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【NPJ通信・連載記事】一水四見・歴史曼荼羅/村石恵照

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一水四見(2) ーー 政治家の宗教認識について ーー

2014年9月16日

「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、 親眷に逢うては親眷を殺して・・・」

ぎょっとする文言である。これは臨済宗で重用されている、峻厳なる禅風をもって知られる中国の禅僧・臨済義玄(?ー866)の語録『臨済録』にある。

わたくし流に現代語にくだいてみれば、「ブッダに会えばブッダを殺せ、開祖に会えば開祖を殺せ、仏道修行者に会えば仏道修行者を殺せ、父母に会えば父母を殺せ、親族に会えば親族を殺せ・・・」

なにごともコンテクストを考慮せずに一部の語句を引用すると誤解を招く。この文言の前に

「道流、你如法の見解を得んと欲せば、但だ人惑を受くること莫れ。裏に向かい外に向かって、逢著(ぶじゃく)せば便ち殺せ(仏道修行者よ、仏法を如実にさとりたいとのぞむならば、「我」に執着するなかれ。内面的に外面的に「我がある」などどいう執着を抹殺せよ。」とあり、後に「始めて解脱し、物を拘わらず、透脱自在なることを得ん(そうすれば悟りが得られ、執着を断って自由自在の境地となる)」がつづく。

「我思う、故に我あり」といったデカルトも木っ端みじんの禅語である。

このあたりをある禅僧はつぎのように解説する。

「臨済和尚は…仏教だ、キリスト教だ、禅だ、真言だと自分の宗教を主張する。ここがそもそも問題だ。自分の心を仏教だ、キリスト教だ、禅だ、真言だと心の中をいっぱいにしてしまうと、他のものが入ってこない。受けつけない。するとそこには派閥が出来、争いが戦いが起こってくる。禅は心をカラッポにする宗教ですから、キリスト教だ、仏教だと人間が造り上げた宗教を殺せ!殺せ!と叫びを上げる。」(小林義功『義功和尚の臨済録』)

威勢のいい解説である。

少し昔のことを思い出した。二十歳過ぎに二年程八月と十二月に各一ヶ月間、三島市にある臨済宗の専門道場・龍澤寺で中川宋淵老師の下、雲水さん方と座禅をしていた。そこで禅風なる雰囲気が多少はわかっているつもりであるが、わたしは全然悟っていないし、いつも様々な感情と情報で頭がいっぱいなので心がカラッポなのかどうかの判断もつかない。

しかし現今のようにインターネットを通じて膨大な情報が音も無く光速で地球をかけめぐり、われわれの脳細胞に侵入してきている現状を考えると、特に宗教に関しては世界の宗教意識という大きなコンテクストとレファレンスを考えて発言しないと大変なことになりかねない、と愚考する。

 ***

「常に仕返しをされる二つのジャーナリズム活動がある。一つはカトリック教徒を攻撃すること、もう一つはユダヤ人を弁護することである」

これは、現代ヨーロッパの政治情念に流れている暗部を描いた『1984年』の著者ジョージ・オーウェルの批評である。『1984年』には、ユダヤ問題とカトリック問題とが暗示されている。

ヨーロッパ人の心情の奥底の観察は困難であるが、ユダヤ人とカトリック教会の問題は、今日でもヨーロッパ人の歴史認識の深層にわだかまっていることは確かである。

一神教とは言葉の宗教であり、その言葉の最高価値が God であり、 God にかかわる聖なる言葉の集成が「バイブル」であり「クルアーン」である。そこで印刷物とはいえ聖典は神聖の象徴である。Godの和訳を「カミ(神)」としたことは、日本の翻訳史上最大の誤りであるという指摘があったように思うが、外来語であるから「ゴッド」としておけばよかったといっても手遅れである。ちなみに中国語でもGodは「神」と訳されているが、日本語の「カミ( 神)」の用法とは意味合いが異なる。

一神教の教理的特徴は、アジアでおこったヒンズー教、仏教、道教がもっている大地との親和性が希薄であり、祖先崇拝はもっての他である。歴史的発生の経過をみれば、ユダヤ教に代表される一神教は基本的に民族集団維持にかかわる教理であり、(土地に限定されない絶対的価値観念をもつ造物主としての)God、裏切りを許さない掟(契約)、同信者同士の結婚の奨励と食事と性生活にかかわる規定、同信の成員間の団結強化などの特徴をもつ。つまり同信の成員を増やさなければならないから、性(結婚)と政治に介入し、同じ信徒同士の国境をこえた団結と相互扶助が発達している。

以上は、すでにあちこちでいわれている、ずいぶんと常識的なことであるが宗教学の本を読んでも混乱するだけなので、わたしなりの一神教の理解をのべたまでである。

***

今後日本人は、イスラム教に一定の理解をもたなければならない状況に直面するだろう。

わたしのささやかなイスラム教体験は、1968年、横浜港からフランスの貨客船でインドに向かっていた時である。乗客のほとんどはアメリカ人のヒッピーらやらわたしを含めて貧乏旅行者の類いであったが、甲板でイスラム教徒が一枚の布を敷いてまわりの乗客が見守る中で礼拝していた。船が旋回するのにメッカの方角をまちがわないのかなどという者もいた。

インド、ニューデリーから鉄道で北上して陸路パキスタンを越え、カイバル峠をバスで越えてアフガニスタン、カブールに到着。地元の宿の一室で全員髭もじゃの現地人10人ほどにまじって泊まった。言葉は一言も通じない。しかしわたしの宗教のことを聞かれたように感じて英語でBuddhistだ、と答えたらすこし驚いた様子であったが、わたしが出発する時、干しぶどうを一握り与えられた。インドでは小さな町のイスラム教徒の家庭に無賃で宿泊したこともあった。カルカッタでは車、リキシャ、牛がゆきかう街路で百数十人のイスラム教徒たちが、一斉に礼拝をはじめていた。半世紀まえのことだがいまだに鮮明に覚えている。

その後、在日マレーシア大使館に数年勤務していて毎日イスラム教徒とつきあっていて、何回か代々木上原のモスク・東京ジャーミイにいったことがあるのが、わたしのささやかなイスラム教体験である。

***

さて、日本の政治家の宗教認識についてである。

2009年11月10日、当時民主党の小沢一郎幹事長は高野山真言宗総本山金剛峰寺で全日本仏教会会長の松長有慶・高野山真言宗管長と会い、その後記者団にキリスト教について「排他的で独善的な宗教だ」と述べたとの報道があった。

日本カトリック司教協議会は、同幹事長にこの発言のいきさつや真意を直接問い合わせるために、日本キリスト教協議会とともに幹事長に面会を求めた。会談には、日本カトリック司教協議会(平林冬樹エキュメニズム部門秘書と岩本潤一同研究委員)、日本キリスト教協議会(飯島信・総幹事)が出席。民主党副幹事長の今野東・参議院議員がこれに同席し、飯島総幹事が、先に小沢幹事長のおこなったキリスト教についての発言の真意を尋ねたのに対し、小沢幹事長は次の説明をしたという。

「自分は宗教としてどうこうということを言ったわけではない。基本は、欧米と東洋の文明の違い、哲学がある。背景を言えば、欧米はキリスト教の哲学、東洋は仏教の哲学が基本にある。文学でも哲学でも仏教は人間の営みも大自然の営みの一つで、キリスト教のように万物の霊長である人間が最高位に位置するというのとは違う。

「キリスト教やユダヤ教などの一神教に対して、仏教は八百万の神だ。仏教はどれもこれも神様だし、だれでも仏様、神様になる。神仏一緒になっている。それはいいところでもあり、欠点でもある。悪く言えばいいかげんであり、良く言えば融通無碍で幅広い。」(「カトリック中央協議会 お知らせ;2009.12.8」 )

宗教学的にいえば国政をになう人物の頭のなかの宗教観を観察できる非常に興味深い発言である。しかし小沢氏ほどの政治の厳しさに耐え抜いてきたような人物でも、事が宗教となるとその発言の無防備さとその発言内容の粗雑さにおどろかざるをえない。わたしの感じでは小沢氏は日本中のクリスチャンの一部の反感をかって、有権者の一部をも失ったことだろうと思った。後で松長有慶師は小沢氏を諭したのかどうか知らないが、それより日本人の宗教観を説明することの困難を仏教学を専攻してきた自分として深く反省せざるをえなくなった。

***

2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会において森喜朗内閣総理大臣(当時)は挨拶で、

「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々(=神政連関係議員)が頑張って来た」と発言した。

これにジャーナリズムが反発したが、森氏は、

「どうして撤回しなければならないのか。話の内容は、もっと命を大事にしよう。生命は神様がくれたもの。その神は天照大神でも、日蓮でも、おしゃか様でも、イエス・キリストでもよい。自分の信ずる神仏でよい。」(『WiLL』2007年9月)

と反論した。

この発言は、小沢氏の発言よりさらに興味深いものである。「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞ」とは、どのような歴史的展望のもとの天皇観であろうか。

伊藤博文が明治憲法で「天皇大権」をうたったとき、政治の失策を天皇の責任に帰せしめようとは考えなかったはずであるが、 特に明治維新前後から一神教的思想の影響の下に漸々とさまざまな策動がなされて、伝統的に権威であるべき天皇を権力化し、祭りあげて政治利用し、最終的に責任をとらせようとしてきたのが、結果としての終戦時の天皇の歴史的位置であったのではないかと思う。

***

今日までつづいているイギリス王室の政治への関与に比較すれば、政治的に祭り上げられた天皇が与えられた立場で一定の政治的関心をもち関与をしたのは当然のことであろうと思う。今日でもエリザベス女王は、頻度は不明だが定期的に(reguraly) 、イギリス首相と面会している。まさか競馬の話をしているわけではないだろう。数世紀にわたる大英帝国の植民地での負の遺産に英国王室が謝罪したということは寡聞にしてきいた事がない。

しかし、森氏の「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞ」は、天皇の政治化を再現しようとしていのではないだろうが、一国の宰相のメッセージをうけとる人々は利己的、恣意的も解釈するのが常であることに配慮が欠けているのではないか。

日中戦争の長期化で軍紀が動揺し始めた昭和16年(1941)1月8日、東条英機陸相が公布した戦陣訓に「生きて虜囚の辱を受けず」の部分が明確に降伏を否定しているため、これによって多くの兵士が無駄死にしたとされる意見がある。同感である。劣情の上官たちが無駄死にする前の兵士たちや被占領地の人々に加えた無意味な残虐行為に “ 道義的”根拠をあたえたのではないか。

殺伐たる戦場で「上級の者は下級のものに向ひ聊も軽侮驕慢の振舞あるへからす・・・務めて懇に取扱ひ慈愛を専一と心掛け上下一致して王事に勤労せよ( 「軍人勅諭」)」など思い出す上官はいないはずである。「生きて虜囚の辱を受けず」の文言自体が、戦場では恣意的に上官に悪用されうる文言ではないか。

だから「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞ」は、森氏の個人的意図を離れて拡大解釈される可能性はあるし、外国のジャーナリストがコンテクストを考慮せずに引用する可能性もある。(森首相のいわゆる「神の国発言」全文は「神道政治連盟」ホームページを参照)

***

さて、小沢氏も森氏もイスラム教には言及していないようであるが、特に政治家は今後はいっそう「神」の語の使用には注意する必要がある。これは日本人一般にも当てはまるが、宗教的テーマを茶化したりすることに無頓着である。

もし各国の首相が自分の宗教観を述べるとしたら、どのように表現するだろうか? 小沢氏や森氏の宗教観を英訳してみるとどうなるか? 先進国の首脳たちが、小沢氏や森氏の「挨拶」を聞いたとしたら、どのような反応をするだろうか、興味あるところである。

しかし事は、小沢氏、森氏だけのことではなく、あえて一歩踏み込んでいえば日本の知識人一般の宗教認識にかかわっている。

***

現在、中国当局の頭を悩ませている問題は、政治問題、経済問題に加えて、というより政治と経済活動をささえている人民のこころの問題、つまり宗教問題であろうと思う。チベット(仏教)問題があり、さらに新疆ウイグル自治区(イスラム教)の状況は、スコットランドの独立問題、「イスラム国」の出現などによって、これからどのように展開するのだろうか。

リヤド発の新華社電によれば(2014年1月13日; www.liveleak.com/)、中国はサウジアラビアとの20年の外交関係の樹立を記念して文化と教育面を含めての戦略的関係を深めようとしているという。厳格なイスラム教国とイスラム教を問題としてかかえる非宗教的中国とは、どのような関係をつくってゆくのか。いかなる宗教対話がおこなわれたのか、おこなわれなかったのか、興味あるところである。

日本人の、特に政治家の宗教認識の問題は「靖国問題」の認識にかかわったくるが、それについては別の機会に論じたい。

村石恵照(2014/09/15記)

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