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【NPJ通信・連載記事】日本の有権者は100年の眠りから目覚めるか―選挙運動規制からみる「参加させない政治」―

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第3回 女性を参加させない政治「不」参加

2020年2月10日


 前回までは、主に戸別訪問禁止などの日本の選挙運動規制が諸外国に例を見ない厳しさであること。そして、そのことを有権者がほとんど認識していない深刻な現状を紹介した。

 今回は、「女性を参加させない政治『不』参加」と題して、日本の政治がこれまで様々な人を排除し、なるべく参加させないようにしてきたことを紹介したい。特に取り上げるのは女性である。昨年、岩波新書から前田健太郎『女性のいない民主主義』が出されたように、男性政治学者がジェンダー、フェミニズムの視点・成果を取り入れて政治学を全面的に刷新する必要を感じる時代になった (これまでにもフェミニズムを研究対象とする大嶽秀夫氏のような政治学者はいたが) 。政治史でも女性の政治参加という視点で改めて論じる必要を感じる。

 女性が選挙権を獲得したのは戦後になってからである。それまでは選挙だけでなく、政党に加入することもできなかった。実は政治集会に参加することさえも、長年の働きかけの結果、大正11 (1922) 年に治安警察法が改正されてようやく認められるに至ったのである。女性史ではよく知られている事実であろうが、ここでその苦難の歴史を振り返ってみたい。

 明治10年代、全国的に自由民権運動が盛り上がりを見せるなか、政府は集会条例を制定して政治集会を規制しようと考えた。その規制の草案には女性の参加を禁じる条項があったが、元老院の審議で賛否同数となり、最終的に議長の裁定により削除された。しかし、実際には運用として、女性の政治集会での演説は治安妨害を理由に禁止され、明治21 (1888) 年を最後に途絶えた。選挙・議会が始まる23年には、同様に運用として女性の政党への加入も禁止された。選挙後、議会が開設される前に枢密院は集会及政社法を勅令によって制定し、女性の政党加入と政治集会参加を禁止した。違反者は罰金刑に処せられることになった。議会開設後、改めて法案が提出され、衆議院は女性の政治集会参加を認める案を採決し貴族院に回付したが、貴族院はこれを否決したため、法律としても両方禁止されることになった。

 こうした政治から女性を排除する動きの背景には、当時の男性の意識があった。彼らは、政治的権利は公民たる成年男子のみが有し、女性は政治に関わることはできないと考えていた。法をつくる官僚がそのような意識をもっていたことは知られているが、その他の人々はどうだったのだろうか。民間での議論をみると、実は官僚と大して違いはない。例えば、先進的な権利保障で知られている五日市憲法も、女性の選挙権を認めていないし、当時作られたその他の私擬憲法も選挙権規定を明文化している案は、ことごとく女性の選挙権を認めていない。この点は政府・官僚だけを批判するのは妥当ではない。

 ところが、民間団体の議論をみると様子は異なってくる。ここでは二つの討論会を紹介する。一つは明治14 (1881) 年に開催された討論会で、のちに衆議院議員になるような人物が登壇している。「女子に政権を与ふるの可否」と題した討論で、賛成派の大岡育造は、政治的権利は国民が共有するもので、租税を負担していれば男女問わず認められる。女性が軍務に従事しないことを理由に反対する者もいるが、古来女傑も多々存在し、女帝も女王も多く存在するから理由にならない。これを否定するのは専制政府の圧政に慣れてしまった者だけだと主張した。これに対して反対派の黒岩大は、男女同権主義は戸主を二人置くことにつながる。法律の保護を政治的権利の根拠にすれば、女性のみならず障碍者や子どももそれにあたるがそれでよいのか。もし女性を兵役に従事させると軍の風紀が乱れると反論した。

 また、明治24 (1891) 年に開催された「婦人に政談演説を許すの可否」という討論会では、賛成論として、法律上無能力者とするのは当然だが、直接政治に関与させるのではなく政談を聴くくらいは利あって害はない、英国のように女王がいる国もあるのだから女性が政治に関与しても害はない、国会の傍聴は認めているのだから政談演説を聴くことに問題はない、といった意見が出された。それに対して、反対論として、女性が政治思想を身につけると、「所謂生意気者流」が「増殖」するから弊害である、皇室典範を見れば男子限定だから女性に政治的権利は不要である、女性は男性よりも知識能力に乏しいからその価値はない、男性は外を治め、女性は内を治めることから、男性は国家の公務に参与し、女性は一家の私事に従事する、といった意見が出された。討論会では賛成論の最初の意見に「喝采」と書かれているように、女性が政談演説を聴くくらいはよいだろうという雰囲気で始まり、途中の議論も賛成派が優勢のように読み取れる。しかし、結果は賛成12人対反対17人で反対派が勝利している。

 二つの討論会とも、男性だけが出席し、討論している。内容をみると当時の男性からも性別で政治的権利が認められないのはおかしいという意識はあることがわかる。ただし、反対意見からは、なぜ男性に認められる政治的権利が、女性だけは認められないのかという根本的な理由は語られないまま、反対論に与する男性の方が多いという結果になっている。おそらくは、女性が「生意気」になったら家事をやらなくなり、そうなると男性が困るということに尽きるのではないだろうか。反対論に根拠が薄いことから、時間が経過し、近代化が進めば男性側も賛成論が優勢になるだろうことはうかがえる。また、選挙権のある男性によって選出された衆議院議員が女性の権利を認める方向にあるのも、初期議会に民権家が多かったこともあわせて、理解できる。

 さて、選挙権を認められなかった女性は、政治集会に参加することも政党に加入することもできなかった。さらに議会開設前には、新たに開かれる議会の傍聴から女性を排除することが検討され、それが伝わると女性から反発の声があがった。特に清水豊子は『女学雑誌』上で反対の論陣を張り、キリスト教矯風会は政党に文書に申し入れを行った。結局、衆議院も貴族院も女性の傍聴を認めることになった。議会が開設されると、矯風会を中心に女性が傍聴に行き、新聞にその氏名が掲載されるほど注目された。記録に残っているところでいうと、第1議会 (貴族院) で32人、第2議会 (衆議院) で66人の女性が傍聴している。

 そして、女性団体は政治集会への参加を求める運動を開始し、明治33 (1900) 年の治安警察法制定時にそれを認めるかどうか議論になった。当初の内務省草案には女性の政治集会への参加を認める条項があったが、衆議院通過後、貴族院では一人の議員から、女性は行けないようにしたらどうですかと意見が出され、同調する議員が出て、再び禁止することになった。当然、女性団体から批判の声があがり、法改正を求める請願運動と議員への要請運動、そして議会傍聴が繰り返し行われるようになった。

 特に大正8 (1919) 年に平塚らいてふ、市川房枝らの新婦人協会が設立され、請願運動は盛り上がりを見せる。2千人を超える署名を集め、請願を提出し、議会傍聴に訪れた。反対議員に対する直接的な要請も行われた。第44議会の請願では男性1200人、女性1300人を超える人数が署名しており、女性だけの運動ではなかったことがわかる。時代の変遷とともに、女性の政治参加に同意する男性が増えていった結果であろう。「女性参政権運動」といわれるが、選挙権だけでなく、その手前の議会傍聴、政治集会参加、政党加入の段階から女性は権利を認められず、一つ一つ声をあげて改善を実現していったのである。しかも、その声を正当なものとして支持する男性が議会内外で一緒に運動を行ったことを見逃すことはできない。

 現在、諸外国に比べて日本の女性の社会進出が著しく遅れていることが指摘されている。ある大学医学部入試で女性の受験生が男性よりも一律に80点低くされていることが報道されているように、表に出せないような女性差別をずっと継続してきた結果であることはもはや明白である。特に政治の世界は女性議員が全体の2割にとどまり、しかも目立つ女性議員に対しては心ないヤジが浴びせられたり、ネット上で誹謗中傷が絶えなかったりと、男性に比べて明らかに不当な目にあうことが多い。議員でなくても女性が政治に声を上げること自体を封じる風潮さえある。その意識は、今から約130年前(明治20年代)の「生意気」な女性が増えることを警戒する“19世紀男”の意識と何ら変わらないのではないか。つまり、いつの時代も「女性の政治参加」は女性ではなく男性が問題なのである。

 目障りな動きは、法規制しなくても運用で実質禁止をしてきたのが日本社会の歴史であり、今も実質的な政治「不」参加によってゆがめられているものは数知れない。

参考文献
児玉勝子『婦人参政権運動小史』 (ドメス出版、1981年)。
市川房枝編『日本婦人問題資料集成』第2巻 (ドメス出版、1977年)。

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