エッセイ風ドキュメント 新しい日本の“かたち”を求めて
〜コギト・エルゴスム〜我れ在り、我れら誕生す。
昭和20年8月15日の日本の無条件降伏直後、病身の父はそれでも勇を鼓して、
頼って一家6人でなだれ込んでいた群馬県新町のあばら長屋の一室を16歳の長男を連れて脱出し、新町駅からなけなしの金で上野行きの切符を買い、
わが “故郷” 大森町へ舞い戻った。無謀な帰京だったが、以前掃除夫をやっていた 「中央工業」 の工場が焼け残って操業していたのが幸運だった。
拝み込んで親子2人寮に住み込み、働きだした。わずかでも金が入れば新町で惨めに過ごす母子4人の上野駅までの切符が買える。
茶褐色のよれよれの国民服に戦闘帽を手に入れ、板切れつづりが底の雪駄をはき、白いずた袋にひもをつけて肩から掛け、通勤した。
人手など不要なのを、便所掃除でも何でもと拝み倒して入り、実際モップで日がな一日工場の廊下と便所の掃除だった。
往年は浅草六区の電気館で無声映画の女形活弁士で名を売った栄光もどぶに捨てた。向島の三業地で芸者に惚れられた華など片りんもない。
寮では蚊とのみ、しらみとの共棲生活。しかし空襲で焼け出されてそれしか無い。プライドなどとっくに捨てている。いっしょに工場へ通う16歳の長男も健気だった。
太平洋戦中、工場動員で学校へもいけなかったから、文字も知らず学問もない。
青春など無縁だったが、性だけは達者に育っていく。父が寮で夜、たまに話す芸者のことがなまめかしい。
無声映画で活弁士仲間の徳川夢声や芸人達との思い出話も、妙に2人きりの夜を華やかせる。
その頃私9歳の少年は、群馬のひなびた町でただあてもなくひとり近くの寺の木立の中で蝉の響きを聴く。あとは広い烏川の河原に茂るすすきの群れと戯れるだけ。
全ての欲が消え、まっ白い心の少年。いつそこの白さが画き込みの自由を得、未来の大事な武器となることなど知らない。
淋しさなど入り込む余地も無い。何もかもが灰色でなく白い。人格のスタートとはこういうものなのか。
数年前、縁があって群馬交響楽団の執事が車で当時の思い出を頼りに訪ねて歩いてくれた。キーワードは寺、蝉、烏川そして頼った家の名前だけ。
角を曲がり、突然角の家の縁側へ入り込んで尋ね、尋ね尋ねしてついに頼っていった家の跡にたどり着いた。
そこは数室のみの長屋だったとかで、小さく細いコンクリートの駐車場になっていた。こんな狭いスペースの一部にあの人数の二世帯が、とただたじろいだ。
傍らに寺と木立があり蝉が鳴いていた。あのこんもりした寺の暗い木立の詩などとは縁遠い明るさ、住職が最寄りの家族の住所を数えてくれ、
突然の訪問に先方は少し鼻白んで、親しげさに迷惑そうだったが、それでも懐かしい大森の家の隣りにいたおばさんの遺影を拝み、ひとしきりして去った。
これが少年の無条件降伏の痕跡と青春への鮮やかな出発点だった。東京や大森町への郷愁も無い。
のち世界中をさまよい歩く、無国籍さ、コスモポリタン性、つまりは自由と民主主義を苗床とする哲学が幸運にもこの頃培われていたのだろう。往け! 清司、と。
あの日あのころ、他の人たちはどう迎えていたのだろう。
天皇によるNHKラジオからの、無条件降伏の声明を、前日以来、重大なラジオ放送があるから国民はみな必ず聴くように、
という学校や役所や隣組合などからきつく伝えられていたので、なかには、戦争のよくない形での終結宣言と薄々予感した人はいた。
しかし、ほとんどの人たちは、直接天皇の姿や顔を遠目から洩れ拝するだけでも畏(おそ)れ多いのに、
ラジオから初めてお上(かみ)その人のお声を拝聴するだけでも直立不動の姿勢、ふるえ上がる気持ちだった。
お国の一大事、何ごと引き起こりたるや、と。これがいわゆる天皇の敵連合国への無条件降伏の詔書直諭(ゆ)という、
“天皇の子” たる全国民を震え上がらせた事件だ。で、子供たちも並んで謹んで聴け、とおとなたちから命じられ、
羊のように音もなく据えられたラジオ拡声器の前に並ばされた。
当時、古ラジオの部品も欠け、何ごとも軍が最優先で一般のための電波事情もわるく、いざこれから、
となっても拡声器からガーガーする声らしきものが発せられるだけで、まして語られる言葉が漢文語調でもってまわった宮廷言葉、
おとなたちもじっとうつむいて心清らかに聴くがまずほとんど中味を推量できた者はいない。あとで知らされ、分かった風はした。
その内容が大よそあれだけ軍首脳や大臣たちが必ず胸を張って 「無敗神国日本」 とがなりまくっていた内容とは正反対の、連合国軍へのひれ伏しだったのだから、
まずきょとんとするだけ。だまされたとか、けしからん責任者を出せ、など思う発想力もない。
あまりにも国中が軍や政治に戦争を煽られ、「お上に命を差し出せ」 と教育、宣教されていたのですでに去勢されたひと、
物思う心などとっくの昔に消えて無くなっていたから。
いっしょに聴かされた子供たちはいい迷惑で、お国もへったくれも、町やまわりのムードに巻き込まれてきただけで、
塩らしく分かったようないい子顔をしてみせる習慣だけを身に付けていた。
このラジオを聴いて、「われは天皇の子なり」 と割腹して果てねばと、なけ無しの電車賃を握って皇居二重橋前広場、
その向こうの館に天皇ご一人がいられると有楽町駅へ急いだせっかちもいた。もっとも広場でよよと泣いたが腹切るに至らなかった者が殆どだったが。