議論などで、「押しつけ憲法論」の破綻など、大方、妥当な結論があり、本稿では論じない。
 日本を軍事占領した米国は、第2次世界大戦後の世界でソ連と覇を競い、世界に君臨しようとしてそのアジア戦略の前進基地として日本を利用し、列島全土基地化のため、日本政府に日本国憲法の理念と全く対立する「サンフランシスコ講和条約」と「日米安保条約」を締結させた。日本国憲法は誕生間もなく、米国による改 憲圧力を受け、そのため米国は国内の改憲勢力を積極的に育成した。
 以来、日本の戦後史は第9条を持つ「日本国憲法体制」と「日米安保体制」という相対立する2つの法体系の相克の歴史となった。改憲勢力が牛耳る日本政府の弾圧に屈せず、平和を願う民衆はこの憲法を拠り所に改憲反対、再軍備反対、戦争反対を掲げてねばり強い、不屈のたたかいを展開した。

(2)
 安倍首相は今通常国会の施政方針演説の締めくくりに、改憲への野望を鮮明にして、こう述べた。「憲法施行70年の節目に当たり、私たちの子や孫、未来を生きる世代のため、次なる70年に向かって、日本をどのような国にしていくのか。その案を国民に提示するため、憲法審査会で具体的な議論を深めようではありませんか」と。
 施行70周年の現在、2015年の戦争法の強行とそれを発動した2016年の自衛隊の南スーダン派兵が実施されたことで自衛隊の海外での武力行使の可能性が現実化し、憲法第9条は重大な危機に直面している。
 これをもって、一部の論者は「戦後護憲運動の敗北」と発言したり、憲法第9条の価値に関する疑問を発信したりする。しかし、こうした議論はニヒリズムによる敗北の哲学に他ならない。戦後日本社会に、戦争勢力に反対する民衆の反戦・反安保(護憲)闘争がなければ、1950年代の朝鮮戦争、あるいは60年代のベトナム戦争、あるいは冷戦直後のイラク戦争の時代に、日本は9条が改憲され「戦争ができる国」になっていたに違いない。これにあらがい、米日戦争勢力の企図を阻止してきた民衆のたたかいの意義は大きく、これこそ戦後の歴史の原動力であった。運動こそが、今日まで、改憲と戦争を阻止してきた。大分の日出生台で米軍演習場に反対してたたかう酪農家の後藤洋次さんは、最近、「いまの日本の平和は『戦争はだめだ』と言ってきた積み重ねでしょ。ムダな抵抗なんて何一つない」(東京新聞1月4日号)と語っているが、全くそのとおりである。
 さらに、この際、憲法問題に関する運動圏内の一部の論者のいくつかの誤った議論について触れておきたい。
 例えば「護憲」というスローガンは日本国憲法の問題点である天皇制まで擁護するものであり、あやまりだという。また「護憲」は「守り」のスローガンであり、本来、市民運動は憲法の理念をより「活かす」立場から「活憲」と言うべきである。さらに、いまの改憲攻撃は日本国憲法の理念そのものの破壊であるから、「壊憲」反対というべきだというのもある。
 そしてこれらの論者は、自己の主張の絶対化と従来の運動に対する些末な非難をすることで、運動圏に一定の混乱をつくり出している。戦後長期にわたってたたかってきた民衆運動へのリスペクト(尊敬・信頼)に欠ける無責任な論難は、憲法の危機という歴史的な時代に積極的な役割を果たすとは思えない。議論は結構だが、今日の改憲攻撃のもとで、天皇制問題を行動のスローガンとしては留保することは当然のことだ。多くの人びとが語ってきた「護憲」のスローガンには実態として活憲の思想は含まれている。壊憲でも、改憲でも、用語はどちらでもいい、それは些末なことである。肝心なことは改憲攻撃に対抗する具体的で、強力な運動をつくり出すことである。
 私たちの「許すな!憲法改悪・市民連絡会」結成時の会の命名にはこれらへの一定の配慮があったのは事実である。しかし、直接、耳にしたことはないが、これでも「『反対』ではなく、より積極的に活かそうというべきだ」という意見もあり得るだろう。
 いま必要なことは、一方的に自己のアイディアの正当性を主張することではなく、現場で苦闘する仲間へのリスペクトと、共通の課題に向かっての壮大な共同の形成である。
 上記のように率直に述べてみたのは、方針や運動圏の使用する用語をとぎすまそうとする努力に水を差そうというのではない。用語に関する努力は真剣であるべきだと思う。
 運動圏の一部にある「最近の若者たちは論争をしなくなった」という年配者のもっともらしい嘆きにも疑問を呈したい。たしかにそうだ、この現状は諸君の興味関心からいえば、嘆かわしいことにちがいない。では、うかがうが、かつてあった議論と論争の一部は運動をどこに導いたのだろうか。相互にリスペクトのない、自己の正当化のための議論と論争は、それを不毛の対立の隘路に導き、究極的には内ゲバまで突き進んだのではなかったか。すくなくとも、年配者はこの反省を前提にして、こうした意見を述べるべきだと思う。かつて中国の抗日戦争の時に「有理、有利、有節」(劉少奇)というスローガンがあった。道理の「理」、力関係の「利」、節度の「節」であったように記憶している。私たちの「議論」が有効であるためには、このようなことが必要ではないだろうか。

(3)
 憲法施行70周年を考えるにあたり、安倍晋三らの「真珠湾戦争史観」の危うさと当面する戦争・改憲問題について若干、触れておきたい。
 12月27日(日本時間28日)、安倍晋三首相はオバマ米国大統領と共に、ハワイの真珠湾を訪れ、先の戦争に関する演説をおこなった。しかし、それはあまりにもずさんでご都合主義の歴史認識に基づくものであり、黙過できない。
 第1に、真珠湾戦争はなぜ勃発したのか。それは1931年9月18日の柳条湖事件に始まった日本軍による中国東北部侵略戦争=満州侵略戦争が中国人民の抵抗闘争で泥沼化し、1937年7月7日には全面的な日中戦争(廬溝橋事件)として深入りせざるを得なくなった。この年、南京大虐殺が起こった。米国は日本軍の中国からの撤兵を強硬に要求した。中国民衆の反撃と米英などの圧力で日本の東アジアでの戦争は泥沼化した。追いつめられた日本軍部は、米国に対する無謀な戦火の拡大で活路を開こうと、米太平洋軍の基地である真珠湾を奇襲した。1941年12月8日の真珠湾攻撃の経過はそのようなものであり、これは疑いようのない歴史の真実である。
 第2に、安倍のこの日の演説では、この過程が全く消去され、戦争は真珠湾に始まった日米戦争しか描かれていない。そして、オバマが訪問したヒロシマで終わったという認識だ。つまり、あの戦争で日本は米国に敗れたというのだ。歴史的経過を見れば明らかなように、日本軍を打ち破った主力軍は中国などアジアの民衆である。しかし、安倍は米国に負けたのは容認できても、アジアに負けた事実は許容できない、という偏狭なナショナリズムの持ち主だ。この思想は明治のはじめより、アジアに侵略し、それを足場に欧米列強と対抗してきた日本帝国主義に刻印された「アジアの盟主・日本」という思想に他ならない。
 第3に、演説で安倍は真珠湾は「和解の象徴」であり、現在、日米関係が「希望の同盟」になったのは、「寛容の心」がもたらした「和解の力」だと、強調した。これが果たして「不戦の誓い」だといえるのか。戦争を引き起こした罪、侵略戦争に対する反省のない歴史認識は、不戦ではなく、米国の次期トランプ政権との軍事同盟の維持を願い、新たな戦争を引き起こしかねない「希望の同盟」だ。オバマはその危険を「オタガイノタメニ」などということで隠蔽した。
 第4に、オバマが演説で述べた「国の品格」とは何か。「日本会議」など安倍の国内の基盤の右翼集団は、侵略戦争の「謝罪」はわが国の「誇り」を奪うもので、屈辱だと考えている。しかし、誤りは「改めるにはばかる事なかれ」だ。侵略戦争の歴史を謝罪することを屈辱と考える歴史観は、国際社会における「日本の品格」を辱めるものである。
 今年は憲法施行70周年。戦争の反省と不戦を誓った日本国憲法は戦後70年間、世界の、とりわけ大国の侵略の危険にさらされ続けてきた小国と被抑圧民族の民衆の尊敬を集めて来た。「国の品格」というものがあるとすれば、それは戦後世界に覇を唱えてきた米国のような国にあるのでも、また9条を破壊し、ふたたび戦争ができる国になった安倍の日本にあるのでもない。平和的生存権を掲げ、9条を国の柱に据えた日本国憲法を持つような国にこそある。
 第5に、21世紀の国際社会に於いて、日本がふたたび侵略と戦争を発動する国にならないように、私たちは正しい歴史認識を持ち、歴史修正主義に反対し、侵略戦争を正当化するナショナリズムに反対しなければならない。その発信元の安倍政権を打ち倒し、憲法第9条を破壊から守り、生かし、輝かせるたたかいに勝利することに貢献することこそ、私たちの歴史的任務である。
 12月11日、朝日歌壇に次のような短歌があった。
  人を殺さず殺されず来し信頼のわれらの兵士殺すかも知れぬ(天竜市 鴨田希六)

(4)
 米国大資本の利益を全面的に擁護し、差別と排外主義を唱え、アメリカ・ファーストを掲げるトランプ大統領が米国に誕生し、同様に英国にはテリーザ・メイ首相が登場し、フランスをはじめ資本主義各国での右派・ファシストの蠢動が激しくなり、冷戦後の世界の構造が大きく変化する激動の時代が到来しつつあることを予兆させる事態が相次いでいる。日本の安倍政権もこの例外ではなく、ある意味でその嚆矢でもあった。資本主義世界は今や第4の動乱期に入った。産業革命から第1次世界大戦、そして第2次世界大戦、米ソを中心とした冷戦期、そして21世紀の現代である。
 今日、米国にトランプ政権が誕生したのは現代資本主義の例外現象ではない。欧州各国でも資本主義世界に格差と貧困は蔓延し、社会は深刻な対立をはらんでいる。大国同士は国益をあらそい、覇を競い、中小諸国と被抑圧民族は大国の支配に反対して主権を求める。まさに「動乱の時代」である。それらの背景に排外主義とナショナリズムが色濃く刻印されている。
 日本では、この状況の下で、戦後70数年、憲法の平和主義が最大の危機に立たされている。
 昨年の8・15に際して、「第九条の会ヒロシマ」の仲間たちは、新聞意見広告で「変えたいほどに知っていますか?。変えたいほどに不自由ですか?。変えたいほどに使いましたか?」と問うた。そのとおりである。70年と言えば、長くて、何となく古くなったから、変えてもいいのでは、という改憲派の印象操作に反撃する必要がある。「平和の70年は短すぎますか。私たちはこの憲法の理想をどれだけ達成したか。アジアの人びととの共生をどれだけ実現しているか。憲法の理念と憲法制定経緯から外されてきた沖縄の現実の乖離はいまだに極めて深刻だ。この社会で憲法がうたう基本的人権はどれだけ実現されているのか。個人の尊厳は社会でどれだけ達成できているか」
 明治憲法下での日本を考えるとき、近現代史の前進は承認しつつも、憲法70周年の今日、それが実現したものは道半ばとすらいえないほどに肌寒い。
 憲法によって残された課題は大きい。だからこそ、私たちは安倍政権の改憲の野望を阻止しなくてはならない。そのためにも、沖縄課題や脱原発、貧困格差の解消などの諸問題で全国的な大衆運動を高揚させ、運動と世論の力で安倍政権を追いつめる仕事とあわせ、今年、確実におこなわれるであろう衆院選で、安倍政権に決定的な打撃を与えなくてはならない。改憲発議可能な議席3分の2を阻止し、自民党を過半数割れに追い込み、安倍政権の退陣を実現させなくてはならない。そのためにも、2016年参院選でつかんだ勝利の道、「立憲4野党+市民(連合)」の態勢を、いかなる困難があっても乗り越え、全国295の選挙区で候補者の1本化を実現することである。カギは2015年の経験が示したように、自立した市民による全国的な市民運動の高揚をつくり出すことである。
 12月26日の朝日歌壇に以下のような短歌が載っていた。
  整然たるデモに驚く 感情の起伏激しき民族なれば(大阪府 金忠亀)

 お隣の韓国では昨年末、最大230万人にもおよぶ連続した大規模なデモが、とうとうパククネ政権を追いつめ、事実上の退陣に追い込んだ。わたしたちもこれにならい、非暴力の大規模な市民の行動を組織し、安倍政権を打ち倒さなくてはならない。
 (許すな!憲法改悪・市民連絡会会報「私と憲法」1月25日号所収 高田健)

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