2010.9.23

エッセイ風ドキュメント 新しい日本の“かたち”を求めて

ノンフィクション作家 石井清司
目次 プロフィール

「SUBJECT TO」 を “制限下” と訳した日本側の戦後のウソ

  それは日本側の 「ポツダム宣言」 の受諾が無条件ではなく、天皇の国家統治権不変更(天皇全大権下の国家体制継続=国体護持)を意味する、 との問い合わせとも確認ともつかないものだった。 日本側はこれを連合国軍側への降伏回答のやりとりに巧妙にまぎれこませ、降伏以後の日本の国体に関するあいまいさがここに生じた。 降伏直後、天皇が自らマッカーサー連合国軍総司官に面会に行き、 連合国への帰順を示す誠意と共に人間天皇としての評価及び好印象を与えるよう身を挺して働きかけた出来事も、 この天皇大権国家継続を受け入れてもらうための最後の努力とみることもできる。 連合国側からみれば、日本側の 「ポツダム宣言」 受諾回答の裏に、 妙なあいまいさ(天皇全大権容認を求める)が含まれているのではと感じさせたそれであった。 このどっちにも解せる玉虫色風の日本側の働きかけはくせものだった。

  連合国軍と日本側の降伏要旨の “やりとり” が米日当事者間の直接のやりとりではなく、 内容を短波放送内で送ったり中立国スイス経由だったりしたのだから、一度か二度のやりとりで日本無条件降伏を両者間で決定する危ういやりとりだった。

  しかし、その難しさを逆手にとり、命綱のように天皇制存続を求めた日本側にとって、このわずかな “あいまいさ” は命拾いしたような得点だったろう。 後の日本国家体制のあいまいさは、このとき連合国側首脳の懐に、ひとまず “預かり” の “ニュアンス” を持ち込んだ。

  日本を降伏させ、戦争を一刻も早く停めるのを急いだ連合国軍側は、ひとまず大筋で日本を無条件降伏させた、の思いは強かったろう。
  それでも日本側の 「天皇の国家統治権付き」 の 「ポツダム宣言」 受諾であるといった回答に対して、 それに回答する形で、日本側問い合わせの翌同8月12日午前0時45分に、コミュニケーション手段のない日本に対し、 連合国側はサンフランシスコ放送の電波に乗せて、きっちりといかなる条件も付かない無条件降伏である由、その回答を送った。
  この連合国側の放送による 「ポツダム宣言」 内容解説を受け取った日本側は、ここでぎりぎりに追い詰められた。

  このサンフランシスコ放送を受信した日本指導層は、天皇の全大権を連合国軍側がどう考えているか、同英語放送の内容解釈をめぐって、 蜂の巣をつついたように大混乱となった。直ちに外務省役人や陸海軍人らは総動員して手前勝手に都合のよい英語解釈をひねり出すのに大わらわになった。

  放送による連合国軍側の “キーワード” となったのは、連合国軍側が回答してきた内容のなかの次の一行だった。 「天皇および日本政府は、連合国司令官に “SUBJECT TO” する」 というひとことだ。 この “SUBJECT” を日本側各勢力はそれぞれに自分たちに都合のいいように解釈をしようとした。

  さすが外務省の役人たちは 「(天皇は連合国軍指令官の)制限の下におかれる」 と何とか日本側が受けれ可能な範囲を持たせた訳語をした。 この 「制限下」 なら、無条件降伏なのだからやむを得ず、しかし、天皇は安泰なのだ、と解釈できる。 陸軍はひどく悪く訳し 「(天皇は連合国軍司令官に)隷属する」 とした。 神ご一人たるわが天皇が外国総司令官の下に 「隷属」 するなど屈辱以外の何ものでもない、と軍首脳に激昂が走った。 これでは一度は降伏を回答してはみたも、日本としては戦争終結は取消だ、と。

  この日本側のもたつきに焦立った同総司令官は、前述の八月十四日から十五日にかけ日本本土への一大爆撃を挙行し、 あれこれ机上の総論で身勝手に吹聴し合っていた日本指導層はマッカーサーのこの一発でふるえ上がり、首をすくめしゅんとなってしまい、 連合国側の言いなりになっていった。しかし、この受けなくてもよかった一大爆撃で、日本の国民の死者傷者、家屋焼失の犠牲は相当数にのぼった。 日本戦争指導層の戦争終結への誤導による、なくてもよい八月十四、十五日の日本国民の無駄で余計被害が生じた。