【はじめに】
皆さんは、もんじゅのナトリウム漏れ事故を覚えているだろうか。そう、旧 「動力炉・核燃料事業団」 (動燃)の運営する核リサイクル原発、
ナトリウム冷却高速中性子型増殖炉 「もんじゅ」 (福井県敦賀市)で、1995年12月8日、冷却剤であるナトリウムが漏れた事故である。
原因は、温度計が折れ、そこからナトリウムが漏れたためだった。では、この事故で一人の動燃職員が命を落としたことは記憶に残っていますか。
【事件に至る経過】
ナトリウム漏れ事故は、冷却剤が漏れたという事故の重大性だけでなく、動燃による情報隠しが問題となった。
動燃は、事故後まもなく午前2時に入室し、ビデオ撮影していました(2時ビデオ)。それにもかかわらず、動燃は、このビデオを公表せず、
それから14時間後に入室した際のビデオを最初のビデオとして公表しました(4時ビデオ)。
しかもこの4時ビデオは編集され、重大さを感じさせる部分がカットされて発表されたのです。
しかし、真実を隠し通せるはずもなく、4時ビデオの編集問題、2時ビデオの隠蔽問題が次々と発覚し、現地もんじゅの所長らが更迭に追い込まれました。
そして、情報隠蔽問題に関する内部調査チームが発足しました。
その調査の結果、実は、2時ビデオが現地もんじゅのみならず、本社にも事故直後届けられており、本社の職員もそのビデオを見ていたことが分かり、
12月25日、理事長に報告されました。
しかし、なぜか、理事長は直ちに発表するよう指示しませんでした。
動燃は年明け後1月11日、科技庁に相談し、科技庁が翌12日、動燃本社にも2時ビデオはあったらしいと記者に漏らした後、
2時ビデオの本社持ち込み問題について急遽発表することとしました。
【第3回記者会見までの経過】
第1回記者会見は午後4時20分から午後5時10分。広報担当理事らによってなされたこの会見では、概要すら発表できず、
いつ2時ビデオが本社にあることが分かったのかという質問に対してさえ、「確認する」としか答えられませんでした。
記者がそんないい加減な発表で納まるはずもなく、責任者を出せ、理事長を出せと迫ったのです。
動燃側は仕方なく、理事長会見をセットしつつも、その後に調査担当者による会見を行うこととし、理事長会見では細かいことは触れないことにしました。
そして、この段階では、本社にビデオがあることが分かったのは12月25日とする予定だったようです。
ところが、午後7時半から午後8時10分まで行われた理事長記者会見(この日の第2回会見)で、
2時ビデオ隠しに本社職員も関与していたのではないかという質問に対し、理事長は、
「その辺は、私もこの、最初の昨日の夕方聞いたときにですね、指示をして、私もその辺が良く理解できなかったので、この1ページの一番下の方に、
簡単ですけど、『その後より鮮明なビデオやマスコミ共同取材のビデオが公表された後は、2時ビデオに関する関心は薄れた。
非常に写りが悪いということもある。』 どうもこれが実態です」
と回答しました。
なぜ、彼が、「最初の昨日の夕方聞いたとき」、すなわち、自分が聞いたのは昨日夕方だと答えたのかは分かりません。
もしかしたら、2時ビデオ隠しへの本社関与を突っ込まれたため、もし、12月25日に報告を受けていたことを話したら、
科技庁が発表するまで発表しなかったということは、やはり、2時ビデオ隠しに本社も関与していたと思われてしまうと考えたのかもしれません。
いずれにせよ、この理事長の回答で、第3回記者会見に望む調査担当者は行き詰まった。あなたが、調査担当者ならどう答えますか?
【第3回会見〜自殺まで】
実際に調査を担当した西村成生さんは、午後8時50分から行われた第3回記者会見で、2時ビデオが本社にあることが分かったのは、1月10日だと発表しました。
1月10日になって、ある職員の机の中から出てきたと答えたのです。
この回答が動燃内部で再検討された結果なのか、それとも西村さんの個人的な判断だったのかは、はっきりしません。
しかし、確かなことは、西村さんは単独で会見したのではなく、西村さんの横には、
この日の1回目の記者会見を主宰した広報担当理事及び広報室長が座っていたにもかかわらず、
両氏は、西村さんの発表内容を訂正することはなかったということです。
西村さんがなぜ、1月10日と答えたのか、それは、12月25日と答えた場合、さきほど理事長は自分が知ったのは1月11日だと言ったが、
理事長に報告しなかったのか、それとも理事長がウソをついたのか、と追求されることは明白だったからだと思われます。
理事長に報告しなかったと答えたら、なぜ報告しなかったのか、情報隠し問題がここまで騒ぎになっているのに、理事長への報告すらない組織は解体してしまえ、
ということになるし、もし報告したと答えたら、じゃぁ、動燃はトップである理事長がウソをいう腐った組織だから解体してしまえ、ということになります。
西村さんには、いや、動燃には、1月10日と答えるしか途が残されていなかったのでしょう。
しかし、発表後、西村さん、いや、動燃は、1月10日という発表がウソであることはいずれ発覚するだろうという現実に直面しました。
そして、西村さんは、1月13日未明、ホテルの駐車場で遺体となって発見されました。
【一言アピール】
遺族は、真相を解明するために本件訴訟を提起しました。当時の事情をご存じの方はぜひ、NPJ までご連絡下さい。
なお、NPJ動画ニュース第3回で本件で問題となっている ビデオ を紹介していますのでご覧下さい。
東京高等裁判所が2009年10月29日、判決。
原告ら (控訴人ら) の主張は認められませんでした。
原告らは上告しました。
判決文
最高裁2012年1月31日、上告棄却
もうひとつのもんじゅ訴訟
−もんじゅ西村訴訟が明らかにしたもんじゅの闇−
2012年2月2日
弁護士 海渡 雄一(もんじゅ西村訴訟弁護団)
1 突然の上告棄却決定
高速増殖原型炉 「もんじゅ」(福井県敦賀市)のナトリウム漏れ事故(95年)を巡り、
内部調査を担当して自殺した動力炉・核燃料開発事業団(動燃、現・日本原子力研究開発機構)の総務部次長だった西村成生さん(当時49歳)の遺族が、
機構に損害賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第3小法廷(寺田逸郎裁判長)は1月31日付で、遺族側の上告を棄却する決定が出された。
この判決によって遺族側敗訴の1、2審が確定した。
最高裁決定を受け、西村さんの妻トシ子さん(65)は東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見し、
「裁判では、実態と違うことが認められるだけで時間が過ぎていった。(夫の死亡の)真相が闇に葬られてはたまらない」と悔しさを隠さなかった。
以下に、この事件の弁護を担当した弁護士として、この裁判が明らかにできたこと、明らかにすることができなかったことを示し、
こんごのもんじゅ開発のあり方を考えるための素材を提供したい。
2 西村成生さんのご遺族から委任を受ける
ナトリウム漏洩事故後のビデオ隠し事件の内部調査に当たっていた西村成生さんがはじめて出席した会見の翌日である1996年1月13日に
亡くなるという痛ましい事件が発生した。
ナトリウム漏洩事故後、動燃によるビデオ隠しが大きく社会問題化したが翌年1月、社内調査担当の総務部次長・西村成生さん(当時49歳)
が1月12日夜の記者会見の直後13日未明に 「自殺」 したと報道された。これを機に動燃追及の報道は一気に沈静化してしまった。
一般にはマスコミと反対派の過剰な追及がこのような死を招いたものとされ、当時事故の責任を追及していた私たちにとっても、
この 「死」 は重い記憶となっていた。
それから7年以上が経過した2003年秋に私は西村成生さんの妻であるトシ子さんから手紙をもらい、お会いして相談を受けることとなった。
何人もの弁護士に相談したが誰も受けてはくれなかったということだった。
私は、ご遺族は 「夫は反対派とマスコミに殺された」 と思っておられるかもしれないと思っていたので、最初にお会いする時には大変緊張した。
トシ子さんは、成生さんの死亡推定時刻とご遺体の死後体温に矛盾があること、
残された遺書に成生さんが書いたとすれば絶対にあり得ない誤字や書き癖が含まれていることなど、報道された 「自殺」 という前提から疑問を持たれていた。
もんじゅ訴訟の弁護団で一緒だった内藤隆弁護士や労災事件の専門である鴨田哲郎弁護士にも弁護団に入ってもらい、
同じ事務所の先輩と同僚である宮里邦雄・日隅一雄弁護士にも入ってもらい、弁護団を組んだ。
成生さんの所持していた遺品の鞄に入っていたもんじゅ事故社内調査の資料や残されていた 「遺書」 の背後にあるものの解読から、
成生さんの死の真相を究明するための作業は始まった。
約1年間の調査と検討を経て、トシ子さんとご子息は動燃に対し安全配慮義務に違反したとして2004年10月に労災としての損害賠償を求める訴訟を起こした。
この裁判は2007年5月14日に東京地裁で敗訴し、2009年10月29日には東京高裁でも敗訴判決を受け、今回の上告棄却決定となった。
上告から2年以上を経過し、前向きの判断の期待もしていただけに、今回の決定は代理人としても残念でならない。
しかし、裁判の経過の中ではこれまで隠されていた事件の経過についてかなりの程度のことを明らかにすることができたと考えるので、整理しておきたい。
3 動燃によるビデオ隠しと内部調査
成生さんは動燃の総務部次長だった。この事故後、動燃が事故現場を撮影したビデオを意図的に隠していた事実が相次いで発覚した。
ビデオ隠しは、ナトリウム火災によって無惨に破壊された事故現場を隠蔽し、事故そのものを過小なものに見せかけるための情報操作であった。
この情報操作は、福井県と敦賀市の原子炉内への立ち入り検査や科学技術庁の強制立ち入りなどによってようやく明確となった。
1995年12月8日、動燃(現在の日本原子力開発機構)の高速増殖炉 「もんじゅ」 (福井県敦賀市)で、
原子炉の熱を取り出す2次冷却系配管から冷却材のナトリウムが漏れる事故が起こった。
動燃は、事故直後の午前2時に事故現場を撮影したビデオ(「2時ビデオ」)を公表せず、
それから14時間後に撮影したビデオを最初のビデオ(「4時ビデオ」)として公表した。
「4時ビデオ」 には編集が加えられており、事故の重大さを感じさせられる部分がカットされていた。
成生さんは、一連のビデオ隠しが発覚し始めた直後である12月21日人形峠事業所において執務中に、
ビデオ隠しの経緯についての社内調査を担当するよう、大畑宏之理事から特命を受けた。
この日夜帰宅した成生さんはトシ子さんに対して 「もんじゅの担当にされてしまったよ。」 とがっくりした様子で打ち明け、
「N(当時の総務部長のこと)は何もやらない。彼の仕事の分まで俺に回すのだよ。」 と怒ったという。
この 「2時ビデオ」 は事故直後に本社に届けられ、本社職員も見ていたことがわかり、この経過の調査が内部調査の重大な課題となった。
成生さんは、12月25日午後2時頃、本社動力炉開発推進本部プラント設備総括グループに所属するMもんじゅ計画課員からビデオ隠しに関する事情を聴取し、
2時ビデオについて、12月9日に上司のTもんじゅ計画課長に託して午後4時頃にもんじゅを出発し、本社に持ち帰ってもらった、
T計画課長が持ち帰った2時ビデオは同日、管理課長テーブル周辺のテレビで再生し、和泉副本部長を含む10人程度で見たと報告を受けた。
また、12月25日午後5時過ぎ、本社動力炉開発推進本部プラント設備総括グループに所属するEもんじゅ計画課長代理からビデオ隠しに関する事情を聴取し、
T計画課長は12月9日20時50分東京駅に着き、21時30分頃には2時ビデオを本社に届け、同ビデオを動力炉開発推進本部居室にいた10人位で見た、
2時ビデオは管理課Iの机に保管しておいた、12月11日の週に佐藤副所長から自分に 「危ない」 という連絡があり、2時ビデオを自分が預かった、
もんじゅサイトで2時ビデオを公表するという日(22日)、佐藤副所長から 「抹消しろ」 という話があったが、証拠隠滅になると思い、
自分の判断でそのままにしていたという供述を得た。この事情聴取には渡瀬広報室長も立ち会っている。
2時ビデオの本社保管版は25日夕方E計画課長代理から成生さんに提出された。
そして、1月に成生さんの作成した報告文書には 「12月25日17時頃 Eは、反対派対応を終えた後、ヒヤリングを受け、状況説明を行うとともに、
問題の2時物ビデオを提出した」 と記載されており、本社にビデオが持ち込まれたことが発覚した日が12月25日であることが明記されていた。
2時ビデオの動燃本社内視聴を動燃本社上層部が認識した時期は、成生さんが後の1月12日の記者会見で問われた決定的な質問であるが、
成生さんは、この時期が12月25日であることを完全に調査・把握しており、
自由に発言できる状態であれば2時ビデオの存在を確認した日付についての質問に対して回答を間違えるはずがなかったのである。
4 なぜ本社2時ビデオのことがすぐに公表されなかったのか
それでは、なぜ本社2時ビデオのことがすぐに公表されなかったのか。このことが本件のすべてのはじまりである。
このような調査を受けて内部調査団の鈴木団長は12月25日大石理事長に対して、事実を直ちに公表するように進言した。
しかし、ところが、大石理事長はただちに発表することを指示せず、調査の続行を指示した。
12月27日に大石理事長は国会に出席したが、ここでもこの事実を公表しなかった。
「成生ら調査チームは、1月9日及び10日も調査結果を報告する時系列表等の資料を作成する作業を続けた。
同月10日には、読売新聞が本件事故に関連する大きな記事を書くという情報が入ったため、徹夜で報告書の作成作業をして完成に近いものを作り上げた。
その作業の中で、平成7年12月25日にEが2時ビデオを提出した旨の記載は、報告書から削除されることとなった。」 (地裁判決)と認定されている。
正確な事実の公表を拒む力が動燃内に働いていたことを示している。
1月11日午後8時から、動燃担当者は科学技術庁の原子力局と原子力安全局原子炉規制課に順次調査報告の内容を説明し、
この時点で本社2時ビデオ問題が報告された。併行して11日の夕方には、この調査報告の内容が大石理事長に対して説明された。
平成8年1月12日午後4時過ぎに、中川秀直科学技術庁長官は、閣議後の記者会見において、2時ビデオは動燃本社に持ち帰られ、
動開本部の者も見ていた旨発言し、動燃本社が保管していた2時ビデオについて、記者の関心が高まり、
急遽、動燃は連続3回の記者会見を行う混乱状態に陥った。
5 第1回安藤理事会見の会見内容
1月12日の西村さんが説明に立った会見は三度目の会見である。
1回目の会見(午後4時20分から午後5時10分)で主として答えたのは安藤理事であった。
安藤理事が説明に用いた 「資料には、平成7年12月25日にEが2時ビデオを提出した旨の記載はされていなかった。
安藤は、これらの資料を読み上げて説明し、従来の説明と異なり、
本件事故が発生した後早い段階で動燃本社においてもビデオを見ていた事実の報告を受けたことについて謝罪する旨述べた。
この記者会見の中で記者は、ビデオ隠しに関する調査は、理事長の責任でしているのだから、理事長本人が説明するべきであり、
30分以内に是非理事長から説明していただきたいと理事長である大石の記者会見を要求した。
また、安藤は、動開本部員Eはいつから2時ビデオを持っていたのか、動関本部員Eがビデオを保管していた事実が判明したのはいつか、
2時ビデオが動燃本社に存在することが判明したのはいつかなどの記者からの質問に対して、回答を留保し、確認する旨述べた。」(地裁判決)
6 第1回会見後の打ち合わせ
「動燃は、1回目の記者会見において回答が留保され宿題とされた13項目の質問事項について回答するため、動燃本社理事長室において打合せを行った。
この1回目の打合せには、大石理事長、安藤理事、渡瀬広報室長、大石理事長の秘書役であった田島良明、調査チームの成生らが出席し、
これらの出席者に13項目の質問事項が記載された書面が配られた。この打合せにおいて、大石理事長が正直に対応するよう指示したことから、
「動開本部員Eが2時ビデオを保管していた事実が判明したのはいつか」 及び 「本社に2時ビデオが存在していたことが判明したのはいつか」
との質問事項に対しては、いずれも 「平成7年12月25日である。」 と答えることが確認された。
田島は、この打合せの席上、大石理事長に対して、「12月25日ということで本日になって発表すると、今までの経緯、
ビデオ問題をさんざん隠したという社会の糾弾を浴びておりましたから、1月の今日になって、12月25日に判明しましたということを言うと、
また騒ぎになりますが、それでよろしいですね。」 と念を押して確認したところ、大石理事長は、「いい」、「事実をありのままに言いなさい。」 と答えた。」
(高裁判決)
このやりとりについて、田島は証言においてこれが理事長会見の終了した後の打ち合わせにおいてであると述べ、
大石理事長も、第2回の理事長会見の後の打ち合わせで、「聞かれれば、12月25日とこたえなさいということを出席者の皆さんに、
全員に私から指示を致しました」 と述べていた。地裁判決はこの事実が第1回会見のあとか第2回会見のあとかについては認定を回避したが、
高裁判決は田島と大石の証言を信用せず、原告側の主張に沿って、理事長会見前の第1回の打ち合わせでの発言として明確に認定した。
この認定により、理事長会見における虚偽答弁の重要性が際立つこととなった。
7 第2回理事長会見
第2回の会見(午後7時30分から午後8時10分)では大石理事長が説明に立った。
しかし、理事長は自らの指示したように事実をありのままには述べなかった。
高裁判決は次のように認定している。「動燃は、記者からの理事長による記者会見開催の要求に応じて、同日午後7時30分から、
その日2回目となる大石の記者会見を実施した。大石は、冒頭で、1回目の記者会見で指摘された点について早速調査するよう指示し、今作業をしており、
分かり次第お知らせすること、昨日の夕方、動燃のビデオ隠しについての調査結果を聞き、
事実関係が十分把握できなかった点について明確にするよう作業を命じていたが、本日その結果がまとまったのでお知らせした次第であること等を述べた。
この記者会見における記者からの質問は、専ら、ビデオ隠し問題の調査を今後も続けるのかどうか、
配布された上記各資料にはビデオ隠しをなぜしたのかという理由や、ビデオ隠しの本質に関する記載がないのではないかとか、
今後の関係者に対する処分や大石自身の進退といった点についてなされ、
2時ビデオが動燃本社に存在することが判明した時期についての質問はされなかった。
質疑応答の中で、
記者が2時ビデオが動燃本社に持ってこられた際にそのビデオを見た者は一般の職員でありその旨上司に対する報告はなかったということか
と質問したのに対し、大石はこれを肯定した。さらに記者からの動燃本社の管理職の人間は2時ビデオの存在について知らなかったということかとの質問に対し、
大石は、2時ビデオについては、自分も含め動燃本社の幹部は知らなかった旨回答した。
その後も、記者から先ほど動燃本社の幹部はビデオの存在を知らなかったと言っていたが断言できるかという質問がされたが、大石は、断言できる旨答え、
色々な者に調べさせ、クロスチェックをかけた結果であるから、そのように信じているなどと述べた。
この記者会見は、同日午後8時10分ころ終了した。」
この記者会見における理事長の説明が事実に反するものであったことは、上記したところから明らかであろう。
理事長のこのような虚偽発言がなければ、成生さんの会見を開催すること自体が必要なかったのである。
2時ビデオに関する具体的な質問に理事長が答えなかったことからこそ、内部調査を担当してきた成生が出席することが必要となった。
両判決はこの基本的事実から考察をはじめるべきであった。
8 第3回会見と成生さんの答弁
調査に当たっていた成生さんが当日3回目の記者会見(午後8時50分から午後10時5分)に出席することとなった。
そして、成生さんは理事長の虚偽の説明に合わせて 「2時ビデオ」 が本社にあることが判明したのは 「1月10日」 と言わざるを得なくなった。
しかし、この事実は既に科学技術庁の知るところとなっており、翌日である1月13日には理事長の 「嘘」 が明確になり、
嘘つき動燃の解体からもんじゅの廃炉までが現実的なものとなりうる状況が迫っていたのである。
成生さんの 「死」 はこのような状況の下で起き、動燃は解体を免れたのである。
東京地裁判決は、自殺の原因とされる動燃の情報隠し問題で、
西村さんが記者会見で虚偽発言(事故直後に撮影したビデオ 「2時ビデオ」 が動燃本社にあることがわかったのは、
12月25日なのに1月10日と答えた)をしたのは、西村さんの 「意図的か勘違いによるもの」 であるとして、原告の訴えを退ける判決を言い渡した。
これに対して、東京高裁判決は 「もし虚偽の回答をしてしまったことが発覚した場合には、もんじゅ現地のみならず動燃本社までもが嘘をついているとして、
社会から厳しい指弾を受け、大石理事長の早期辞任はもとより、
動燃の体質論から動燃の解体論にまで発展しかねない重大な事態を引き起こす危険性があったこと。
そして、2回目の記者会見後の午後8時30分ころには動燃は監督官庁である科学技術庁に 「本社分プレス宿題回答」
と題する書面等をファックス送信しており、それには、「動開本部員Eが2時ビデオを保管していた事実が判明したのはいつか」
という質問事項に対する回答として 「12/25(月)である。」 と記載されており、成生が虚偽の回答をしたことは早晩発覚するものであり、
このことは安藤理事及び渡瀬広報室長においても認識し得たこと」 を認定しながら、動燃において成生さんの自殺を予見することはできなかったとして、
その安全配慮義務を否定し、トシ子さんたちの請求を棄却した。
9 科学技術庁からの出向職員の証言
東京高裁で証言した科学技術庁からの出向者で広報を担当していたMKは、第1回目の記者会見で、安藤理事が記者の質問にきちんと答えず、
「確認する」 などという答弁を繰り返していたことについて、「安藤理事は役員だったので、これはない(と思った)」 とか、
「安藤理事はもう少しちゃんと答えていればよかった」 などと述べ、記者会見における安藤理事の対応が不十分であったとの認識を示した。
また、「2時ビデオ」 が本社に存在することがわかったのは12月25日だったのに西村さんが1月10日と間違えて答えてしまったのなら、
深夜であっても訂正の記者会見をトップの大石理事長がやればよかった、などと述べ、大石理事長の対応についても批判的な見解を述べた。
さらに、「動燃幹部が、記者会見の翌日、訂正記者会見を行う予定だったと言っているが、事実か。」 という質問に対し、
MKは、翌日の記者会見の指示を自分は受けていないと証言した。高裁判決は理由も示さず、この証言は信用できないとしてしまったが、大いに疑問である。
10 成生さんの死まで
記者会見が終了した時点で関係者は成生さんが 「2時ビデオ」 が本社に存在することがわかったのは12月25日だったのに
成生さんが1月10日と答えたことについて、
安藤理事と渡瀬広報室長から問いかけを受けた以外に動燃幹部らから第3回記者会見について善後策の検討をしようと持ちかけられた様子は全くない。
12月25日に発覚した旨公表すべきであると主張してきた成生が、当日の経過の中で虚偽の事実の発表をせざるを得ない状況に追い詰められても、
誰一人として成生の置かれた深刻な状況を踏まえた対応をしようとするものもおらず、動燃内で誰も責任を取ろうとしていないのである。
深夜にホテルに宿泊中に会見記録のFAX送信だけを受けた成生は、
翌日この事実が虚偽であることが発覚した時点での自らのおかれることとなるであろう立場を想像し、絶望したのであろう。
翌日13日に成生が大畑理事と現地敦賀、福井に出張し、記者会見に臨むことになっていたと証言するのは、大畑理事と田島秘書役、TM総務課員である。
秘書役と総務部関係者、総務担当理事しか知らないということは極めて不自然である。
理事長大石、もんじゅ広報担当理事安藤、広報室長渡瀬らは現地の会見はもとより、成生が現地に出張することになったことも知らないと証言している。
現地敦賀での記者会見報告書によれば、動燃は、翌13日に成生さんたちが現地で記者会見することになっていたと主張するが、
そのことについて、12日の深夜の記者会見でも触れられていない。このことからも、翌13日の記者会見についての打ち合わせがなされないまま、
動燃は、成生さんを現地に送ろうとしていたことが伺える。
渡瀬広報室長にいたっては現地での記者会見予定は、動燃における本社現地同時間帯会見の原則から、
自分が知らない以上 「そういうプレス会見という予定はなかったんではないでしょうか」 とまで述べている。
しかし、第3回記者会見の議事録作成者である広報室のENは総務部で成生さんの居場所を聞き出してFAXしたとしており、
この出張は広報が関係しない総務関係の出張であった可能性がある。
少なくとも、成生さんに現地で訂正の記者会見を行うことの説明はなかったことは間違いない。
成生さんへの説明がなかったことは渡瀬広報室長と安藤理事が成生さんと打ち合わせをしようとしたが、
行方が分からなくなったと証言していることから明白である。
ただし、広報室のENが成生が宿泊しているホテルに第3回記者会見の議事録をファクシミリ送信しているのであるから、
電話で連絡を取る方法はいくらでもあったはずであり、渡瀬広報室長と安藤理事が成生さんとコンタクトを取ろうとしたこと自体が疑わしい。
いずれにせよ、成生の翌日の会見に関して、きわめて事務的なファクシミリ送信に関する会話があったことしかうかがえず、
翌日の現地での記者会見に臨む方針の具体的な指示は全くなされていない。このことは決定的な安全配慮義務違反を構成する。
なお、このFAXは最後に成生さんが見た文書であり、ホテルの部屋に最初に入った大畑理事もこれを見たと述べているにもかかわらず、
行方不明で見つかっていない。ここに成生さんが最後の本当の気持ちをメモしていたかもしれないが、これは隠されたままとなっている。
11 大石理事長宛ての遺書が物語ること
FAXは残されていないが、成生さんは、原告トシ子のほか、大石理事長及び田島秘書役に遺書を残し、ホテルの部屋に残した。
このうち、大石理事長宛の遺書には、実際に起きた出来事とは全く異なることが書かれている。
第3回記者会見において、成生は、前記のとおり動燃幹部の指示に従い、2時ビデオが出てきた日について、「1月10日」 と答えた。
決して失敗して勘違いで間違えたのではない。しかるに、遺書においては、
「プレス発表という重大な局面で私の勘違い(原文は「勘異い」−トシ子さんは成生さんがこのような間違いをするはずがないと指摘している。)
から理事長や役職員に多大の迷惑、むしろ 『本当のウソ』 といった体質論にまで発展させかねない事態を引き起こす恐れを生じさせてしまった」 と、
まるで、成生が勘違いして1月10日と回答したかのように記載されている。
この遺書の内容は、成生が動燃の危機を救うために死を決意し、会見での自らの強いられた答えを 「私の勘違い」 として、
すべてを自らの責任に背負い込んで自殺することによって、組織の失態を救おうとしたことを明白に示している。
しかし、成生さんは、動燃及びそこに務める仲間たちを救おうとはしたが、責任を回避した幹部を許すことは出来なかった。
「いずれにしろ、理事長が正直であることが第一であり、決して隠すことのない様に言われていましたが、私も同感であります。」 との記載は、
第2回記者会見で大石理事長が正直に会見で答えなかったこと、その結果、自分が虚偽発表せざるを得なかったことを考え合わせれば、
その無念さを関係者であれば分かるように暗に訴えていることは明らかだ。
さらに、遺書の末尾4行に 「誠に無念です。最後にE君が折角素直に私に対し臨んでくれたことにまで迷惑を掛けてしまったことをお詫びさせていただきます。」
と記載されていることもきわめて重要である。この記載は12月25日に、
自分の調査に答えてE計画課長代理がビデオを提出し事実をありのまま説明したことを指している。
このことは成生にとって勘違いのしようのない事実であり、これをありのまま会見で答えることを許されなかったこと、
それが故に自ら死を選ぶほかなくなったことに対する悔しさ・無念さが行間ににじみ出ているではないか。
この遺書には平成8年1月13日午前3時10分という日時が明記されている。
しかし、成生さんは、時間をメモする時に分の単位に二本下線を引く癖があった。残されているメモはいずれにもこのような下線があるのに、
この遺書の時間には下線がないのである。このようなミステリーにも説明が付いていない。
12 明らかにならなかった事件の深層
私は、もんじゅ開発の犠牲者というべき成生さんの 「死」 の真相を解明する事件の依頼を受けたことを、「縁」 とも感じ、
全力を挙げて真相の解明に取り組んだ。控訴審の最後には西村さんと二人で大畑理事の自宅を訪問して、
一審の証言後に判明した事実関係に基づいて重ねて質問をしたりもした。
我が国の民事訴訟にはアメリカの民事裁判手続で認められている相手方が所持する証拠についての証拠開示もデポジション制度
(裁判前に証人予定者の陳述を録取する制度)もない。
このような制度が日本でも整備されていれば、動燃幹部の作成した内部資料は事前に開示されたであろうし、
主要な証人については事前に尋問の機会が与えられたであろう。
この事件の手探りといっても良い原告側立証活動についても全く異なる展開ができた可能性があると思う。
このような民事裁判制度の改革も将来の課題である。
本件は2009年11月に原告側が上告・上告受理申立をし、2010年2月に上告理由書・上告受理申立書を提出した。
以来2年の歳月が経過し、口頭弁論の開催が行われないかと期待もしていたが、突然の上告棄却決定となった。
私は、手探りとはいえ、地裁・高裁段階での苦闘によって、当日の記者会見の内容とこれに至る経過など事件の真相にかなりの程度肉薄し、
動燃の秘密体質を明らかにすることができたと考える。
しかし、成生さんが13日に出席する予定とされていた現地での会見が本当に予定されていたものなのか、
残された遺書の時間がなぜ成生さんのものと明らかに違うのか、
最後に成生さんが見ていたはずの当日の議事録のFAXがなぜホテルの居室から消えていたのかなど、事件の深層というべき謎は解明できないままとなった。
西村トシ子さんは、真相が明らかになるまで成生さんの遺骨を墓に納める気持ちはないという。
真相を明らかにするための西村トシ子さんの闘いには終わりがない。代理人としても、西村トシ子さんのこの闘いへの多くの皆さんの支援を呼びかけたい。
文責 NPJ編集部