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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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第84回「マスメディアの課題~アフリカ熱帯林におけるマスメディアとの体験より(1)」

2017年8月14日

※本稿は、“100万人のフィールドワーカーシリーズ第6巻『マスメディアとフィールドワー
 カー』椎野若菜・福井幸太郎編 古今書院”に掲載された記事『マスメディアが目指すのは
 「事実」よりも「新奇・好奇」なもの~アフリカ熱帯林におけるマスメディアとの体験よ
 り」より転載し、執筆者が一部加筆・修正したものです。

 
▼礼儀をわきまえないメディア

 ここ数年内のことである。ぼくの仕事場であるコンゴ共和国に、ある日本の民放テレビ会社から電話がかかってきた。「Xという放送局のものですが、このたびYという番組の企画が通ったので、西原さんを取材するため2週間後にそちらに行きます。どうぞよろしくお願いします」と唐突にいう。こちらは面食らう。お互い初めての会話であるのに挨拶もろくにしないばかりか、いまこちらが電話で対応できるかどうかの都合も聞かずに、急に要件を切り出したからだ。

 「まず撮影をされるにはコンゴ共和国政府からの撮影許可証が必要です。その許可証発行までは面倒な手続きがあって、少なくとも3カ月はかかります。それがないと、たとえば空港で撮影器材を没収される可能性もあります。またコンゴ共和国は交通手段が十全に整備されていないので、ぼくの仕事場である国立公園近くの現地までの交通手段はよほど事前に手配しないと来ることは容易でないでしょう。それに、こちらの都合も調整せずに突然撮影に来ると言われても対応はできません」とぼくは冷静に告げる。「しかしもう企画は決まったので、訪問することは確実です。なんとかお願いします」と相手は食い下がる。「しかし、許可証は2週間では間に合わないし、こんな直前に交通手段の手配もできません。残念ながら、こちらとしてはご協力しかねます」と慇懃(いんぎん)に対応すると、「そこをなんとかお願いします」と向こうの声はだんだん泣き声になってくる。「それならどうぞコンゴ共和国に来てくださってもよいですけど、ぼく自身やWCS(=Wildlife Conservation Society:筆者が現在所属している国際野生生物保全NGO、本部はニューヨークにある)は一切助力出来ませんのでその旨ご了解ください」と相手に有無も言わせず電話を切る。

 その類の番組はすでにぼくも知っていた。日本に一時帰国した時もテレビで垣間見て、すぐにチャンネルを変えたくらいである。ほとんどすべての放送局で最近はやっているらしい番組で、日本から遠い場所に住んでいる日本人を訪ね、場合によっては芸能人も連れて、面白おかしく当の日本人を紹介する番組だ。通常の日本人では想像もできないようなそうした異郷にいる日本人を興味本位で扱うような番組だと思えた。なので、取材要請があってもこの電話でいうような番組には協力しないことはすでに決めていたのだ。もちろんぼく自身は、番組を通して自分の名を世に知らしめるということにも毛頭興味はない。

 実際、他の放送局からも、メールなどで直接的・間接的にコンタクトしてきた。要するにぼくは、遠い地に住む日本人の事例として、どの放送局も題材にしたい対象だと考えられていたのだ。取材を断るのはいうまでもないが、こうした電話での対応の無礼さから見ても、きっと現地に取材に来ても横柄な態度で、「自分の番組のことしか考えない」傾向の強い取材・撮影スタッフが来るのであろうと思うとやり切れない。

 
▼メディアの取材対象になりやすい「事例のない」存在

 もちろん、そうした取材要請が来るのもわからないわけではない。ぼくが野生生物保全の分野にて長年アフリカで従事している事実は、おそらく日本人で初めてだし、コンゴ共和国という国名すら多くの日本人には知られていない上に、国立公園のある場所もきわめて辺鄙(へんぴ)な場所である点、格好の取材対象なのであろう。

 1989年、京都大学調査隊の一員として偶然にも行く機会を得たコンゴ共和国のンドキの熱帯林で、ぼくは、これまで詳細な生態がまだ明らかになっていなかったニシローランドゴリラを研究対象に選んだ(連載記事第678910回)。ぼくが調査を始めた当時、ニシローランドゴリラの生態学的情報もまだ十分とはいえなかった。

 自分の研究が一段落してから、ぼくはあくまで研究者として、コンゴ人若手研究者育成に励んだ。対象はゴリラやチンパンジーだけでなく、植物や昆虫をも調査し始めた(連載記事第444546回)。その熱帯林にはゾウもいた。マルミミゾウと呼ばれる通常のアフリカゾウよりはやや小柄なゾウだ。しかし、ある日同時期同じ場所にいたWCSのアメリカ人から、「お前は日本人のくせに、ゾウのことを知ろうとしない。日本人が象牙への需要を持つからゾウは殺され、象牙は密輸されるのだ。日本人として何かしないのか」と言われた。そして、熱帯林生態系にとってマルミミゾウの果たす生態学的役割の重要さも勉強した。

 ときを偶然にしてコンゴ共和国に内戦が起こり、まだ京都大学の籍があるにもかかわらず、ぼくはそのアメリカ人に内戦中の国立公園基地の維持を任される。このときを契機に、純粋な研究から足を洗い、国立公園の保護の道を歩むことになった。研究を始めてから約10年後にぼくは「野生生物保全」の大切さを学んだのである。

 ぼくが研究者時代以降、これまで保全の仕事で関わってきたコンゴ共和国やガボンを含むアフリカ中央部熱帯林地域は、ただでさえあまり知られていない場所であり、学術的にも謎の存在で、これまでほとんど撮影の対象になっていなかったニシローランドゴリラやマルミミゾウも、取材の格好の対象ともなった。また、「研究者業」から「保全業」――同じフィールド・ワーカーではあるが――に変遷したそのいきさつもメディアには関心のある対象であるらしい。しかも、そこに日本人が「常駐している」ということは、メディア隊にとって、その異郷の地にいる日本人も取材対象にできるだけでなく、通訳兼現地での諸々のアレンジをしてくれる「便利屋」という位置づけになっていたらしい。

 そうした経緯で、フィールド・ワーカーであるぼく自身、日本だけでなく諸外国の撮影隊の現地コーディネート係として、これまで20回ほど関わってきた。ときには、一部出演のケースもあったし、場合によってはぼく自身が番組の主人公になることもあった。

 ぼくがこれまで関わってきた日本のテレビ番組の題名からしてみても、いかにも「初もの」「珍しいもの」を強調するものが多い。そこでは、「最後の…」とか、「未知の…」ということばで題名は修飾されている。たとえば実際には、「最後の原生林」、「ゴリラの謎」、「未知なる密林」、「神秘の海岸」、「初公開」などといったことばがタイトルにちりばめられる。それにより、視聴者の「好奇心」は呼び起すかもしれないが、野生生物に関わることを放映してはいても、実質的にその危機的状況やアフリカの抱える実情など、事実に基づいた真摯な内容はほとんど扱われないのである。

 多くの人々にとって、テレビなどの映像放送媒体は実際に体験のしにくい自然界や野生のことについて知る格好の媒体であるはずである。しかしながら昨今、それを適切に紹介するドキュメンタリー的なテレビ番組の数は急激に減ったため、一般の人々がそうした世界の知見を得る機会がかなり限定されてきている。そうであっても、とくにテレビ番組の影響力は不特定多数への影響という点では、「保全問題」のメッセンジャーとして有効な手段であることは変わりない。

 
▼フィールドの現場からみたメディアのもつ課題

(1)撮影隊は環境を配慮しないこともある
 驚愕した例の一つは撮影チームがンドキを訪れたときだ。ぼくは直接その仕事には関わっていなかったが、現場での有用な情報提供は惜しまなかったし、実際何日かに渡り、われわれのキャンプ地を利用した彼らをもてなしていた。驚愕したのは、彼らはなんと60人余りのポーターを使ってすべての荷物を運び入れた。そのとき村からは、女性も子供もポーターとして駆り出されたという。それは必要な撮影装備やキャンピング装備、基本的な食糧だけではない。自国から持ち込んだ山のようなお菓子や紅茶、その他もろもろの物品も含まれていた。そのチームが森を通過しキャンプを作ると、熱帯林のその一角はきれいに小木や草本が刈られ、一大広場と化す。そして何よりも人が多く騒がしい。いくら撮影が目的とはいえ、これでは撮影の前提段階から、撮影現場である森林環境そのものによい影響を及ぼしているとは思えない。強引過ぎるのだ。

(2)撮影隊は動物をおもちゃとして扱う
 別のエピソードもある。これはぼくが同行した日本のテレビ・チームでの出来事だ。果たして、カメはおもちゃなのだろうか―。ンドキの森の中に体長30cm弱の陸ガメがいる。名を“クンダ”という。クンダは現地の先住民にもいつも笑いものにされる。歩くのがのろい、動きが鈍いというのが大きな理由であろう。こっけいな仕草、こっけいな体型というのも人の笑いを誘う。しかし、このカメもヌアバレ・ンドキ生態系の一員であることには間違いない。野生生物なのだ。その自然のありのままの姿を映像に収めてもらいたい。生態学的にも、森の分解者であるキノコの捕食者であるという点もおもしろい。

 そのときのテレビ隊にとっても、このカメはご多分にもれず撮影対象の一つであった。1週間森を歩いたあとで、やっとクンダが見つかった。メスであるようだ。ところが撮影隊のカメに対する振る舞いには目にあまるものがあった。撮影対象を撮影しやすい、撮影したいように手で甲羅をつかみ配置する。緊張しているせいか、首を縮こませているクンダに、歩けといってみたり、キノコを持ってきては甲羅をたたいて無理矢理キノコを食わせようとする。いいものを撮影したいというメディア隊の気持ちと意気込みは理解できる。しかし、彼らにとってはたかだかカメのことかもしれない。しかし、カメは「おもちゃ」なのだろうか―。

 こうしたカメへの取り扱いに対する不満については、国立公園の規約でもなければ、コンゴ共和国政府からの要請でもない。ぼく自身の感覚にすぎない。たとえば、ゴリラ、チンパンジー、ゾウといった動物に、自分の望むように動いてもらえるであろうか。不可能である。せいぜいできることは、こちらのカメラの位置やアングルを変えるか、撮りたいような映像の状態がくるチャンスを待つしかない。そう考えたとき、同じ野生生物であるカメとゴリラにどんな差があるというのか。カメに対しては、動きが鈍く無抵抗であることを利用しているだけではないのか。

 そうした理不尽な撮影が一通り終わってから、ぼくはカメを元いた場所に返した。きっとそのカメにとって最も落ち着く場所であるにちがいないからだ。周囲のキノコの場所を知っており、近くにはその巣もあるはずだ。撮影の間は本当に申し分けなかったと思う。元の場所に戻って、元の暮らしに戻ったことを心から祈らないではいられなかった。

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