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【NPJ通信・連載記事】ビーバーテール通信―カナダから考える日本と世界―

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第1回 私はなぜオンタリオにいるのか

2019年12月24日

                     小笠原みどり (ジャーナリスト・社会学者)

 12月、街は神サマが上空から粉砂糖をたっぷり振り掛けたケーキに姿を変える。表通りにも、公園にも、学校にも、アパートにも、樹々の一本一本、一枝一枝にまで、こんもりと純白のアイシングが、一夜にして施される。朝、カーテンを開けた私は、茶色だった風景が一変したことに息を飲む。

 窓にはまるで、ブリューゲルの絵画、冬景色の現代版が一枚かかったようだ。緑色のシャベルで通路の雪をかき出すアパートの管理人、オレンジの除雪車、雪まんじゅうの中から自家用車を掘り出す住人、かき出された雪でできた小山を登り降りる子どもたち、戸惑ったように木を駆け上るリスたち――ブリューゲルの絵のように、スケートに興じる人たちの楽しそうなざわめきまでは聞こえてこないけれど、すべてがスローダウンし、どこからかゆったりとしたクリスマスソングが流れてくる…。

 私がカナダのオンタリオ湖畔で暮らすようになって、通算10年目に入った。北米五大湖の中でも目立たないといっていい湖の北西に、私の街キングストンは位置する。人口は約12万人、大学と軍と刑務所の街と呼ばれている。カナダ最大の都市トロントと、フランス語圏ケベック州の中心都市モントリオールまでは、それぞれ車で3時間ほど。湖の対岸はアメリカ・ニューヨーク州で、カナダの中では最も南にある街の一つでもあるため、リタイアしたお年寄りも多く住んでいる。それでも、関東で育った私にとって、冬は長く厳しい。日照時間が一番短くなる
12月は、特に要注意だ。体が零下の気温についていかないうちに、心がこれから4、5カ月も続く不自由を思って沈み出す。砂糖菓子のような街の風景は神サマからの贈り物、雪明かりを太陽の光だと自分に言い聞かせて、閉じこもりがちになる家でスープやシチューをせっせとつくる。パイもケーキも焼く。オーブンは部屋中を温めるから。アイシングはもちろん、たっぷりで。         新雪が積もった斜面でそり遊びをする子どもたち
         =2019年12月、カナダのキングストンで、溝越賢撮影

 年の半分は孤絶感に苛まれる、そんな世界の片隅のような場所に、私はなぜ10年もいるのか。それは、私の目指した世界の中心がここにあるから。小さな街にある大学の、小さな社会学部にある監視スタディーズ・センター。そこは世界の監視研究のスクランブル交差点。私が初めて訪れた頃は、クイーンズ大学・監視プロジェクトと呼ばれていた。ともに社会学者のデイヴィッド・ライアンとエリア・ズーレイク、ビジネス・スクールの教授ヨランダ・チャンが率いていた。
 
 デイヴィッドは2001年に『監視社会』(邦訳は青土社)を執筆し、空港や商店街で急速に普及する電子的な監視機器(監視カメラや生体認証)の役割を学術的に捉えたタイムリーな本として、世界中で読まれた。それ以来、『9・11以降の監視』(明石書店)、『監視スタディーズ』(岩波書店)、『スノーデン ・ショック』(同)など、彼の著作は日本でもすべて出版され、監視研究の第一人者として知られるようになった。現在、監視スタディーズ・センター長であるデイヴィッドを、日本で新聞記者をしていた私が知ったのは、東京の書店に置かれていた『監視社会』がきっかけだった。

 インターネットやデジタル機器の普及と、アメリカが主導した対テロ戦争、という一見まったく異なる時代のうねりが重なって、監視研究は社会学、法学、哲学、政治学、地理学からコンピューティング、電子工学までを横断し、瞬く間に成長した。スコットランド出身のデイヴィッドは、カナダの社会科学人文研究会議から共同研究の助成金を次々と獲得して、世界一の監視国家と呼ばれるイギリスや政治的にも技術的にも監視の震源地であるアメリカの研究者たち、カナダのN G Oや市民たちと連携し、研究の輪を広げてきた。私はデイヴィッドから監視を学びたくて、2005年にクイーンズ大学の大学院修士課程に入った。修士の修了後にいったん日本へ帰ったが、デイヴィッドから定年退職が近いと知らされ、博士課程を開始する決意を固めた。13年にキングストンに戻り、昨年、彼の退職直前で社会学博士号を取得した。

 監視研究のスクランブル交差点には、世界中からお客さんがやってくる。学会やセミナーだけでなく、年に2、3人は客員研究員として数カ月滞在するので、学術交流だけでなく、むしろ地元の案内がてら私は一緒に遊んでもらう。ベルギーから来たRとは苺狩りに行き、スウェーデンから来たEとは湖で泳ぎ、オランダのAとは釣りに出かけた。ブラジルから来たRとはうちで海苔巻きを一緒に巻き、日本のAさんとはハロウィーン祭りで闇に輝く無数のカボチャのランタン・アートの間を歩いた。日本で勤めていたときは仕事上で友人ができることは稀だったから、年齢も地域も幅広い、かけがえのない友情を育めることに感謝している。友人たちから世界について、人間について、学ぶことはとても多い。だからここが、私の世界の中心。

 でも、なぜカナダが監視研究の一大生産地になったのか。

 それは第一に、デイヴィッドの先見性と、彼のオープンで優しい人柄、そして多様な他者から学ぼうとする研究姿勢がある。センターに約10年前に加わったもう一人の監視研究者、デイヴィッド・ムラカミ=ウッドをはじめとする共同研究者たちの功績も大きい。けれど、それだけではない気がする。2年に一度開催される「監視と社会」学会には、クイーンズ大学からだけではなく、カナダから研究者たちが大挙して参加する。会場がヨーロッパでも、カナダからの参加者が一番多い。私はカナダの歴史的、政治経済的な位置が影響しているのではないかと思う。

 歴史的には長年、大英帝国の植民地で、現在も英連邦加盟国のカナダ。政治経済的には監視技術の震源地であるアメリカに依存する。けれどこれら近代の「帝国」とまったく同じではない、微妙な距離。監視研究は学際的であるだけに、アメリカでは政治や軍事に関わる安全保障の一部とみなされ、監視行為そのものが独立した関心の対象として成立しにくい。対テロ戦争下でアメリカに浸透した愛国主義はさらに、国家や企業による個人の監視を正当化し易くしている。

 カナダは国際政治の中で、アメリカとそれほど立場は違わないかもしれないが、カナダ人の多くは「アメリカではない」ことをアイデンティティにしている。小さなカナダ国旗が付いたバックパックを背負った旅行者を目にすることはないだろうか? 旅先で、「アメリカのような戦争国家ではありません」「フレンドリーな国です」と敵意から身を守っているのだ。カナダ人が自分たちをよく「ごめんなさい」(sorry)と言う「いい人たち」(nice people)である、と恥ずかしげもなく言うのも、アメリカ人を念頭に置いているから。日本人と対比したら意味を成さない (「ごめんなさい」の頻度が「いい人」度を表すなら、私だって負けない! )。隣のアメリカはそれほど存在として大きいけれど、それを相対化する主観的な距離が、監視のような政治経済的でも文化的でもある研究に、視野の広さと冷静な批判精神を与えているように、私には思える。モノは近すぎるとよく見えないのだ。

 もちろんアメリカにも優れた監視研究者はいるし、グローバル・サウスと呼ばれる南側諸国の研究者も重要な研究を開始している。要は、地理というより社会的なポジションとして、権力の中心ではなく、離れた場所だからこそ、見えてくる真実があるのではないか。いや、むしろ、離れていることが思考にとって、どうやら決定的に必要なのではないか、と近頃感じる。

 私にとってこの距離は、変わっていく日本社会を考える上でも重要な意味を持つ。日本を外側から眺め、日本には伝わらない情報に触れる。この位置を基点に、日本について、世界について、この連載で書いていきたいと思う。

 高い授業料さえ払わないで済めば、いつまでも監視研究のスクランブル交差点に座り込んでいたかった私も、博士号取得とともにクイーンズ大学を出て、今春オタワ大学に職を得た。カナダの首都オタワはキングストンの北側にあり、二つの街は全長200キロのリドー運河で結ばれている。これからリドー運河は氷結し、真冬には零下15度をものともしない人たちがスケートでオタワ市内を行き交う。カラフルな毛糸帽とマフラーをまとったスケーターたちの姿は、本当にブリューゲルの絵のようだ。

 この冬の達人たちに愛されているのが、ビーバーテール。ビーバーの尻尾のように、楕円形をしたドーナッツ (ビーバーは実際、オタワの大学のキャンパスに時折姿を現す)。凍った運河の上に出店が出る。味は単純だけれど、寒さの中で揚げたてはひとしお。スケートよりもビーバーテールが好きな私の子どもは、台所でこれを山のようにつくって食べる。ホームメイド・ビーバーテール。アイシングは粉砂糖か、シナモンか、それともカイエンヌペッパーか…この通信にもたっぷりまぶして送りたい。

〈了〉
 
 

【プロフィール】
小笠原みどり (おがさわら・みどり)
ジャーナリスト、社会学者、元朝日新聞記者。
アメリカの世界監視網を内部告発したエドワード・
スノーデンに2016年5月、日本人ジャーナリストと
して初の単独インタビュー。
18年、カナダ・クイーンズ大学大学院で監視研究
により社会学博士号を取得。
新著に『スノーデン ・ファイル徹底検証 日本はアメリカの世界監視システムにどう加担してきたか』(毎日新聞出版)。
 
 
 
 
 

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