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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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ホタルの宿る森からのメッセージ~アフリカ熱帯林・存亡との戦い
第4回「月の光とホタルの舞~果たせなかった宇宙への夢」

2014年5月5日

雨のあと晴れ渡った夜空。森の先住民であるガイドたちが、月だ、月だ、と騒ぐ。ぼくもその場へ行く。木々の隙間から見える月。 三日月だった。雨のあとだけあって、空は澄み切っているようだ。三日月の光がとてもすっきりとしている。 月の光が煌々と明るく感じるのも、回りに人工的な光がまるでないからである。 この情景を思い出すと、ぼくの頭の中ではいつも、ドビュッシーのピアノ曲 「月の光」 が流れ出す。

月がこんなにも明るいものだとは生涯知ることはなかった。夜になれば電気が当然ある日本での生活。熱帯林のど真ん中には電気もなにもない。 当然だ。日が暮れればただ真っ暗になる。でも月が出ていれば、仮にそれが頭上を覆う樹冠の隙間から差し込むささやかな光ではあっても、 森のキャンプはほんのりと浮かぶ舞台のように見える。そして、先住民たちの姿も黒いシルエットとして映えている。

それは、20年ほど前、コンゴ共和国北東部の森の中を、生態学的調査のために、広域遠征していたときの光景だった。 来る日も来る日も、重い荷物を担いで、先住民たちと長距離を歩いた日々だった。 毎日夕方、森の中にその日限りのキャンプを作り、火を起こし、川で水浴びをし、甘いコーヒーを飲み、夕食を食べる。あとは真っ暗だから何もできない。 そして疲れたからだを横たえテントで寝るだけだ。ちなみに、日本であろうがどこにいようが、基本的には今もその生活リズムを保持している。 夜明け前に起き、夜更かしをせず寝る。現場中心の仕事を継続するための体調維持には不可欠だ。

森の中での生活は不便であったことはいうまでもない。電気だけでなく、ガスも水道もない。 夜は、わずかにもってきた灯油をちょっとずつ使いながらランプを灯すか、ろうそくを一日一本燃やす。あとは必要ならば懐中電光であたりを照らす。 森の中に無尽蔵にある枯れ木で火を起こせば、料理だけでなく、キャンプのほのかな明かりにもなる。 いまでこそ多くのフィールド基地は、発電機やソーラーシステムがあり、充電すれば衛星携帯電話も使える。 そして、どんなに森の奥地にいても、通話だけでなくパソコンと接続してメイルさえやりとりが可能になってきているが、無論、原発などとは無縁の世界である。

ふと空を見上げると、満天の星。公害など空気汚染は皆無だから、それこそ星は夜空いっぱいに広がっている。 それを眺めていれば、一日の疲労もどこかに飛んでしまう。暗闇の中であるからこそ、ホタルの光もまばゆいほどに輝く。 何匹も地面で輝いていることもある。小さな木の回りにも、それを取り囲むように何匹と光っていることもある。 もうクリスマス・ツリーなんていらないくらいだ。圧巻はホタルが高い木から木へと移動するときだ。 その光はちょうど星と同じ大きさで、よく見ないとまるで流星かあるいは星と星の間を飛ぶなにか宇宙船かとも思える。 まるで人工衛星のように樹冠から樹冠へ夜間飛行を繰り返す無数のホタルたち。

現地の先住民のことばで、星とホタルは同じだ。ゲノムと呼ぶ。ぼくはそうしたホタルの住む森に長い年月過ごしてきた。 そうこうした 「森」 がぼくには日常的にあった。ゴリラの調査やその他わずらわしいことはさておいても、ぼくには 「森」 があったのである。 だからこそ何ヶ月もそこに滞在できたのだと思う。この感覚は一度人の手の入った森 「二次林」 では決して味わえない。 「原生林」 に限る。そこでぼくは目をつぶり、耳を済ませる。そしてそれはいつも何か偉大なことをぼくに語りかけてきた。

しかしながら、長い間 「原生林」 で 「研究」 をすることと、その森を 「保全」 していくこととはすぐには結びつかなかった。 ぼくが今のような 「保全業務」 に携わっていくまでにはまだだいぶ時間を要したのである。 思えば、アフリカに行く前は、熱帯林、否、アフリカに関わることすら、到底想像すらしていなかったし、誰もが予期していなかった。 ましてや、「保全」 のことなど、小学校から大学院まで、誰からも教わった試しがなかった。 現在の仕事に携わるまでは、いくつかの紆余曲折があったのである。

ぼくが少年の頃から、もっとも興味を抱いていたのは 「宇宙」 と 「野球」 であった。 野球の話は別稿に譲りたいが、テレビなどメディアから大きな影響を受けたことは確かだと思う。 ぼくと同年代の方はお察しがつくであろうが、1970年代後半はいろいろな意味で、 アポロの月面着陸以降の 「人類の宇宙進出の未来」 がクローズアップされた時代だ。 テレビのドキュメンタリ-では、宇宙と地球を往復できるという画期的な 「スペースシャトル」 時代の開闢を謳い、 映画では 「スター・ウォーズ」 が始まり、アニメでは宇宙を舞台にした 「宇宙戦艦ヤマト」 や 「銀河鉄道999」 の隆盛期であった。 また音楽の分野でもそうした傾向を煽るかのように、「宇宙的な音楽」 と標榜されたシンセサイザーを駆使した音楽が売りだされた。 富田勲によるシンセサイザー曲 「惑星」(ホルスト原作曲)はその典型例だ~今でもその 「金星」 の楽章はぼくを魅惑的な宇宙へいざなう。

天体望遠鏡を持っていたぼくは、そうしたメディアに刺激されるように、高校以降は友人と徹夜で月食を観察しに行ったりもした。 それで、大学も 「天文学」 を専門とすることができるところを目指すようになった。 ただ、純粋に天文学を勉強することに関心があったというよりは、この不可思議な人間を、また人間の住む地球を、宇宙という外から眺め、 あるいは遭遇するかもしれない宇宙人とコンタクトすることができれば、人類とは何か、人間の謎といったものに、 「地球外側からの視点で」 アプローチできるのではないかといったような、いまから思えばあまりにも単純な考えを持っていたのだ。

結局、都合3年の浪人時代を経て、入学した大学では、天文学を勉強するより、 もうひとつの分野(野球、実際には体育会ソフトボール部)に集中することになり、 とても、天文学を目指すような勉学には追いつけないという事態になっていた自分を発見した。 しかし、同時期、3年目の浪人時代にお世話になった予備校の講師から刺激される形で、人類の起源や進化、 人類の本質を知るための 「人類学」 という分野に関心を持つに至り、書籍を読みながら、その新規の学問分野に関心が移って行った。 人類を理解するには宇宙に行かずとも、宇宙を認識する人類こそ、最も不可思議な人類をこそ研究すべきだと思うに至ったのだ。 これが、「人類学」 を専攻するようになった最初の出発点となる契機であった。 しかしながら、その時点でも、アフリカと20年以上関係するとは予期していなかった。

70年代後半から80年代前半にかけては、テレビも関心をそそる興味深いドキュメンタリー番組が多々あった。 宇宙のことだけでなく、世界に住むいろいろな人種や、野生生物を紹介したいくつかの番組も覚えている。 そうした 「未知の世界」 を知ることで、その多様性に驚きながら、その中で、いかに自分がちっぽけで、取るに足らぬ存在であることを思い知らされた。 それは、最終的に 「人類学」 を志した自分へとつながっていった。しかし、今や、そうした真摯なドキュメンタリー番組が減ったのは誠に嘆かわしいことである。

 

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