2008.5.7

メディアは今 何を問われているか

日本ジャーナリスト会議会員
 桂 敬一
目次 プロフィール

「9条世界会議」参加者の熱気は何を意味するか
―分科会シンポジウムに出席して考えさせられたこと―


  5月4日から6日まで、千葉・幕張メッセのイベントホールと国際会議場で、 多くの護憲 ・ 平和団体関係者や文化人が呼びかけ人となった実行委員会によって計画された 「9条世界会議」 が、開催された。 初日=4日は、定員7000名の会場に1万人をはるかに超す多数の来場者が押し寄せ、 急遽会場外でも集会が行われるなどの大盛況になったと、参加した知人のメールで知った。
  私は2日目、いくつもの分科会でシンポジウム、交流集会などが催される5日に、会場を訪れた。 「マスコミ関連九条の会」 とJCJ (日本ジャーナリスト会議) が、韓国記者協会の協力を得て主催するシンポジウム、「憲法九条とメディア」 に、 パネリストのひとりとして出席するためだ。
  JR京葉線 ・ 海浜幕張駅を降りると、駅周辺ではショッピングモールでのイベント、展示場での 「恐竜展」 などもあり、 連休後半の中日、やはり人出の多さに目を奪われた。沿線途中には、近くに水族館のある葛西臨海公園駅、東京ディズニーランドの舞浜駅などもあり、 それぞれ行楽の乗降客が、多数認められた。にもかかわらず、海浜幕張駅での賑わいも、相当なものだった。 いろいろな目的の訪問者がいたはずだが、駅前広場のうえに張り巡らされた回廊を渡る人の列に混じり、国際会議場にたどり着き、 入場券を取り出したとき、私の前にいた、孫を連れたおばあちゃん風の老婦人が、「ああ、これは違いますよ。恐竜はあっちのほうよ」 と、 受付の女性から入場券を突き返され、照れくさそうにユーターンしていったので、「9条世界会議」 は2日目も盛況なのだということが、よくわかった。

 会場1時間前にラウンジに集合、シンポジウムの打ち合わせということで、指定された場所にいった。 三々五々、関係者が集まり、混みだしたラウンジで打ち合わせをやっていると、向かいの部屋の入り口の前に続々人が集まり、長い列をつくっていった。 脇で企画事務局関係者が、「会場の机は出して、椅子だけにしたけれど、それでも会場に入りきれないかもしれない」 と慌てだした。 2階の分科会会場にもいってみた。つぎの会を待つ人で各部屋の前の広い部屋が混雑していた。行き交う人のなかには見知った顔もあり、何度か挨拶された。 定刻数分前ごろ、会場に案内され、私たちパネリストも入室、所定のテーブルに座った。
  パネリストは、会場に向かって右からコーディネーターの小中陽太郎さん (作家)、韓国記者協会顧問 ・ 前会長の李成春さん、朝日新聞記者の伊藤千尋さん、 私 (立正大学講師) の4人。 驚いたのは、入り口のドアが大勢の人で閉まらず、壁という壁には立っている人がいっぱい、通路の床は座った人で埋まっており、 とにかく人で溢れているという感じだったこと。
  事務局と相談、われわれパネリストが並ぶテーブルも、急遽後退させ、最前列の椅子席の前に空間をつくり、その床のうえにも座ってもらうことになった。 事務局は開会前の連絡をかねた挨拶のなかで、定員140名のところ、200名を超す来会者があったので、やむなくこういうことになったと報告、 運営への協力を参加者に求めた。驚いたのは、みんなが窮屈な思いをさせられており、さらに床に座らされた人たちは同じ入場料を払っているのにと、 それぞれ不愉快に思い、怒ってもいいはずだが、そうした険悪さをひとつも感じさせるところがなかったことだ。

 それどころではない。これらの人たちの多くは、大盛況はいいとしても、定員7000名のところに、一説によれば1万数千枚もの券を売ったといわれる、 不祥事が生じたともいうべき初日=4日にまず来場、この日感じた気分の高まりをそのまま体温に残し、2日目のきょう、またこの会場にやってきていたのだ。 会場に入った途端、またパネル席に着き、来場者と対面、目を合わせたとき、パネリスト全員がまず感じたのは、参加者の熱気と、 これから始まる報告 ・ ディスカッションの行方に向けられた真剣な関心だった。
  初日の主催者側の不手際、見込み違いは批判されるべきであり、実際その点を不誠実と思い、非難する参加者もいたようだ。 だが、そうした思いを持つ人も含め、ほとんどの人が、いまこの時期にこれだけ多数の人が 「9条世界会議」 に集まった事実に感動、 そこに自分も参加し、非日常的な状況をつくり出す体験をしたことに高揚感を覚えていたのだ。 私はそのことが理解できると、不思議な気がした。ある種、既視感に襲われたといってもいい。
  1959年秋、岸信介内閣は、翌年の日米安保改定に先立ち、これに反対する大衆運動の高まりを抑えるために、国会に警職法 (警察官職務執行法) の改悪案を提出した。 当時、政治問題では十分な闘い方ができなかった労働組合も、さすがに怒った。 「デートもできない警職法」、「戦争中のオイコラ警官復活反対」 などのスローガンを掲げ、労働組合は激しい国会デモを敢行、平和裡に国会構内にも進入し、 翌年の大闘争、60年日米安保反対闘争の先鞭を付けた。
  そして1960年、安保反対運動は、連日の国会デモもさることながら、企業に閉じ籠もっていた労組を、異なった企業間の労組相互の対話、 さらには異なった産業の労組間の交流に向かわせ、またその裾野は、地域における労組 ・ 住民の共闘、学者 ・ 文化人 ・ 芸術家との協力関係の形成にまで広がった。 59年春に大学を卒業、半年の試用期間を終わって労組に加入した私は、警職法改悪反対 ・ 60年安保では連夜のデモに参加、 またあちこちの共闘会議や各種の集会に参加した。そこには時代が変わると感じられる空気があった。予想できないこと、予定外のことが、いくらでも起こった。 あのときそこにあったのと似た熱気を、私は5日のシンポジウム会場で感じたのだ。

 では、あのときといまではなにが違うか。そのことも、私は考えた。
  1960年6月15日、全学連デモの国会突入で東大生、樺美智子さんが亡くなると、 在京新聞7紙 (現在の6紙に東京タイムス) は、 “よって来たるゆえんは別として” と、紛争の最大原因、 日米安保改定を与党単独の強行採決で押し切った岸内閣の非民主的な国会運営の責任を棚上げし、とにかくデモなどの騒ぎは止め、 各党が静かに国会で話し合うようにすべきだ、とする 「7社共同声明」 を発表した。 この声明はすぐ地方紙も追随するところとなり、やがて新聞もテレビも、デモなど安保反対の運動については、報道を控えるようになった。
  戦時中、朝日の記者だったが、敗戦の8月15日、みずからの戦争責任を恥じて社を辞し、 その後、故郷の秋田でミニコミ 「たいまつ」 を発行したむの・たけじさんは、「7社共同声明」 に接し、新聞は死んだ、と評した。
  しかし、少なくとも、新聞もテレビも、59年秋の警職法闘争の立ち上がりから60年6月15日、女子学生死亡の悲劇までは、二つの闘争をよく報じていたといえる。 連夜のデモは疲れる。だが、国会に向かったデモが新橋で解散、帰ろうとしたとき、街頭テレビで、あるいはビヤホールのテレビで、 デモに機動隊が襲いかかるシーンなどが映るのをみると、また地下鉄に乗って国会前にとって返し、どこのデモにでも加わったものだ。
  翌朝、前夜のデモの報道が新聞に詳しく載ると、それに激励を受けて出勤、夜になるとまたデモに参加した。 こういう体験をした人はとても多いはずだ。メディアはこのとき、市民・労働者とともに闘っていたのだ。時代が変わる空気を、メディアも熱心に追っかけていたのだ。

  5月5日、幕張に出かける前に新聞をチェックしてみた。「9条世界会議」 初日=4日の 「大盛況」 はどう報じられていたか。 朝日 「9条への思い 会場あふれて」 の記事は第2社会面、横長の写真付きでやや目立つ扱いだったが、記事はわずか23行。 毎日も同じ2社面掲載だが、「『9条世界会議』 開会 マータイさん、ビデオ参加」 は40行あった。しかし、こっちは写真が小さいので、目立たないのが難。 一番記事量が多いのが東京新聞。第1社会面での 「9条世界会議 千葉で開幕 『9条で命守られた』 高遠さん語る」 は66行だから読みでがある。 写真があればもっと目立ったはずだ。
  日経は2社面の最下段・15行がすべて。 「『人々に希望』 9条を評価 世界会議で平和運動家」。北アイルランドの平和運動家で1976年ノーベル平和賞受賞のマイレッド・C・マグワイアさんに触れただけ。 読売 (14版)、産経に至っては、どこを探しても関係記事なし。 用心のため、人づてに調べたら、読売は千葉版 (13版S) に 「『9条会議』 1万人が殺到」 とする写真入り2段の記事を掲載、と教えられた。 全国通し掲載の社会面には載らなかったわけだ。目につくのは北アイルランドのマグワイアさんの紹介だけということだった。 千葉日報が2社面ながら大きく報じているので、地元対策を考えたということか。
  英字紙、ジャパンタイムズが2面ながら大きい記事で 「9条世界会議」 を詳しく報じたのが目を引く。 海外ゲストの顔ぶれといい、9条が大きな政治問題となる日本の国内事情といい、国際ニュースとしての価値はあるとする判断があったせいだろう。
  興味深いのが、「国益」 重視の経営委員長をいただく NHK。4日の夜8時45分からのニュースで報じたとのことだが、見た人によると、 幕張メッセの会場の光景を映し、「北アイルランドから来日のノーベル平和賞受賞者、マグワイアさんが平和について語った」 とするニュースを伝えたものの、 「9条世界会議」 の文字は出ず、言及もなかったとのこと。
  民放テレビについては、5日のシンポでも話題になったが、どこかのニュースでみたという人がだれもいなかった。 メディアは、だれかが多少なにかやっても、時代は滅多なことでは変わらないという風しか、吹かせていなかったのだ。

 だが、実際には時代は大きく変わりつつある。東京新聞 ・ 首都圏編集部記者の鈴木賀津彦さんに現地でお目にかかった。 鈴木さんは新聞の取材 ・ 報道だけに終わらず、自分のブログ 「ハマっち! SNS」 を運営、「9条世界会議」 の速報も手がけていたが、 その経験を踏まえて今回、明治学院大学の学生たちを指導しながら、Eモバイル機材を駆使、「横浜市民テレビ (仮) 150」 と称するインディ局を立ち上げ、 これを拠点にライブテレビ 「JAPAN!ライブカメラコミュニティー Stickam」 による 「9条世界会議」 ・ 現場からの生中継を開始したのだ。
  このコンテンツの録画 ・ 録音もネットで公開されているので、5日放送分を拝見したが、国際会議場で見かけた、音楽批評などで知られるピーター・バラカンさんを、 明学の女子学生が体当たり取材しているのが秀逸だった。
  会場のモニターでいま撮られている自分をみながら、バラカンさんが 「これは画期的だね、ナマで出ているんだ。 ネットで流れるんだね」 「会議に関係してなけりゃ、ここにいないのだから知るはずはないわけだが、こんなにたくさんの人が来ているということには、 本当に驚いた」 「9条の問題では、政府が憲法改正国民投票法で投票権を18歳以上に与えたので、9条の会の人たちにとっては、 とくに18歳から20歳までの人たちに平和のメッセージを送り、彼らの支持をアテにしている政府の鼻をあかすことが重要な課題になっている」 「そういうことは、大手メディアではなかなかできない。だからこういうネット放送などの役割が重要になっている」 「ネット放送は、規制の多い放送とは違う。 これはむしろ通信だ。制約のない、自由な通信だ。ところが政府は、通信と放送の融合を進め、両者を一緒に扱おうとしている。 そうなると、自由な通信を許さず、これも放送のように規制されることになる危険があるので、警戒しなければならない」。 傾聴すべき発言ではないか。
  (※NPJ 注 ライブログで見られます

  学生と鈴木さんはほかにも、辻元清美、湯川れい子、高遠菜穂子などの諸氏のインタビューも行っている。 同様の試みは、市民ジャーナリストによって京都、大阪でもやられていた。 まだ大きな流れとなってはいないが、そこには、変わる時代の息吹を伝える、新しいジャーナリズムの萌芽が認められる。 既存の大メディア、組織メディアは大丈夫なのか─―このままでは時代に後れをとり、取り残されるのではないか、と心配だ。

(シンポジウムの内容とそれについて考えたこと、今年の憲法記念日の各紙論調の特徴などは、5月半ば過ぎごろ、 「マスコミ関連九条の会」 の ホームページ に連載している 「メディアウォッチ」 でお伝えします。)