2008.4.30

メディアは今 何を問われているか

日本ジャーナリスト会議会員
 桂 敬一
目次 プロフィール

東北アジアの聖火リレーから見えてくるもの
―欧米の人権意識では解決できぬ根深い問題―


  北京五輪 ・ 聖火リレーが東南アジア、オーストラリアのあと、長野、ソウル、ピョンヤン (平壌) へと移っていく報道を見たり読んだりするのに連れ、 チベットでの人権抑圧で中国に抗議するチベット人や支援の地元住民、これに対抗し、自国の正当性を主張する在留中国人、 両方のデモや、それらの交錯が生む紛糾の中味が、他の地域におけるものとはかなり異なるようになっているのに気付かされ、いろいろ考えさせられている。

  タイなど東南アジアにくると、在留中国人の数が多くなるので、人権派に対抗する勢力の声、 北京五輪を擁護しようとする中国人のナショナリズムが、強く表に出てくるようになった。 一方、これに対する人権派のチベット支援の主張は、欧米から始まったそれとほとんど狂いなく重なるものだった。 ところが、長野にくると、それは大きく変わる結果となった。 もちろん欧米型人権派の声、行動様式もみられるが、騒擾的な場面をつくり出した最大の “貢献者” は、 右翼やその主張に雷同する無党派の人たちである気配が濃厚で、日本独自の色が加わったからだ。
  4月26日、まだリレーがきてもいない朝のうちの長野駅前で 「数千人単位の大規模な衝突」 が生じ、 「拡声器を使って 『中国人はギョーザを食って帰れ!』 などと過激な発言をした人物が、 周囲の日本人から 『差別はやめろ』 と一斉に非難される場面もあった」 (夕刊フジ ・ 同日ネット配信)。 この報道は、チベット解放、中国独裁国家反対を主張するために長野にきたとする会社員、若者が、2チャンネルなどネットを見て集まった模様も伝えているが、 そのいずれもが、右翼的あるいは反中国的な傾向に染まった日本人だった可能性がある。
  そのことは、同日のAFP配信 (長野聖火リレーで妨害行為)、オーマイニュース配信 (聖火の長野に現れた醜い 「ニセモノ」) などの報道によると、もっとはっきりする。 要するに、日本にきた聖火リレーへの抗議は、「反日」 中国に対する反中国の感情が露骨に出てきた色彩が濃く、 チベット支援は口実にされただけではないか、という疑惑を残すのだ。

  ソウルではどうだったか。日本でも、政府 ・ 財界は対中国投資 ・ 貿易の利害を考えると、あらゆる問題について中国政府と決定的に対立することはできない。 韓国のそうした利害は、日本の場合よりさらに大きいのではないか。 このような状況を反映してか、ソウルを訪れた聖火リレーの支援に当たる在留中国人の体制は、長野よりよほど大かがりで、 抗議グループを圧倒するほどの勢いがあったように感じられた。 しかし、そこに脱北者、北朝鮮を抜け出し、最終的に韓国に落ち着いた人びとが、やおら登場、中国に対する激しい抗議行動をみせたのには、驚いた。
  中朝国境を厳しく閉ざし、脱北者を阻むようになった中国。 困難を冒してそれを突破しても、中国官憲に発見されれば、即、北朝鮮に送り返されるか、 東南アジアへの出国 (その後、韓国に移動) までの滞在しか認められない脱北者。 彼らは中国政府のこうした仕打ちに抗議したのだが、その背景には、韓国の政府 ・ 国民のシンパシーと、対北朝鮮政策をもっと韓国寄りのものにせよとする、 中国に対する暗黙の要請とがあったと、ニュースに接しながら理解した。
  そして、ピョンヤンはどうだったか。金日成健在時代の国民的イベントの光景、というより、 中国において毛沢東が率先、文化大革命を指導していた時代の天安門広場の集会 ・ 式典もかくやと思わせる、政府・国民一体となって、 聖火リレーが自国を初めて訪れたのを祝う、完璧な情景が出現した。 これならば中国の政府も国民も文句ないのではないか。いや、政府や国民のある部分は、抗議や批判がまるで出ないのでは、民主化を目指すとする手前、 欧米に対して気恥ずかしく、北朝鮮政府はそこまでやらなくてもよかったのに、と思ったかもしれない。

  このような日本、韓国、北朝鮮の聖火リレーの迎え方には、それぞれ異なった特色があったのだが、そこには大きく共通するものもあるように思える。 いやそれは、北京五輪開催国、中国も含めて共通するものだといえそうだ。
  欧米が築いた近代に対する 「後進性」 にコンプレックスを感じ、早くそれに追いつかなければとする焦りが、まずある。 オリンピックの開催は、その実現への絶好のスプリング ・ ボードとして理解される。
  その目標追求では国家と国民のあいだに齟齬がなく、両者一致してオリンピックの成功を目指す。 そのために国内に過渡的な犠牲の部分が生じてもやむを得ないと考える。 外国がそれを指弾、批判すると、国民がナショナリスチックに反発、自国の立場を擁護する。 とくに自国の 「後進性」 が、欧米諸国による長年の植民地政策 ・ 侵略 ・ 戦争によってもたらされたと考える国では、 いわゆる先進国に対して、憎悪に近いナショナリズムが爆発することさえある。
  こうした 「後進性」 を脱しきれない国では、個人としての市民がスポーツを享受する文化が確立しておらず、 クーベルタンによって国家とは無縁なところで追求されるべきとされた近代オリンピックの理想を、理解することができない。 むしろ、それへの参加を通じて、国家と一体化した民族 ・ 国民の力の強大さ、誇りを追求する方向に走りやすい。
  この点は、近代オリンピックを発明した先進国でも、国家が国民統合にこれを利用したり、自国の国力を他国に見せつけるために、 その場を絶えず使ってきたりしたので、本来の五輪の意義を後進国に、真面目に理解させることができなくなってきた、という点もある。

  いずれにせよ、長野で、ソウルで、ピョンヤンで行われた聖火リレーの、欧米先進国におけるのとは大きく異なった光景が出現したわけは、 このような共通した 「後進性」 によるものだといえそうだ。日本は、朝鮮を植民地とし、中国には侵略のため、攻め入った。 その結果、日中、日韓、日朝のあいだには、中 ・ 韓 ・ 朝とのあいだとは大きく異なる国民感情が残存する。 それにもかかわらず、オリンピックという国際的イベントがこれら国家相互のあいだに立ちはだかると、それが市民 ・ 人権という次元の問題として捉えられるより、 一足飛びに国家とナショナリズムの問題になりやすい体質が強く残っている点は、4か国どこも共通している。
  日本については、石原都知事の2016年の東京オリンピック開催への執着が、そのことを証明している。 中国については、聖火リレー最終行程、国内行進の大成功が、まもなくそれを証明するだろう。 いやらしいのは、これらのことを、欧米各国がよく見通しており、そのうえでいがみ合うアジアの国に人権擁護の教訓を垂れていることだ。 これらの国の人びとは、先進国から彼らの基準によって自分たちの 「後進性」 を指摘されれば、それは認めざるを得ないが、 反面、その 「後進性」 をもたらしのはお前たちの近代、「先進性」 の勝手さ、帝国主義、植民地主義などではないか、と改めて思い起こさせられ、 不快感を掻き立てられることになる。
  「国境なき記者団」 のロベール・メナール事務局長が善光寺境内に腰を下ろし、「チベット支援の人びとも、北京オリンピックを応援する人びとも、 お互いに自分たちの主張を言い合えたのはよかった。これが民主主義だ。われわれの行動は成功した」 とにこやかに語るのをテレビでみて、少々胸くそが悪くなった。 彼は真面目にそう信じているのだろう。 だが、ヒトラーが発案した聖火リレーを利用、これに抗議しながら人権を訴えるのに、なんで黒シャツなんか着てくるんだ、悪い冗談じゃないかと、 その無神経さに突っ込みを入れたくなった。

  戦前、すでに D・H・ロレンス、 J・ジョイス研究の実績を残し、欧米文学に通暁していた、あの理知派の作家、伊藤整が、1941年12月8日、 日本軍のハワイ攻撃のニュースに接し、「我々は白人の第一級者と戦う以外、世界一流人の自覚に立てない宿命を持っている。 はじめて日本と日本人の姿の一つ一つの意味が現実感と限ないいとおしさで自分にわかって来た。 ……ハワイをまさか襲うとは……我々も意外であり、米人も予想しなかったのであろう」 と感激、その日の日記に書き残しているのを読んで、 意外の感に打たれた覚えがある (『太平洋戦争日記 (一)』 新潮社)。 しかし、対英米開戦の報に接した彼が、自らの内なる 「後進性」 の由来をたずねつつ、始まってしまった戦争の結末の予想とは関係なく、 欧米に対するそれまでのある種もだしがたい思いがふっ切れたように感じたことは、何かわかる気がする。
  表面的には時代も状況も、まったく違うが、欧米の近代、「先進性」 に対する伊藤が感じていた憧れ、敬慕と、苛立ち、嫌悪とが同時に存在する思いは、 いま北京五輪成功のためならなんでもやろうと意を決している中国政府、それを支持せざるを得ない中国国民の気持ちにも、通じるところがあるのではないだろうか。 また、中国より一足先にオリンピックを成功させ、それを民主化へのステップとした経験を持つ韓国、 北京五輪への協力 ・ 参加を国民的経験にしようと考えているらしい北朝鮮にも、同様のことがいえるように思える。

  おかしな共通点ではあるが、欧米からの眼差しの下、アジアは一つだという思いを強くさせられる。 その共通点を、いつまでも 「先進性」 の優越的立場にあるものから見下され、バカにされてばかりはいたくない。もう自分たちで解決したい。
  E・サイードは、欧米の 「オリエンタリズム」 の視点を暴き、自分のことは自分たちの解釈で理解し、自分の言葉で語る道筋をつけた。 G・C・スピヴァクは、「後進性」 の虜ともいうべき 「サバルタン」 (表現的世界を奪われてきたインドの下層従属民) の思いを西欧的エリートに語らせることはできない ─―そこにいる人びとの声で語っていかなければならない、と述べる (『サバルタンは語ることができるか』 みすず書房)。
  希望はある。日本で活躍する中国人ジャーナリスト、莫邦富 (モー・バンフー) 記者は本土出張中、中国は台湾総統選挙が独立派候補の勝ちになったら戦争か、 と大騒ぎしたくせに、味方だと勝手に思っている馬英九国民党候補が当選したら安心し、その結果をテレビがまるで報じないのに呆れ、 「(中国は) 北京五輪で 『開かれた中国』 をアピールしようとしているが、中国には 『鎖国時代の面影』 が依然として色濃く残っている。 馬氏当選によって中国本土と台湾との間で確保できた貴重な平和の期間を大事にして、中国の将来をじっくりと考えるべきだ。 台湾では民衆が政党と指導者を選んだ。香港も17年には実現できそうだ。さて、肝心の中国本土はどうだろうか」 と書いた (朝日・4月19日・be)。 世界を見渡す展望のなかで実に適切に祖国のあり方、問題を浮き彫りにし、いうべきことをいっている。
  また、日本のフリーのジャーナリスト集団、「アジアプレス・インターナショナル」 (野中章弘代表) が北朝鮮内でジャーナリストを育成、 彼らによる雑誌 『リムジンガン』 日本語版を4月3日、創刊した (毎日・4月4日朝刊)。
  このように東北アジアのジャーナリストが外に向かって国を開き、お互いに自由にものが言い合える関係を構築、共通の歴史認識の確立に向かえば、 欧米近代の 「先進性」 の世話にならずに、あるいはその限界を超えて、自分たちも正当にそのなかに位置づけられる新しい世界像を、 自ら描いていけるようになるのではないか。