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【NPJ通信・連載記事】一水四見・歴史曼荼羅/村石恵照

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(59)死刑についてのさまざまな想い

2019年3月16日

 
1995年3月20日(月曜日)午前10時頃、自宅の最寄りの駅のホームで築地駅行きの電車を待っていた時、突然駅構内で放送が始まって日比谷線が不通であると伝えられた。

駅員に聞いたが不通の理由と開通の見込みは不明とのことなので、築地での所用をキャンセルして自宅に戻ると、築地駅の付近が異様な事態になっていることをテレビで知った。
いわゆる「地下的サリン事件」であった。
                   篠田龍雄(僧侶・教誨師)
 
 
そして昨年(2018年)、オウム真理教元幹部13人の死刑が執行された。
改めて死刑をめぐる様々な思いが募ってきたが、それには特別な個人的理由がある。

私の仏教の師は篠田龍雄和上で、浄土真宗の僧侶として死刑囚の教誨に生涯を捧げていたからだ。

略歴を記せば、篠田龍雄は明治29年(1896)、福岡県直方市の浄土真宗・西徳寺に出生。

二十代で当時「労咳」とも呼ばれ、最後はみな血を吐いて死ぬといわれた結核に感染。

結核を理由に徴兵をまぬがれたが、福岡県・志賀島(しかのしま)に渡り、数年に及ぶ闘病生活。数年後、片方の肺と数本の肋骨を失ったが、奇跡的に回復。奇跡的回復の理由だが、海岸にいて突然大量の膿みのようなものを口から吐き出してそれから回復に向かったとの話を本人から聞いた様な気がする。

回復したが、篠田は戦地で不帰の人となった人々を想い、生かされている自分に申しわけなさを感じていた。
そこで、だれもやりたがらない仕事で、救いを求めている人間をもとめて、直方から福岡拘置所に通い、引き受けてのない死刑囚の教誨を10年ほど続ける。

また長期の服役を終えて刑務所を出所して、行く当てのない人たちを引き取って寺の仕事に従事させたこともあった。

昭和29年(1954)、正式に東京拘置所の教誨師として登録。 以後彼の教誨は20年以上続いた。

昭和53年(1978)、直方市への帰路、東京駅構内で倒れ往生。81歳。

                  ***

東京では、 ハンセン病の施設の慰問や冬には三谷の住民たちに下着の差し入れ活動などもしたが、篠田の本領は、死刑囚の教誨であり、処刑の最後まで立ち会っていることだ。

もちろん処刑現場で行われることの実際は、外部には明かされない。

私が師とご縁をいただいたのは1962年で、その後、正確な時期や状況は記憶にないが、師に同行して東京拘置所に行き、数十人の服役囚を前に説教していた場面をなぜか鮮明に覚えている。

その中に、剃髪したすがすがしい顔立ちの服役囚がおり、おそらく彼はその後、仙台で処刑されたようだ。

因に師は、処刑が仙台で行われる時でも、電話連絡があればすべての所用をキャンセルして福岡から仙台へ直行した。

                  ***

師の「死刑囚の話」(『大法輪』昭和29年19月号)は仏教者の教誨の模様を知る貴重な記録であるので、独特の語り口だが、以下適宜、抜粋して記す。

「よく、死刑囚教化に関心を持っている方々から、どんな風に教誡しているのかとお尋ねをうけることがある、・・・その都度、『私は、どんな風も、こんな風もないので、そもそもが教誨なんて思ってない。ただ、ともに、話しあっているのみです』・・・

『では、死刑囚と話し合ってる時の心境はどうだ』と突っ込んで来られる。・・・私は、『それは空であります』と答えているが、その時、彼らは解ったような解らないような顔をしていられて、可笑しくなる。今、この『空』のことで、少しばかり、語ってみよう。 ・・・

刑務所は、教育の場であって、報復的な懲罰の処ではないことは勿論である。・・・社会人にとっては、山や川等の空観によって呼吸を抜くことも出来るが、・・・死刑囚にとっては、もう到底めぐまれないことであろう。すると、彼らには『空』の世界を与うべきであろう。だから、彼ら死刑囚に接し、いやしくも、教誨する者が、彼らの前に、偉大な空間を展開し得なかったなれば、到底、教誨の目的は達せられないのだと思う。・・・

福岡刑務所の荒巻所長は、音楽を盛んに奨励され、署内に楽団もできていた。ある音楽会の時、全死刑囚を廊下に腰掛けを置いてゆったりと腰をかけ、その側に所長・教育課長・看守、それに私も交わらせていただいて、兄弟達のノド自慢を聞いた事がある。

私は、いつのまにか、フラリフラリと眠りに落ちてしまった。そして死刑囚の笑い声で、突然眼があいた、見ると、看守や死刑囚の四五人が私の前横に突っ立って笑っていられる。死刑囚の一人が『ボンヤリしているとバラしますぞ!』と笑って、私をからかった。

私も、自分ながらおかしくなって、『すまぬすまぬ』と笑いこけた。だが、この時の私のボンヤリ姿は、非常に好感を与え、死刑囚と教誨師としての私との両者の距離を、空じてしまって、いよいよ兄弟感を深めたようである。こんなところに、仏教でいう『空じる』という空観哲学の価値があるのだと思った。

死刑囚たちに、仏の慈悲や、神の愛を説いて冷たい心をあたたかく生かすことも大切であろうが、その根本に、この空観思想がなかったならば、決して、心は暖まらない、と思う。

教誨の根本は、彼ら死刑囚達に、空間のよろこびをあたえているということを根本とせなくては、到底、教誨の目的を達するものでないと云うことを、私は高調したい。」

以上は篠田の独特の仏教的見解であるが、彼と処刑直前の死刑囚との切迫した場面は、 堀川惠子『教誨師』を見られたい。

                  ***

絞首刑は、いわゆる国家権力による不当で残酷な刑罰である、として死刑制反対論がある。
西欧先進国が代表する立場である。
EUの加盟条件も死刑制の廃止があると聞く。

死刑は法律に裏付けれた「殺」の是認であるが、では、戦争はどうなのか。
戦争は、巨大な処刑装置ではないのか。
そこでは、戦場での“正当な”殺害に加えて、秘密裏に行われる拷問と殺害、民間人へ虐殺がおこなわれているのが実際だ。

しかし、死刑制に反対する西欧の知識人や宗教団体、そして特定の戦争に反対する西欧知識人はいるが、戦争そのものを否定を表明する西欧の知識人や宗教団体を寡聞にして知らない。

“非戦”を唱えるグループはあるが、死刑制の存置論と廃止論の議論と比べて、争点が曖昧模糊である。

戦争否定は軍隊否定につながり、さらに軍事産業の否定につながるから、世界の識者らにとって戦争否定は歴史的現実を知らない小児的思考なのだろう。

様々な先端的科学技術の発達が、武器の改良に深く関わってきているのも事実である。

では、ともに殺害に関わる死刑制と戦争とは、「殺」の意味がまったく異なるものなのだろうか。

死刑制廃止は、単純にいえば、いかなる数の人々を、いかに残酷に殺害しようと加害者の命と(刑務所内ではあるが)生活は法的に保障されるということである。そこで終身刑が用意されている。

さらに廃止論者の中には、いかなる残虐な殺人者といえども、赦しの心をもって人道的な見地から加害者を保護しようではないかと主張して、現に殺人者を許す宗教的信念の被害関係者の例をあげる立場もある。
また死刑反対論者の根拠の一つが冤罪の問題である。

しかし、真の被害者は口の聞けない死者となった被害者であるが、死者は現世の法の埒外にある。

                  ***

独房の限界空間に閉じ込められ、確実に死に直面する死刑囚に、いのちの空間の意味を伝えていた師に、死刑制の是非について問いただしたことはなかった。

そして、若い頃から今も考え続けている「死と殺」、さらに人間の死後の問題に考えがおよぶ時、結局は死生観の問題に行き当たるのではないかと思うが、法律の世界に、死生観の導入は有効な意義をもたないだろう。

ところで死刑には、死刑囚、死刑囚による被害者、処刑の執行に直接かかわる刑務官などが関わっているが、さらに別の関係者も関わっている。

「死刑囚の「死」は、寿命が尽きる死とは違う。亡くなる日にちと時間まで、正確に事前に分かっている。病死と違い、臓器は健康なままギリギリまで動いている。事故死と違い、首を除いて身体のどこも傷つかない。つまり、体細胞も眼球も新鮮なまま計画的に取り出すことができる。だから医療関係者は、自分たちにその作業を許した死刑囚の執行日が来ると、拘置所の控え室でじっと待つ。出番が来れば手際よく処理を済ませ、身体ごと研究室へと持ち帰る。」*

しかし、死刑囚の関係者でもっとも切ない立場にあるのは、死刑囚の我が子に最後の面会をする母であろう。

この場面を想う度、母子ともに、差別も心身の苦しみもない、安らぎの彼岸の世界への往生をいのるばかりである。

(2019年3月15日 記)

* 篠田龍雄関係の教誨師としての言行について堀川惠子『教誨師』(2014年)を参考にさせていただいた。
** 死刑論について筆者の詳しい立場は以下の論攷に発表している。村石恵照「死刑論をめぐる提言・存置論と廃止論の二項対立を超えて ―仏教縁起論の視点を導入して」(『 The basis : 武蔵野大学教養教育リサーチセンター紀要』2011)

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