2008.3.4

メディアは今 何を問われているか

日本ジャーナリスト会議会員
 桂 敬一
目次 プロフィール

「阿倍定事件」 vs. 「ロス疑惑」再登場
気を取られているうちに何かが進展する

  昭和11 (1936) 年は、陸軍皇道派の青年将校が2月、斉藤実・高橋是清ら政府要人を殺害して永田町一帯を占拠するクーデターを決行、 いわゆる 「2・26事件」 を起こし、軍国主義の風潮がさらに重く社会にのしかかる歴史的な転機となった。 彼らは、昭和天皇によって反乱軍とみなされ、討伐の対象とされたため、ほどなく帰順、その後、軍法会議によって首謀者らは死刑を含む処罰を受ける結果となった。
  しかし、軍部内や政治家のあいだでは、彼らの国を思う純真さに共鳴するものが多く、中国での行き詰まった戦争の局面を強硬策で突破、 これを妨害する米英との対決も辞さないとする空気は、かえって強まった。
  そして翌12 (1937) 年7月には、廬溝橋事件が勃発、昭和6年の満州事変以来、じりじりと深みにはまり込んできた中国での戦争は、本格的な日中戦争に姿を変え、 軍国日本はこれ以降、昭和16 (1941) 年の米英および連合軍との戦争に至る、後戻りできない道に歩を進めこととなった。

  この過程では、思想・言論の抑圧体制が強化されていった。昭和11年だけに限っても、大本教に解散命令 (治安維持法違反・不敬罪)、 ひとのみち教団・新興仏教青年同盟弾圧、メーデー禁止、思想犯保護観察法・不穏文書臨時取締法実施、内閣情報委員会設置 (昭和15年12月に内閣情報局へ)、 講座派大学教授一斉検挙、文部省が大学・専門学校に 「日本文化講義」 実施指示、帝国在郷軍人会令公布 (公的機関化) などの動きが生じている。
  言論界では、2つの有力通信社、電通 (日本電報通信社) と聯合 (新聞聯合社) の完全合併により、 国策通信社=同盟通信社が設立された (電通の広告部門は分離、広告の株式会社電通へ)。NHKも正式に同盟からニュース提供を仰ぐことになった。
  また、このころから内務省警保局が新聞の整理統合を開始、各県警察部によって地方紙の合同・合併が促されていった。 それは最終的に、全国紙3、経済紙=東日本・西日本各1、ブロック紙3のほかは 「1県1紙」 とする、太平洋戦争勃発後の新聞統合に帰結するのだ。

  このような重苦しい昭和11年の5月、新聞、雑誌を活気づかせ、世間もその話題で持ちきりとなる 「阿倍定事件」 が起こった。 お定が、愛人・石田吉蔵と東京・荒川区尾久の待合に1週間もいつづけたあげく、情交中に彼を絞殺、男の急所を根もとから切り取り、 それを持ち去ったまま逃亡したのは18日だった。事件が報じられると、人々の関心はいっせいにその行方に注がれ、20日に品川駅近くの旅館でお定が捕まると、 各紙はそろって号外を発行、これを報じた。この事件報道がどう受け止められたかを、下川耿史氏の 『昭和性相史 戦前・戦中篇』 (伝統と現代社) から紹介すると、 つぎのとおりだ。

  「この時、国会では二つの委員会が開かれていたが、委員長の緊急動議で会を中断、全員号外を読み耽った」 「 高橋誠一郎 (現・日本芸術院院長。 注:1978年現在) は、『猟奇事件というよりも、むしろホッとした思いで、新聞雑誌の記事を読んだ』 と記し、当時の新聞のなかには、 彼女のことを “世直し大明神” と呼んだところさえあった」 「・・・荒川の待合 『満左喜』 と・・・品川の旅館 『品川館』 は事件後、大繁盛。 『満左喜』 では事件のあった部屋に二人の写真を大きく飾り、二人が使ったドテラ・・・まで展示していた」 「『品川館』 では、 お定の泊まった部屋を・・・そのままにして保存し、・・・枕や・・・敷布、枕もとの水さしなどのそれぞれに、『お定の使用した・・・』 といった紙切れをブラ下げた。 旅館の主人はスクラップブックを片手に、熱弁をふるってその夜のお定を再現したそうである。 また、逮捕前日、お定に呼ばれて体をもんだマッサージ師は、新聞社や雑誌社の取材謝礼でマイホームを新築した」。

  メディアの熱狂は翌年、日中戦争本格化後にも冷めない。昭和8 (1933) 年に文芸春秋社が創刊したゴシップ月刊誌 『話』 は、 昭和12年12月号に 「出所後の誘惑を懼れる 『お定』 ―過去の情痴を一場の夢として平凡な女に更正せんとする模範女囚」 とする記事を載せ、 懲役6年の刑で服役中の彼女の近況を、裁判長に取材したとして伝えた。「・・・吉蔵が、『絞めてくれ。・・・もうゆるめてくれるなよ。』 と言っていたというのであるから、 ・・・力の限り絞めたと素直に吉蔵に対する罪を認めたのは―矢張り彼に対する心尽くしがさせたのであろう」 「・・・未決囚当時は・・・一見して妖婦と思われていたが、 最近は非常に太って来て、極く平凡な普通の女になっている。此れが帝都未曾有のグロな殺人事件の主人公お定であろうか・・・」 「彼女が、現在、 一番懼れている事は、出所後、料理屋とかカフェーでマネキンとして自分を買いに来る事なのである。 ・・・そうした方面から熱心な運動が続けられ・・・一万円を投じても資本の回収は容易であると称している者さえある」 「記者は・・・出所した後の彼女 (が) ・・・何処かの裏店で、静かに余生を送る事が出来たら、それが彼女の本当の幸福だと思える・・・」 (菊池信平編 『昭和十二年の 「週刊文春」』 ・文春新書)。

  およそ70年後の平成20 (2008) 年2月、日本のメディアが30年近く前、大騒ぎして日本中の関心を集めた 「ロス疑惑」 の三浦和義元社長が22日、 米自治領サイパンで、アメリカの捜査当局によって逮捕された。容疑は 「ロス疑惑」 当時と同じ殺人だ。これは日本の最高裁で無罪が確定している。
  いまなぜまた逮捕なのか。ここではその是非に関する論議には関わらない。みておきたいのは、これが突然大きく報じられると、メディアが一番力を入れて報じていた、 東京湾における海自イージス艦 「あたご」 の漁船衝突問題の扱いが、すっと小さくなったことだ。
  いや、それだけではない。その前に起こっていた沖縄・米兵少女暴行事件はもっとトーンダウンした。
  そして29日、被害少女の告訴取り下げで米兵が釈放、米軍に引き渡されると、米軍は3月3日、「反省の期間」 を終了、沖縄、岩国、 キャンプ富士 (静岡) の海兵隊基地の軍人・家族らに対する外出禁止措置を解除した (夜間外出禁止は続行)。
  岩国市長選で、厚木からの米艦載機移駐を拒否した候補が文字どおりの僅差で敗北した出来事は、はるか彼方に去った感じだ。 当選した市長が移駐受け入れを国側に告げ、政府が停止していた補助金の再給付や新しい米軍基地再編交付金の支給を決めたニュースが、さりげなく報じられた。

  イージス艦の関連ニュースは、石破防衛相の責任問題が大きくなると、また新聞では大きく扱われるようになったが、その力点が変わってきている。
  石破防衛相は、イージス艦事件を奇貨とし、その発生やその後の問題処理過程における不首尾は、防衛省・自衛隊の指揮・情報系統に根本原因がある、と指摘、 内局=背広組と自衛隊各幕僚監部=制服組を一元的組織に再編、統合する必要がある、とするかねてからの持論の実現を企む気配だ。
  3月3日、福田首相が陣頭に立ったかたちで 「防衛省改革会議」 (座長=南直哉・東京電力顧問) 初会合が開かれたが、首相は、イージス艦事件についても、 こういうかたちで石破防衛相に責任を取らせるのだと言明、罷免は否定してきた。 石破防衛相も、自分なりの問題解決を行ったら、事件の責任は自分で取ると、「改革」 に意欲をみせている。
  こうなると、事件に際して、警察権を持つ海上保安庁の頭越しにいろいろな行動を取ってきた大臣以下、 防衛省・自衛隊関係者の態度や、石破防衛相の 「軍事法廷」 が欲しいといわわんばかりの言動をみるにつけ、 いよいよ通常の司法権から独立した防衛省・自衛隊内の機密保護・警察・裁判制度ができるのか、と思わせられる。怖い憲兵、軍法会議だ。

  メディアの表面での動きとして、とくにテレビのワイドショーや週刊誌の動向は、3月に入って 「ロス疑惑」 再登場にますます入れ込むものとなりつつある。 たくさんのメディアが現地での取材競争にしのぎを削っている。いまは三浦元社長がいつロスに移送されるかに大きな関心が寄せられているが、 ロスでの裁判が始まり、殺人実行犯の名などが出てきたら、もっと騒ぎは大きくなるだろう。 アメリカ本土の捜査当局は、日本メディアのそのような動き、特性も十分に心得て、そつなく日本人の関心を高めていくようすだ。
  アメリカのN・チョムスキーとE・S・ハーマンが共同で著した 『マニュファクチャリング・コンセント―マスメディアの政治経済学』 (トランスビュー) という本がある。 チョムスキーとハーマンは、アメリカのマスメディアの制度機構を分析、そこには、体制的エリートが誘導する市場システムの生み出す 「プロパガンダ・モデル」 が作動、 メディアには5つのフィルターで漉されたニュースが強く出てきて世論に影響を与えることになる、とする検証の結果を披瀝している。
  そのフィルターとは、「メディアの利益」 「広告への依存」 「政府・大企業情報源とこれらに強い 『専門家』 への依存」 「メディアへの集中的批判の形を取った統制」 「国家宗教と化した 『反共主義』」。
  最後の 「反共主義」 を 「拉致問題最優先」 などに変えたら、 このモデル図式は、いまの日本のマスメディアの、無意識のうちにプロパガンダ・メディアと化していく動きも、かなり説得的に解明してくれそうだ。

  メディアのうえで 「阿倍定事件」 と今日の 「ロス疑惑」 再登場の果たす役割が、70年もの時間距離を置きながら、 あまりにも酷似しているのに巨大な虚脱感を覚えながら、メディアよ、なんとかならないのか、しないのか、と思う。