2009.9.30更新

エッセイ風ドキュメント 新しい日本の“かたち”を求めて

ノンフィクション作家 石井清司
目次 プロフィール

「日本はどんな国だったのか」−新“日本のかたち”−

  (序)として−。

  “太平洋戦争” へ走った戦前、戦中日本の “だめさ” “ゆがみ” を今少年の眼で裁く。それは今の “ゆがみ” へどうつながったか。 今の日本を生んだその “母胎” とは何だったのか。
  日本を “神の国だ” といった人たち。天皇は “萬世一系” 絶えたことも絶えることも無い、という人たち。それはほんとうですか。市民革命を希わない人たち−。 などを、たまたまこの世に生を与えられた少年の “原点” から見つめてみます。


  特に過去を資料でしか知り得ない若い世代の人たちに戦前、戦中、戦後の怪しげさの実相を実感できるように、できるだけ分かり易く伝えていきたい。
  天皇を中心とした軍国日本は、米英を中心とした連合国が、ドイツ・ポツダムで三人の首脳、米ルーズベルト、英チャーチル、 ソ連スターリンが合議して日本政府に無条件降伏を付きつけ 「ポツダム宣言」 を受諾し、無条件降伏した。 これで1941年 (昭和16年) から日本から開戦した 「アジア・太平洋戦争」 は断末魔の声をあげて連合軍によって終わらされた。 三人の他の中心人物に中国国民党政府の蒋介石がいたが、ポツダムへは参席していない。

  この日から今日にいたる戦後日本が始まるが、今見る日本の国、社会がそれである。この日、1945年 (昭和20年) 8月15日、昼ごろ、 天皇が日本に当時ひとつしか無かったNHKラジオで、日本は連合国軍に敗け降伏したが、忍耐してがんばっていこう、という趣旨の声明を録音で国民に向けて流し、 国民は薄々感じてはいたが国の中心の天皇からまともに宣言され、何がなんだか分からないままに愕然とし、驚き、 戦中の苦しさに 「欲しがりません勝つまでは」 と耐えてきただけに失意のどん底に突き落とされ、失望し哀しさに打ちひしがれ、 しかしどこかにもうつらい生活の苦しさがこれで終り、ほっと気が抜けた気分に陥った。

  あの日あの時、1936年 (昭和11年) 生まれの私は9歳、その4月に小学の 「国民学校」 二年生になり8月15日で五ヶ月経ったときだった。
  米空軍B29の日毎の空爆で東京の家は焼失し、全国を逃げまわる日々だったので、学習などする機会もなく、 家族バラバラで生育的にも半分幼児レベルの判断力しかなく、ただ目先のその日ぐらしがつづいているだけ。 この日この時で戦争が終わったとか何とかもまるで分からず、ぼけっとまわりと大人たちを見上げるだけだった。

  つまり、私にとって戦中は敵米機の空襲と汽車による逃避移動以外に特に心に刻まれているものは無く、 私の自我を伴う人生はこの日この時開始されたようなものだった。戦中の教育も受けず戦中人としての体臭も身に滲み付かず、米軍が突然日本、 つまり私の前に持ち込み示してみせた真の民主主義と自由が、私にとって思想、哲学、体質の “スリ込み” となった。 これは実に幸運な自我人生のスタートだったと今も喜んでいる。即ち、真の民主主義、自由人っ子として少年期をスタートさせることが出来た幸運を、である。 戦中のいやらしい全体主義、軍国主義を身につけさせられなかっただけ、以後の人生に於ける発想の新鮮さ、自由さの獲得という意味で幸運だった。 生粋の戦後っ子、民主主義っ子としての発想を身につけることが出来たからである。 その後の世代にもそれはいえることだが。自分の場合は特にそのゼロ地点に偶然たてたという意味で実に良かったと思う。

  その後、今にいたるまで人と社会に対する判断と感性は、殆ど揺るぎなくそのことに依拠できているからでもある。 誰がなんと言おうと政治が社会がどう動こうと、私の民主主義と自由に対する感性は今もって不動、揺るぎないと思っている。 これは教えられたものでなく、空気のように感じることのできる動物に似た直情だから、他の何かでは変形しない。
  そこで長い人生、その感性をもって生きてきた。だから、何が人権を侵し、非民主的で自由を抑制するものかを直感することができてきた。
  だから、1945年 (昭和20年) 8月15日、昼頃の天皇のラジオ放送、敗終戦宣は私の起点なのでもある。

  この稿はそこを起点、基点として、戦後、戦中、更にこの国日本の始まりについて、ゆがみについて、誤りについて拡げるエッセイ的、直感的ドキュメントとしたい。 当然それは天皇を中心とした日本という国と社会について、戦争行為について、日本の歴史、成り立ちの偽りの教育キャンペーンへの矢とならざるを得ない。

  あの日、あの時私はどこで天皇のそれを聞いたか。群馬県の熊谷駅のプラットホーム。外は8月の陽光でギラギラし、駅頭から見渡すと見知らぬ町、 敵空襲で焼けただれた町が、白く光にはね返り、浮かんで見えた。蝉の声がBGMのように空いっぱいに張りつめていた。 9歳の少年に、それらのことへの感慨はない。既にながい逃避の薄っぺらい日々の連続で、少年の頭脳も判断力も半ばマヒしたに近い。 目に映るもの、耳に入るものをただ受け止めるだけの習性が身に付いていた。動物的な、身を護る自然保護色の生き物になったような。 天皇の何とかも蝉の音に混じった何かでしかない。

  逃避先の福井市から石炭汽車から群馬へ向けて来たそのホームのひとつが熊谷駅。 汽車は停まったまま、全車に詰め込まれた敗惨兵のような身なりと表情の男たち女たち。そこに子供たちがはさまれている。皆わずかな荷物を抱え込んで。
  妙に静かな汽車の停車状態のなか、おとなたちの多くは薄汚れたプラットホームに出て立ち、彫刻のように動きがない。 夏の陽光下の陰影のプラットホームとおとなたちの動かない立像。
  どこかで機械的な音がガガーガー鳴っている。それに混ざり何かの声のようなものが時折入る。それが天皇の終戦の詔勅なものだったらしい。
  のちの記録におとなたちがその時泣いたとか、東京の皇居。二重橋前の砂利広場に人々が伏し、拝し、無言で頭を垂れていたなどとある。 どこかで割腹自殺もあったという。天皇の近臣、元老の近衛が自死し、その後、占領軍の戦争犯罪人を裁く東京裁判のため逮捕に来たGHQ将兵を待たせて、 太平洋戦争へ突入させた元凶東条英樹元首相、大将が自宅でピストル自殺を図ったが失敗したとかは、もっと後の話である。

  もっとおもしろいと思ったのは、連合軍の日本政府の降伏勧告等の通達のやり取りが、外交もコミュニケーションも不在だった米日間故、 外国からの短波ラジオ放送で行われたということだった。そんなことでは日本のポツダム宣言の受諾や条件確認、交渉など遅々としたものになる。 終戦の期日はどんどん遅れ、その分日本の軍民の死傷者数は日々増していた。日本の政軍為政者の不能力、不決断ぶりがそれに輪をかけさせた。 日本側も米軍に向け短波の破調を合わせて放送を送り、米軍もそれを短波ラジオで聴いてまた回答して寄こす。他にお互いの通信の回路を持っていなかった。 笑うに笑えない日本側の慌ただしい滑稽ぶりだった。

  天皇の国民に向けた “戦争終結” の詔勅なるものは、漢文調の正式語文で国民には訳が分からず、更に自らの誤りを認めるものではなく、 もってまわった責任回避的、言い逃れ、弁解的な実に往生際の悪い。歯切れの悪いものだった。
  その時、他の人たち、あるいは有識者といわれる人たちは天皇のその放送をどう聞いていたか。