2008.4.23

メディアは今 何を問われているか

日本ジャーナリスト会議会員
 桂 敬一
目次 プロフィール

光市母子殺害事件差し戻し審をめぐる憂鬱
―裁判員制度実施直前の死刑判決に縛られるメディア―


  4月22日朝、遅い朝飯中、テレビ朝日の情報番組 「スーパーモーニング」 を何気なくみていたら、そのつづきといった感じで、 10時から広島高裁前からの中継を含め、光市母子殺害事件の差し戻し裁判の法廷の様子と判決までを、ライブで放送する、というキャスターのアナウンスが入り、 すっと臨時特番が開始された。試みに各キー局のチャンネルを回すと、東京12チャンネルを除き、NHKを含む全局が同時に、 ほとんど同じ方式の特番体制で実況放送をやっていた。
  東京のスタジオには局アナと法律家・評論家などのコメンテーターが控え、現地には、広島高裁前の特設デスクにキー局から派遣されたキャスターが、 応援の系列地元局の放送記者とアナウンサーに囲まれて陣取る、といったかっこうだ。 東京のスタジオは、現地系列局のスタジオと高裁前デスクに結ばれている。 現地局が事前に取材した、被害者遺族 ・ 本村洋さんの談話ほかの関連資料映像や、たったいま廷内から出てきて、 審理の進行状況を中間的にリポートする記者の姿などが、東京のスタジオの大きなモニターに映し出され、そのまま放送できるようになっている。 差し戻しを決めた最高裁判決当時の資料映像などは、もちろんキー局が映し出すが、それらも、現地局スタジオ ・ 高裁前デスクでもモニターできるようになっている。 また、どの局も、このようなシステムをよどみなく動かすために、高性能の放送 ・ 通信 ・ 連絡装置を搭載した中継車などを高裁周辺に配置、 さかんに稼働させている気配だ。

  新聞の番組欄を慌てて確かめたところ、こうした実況中継が、10時開廷に合わせ、9時55分からの放送開始となっていたことがわかった。 驚いたのは、実際に放送が始まった途端、テレビの画面が、一つの方向に歩き出す膨大な数の人の群れを映し出したことだ。 広島高裁を囲む広場に集まった、傍聴希望の人たちだ。 どの局がどのようなアングルで撮ったのかはわからないが、なかには空中からこの大群衆を映したテレビ局もあった。 高裁上空にはヘリコプターが何機か舞っていたはずだ。集まったのは4000人だと報じられていた。一般傍聴人の席は26席しかない。 列をつくって進む人たちは、裁判所建物の入り口に向かうどこかでクジを引き、当たったわずかな人間だけが、多数の空クジの人を置き去りにし、廷内に入っていく。
  疑問が湧いたのは、一般傍聴人の当たったクジも、実際には新聞、テレビ、雑誌の記者に、かなり流れているのではないか、と思えたことだ。 世間の注目度が高いにもかかわらず、取材記者席の数が限定されている裁判の場合、廷内取材に多くの人を送り込みたいメディアは、前もって謝礼を払い、 アルバイトを多数動員、そのなかのだれかが抽選で引き当てた傍聴券をもらう、という方法をとる。 なぜそう思ったかといえば、10時を10分も過ぎたか過ぎないかの早い時間のうちに、どのテレビも、廷内にいた記者が息せき切って出てきて屋外のマイクの前に立ち、 廷内の様子を伝えだしたからだ。そうしたリポートが、その後も人が代わり、何回も繰り返されていく。 裁判所側との取り決めで、同一取材者が開廷中の法廷に複数回出入りできることになっていたのかもしれないが、常識的にいって、 各局がこんなにせっかちな中間リポートを、記者をとっかえひっかえし、競って繰り返せるのは、県の司法記者クラブで割り当てられた数以外の傍聴券を、 それぞれ手に入れることができたからだ、としか想像できない。被告や本村さんなどを描いた廷内スケッチを、早々と映し出す局もあった。

  このような狂騒状態を、なんでテレビはつくり出す必要があるのだろうか。 「みんなで渡れば怖くない」 という言葉があるが、「みんながいっせいに渡るだけになる状況ほど怖いものはない」 と、ぞっとしながら画面に映し出される光景を眺めた。

  「主文後回しです。裁判長は判決理由を先に読み上げ始めました」。コメンテーターの法律専門家が 「こういう場合は厳しい判決が出ます」 というと、 スタジオに緊張感が走る。「裁判長は冒頭、取材陣に対して静粛にするよう一喝しました」 「廷内の本村さんの落ち着いた様子は変わりません」。 日本テレビの画面には 「廷内速報」 の字幕が映し出され、フジテレビの画面には、判決理由読み上げ先行となった途端、「極刑へ」 の字幕が出たものだ。 どの局も、判決が真っ先に出ることに備えて特番の準備を整えていた節がある。 廷内からのリポート体制も、その第一報を他社に遅れることなく、劇的に伝え、現場の生々しさをスタジオにインパクト強く伝えることを、眼目としていたはずだ。 だが、少しは予想もしていたろうが、目当ての大きなヤマは外れた。
  しかし、事前の意気込みが惰性になっている。開廷20分近くのあいだ、廷内から興奮した面持ちの記者が代わる代わる出てきて、息を弾ませながら廷内の様子を、 カメラの前で繰り返し伝える。「判決理由の読み上げが始まると、本村さんは安堵のためか、ほっと溜息をつきました」 「被告の元少年はまっすぐ裁判長の方を向いています」。どこも、当初の緊張を、判決への期待に盛り上げていきたいとする感じだ。 だが、絵も出ない判決理由読み上げだけでは、緊張の持続も、最後の期待への盛り上げも無理だ。
  そこで事前取材の映像が挿入される。被害者の近くの住人が 「本村さんのことを考えると、死刑は当然でしょう」 と、温顔に笑みをたたえながら語る。 スタジオでは、昨年秋、弁護方針の対立をめぐって弁護団を離れた元弁護人が 「情状を重んじず、事実認定で争う弁護方針になったので、 厳しい判決になるのではないか」、検察上がりの弁護士が 「最高裁の差し戻しの判断は、特別の事情がない限り、死刑を回避する理由がないというものだった。 厳しい判決が予想される」 などの論評や予想を試みる。そしてごく自然に、「ではここでコマーシャルを」 の合いの手が何度も入る。

  これらの総体が、巨大なテレビ ・ ショーのようにみえた。とても報道とは感じられない。 一つの方向を目指すストーリーの完結を期待する、国民的ショーといった趣だ。 これ以上の巨大なショー、国民が期待するショーは、戦争の、それも勝ちいくさの見せ場しかない。 しかし、それにしては中途半端だ。大方の局が、まず判決ありき、そしてそれを受けたスタジオでの事件回顧 ・ 論評程度でしか特番を考えていなかった実情が、 はしなくも露呈したからだ。判決理由読み上げが長引くなか、フジテレビは10時20分で、テレビ朝日は10時30分で、TBSは10時50分で、それぞれ裁判中継の特番を終えた。 どこもがだいたい、遅らせた通常番組に、何事もなかったように戻っていった。
  異色なのが日本テレビ。当初の予定から、特番終了は11時25分までとなっていた。時間を長く保たせるための方針もはっきりしていた。 熊崎勝彦元東京地検特捜部長を起用、最高裁の高裁に対する裁判差し戻しの意味、出てくるであろう判決の意義を詳細に語らせていった。 時間が長かっただけに、法定内のスケッチも枚数が一番多かった。
  意表をついたのが、系列広島テレビの女性放送記者、延広記者が、前日朝に被告の元少年と面会しており、そのとき録音した彼の談話を公開したことだ。 「1 ・ 2審では警察で供述した証言だけしか取り上げてもらえなかったが、最高裁のときは初めて本当のことが言えたので、胸のつかえがおり、ありがたく思い、 感謝の気持ちをもった。それからは生きる喜びも感じられたので、かえって死ということの重さも余計に感じるようになった」 と語る、落ち着いた元少年の声は、 いろいろなことを考えさせた。だが、残念ながら、そこに含まれている意味を発展させ、追究する方向に、せっかくの長い時間が活用されることはなかった。 強烈な独占スクープ、注目すべき景物として使われただけだった。 番組全体の流れは、熊崎コメンテーターのリードする方向で貫かれ、国民的合意が整然と集約されていくように思われた。

  この壮大なテレビ・ショーでNHKが演じた役割も、興味深いものだった。 9時55分からの特番スタイルの実況中継では民放各局と足並みを合わせ、国民的ショーの揃い踏みに翼賛、花を添えたが、 裁判長の判決理由読み上げが先となると、すぐつづく10時からの通常ニュースの枠で特番を受け、判決が出ないとわかると、ニュースの終わりにともなって、 予定どおりの通常番組に移った。だが、NHKの正午のニュースが始まるとまもなく、その2番トップに扱えるタイミングで、広島高裁の判決が出た。
  日本テレビは11時30分からの定時ニュースまで引っ張って待っていたのに、判決を間に合わせてはもらえなかった。 裁判長は、まるでNHKの正午のニュースに合わせるかのようなタイミングで、判決を下したのだ。 国家権力としての裁判所は、「NHKは<国益>に役立つ放送をすべきだ」 と公言してはばからない経営委員長をいただくNHKに期待し、活用したのではと邪推したくなる。 このときばかりは、東京12チャンネルも含めて全局がいっせいに速報で判決を流し、昼の情報番組をもつTBS、テレビ朝日はその枠のなかで、 判決の意味やそれによって生じる波紋を追う特集形式で、番組をつくった。

  夜の報道番組はテレビ朝日の 「報道ステーション」、TBSの 「ニュース23」 だけしかみなかった。 前者で古舘メイン・キャスターが、「あのような被告」 に20人を超す弁護団が付き、被告を助けることだけに専念、 被害者への配慮を感じさせない弁護活動をするのには疑問を感じた、と語り、対照的に、本村さんの言葉がつねに重く、心に深く響くものを感じさせるので、 感銘を受けてきた、と述べたのには、汝もまた、とする思いを新たにさせられた。 TBSのほうも、そうした雰囲気が強くはあったが、法律を学ぶ学生や、学者、ジャーナリストなど10数人に今回死刑判決に対する感想 ・ 評価、 近く始まる裁判員制度への影響などについて質問を試み、多様な意見、回答を引き出していたので、ほっとするところがあった。
  その日の夕刊、翌日=4月23日の朝刊各紙も似たようなものだった。 朝日、毎日の紙面には少年犯罪に対する厳罰化、裁判員制度への影響を懸念する色合いも多少あったが、 日経の社説が、さらりと 「国民の感覚を映した死刑判決」 と論ずる姿勢が象徴するような空気のほうが、全紙を通じて断然強く、 空気をどう読むかを気にするようになりつつある国民にとっては、そういうメディアの伝え方、論じ方のほうが、自然に受け止められるものとなっていくのではないかと、 暗澹たる思いに駆られた。
  気がついたことで、とくにいっておきたいのが、以上のすべてのメディアの報道 ・ 論説を通じて、弁護団の弁護活動の内容や、判決後の言い分を、 具体的に、また詳細に報じたり、論じたりする記事、番組がほとんどなかった、という事実だ。 被害者側の立場や言い分を報じたもの、被害者の立場を支持、擁護する見地からの議論のほうが圧倒的に多く、 それらとの対比で被告と弁護団の言い分が取り上げられても、事実上、批判のために言及されるばかりで、むしろ否定的にみられるだけに終わるおそれさえ、感じられた。

  テレビも新聞も、悪気はない。むしろ善意と正義感に溢れているとさえいえる。一生懸命やっているのだ。 けれども、みんなそろって一生懸命、真面目に、また熱心にやればやるだけ、自分でもよくわからないうちに、 なにやらへんな仕組みができあがっていくのではないかと、メディアに関係する人たちは感じないのだろうか。
  1985年、「ロス疑惑」 が起こったころのテレビ、週刊誌は、まだ人間の悪徳や犯罪の猟奇性に焦点を絞り、スキャンダラスな面白さを売り物に、視聴率を狙い、 販売部数を追っかけることができた。だが、いまは歪んだ社会の悪や病理から析出されてくる、得体の知れない凶悪さが人と社会の安全を脅かすようになっている。 国民は、そのような凶悪な罪を犯したものは、国家が危険な敵として容赦なくその存在を暴き、その結果に応じた懲罰を厳しく課して駆逐、 社会の安全を確保していくことを望むようになる。
  メディアは、そうした国民の期待に応えようとすれば、やがて始まる裁判員制度のなかで、裁判員となる国民が正しいと考える裁きの実現に協力することに、 熱中することしかできなくなるのではないか。いや、そのプロセスは、気づかないうちに、すでに始まりだしているのではないか。 かつての犯罪報道は、いささかの後ろめたさはあっても、自分も面白がりながらはまっていられる体のものだった。 だが、これからの犯罪報道は、敵とする犯罪者を容赦なく追及、駆逐するメディアの仕事として構造化 ・ 体制化され、 永続的に実行しなければならないものと化す可能性がある。その極北に死刑制度が位置する。

  4月15日、これまで光市母子殺害事件を番組で扱ったテレビ局に対して、放送界の第三者機関 「放送倫理・番組向上機構 (BPO)」 の放送倫理検証委員会は、 番組中の被告弁護団の取り扱いは公正さを欠くと指摘、改善を求める勧告を出した。 それはそれとしてもっともであり、関係者は改善の努力をすべきだが、22日の広島高裁判決をめぐるテレビ ・ 新聞の報道ぶりに接すると、 BPOの勧告はまだまだ素朴に過ぎるという感じがしてならない。 メディア全体はもっと危ないところに足を踏み入れているのではないか。 法曹界の大先輩、団籐重光氏は、裁判員制度を実施するなら、死刑制度を廃止せよ─―死刑制度をそのままにした裁判員制度には絶対に反対だ、 と述べている (団籐重光 ・ 伊東乾 『反骨のコツ』 朝日新書)。その深刻な意味を、いまメディアこそ、理解すべきではないか。