2008.4.13更新

メディアは今 何を問われているか

日本ジャーナリスト会議会員
 桂 敬一
目次 プロフィール

北京五輪に賛成も反対もできない気分をどうする?
―かつて日本も似たような道を歩いてきたのではないか―


  4月6日 (現地)、北京五輪の聖火リレーがロンドンで始まると、中国のチベットにおける人権弾圧に反対し、中国の五輪開催強行に抗議する団体や、 これに同調する市民が、リレーを妨害する激しい行動を繰り広げた。 そして、その模様が大きく報道されると、日本でもネットを含め、メディアがさまざまな論議を始めだした。 大方のマスコミは、スポーツ報道では、各競技とも北京を目指す日本の派遣選手の選考が最終段階に入っているため、 連日だれがいくか、メダルは可能かなど、北京五輪があることを前提に、さかんに話題づくりをしている。
  だが、外信 ・ 政治報道の面では、ことがチベット問題に発しているだけに、主に欧米で広がっている北京五輪への抗議の動きには理がある、 とする雰囲気を漂わせがちで、ヘンにちぐはぐだ。
  これが新聞では産経や、一部の週刊誌となると、チベット問題で根本方針を変えない限り中国に五輪開催の資格なし、 とはっきりしていて、北京五輪はなくなってもやむを得ない、といわんばかりの姿勢を示す点で首尾一貫しており、いうことがわかりやすい。 それらの姿勢は、そもそも中国は 「反日」 だ、1964年の東京オリンピック開催にも反対した、とするような理屈あるいは感情が根にある。 産経の 「主張」 に熱心に賛意を表明するネットのやりとりは、こういうものがとても多い。

  筆者の立場はどうか。北京、東京に限らず、スポーツ催事としての五輪そのものに興味 ・ 関心がほとんどないのが、正直なところだ。 だから、早い話が、日本の2016年・東京五輪の開催など、世界の先進国・巨大都市には珍しい、 銀座のような盛り場に隣接した魅力的な市場=築地を移転させるとする馬鹿げた計画が前提条件となっているので、なんの迷いもなく反対としかいいようがない。 あのロケーションにある築地を永遠に失うことの価値を知らない、あるいは知っていて無視する知事は、とんでもない人物だ。 かつて築地を訪れたことのある外国人はみな、その喪失を惜しみ、移転に反対するだろう。
  北京にしても同じだ。一度もいったことはないが、老舎の小説、『四世同堂』、『駱駝祥子』 で読み、一度は訪れてみたいと思っていた古都・北京の独特の居住街区、 胡同 (フートン) がオリンピックの突貫工事の煽りでどんどん破壊されていると、中国の知人から聞く。 1964年オリンピック前の土木工事だらけの東京のことを思い出し、中国も馬鹿なことをするものだ、と思う。 しかし、アジアの後進国、そのころの日本にしても、1988年ソウル・オリンピック前の韓国にしても、五輪開催をきっかけに欧米型の都市開発を進め、 ある種の近代化を達成してきたのだから、中国の場合もしょうがないか、ぐらいに考えていたのが北京五輪に対する筆者のぼんやりした理解だった。

  だが、北京五輪についてはチベット問題が絡んできた。これには当惑した。 チベットの僧 ・ 住民と中国側軍警との摩擦 ・ 紛争が首都 ・ ラサで生じたとき、 現地からの報道は最初、新華社や自国政府を情報源とする中国のテレビ局によるものばかりが多く、チベット僧・住民の側が暴徒化し、 警官隊や中国人商店などを襲った─―中国軍警は発砲していない、とする 「暴動」 を印象づけるものが多かったが、信ずる気になれなかった。 いまは中国側情報源も、一部軍警が発砲したことを認めており、その他の情報も総合すれば、当初比較的平穏だった僧のデモに警察が過剰規制をかけ、 住民まで激高、デモに加わり、これに対して規制側には軍も参加、両者の予想を超えて騒乱が拡大していき、 収拾のつかない事態に立ち至ってしまったのではないか、と想像される。
 もちろんその背景には、チベットに対する中国政府の性急な集権化、チベット民族からみた漢化があり、 それが民族自治の否定、人権 ・ 文化抑圧、政治的弾圧と受け止められてしまう事情があった、といわなければならないようだ。
  しかし、北京五輪を成功させなければとする焦りが先に立ち、また、ヘタに自ら非を認めると、 世界中からチベット弾圧 ・ 人権抑圧反対の大きな批判を招き寄せることになるのではないかとおそれ、 内にあっては党・政府批判を抑え込もうとする力をさらに強め、外に向かっては、反中国勢力のいわれなき中傷や非難に反撃する、とする姿勢を鮮明にし、 ますます引っ込みがつかなくなっているのが、いまの中国の姿ではないか。

  筆者の当惑とは、そういうところにロンドンの市民的人権派がチベット支援 ・ 中国批判の過激な動きを強めていることに由来するものだ。
  4月7日 (いずれも現地) になると、パリでも同じような光景が出現、ここではドラノエ市長が、市庁舎の壁に人権擁護を訴える横断幕まで掲げた。 さらにサンフランシスコでは、金門橋によじ登った活動家が 「一つの世界 一つの夢」 「チベットに自由を」 のスローガンを掲げ、7人が逮捕された。 彼ら市民は、聖火リレー妨害行動で自国の官憲から暴力を交えた厳しい規制を被り、多数が逮捕されている。 その行動は、中国を批判するだけでなく、中国に対して妥協的な自国政府への批判も籠めているものであることは、容易に理解できる。 いや中国に対しても、政府には批判の矛先は向けるが、市民にはチベット支援行動への参加と連帯を呼びかける意図はあるのだろう。 だが、そうした呼びかけを受け取れる市民なるものが中国に果たしてどれだけ存在するのかが、筆者にはわからないのだ。
  むしろ、新疆ウイグル自治区の定住トルコ系民族などイスラム教を信ずる民族などが、そうしたメッセージをせっかちに受け止め、 自分たちもチベット民族と同じように世界中の市民の同情と共感を集められるかもしれないと考え、同様の行動に出はしないかと、冷や冷やする。 もしそうなったら、結果的に欧米市民派はミスリードを犯すことになるとさえ感ずる。

  そもそも中国人の目にイギリスはどんな風に映るか。アヘン戦争のあと、1842年に香港島を永久割譲させ、中国に真っ先に植民地をつくったのはイギリスだ。 その完全返還は1997年、つい最近のことだ。中国の国民には、自国にそういう支配を及ぼした国の人々の、 ようやく五輪ができるまでになった中国に対する妨害だと、まずみえてしまうだろう。
  フランスだって、中国が宗主権を保持していたベトナムに対する侵略者 ・ 植民地支配者だった。 また、アメリカも門戸開放を叫び、中国の植民地化に参加した点では例外でなかった。 朝鮮戦争ではたたかった相手だ! 半植民地時代の中国ではこれらどの国の人間も、上海の外国人租界では主人顔で振る舞い、中国人を見下してきた。 それらの国は全部、世界最先端の民主主義国であり、国民は市民的平等をすでに享受していた。
  しかし、これらの国は同時に、海外の遅れた国に対しては帝国主義を及ぼすことに躊躇せず、「内には民主、外には帝国」 のダブル・スタンダードを遺憾なく発揮してきた。 確かに第2次大戦後は、そうしたことはできなくなった。
  だが、これらの国々の市民が、そのような矛盾を完全に克服できたのか─―人権抑圧の傾向を強く残す国を批判する際、 当該国の市民も納得させられる説得的な批判ができるまでになったのかというと、まだまだそこまではいってないのが実情ではないか、と思えてならない。 しかも、そうした欧米市民の迂闊な行動は、中国内部の市民的改革派の立場を強めるどころか、弱めるマイナスさえ伴うことがある。 なぜならば、中国内の民主派 ・ 改革派が欧米の中国批判派市民の過激な動きと結び合おうとすれば、広範な国民の支持は得られず、孤立に追い込まれ、 容易に政府の弾圧の標的とされてしまうからだ。

  そしてまた、厄介なことに、これら欧米諸国では、政府もまた自国人権派市民に迎合し、政治的支持を維持する必要があり、 大統領 ・ 首相が、オリンピック開催には反対しないが、開会式には参加しないなど、いいだしている。 人権派市民は国内的にはこれを成功と受け止め、行動をいっそう拡大、激化させようとする気配がある。 すると中国の官民あげての反発はいっそう募り、中国内で民主化を深めようとする人々の政治的環境はますます厳しいものとなっていきかねない。
  この悪循環に巻き込まれた国内外のチベット人が身を置く状況も悪化し、中国政府や滞在国政府から与えられる処遇はより過酷なものとされていくおそれもある。 こんな馬鹿なことが生じるのは、オリンピックというと、それを国家の権威や面子の行方に結びつけてしか考えることができない各国政府の姿勢、態度に、 根本的な原因があるといわざるを得ない。この点は、欧米各国政府も、中国政府も基本的に変わりはない。
  また、欧米の人権派市民も、これら政府に批判的であるようにみえても、その行動はただ機械的、反射的に取られるのみのもので、 裏返しの国家意識は脱却できておらず、無意識ではあれ、民主国家の国民の優越感を無邪気にむき出しているだけだ。 これでは、民主化の遅れた、抑圧的な政府をいただく国の市民には、ついていけない。

  わずかな報道にしか接することができないので、誤解に陥っているのではないかとおそれるが、 「国境なき記者団」 のロベール・メナール事務局長がギリシャの聖火採火式の会場に、5個の手錠で五輪をかたどった旗を掲げ、 突如抗議のため登場したのには驚くとともに、彼もまた、多くの欧米人権派市民と同程度の問題意識しかもてないのかと、少々がっかりした。
  彼とは2005年、月刊 『世界』 で対談したことがあるが、彼の説くところによれば、「国境なき記者団」 の目標は、国家に所属せず、 国家のために働くのではないジャーナリストの世界の実現に置かれていたはずだ。
  だが、そもそもギリシャでの採火式、そこから出発する聖火リレーというアイデアは、1936年、ベルリン ・ オリンピックを国家の威信発揚と国民統合、 国際的なドイツの国力宣伝にフルに利用したヒトラーの政府によって発案され、開始されたものだ。 映画 『オリンピア』 (第1部 民族の祭典、第2部 美の祭典) を監督したレニ・リーフェンシュタールの思いつきだが、映画中の聖火リレーが世界に感銘を与え、 これがその後のオリンピックでも受け継がれていくことになった。そのことは、オリンピックを国家の呪縛から解放するより、 いっそう強くそれに結びつける役割を果たしてきたのではないか。
  メナール事務局長にはそんなことに固執することの馬鹿馬鹿しさをこそ、世界中に明らかにしてもらいたい。 そのときヒトラーは、すでにスペイン人民戦争にコミット、公然とフランコ政府に荷担していたのだ。

  1940年に予定されていた東京でのオリンピックは、世界中から非難されるようになっていた日中戦争の行き詰まりで、日本自身がそれどころではなくなり、 返上ということになり、ヘルシンキが代わって開催地になったが、欧州では事実上、第2次大戦が勃発、開催そのものが中止となった。
  戦後、48年にロンドン大会でオリンピックが復活したが、その後しばらくは国家色は薄く、64年・東京オリンピックもそのような雰囲気のなかで開かれたのは幸運だった。 筆者は東京オリンピックにも実は大した関心はなかったが、テレビに映った閉会式は感動的だった。
  運営の手違いで、選手の入場が国別選手団の順序だった行進、所定の集合場所での整列というわけにいかず、各国選手は入り乱れて三々五々会場に入ってきた。 ようやく顔なじみになったもの、まだ知らぬもの同士、それぞれ思い思いに言葉を交わし、談笑しながら、彼らはレース ・ コースを周回、 さらに国名や選手名を叫んで手を振る観衆に、グランドからも手を振って返し、応えた。 グランドの真ん中に集まっても、各国の選手、若者たちはしばらく、お互いにバッジや小旗を交換したり、手を取り合い、肩を組んだりして、別れを惜しんだ。 最後は、電光掲示板だけに 「ローマでまた会おう」 という文字が浮き上がった、照明の落とされたほの暗い会場を、再開を約束しながら彼らは去っていった。 これが好評で、その後のオリンピック閉会式は、この東京方式が踏襲され、今日までつづいている。

  しかしその後、国家の影は大きく、また重くオリンピックにのしかかり、ミュンヘン大会ではパレスチナ・ゲリラによるイスラエル選手団襲撃 (72年)、 モスクワ大会ではソ連のアフガン侵入に反対する国の参加ボイコット (80年)、ロサンゼルス大会ではその報復と解される一部の国の不参加、 対抗的なアメリカ選手による星条旗の多用 (84年)、などの事件や動きが生じた。
  日本も獲得メタルの数など、国としての成果、威信をしだいに気にするようになり、メディアもそうした話題を追い求めてオリンピックを報じる傾向を強めてきたところがある。 いまの中国のやり方がいいわけはない。だが、オリンピックはオリンピック、チベット問題はチベット問題と切り離し、 どちらをも冷静に報じ、論じていくことが重要になっているように思える。
  日本のメディアは、かつて自分たちが歩いてきた道も顧みて、世界にそうした冷静さを取り戻させる役割を、進んで果たしていくべきではないか、と考える。