2010.8.13

エッセイ風ドキュメント 新しい日本の“かたち”を求めて

ノンフィクション作家 石井清司
目次 プロフィール

−子どもたちの想い…あの日、教師たちの心は痛んだか−

  日本人のその後のながい不幸の始まりは、「日清戦争に運めぐりよく勝ってしまったことだ。」 あの大中国が鎖国と内乱とアヘンのため、 また文盲率の高さにより、新領土入手と貿易益拡大を求めた強欲な先進西欧諸国に狙われ、つけ込まれ、脅され、 劣勢となったところへアジア新興小国日本もその波に便乗してつけこみ、運よく勝ちがころがりこんできた。 日本人たちは、たったその一回の勝利だけに酔い痴れて、国中が鼻高々になり、新聞、活字、マスコミが国民の戦勝気分を煽り立て、日本人はその気になった。 自分たちが世界の一等国のひとつに入れると勘違いをした。日本のその後の不幸の始まりだった。

  中国は列強の強圧の前にあっさり負けてしまい、日本はいろいろそのおこぼれにありつけた。 つづいて大ロシアに戦争を仕掛け、この時ロシア国内で革命が起き、日本の勝ちになった。これがのちの亜大陸・大平洋戦争を始める引き金だった。

  国も教師も “日本の世界第一等国” まだ自我の固まらない日本の児童たちの頭に叩きこんだ。子どもたちはみな日本は世界一の大国、と思いこんだ。
  思い上った日本人には1945年8月15日の日本の連合国への無条件降伏がとつぜん訪れた天変地異に思えその思い違いにまだ気づかず驚天した。
  この大日本の “国破れ” が夢にしか思えなかった。 だから、8月15日の天皇の無条件降伏の放送を聴いても 「尊く畏きお方」 としかその時思えない思念力のない国民たち。 日本の民衆は今こそ自分たちの自立と解放の絶好のチャンスだ、立ち上ろうなどと思いもしなかった。 それどころかいつか復讐し、一億総奮起しようなどと思う日本の民衆たちだった。

  NHKラジオは、8月15日に天皇が自ら放送で語るというので、前日の8月14日は国民全員が身を潔めなければ畏(おそ)れ多い、 番組内での音楽も演芸もやめてしまった。

  さて、子どもたちの軍国教育を行ってきた教師たちはどうしたか。
  国と軍の命令とはいえ、いたいけな児童を軍国少年に仕込み上げ、教師たちに責任の重さは分らない。 教師は育ちざかりの児童の個性や自由を奪い、戦争遂行の駒となるよう育て上げた。 学校には陸軍の将校が常駐し、男女児童に向けさまざまな軍事教練が行われた。子どもたちはそのとおり “愛国少年” にさせられていった。 しかしこの大きな責任について、戦后、当の教師たちは空とぼけて逃げた。天皇は国民を 「民草(たみくさ)」 と呼び、国民は天皇の “赤子” として振るまった。 この “大キャンペーン” の最大の協力者が新聞、活字、ラジオという大マスコミとこのおとなの教師たちだった。

  大日本帝国と “誇大表示” し、児童にそれまで日本は 「神国」 で 「神州不滅」 の大帝国と教え、 8月15日の無条件降伏でその “聖地” に敵と教えた国の人たちが踏み込み、闊歩し管理した。それが目の前で行われた。 教師たちは、今まで教えたことはウソだったとは、児童に自分の口からは言えなかった。やむなく教師たちはみなとぼけ、白ばっくれた。 そして立ちすくんだ。教師を信じてきた児童からは、そういう教師、いやおとなたちまでが信用できなくなった。 児童の純な眼からは、そんな教師やおとなたちは怪しげな人たちにみえた。彼らは教師という強い立場を悪用した。 それが子どもたちに見破られた。進駐してきた米兵たちが教師たちに教えこまれたような悪魔などではなく、 日本人などよりはるかに科学的で文化的な人たちにみえた。児童の前で教師だった者の居る場所はもう無くなった。 この日から少年たちは教師(おとな)不信に陥るのは自然のことだった。 だから、少年たちは “自分が今ここにいる” ということ以外、もう何も信用できず、これから生きる手掛かりさえ一切奪われたにひとしかった。 「今ここにいる自分」 しか頼れないのだ。これが少年たちの戦後人生の始まりの日だった。

  教師たちは 「日本は神が護る」 「天皇が神である」 「人間の形をした現人神(あらひとがみ)である」 と教えたあれはぜんぶウソだった。 子どもたちは、教師たちの操り人形だった。それがすべて8月15日でバレた。

  「もう何も信じられない」 と少年が日本という既存の社会について鋭く直感するのは自然のことだった。 人間一人ひとりの存在は重く、生まれながらにして人間は平等、 ボロ切れのように戦死させられた日本軍の兵士たちのような奴隷のような存在などこの世に在っていいはずがない。 子どもたちはそれを知っていく。教師たちの教えとまるで違う。少年たちの教師たちはその責任はどうとるのか。 「愚かだった」 では済まない。彼らはずるずるとその日からまた戦後をつづけようとしていた。ざんげもせずに。戦勝連合国ではなく、自らの手でそれを。

  あの日、多くの戦争関係者がまずやったことは書類を燃やすことだった。内幸町のNHK局舎ではそれを燃やすもの凄い煙で建物が包まれたという。 自分たちを検証するよりもまず保身だった。いかに連合国占領軍から自分たちが罪に問われないように少しでも細工をするかだった。 戦後すぐの日本の社会は彼ら戦争責任者らのそんな細工とウソで固められ、戦争の犯意を押し隠し、内在させ温存し、その土台の上に築かれていった。 子どもたちにそれを告発する力はなかった。「現人神」 はのちに 「人間宣言」 を行なうが、しかしやはり神めいたものはのちのちまで温存されていった。 根は変らず元の場所に根を据えたまま。日本は変ろうとはしなかった。この “日本風” のセンチメンタリズムは “伝統” という虚名のもとに温存されていった。 温存されたかつての戦争執行層と教師という “協力者” たち…。