【NPJ通信・連載記事】一水四見・歴史曼荼羅/村石恵照
天皇は象徴であって元首ではない
「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(平成28年8月8日)の中で、
「象徴と位置づけられた天皇」
「象徴の務め」
「天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割」
「天皇という象徴の立場」
「天皇の象徴的行為」
「国事行為や、その象徴としての行為」
「象徴天皇の務め」
というように「象徴」は「おことば」の冒頭に置かれているばかりではなく、本文において8カ所にわたって天皇の象徴であることが強調されている。
しかも今上天皇は「国家」を先に置かず、
「何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切」に考え、
「天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務め」
をなすことに幸せ見いだす姿勢である。
さらに、
「その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々」
という郷土愛に心を致している。
「おことば」に「元首」という言葉はない。
そして皇太子も、天皇の象徴であることを適時に強調されていることである。
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「天皇」は具体的に「皇室」によって育まれてきた。
どのように皇室は育まれてきたのか。
皇室は文化的にいえば日本の家元制度の原型であり、とりもなおさず万葉集の時代からの和歌の宗家である。
後鳥羽上皇の治世の下、法然も親鸞も流罪にあったが、朝廷に流罪を奏達したのは当時の上級官僚(「洛都の儒林」)と体制墨守派の学僧たちであった。
結果として「主上臣下、法に背(そむ)き義に違し、忿(いか)りを成し怨(うら)みを結んだ」朝廷と司法官僚は誤った裁決をした(親鸞『教行信証』)。
しかし、法然と「和国の教主」聖徳太子を尊敬する親鸞からは、上皇と天皇に対する忿(いか)りも怨みも聞こえてこない。
そして、今度は後鳥羽上皇自身が隠岐に流罪となった。
天皇の流罪とは、欧州や中国の権力者らのように拷問を受けたり殺害されたりせずに、権威の最高の座から退いて蟄居していただくということである。
後鳥羽上皇は歌人であり和歌所を設置し、新古今和歌集の制作を勅命した天皇でもある。
和歌の伝統が具体的に皇室において確立されてこそ、西行があり、旅に生きた松尾芭蕉の俳句がある。
隠岐諸島の村上家と言っても、大方の日本人はだれも知らないだろう。
私事にわたるが、昨年11月隠岐諸島・島前を訪れた。
そこで鎌倉時代の昔に後鳥羽上皇が流罪を被り島に上陸した時から逝去するまで生活の一切をお世話をした村上家の現在の当主・村上助九郎氏にお会いした。
天皇家は現在も、当時のご恩を大切にして、お茶会などに村上氏を宮中に招いているとのことである。
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皇室は、聖徳太子の遺訓を享けた和の心と、土地を単なる経済的な利用価値以上の大切な生命の営みの場とみなして、水と社稷を守る家柄である。
京都御所は、西欧の国王たちの堅固な居城とはまったく異質の文化的、政治的伝統の下にある。
御所は、まったく無防備である。
それでも皇室は護られてきた。
今日も「そらごと、たはごと、まことあることなき」火宅無常の覇権情念に満ちた世界にあって、天皇と皇室の伝統は、試行錯誤を経ながらも、日本史の内部に飛鳥の時代から連綿として保たれてきた非覇権性の「和の基線」である。
そのような歴史を貫く「和の基線」への認識を確認せずに、明治期に国政に介入する神道の政治的イデオロギー化が顕著になり、南方熊楠が慨嘆した神社の合祀などがおこなわれた。
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「関ヶ原の戦い」(1600)は日本人の武士同士の戦いであって、勝敗が半日ほどで決着した内戦であった。
明治維新以前の「イクサ』は、宗教、言語、民族を異にする国々が、互いに高度な謀略を駆使した西欧における戦争とはまったく異なる、兵站を無視した弓矢と刀の「イクサ」に過ぎない。
英仏間で行われた「百年戦争(1337〜1453)」と比較してみよ。
そのような戦争未体験の日本が、西欧列強に対抗するためという理由があったにせよ、日清、日ロの戦争で勝ったつもりになって満州事変から終戦まで、戦争に継ぐ戦争を続行してきた。
その結果、終戦後、戦争責任は「天皇制」にありと観念化され、いわば “無責任の責任論” という矛盾した むなしい言論が、いまだに日本人の間に漂っているように感ぜられる。
明治維新以来輸入されてきた西欧のさまざまな観念的な思想概念に翻弄された様々な立場の“進歩的” 知識人たちの体制的言語空間に絶望したかのように、“保守と伝統” の尊重を主張する人物たちーーまず三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊で割腹自殺(1970)、野村秋介が朝日新聞東京本社で拳銃自殺(1993)、江藤淳が手首を切って自殺(1999)、そして最近、西部邁氏が入水自殺した。
進歩的知識人でもなく、過剰に日本(人)を意識して自死する気概もない、素朴に日本の和の伝統を尊重している一国民である自分が、岡倉天心、南方熊楠、鈴木大拙という人物たちを偲ぶときに感じることがある。
それは、東洋の叡智を深く語らない特に戦後の“進歩的” 知識人たちと“保守と伝統” の尊重を主張する人物たちとを包んでいる “日本語村の言語空間” の閉鎖性である。
鈴木大拙は語った、漢籍を読め、英語で発信せよ、と。
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今上天皇は、即位後はもちろんのこと皇太子の時から日々の心と行動の意味を「象徴」という言葉に確認されてこられたと拝察する。
「元首」の語を「象徴」の語の先に出すことは、「元首」に優先権を与える傾向をもたらしかねない。
「天皇は元首である」が、一人歩きして次第に行政的な意味合いが生じてくるであろう可能性も否定できない。
世界の覇権的政情の荒波において、 これからも「和の基線」を歩まれようとされている天皇が、 最高度の重責感をもって大切に使ってこられた日本語の「象徴」という言葉に、元首( Head of State )の言葉を先行させて追加する意義も必要もまったくない。
(2018/03/04 記)
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