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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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第80回「日本人の自然観と日本の自然保護NGO・研究者・学校教育(2)」

2017年4月18日

写真1             写真321:研究者時代の筆者©西原智昭

 
▼研究者のあり方

 ここで「研究者」とは、とくに野外で野生生物を研究している研究者をさす。こうした研究者こそ実際その生息地を訪れ、研究対象の生物やその環境、その様々な現状についての実質的な知見をもっており、それについての情報提供の担い手であるはずである。そうした情報は一般の人々にもっと共有されるべきものである。

 しかしながら日本では多くの場合、その情報はアカデミックな業界にとどまっており、多くの一般市民が享受できるような形にはなっていない。しかも、研究対象である野生生物のみならず、その生息地全体の保全にまで関心を抱いて、研究・調査を実践していく志向性をもった研究者が多くないようである。また研究の専門化・細分化が急速に進行していることは、こうした傾向をさらに助長しているようである。

 ぼくもかつてそうであったように、研究者によっては自己本位的な態度が見られることもある。研究と名をうって、その地域に現金を落としていくということ、研究に必要だからといって食糧確保のために動物の狩猟をすること、自分の研究対象さえ研究できればそれでいいのだという発想。もっと極端なのは、現地の人々に対して、あまりにも傍若無人に振舞うこと。

 20年以上も前の森の中でのある日の週末。体調維持のためになるべく週に一回程度は休みを取るようにはしていた。しかしそれは日曜日とは限らない。野生生物にも森にも週末はないからだ。ぼくは夕刻、調査から戻って、キャンプで一息ついているところだった。すると、なにやら、ラジカセからだろうか、うるさい音楽が聞こえてきた。同行していたアメリカ人女性研究者が急にポルカの音楽をカセットテープ〜流し始め、踊りだした。ついに、リンガラ音楽によるダンスまで始まった。キャンプにいるピグミーたちにも誘っている。

 ぼくは彼女を呼びつける。「ここは森だ。うるさい。ゴリラを人付けする気があるのか。楽観的すぎる。直接観察さえむずかしいのだ。人付けにはまずコンタクトならばチャンスを待つしかない。チャンスは少ない。それは土曜かもしれないし、日曜のこともある。ゴリラはいまキャンプ地の近くにいるかもしれない。だから、騒いだら、ゴリラは遠くへ逃げてしまうかもしれない。お願いだから、音楽はやめてくれ。もし同意できないなら、明日にでもキャンプを出て行ってくれ。あなたのチームとは一緒にやれない。」

 われわれは森への侵入者である。無法に騒いでいいというあり方はない。いったい何を考えているのだ?この人は何をしに来ているのだ?そう疑問を持たざるを得なかった。研究者は研究という名のもと、一体何をやっているのだろう。

 一方で、昨今野外での研究・調査に十分意欲があり、体力・精神力ともに耐えうる若手研究者があまり多く育っていないという話を聞く。文部科学省の通達により大学教官も大学院生に対してより教育的・指導的にならざるを得ず、院生の方も野生の現場で自発的に何か研究を進めていくタイプにはならず、いっそう受身の姿勢によって研究を実施する傾向が少なくないことと関連しているのかもしれない。

 ぼくがまだ京都大学に籍を置いていたころ、学会や研究室でのゼミがちっとも面白くなくなってきた。今から20年前の話だ。原因は大学院における教官と学生の構造にあったと思う。ぼくが院生だったころは研究室はとても“おっかない”ところだった。ただ活気はあってみんなそれぞれ自由に研究できた。基本的に一人でアフリカに放り出された。だれも何も教えてくれない。そして先輩たちが問うてくることは研究の「動機」であり大きな「目的」であったし、何よりも重視したのは個々の細かいデータではなくフィールドへの覇気と野心であり、純粋な現地での「なまの」経験や印象であった。それがはっきりしていないと、いくらデータがあっても「おまえ、何しに行ってきたんだ、そんなんだったらやめてしまえ」とこっぴどくたたかれた。

 確かにその通りだと思う。自分の地についていない浅薄なことしかいえないのなら、フィールドに行った価値などないと思う。日本にいる私はこうで、アフリカにいる私はこうなのよ、そうした分裂的な態度ではフィールドワークは成り立たない。フィールドには自分自身を100%持っていく場であり、それこそ全身で感じてきたこと、素直な自分で見てきて経験したことこそが意味を持つのである。ぼくはそんな中で鍛えられていったのだと思う。

 ぼくがこうしたゼミの雰囲気の中で学んだ重要なことはいくつかあったと思う。「はじめから簡単なことをやろうとするな」。フィールド研究は時間がかかるものであり、全身全霊を込めて立ち向かうことはそう容易にいくものではない。そしてまず大事なのはデータではなくもっと大きな全体の印象なのである。「自分自身の反映であるような対象や事象を扱っていけ」。結局自分自身の感覚の重要な部分に訴えかけるような物事でないと、地についたことはいえないのであり、ただの機械的な調査に終わってしまう。

 「自分の研究を、大きな学問体系やある考え方の軸上にしっかり位置付ける作業をするとともに(仮にそれがこれまでの体系と異なっていても)、やっていることを<自分自身>の中にしっかりと位置付けるように」。ぼくはそのように自然と学んだ。自分のやっていることが大きな枠組みの中でどの辺に位置し、また自分自身の中でどういう意味を持っているのかという点をもいつも意識していなくてはいけない。

 しかしどうもぼくが院生として長老格になったころの研究室の雰囲気は次第に変わっていった。教官もデータ重視で、「早く論文を書け」とうるさい。若い大学院生もそれで焦る。これじゃ大きく構えてじっくりフィールド体験なんかしている暇もない。しかし学生の方も、自分自身でフィールドにて何かを発見していくという傾向が強く感じられなくなってきた。何を研究したいのかよくわからない。だから教官がテーマを与え、その結果ゼミや学会での発表もつまらなくなってしまうのである。ただなんか機械的にデータを集め、それでグラフや表を作って仕事をした気になっているだけなのである。

 そこでぼくがかつて研究室の先輩に言われたように、若い大学院生に「いったいそれで君はなにをやりたいのか」質問をすると答えが返ってこない。それで、こいつフィールドをちゃんと経験していないなというのが簡単にばれてしまう。しかもきつく詰問を繰り返すと、しゅんとなって向かってくるものもない。場合によっては発表の場で泣いてしまう。なにくそと思う覇気もないのであろうかと思ってしまう。それでもぼくはあきらめずに繰り返し若い院生に問いかけていった。「こわい存在」とか「厳しい人」、「冷たい先輩」とかいわれても。しかし事態はひどくなっていく一方だった。

 ある日ゼミでぼくは発表中の院生に質問したのに、なんと先に教授が答えに窮した学生に代わって答弁してきたのである。教官に向かって机をたたきながら「あなたに聞いているのではない」ときつい口調でぼくはいってみたものの、ゼミ全体の雰囲気はシラーとしたものであった。そして果てには「君は後輩にちょっといいすぎだ。今の若い連中はすぐしょげちゃうからもっと励ますような方向で言っていかないと」逆に批判される。アホか!大学院は幼稚園や小学校か。

 野外研究者の猛者が登場してくるのを切に祈念したい。そして、特に野生生物の研究者こそが、現場での長い経験を生かし、その現況や危機を多くの一般の方に伝えることができるメッセンジャーであるという自覚が欲しいと切に願う。それが、「保全教育」にもつながっていくのである。

 
▼学校教育

 現在の日本の学校教育カリキュラムの中では、生態系の仕組みや野生生物の生態について学んでいく機会はひじょうに限られてきているようだ。それと人間の諸活動を重ね合わせた上で適切な「保全論」を学んでいく機会は皆無に等しく、さらに文部科学省の方針で理科教育の時間数は減り、その中でとりわけ「生態系」などについて学ぶ時間が削減される。現行制度では、「保全教育」はおろか、保全への理解の前提とすべき生態系に関する学習時間さえ極端に少ないといわざるを得ない。

 さらにいえば、依然、理系と文系の差異化は強く、お互いの垣根は高いままだ。たとえば、「野生生物保全」に関わるにあたって、一見すると、対象は野生生物のようであるが、実は最大の対象は人間なのである。野生生物のことを生物学的(いわゆる理系的)に理解するのは前提条件であるが、一方で、その野生生物の生存に危機的状況を作り出しているのは、他でもなく人間なのである。

 「あの動物はかわいいから」「賢いから」だけでは、動物は守れない。経済的理由であれ、文化的理由であれ、歴史的経緯であれ、自然界のものを利用する人間のあり方が問われるべきである。その利用を完全に無視した形で、あるいは一切こうせずしての「保全」はあり得ない。また場所によれば、自然界に強く依存してきた先住民の問題もある。なにより、保全活動そのものも、人間によるものである。ツーリズムも保全によしとされる傾向もあるが、それまた人間の活動であり、度を越すと逆に自然界に悪影響を及ぼしかねない。

 こうしたわけで、人間の社会や経済活動、文化、歴史、生き方などへの理解がないと、真の意味での保全活動はできない。その意味で、理系も文系もないのである。理系的なアプローチも文化系的な知識や理解も必要不可欠なのである。

 残念ながら、現代の教育はこうした分野を超えたものを目指す人材を育てるような環境にはなっていないようだ。

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