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岩手の異邦人啄木

寄稿:米澤嘉子

2014年5月5日

盛岡駅正面に 「もりおか」 と、駅名が優しげなひらがなで明記され、右下に小さく琢木の名がある。
広場の植え込み脇には 「ふるさとの山に向かいて言うことなしふるさとの山はありがたきかな」 琢木の歌碑がある。 ほとんどの観光客は気付かずに通り過ぎる。
二十年近く前、横浜から滝沢村へ移住した頃、見知らぬ土地を知るために、川のある町、盛岡をよく歩いた。 北上川沿いの遊歩道には、啄木と妻節子の小さな歌碑がひっそりと並んでいる。 車で通り過ぎてしまえば彼らの生きた命の証でもある歌の数々を、目に留めることもない。
私が城下町盛岡にある歌碑で、心惹かれるのは、城址公園の高台にある 「不来方のお城の芝に寝転びて 空に吸われし十五の心」 である。 城址傍らにあった盛岡中学を抜け出し芝生に寝転んで、瞑想にふけっていた琢木を名乗る前の石川一。 早熟で野心に満ち、それでいて透明感があり、私の胸に響く。生まれ里の渋民の田舎から見れば、盛岡はハイカラな町だった。
十六歳の時に直情的に初恋の節子に恋文を渡している。節子は私が住む滝沢の篠木小の教師に赴任したが、両親の反対を押して琢木と結婚した。
駅近くの三ヶ月しか住まなかった小さな 「新婚の家」 での、祝言に琢木は姿を現さない。 両親の世話をしながら琢木の帰りを待つ節子の切なさが伝って来る。 岩手日報に記名入りの記事を書き知人友人に借金を重ねて、生活苦なのに酒、女に浪費した琢木。
渋民で代用教員として理想の教育に燃えて、農民の子たちを教えていた頃の純粋な情熱の日々と、無残な挫折。
生まれた子達は貧しさゆえに次々と死に、ほとんど家庭を顧みず現実逃避した琢木。
同郷で学友の金田一京助は、啄木の才能を愛し、面倒を見続けた。この時代の稀有な友情があり、啄木は随分救われたであろう。 遂に心折れて実家に戻った節子を迎えに行ったのも金田一である。 彼の説得で東京の琢木の元へ帰る夜汽車に揺られた節子。 常人ではない異邦人の琢木の理解者として、添い遂げる覚悟を、突き抜けた絶望感の果てに固めたのかもしれない。
彷徨う啄木の焦燥感。死の床で琢木の頭に、朝夕仰いだ圧倒的な存在感の岩手山の容姿が浮かび上がったかもしれない。 強烈な個性で、古い社会に挑み続けた啄木は、本音を語らない岩手人の体質の中で、燦然と輝きを放つ 「岩手の異邦人」 だった。 だからこそ、今でも啄木を越える歌人は岩手には現れない。

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