2009.11.19

エッセイ風ドキュメント 新しい日本の“かたち”を求めて

ノンフィクション作家 石井清司
目次 プロフィール

太陽がいっぱい

  後世 “天皇の終戦の詔勅” といわれるラジオ放送のただガーガーした音を、埼玉県熊谷駅に停車していた汚れきった車体の汽車で耳にしたのが、 1945年(昭和20年)8月15日の午前だったことをあとで知った。
  9歳の少年私は、やはりみな薄汚れた服のおとなたちがぞろぞろとわりと広く細ながいプラットホームへ汽車から降りて、 おもいおもいに立って駅の拡声器を通して流れるそのラジオ放送を聴いているのを、ただぼんやり汽車の開きっぱなしの扉の内側で見ていた。
  ただ 「チンは」 「チンは」 という語だけが耳に残った。少年にはたまたま出会ったただそれだけのできごとだったが、いつか “チン” が天皇という人が使う言葉と知り、 「チンは」 が 「私は」 で 「チンが思うに」 が 「私は考える」 の意であることも知っていく。
  しかし、あの時耳に残った 「チン」 「チン」 の響きにいつまでもちょっと違和感がのこり、なぜみなのようにあの人は、「私は」 とか 「おれは」 とか言わず、 自分からはとても飛び離れて感じる 「チン」 「チン」 なのだろうか、妙さがのこった。
  「チン」 が漢字で 「朕」 だとずいぶんあとで知った。

  テレビが登場してきて画面で。皇居へ押し寄せた大勢が日の丸の小旗を振ったり、喚声をあげているのを見たとき、 バルコニーで手を振る天皇や親族の姿もそれに応えていて、しかし、画面は画面として視ているこちらにはまるで関係ない光景で。 テレビのなかである光景でしかなかった。
  ただこんなときにも、なぜあの人たちは晴れ晴れしく高いバルコニーにいて特別扱いで、スタータレントや人気のプロ野球試合の内外野席から応援される選手たちとは、 歓声は似ていてもちょっと違うのだろう、という感じは受けた。
  その印象と少年に残った 「チン」 という響きの縁遠い感じとは、まだ結びつくほどのものではなかった、もちろん、憲法のこともよく知らなかった。
  ただずっと天皇という人やその家族の団らんや行動をテレビがよく映し、よほどていねなことばで説明する特別扱いをよく分からないまま視ていた。
  8月15日、つまり日本の終戦の午前に、熊谷駅頭であるラジオ放送とめぐり合ったことから、少年の成人への人生はなんとなく始まったのだった。

  その4ヵ月ほど前の4月10日で、正しくはその前夜の4月9日の夜、米B29の爆撃桟群による爆撃を受けて、 生まれ育った東京・大森区(大森区と蒲田区が合併した今の大田区)大森三丁目の小さな家を捨て、家族とひたすら逃げたあの刻(とき)は、 この8月15日からはもう遠い過去のようだった。
  遠い大森海岸方向のそうらは地上の大災が映えてオレンジ色で、爆撃の流れはどんどんこちらの方に来ているようで、周辺はまだ炎上してはいなかったが、 広くもない幹道を走る人の群れは互いにはじき合い、あるいは親が兄が幼子の手をひき、まろびころびつの感があった。
  私の背負った小学校用の黒いランドセルに教科書やノート学用品ぎっしりで、親が命の次にと毎夜枕もとに置いたもの、両手に新らしい下駄や風呂敷包み、 それがひじ突き合う隣りの自転車の輪にからまり、置き去りにされかねなかった。
  わが小さな家のわずかな塀ぎわの土を掘ったもぐり穴に近い、 日夜かまわぬ 「米29来襲!」 の “警戒警報” や “空襲警報” をメガホンで叫びまわる隣り組合員の声ごとに飛びこんで隠れたあのちっちゃな防空壕は大丈夫か、 など息せき切って走りながら思う。
  米機爆来を予期して前の邸(やしき)はこんもりした庭に米や醤油、味噌など焼かれてもすぐ食せるものを埋め、あれは大丈夫か。
  眼深くかぶった綿入りの防空頭巾に落下した焼夷弾の小さな火の粉が舞い眼が痛い。
  弾がパラパラ枯木立の枝々にはずみはずみして落ち、遠景近景光り絵のようにきれい。
  逃げ切れず手近な広場の防空壕へとび込み、なかはギッシリでおとなの男が火の粉を入れまいと仁王立ちしている。近くの防空用水へ闇が来れば走り、 バケツの水を入口近い者たちの防空頭巾上からあびせ、のちどこかよそでやられて死んだという。
  空が白み外は大小の電線が垂れ地上をくも巣のように這い、子どもの足でまたぎまたぎして行く。 省線(今の国鉄)大森駅近くの第一小学校講堂へたどり着くと被災の群れで坐る隙間もない。
  前の邸(やしき)の人が握りめしを持って講堂を探し当ててくれた。土中の米が焼け残り、炊き出し味噌を塗った握りめしだった。わが家族6人。
  結局殆んど焼け野原となるのだが、この夜が少年の戦後の序夜といえた。のち、3月10日の東京下町への大空襲が知られるが、 4月10日の大きな京浜地帯空襲がこれである。

  運よく上野駅から汽車が走り、大森3丁目の少年の家の隣りに住んでいたことだけの縁を頼りに、群馬県新町のあばら長屋へ命ほしさに無理矢理ころげこんだ。 そこもあまりの困窮の果ての人たちで、床の一段下の土間で老父がワラでわらじを編んでいた。排泄は目の先の草むらで、食も無い。 夜更け、農家が収穫したあとの畑へわが一家で忍びこみ、青く捨てていった小さなじゃがいもを掘りおこし食べた。 昼間、寺の境内や烏(からす)川河原でひとりすごし、蝉の大混声の響きが強烈だった。終戦前夜のひと駒である。

  汽車が動き出し、上野行きにしがみついた。そして8月15日午前の熊谷駅頭での終戦ラジオ放送や天皇のその “終戦の詔書” の内容もあとで知る。 天皇が現人神(あらひとがみ)であったとか、日本が 「神国」 で歴史上負けたことが一度も無かったとか、初代神武天皇以来2600年天皇一統の国であったとかも、 少年にはわからない。その日その日が来て、逃げ飢え灼熱の太陽を仰ぎ見、蝉の音に囲まれ、その日午前、熊谷駅のプラットホームの陽差しがまぶしかった。