2008.6.11

メディアは今 何を問われているか

日本ジャーナリスト会議会員
 桂 敬一
目次 プロフィール

秋葉原・通り魔事件と霞ヶ関「居酒屋」タクシー
―メディアはこの国の自壊を止められるか―


  新聞休刊日・6月9日(月) の前日=8日(日)、12時半ごろ、東京・秋葉原電気街の交差点路上で通り魔事件が起こった。 当日は夕刊なし、翌日も朝刊がないため、NHKの昼過ぎの臨時ニュースに始まり、その後24時間以上、報道はテレビの独壇場となった。 歩行者天国の混雑のなかでの無差別連続殺傷事件、犯人はその場で現行犯逮捕。 滅多にないスペクタクルに出会ったテレビは、接近したところからの負傷者・救助者の姿、緊迫した犯人逮捕のシーン、空中から俯瞰した、 現場を取り囲んだ大勢の群衆の光景など、変化に富んだ劇場型の映像報道を繰り広げた。
  夜には犯人は青森県出身の、現在は静岡・裾野市に住む25歳の男性派遣社員であることがわかったが、犯行動機など、 なぜこんな事件が起こったかの事情を理解させる事実は、何一つといっていいほど、わからなかった。 新聞が追いついたのは、ようやく9日(月) の夕刊から。 しかし、この段階でも記事といい写真といい、新聞はどれも、テレビがそれまでに報じたことをどこまで超えられたかといえば、あまり差はなかった。
  一方、秋葉原・通り魔事件の記事で溢れかえった夕刊の紙面には、沖縄県議選 (8日開票) が与党の過半数割れに終わったという注目すべきニュースが、 あまりにも小さくしか出ていないのが気になった。 青森で開催された主要8か国 (G8) と中国・インド・韓国の11か国エネルギー担当相会合も、8日に閉幕していた。 直前にニューヨークの原油取引価格が140ドルにも達する情勢となり、また開催間近の洞爺湖サミットの成否を占う意味もあり、 この会議の結果をどう評価すべきかとする問題があったのに、これも報道は小さかった。 6日に野党が参院で可決した後期高齢者医療制度廃止法案に関する続報、米大統領・民主党候補選におけるクリントンのオバマ支持表明のニュースも、 ともに扱いが小さく、不満が残った。

  「相手は誰でもよかった」 「たくさん殺せば、死刑になれるだろう」 などと犯行者が口走る連続無差別殺人事件が、 折しも大阪教育大附属池田小学校の児童殺傷事件が起きて7年目の同日に生じわけだ。 しかも今年は、1月の東京・品川における戸越銀座商店街事件 (犯行者は16歳少年。死亡者なし)、 3月の茨城・土浦市でのJR荒川沖駅前事件 (犯行者は24歳青年。死者1・負傷者7) と、類似の事件がすでに2件も起きていた。 さすがにテレビも新聞も、こうした風潮を不気味に思い、なぜこんなことが傾向的に起きるのかとする問題意識を、今度ばかりはかなりはっきり前面に出した。
  政府も、福田首相が官邸に泉信也国家公安委員長を呼び、「社会的背景も含め (て検討し)、対応策を考えてほしい」 と指示した。 泉委員長は、おそらく記者団に問われてであろう、ナイフの規制強化について 「そういうことも視野に入れて考える」 と述べ、検討する考えを明らかにした (読売報道)。 だが、一部の特殊なナイフ類の販売・所持を規制したところで、このような事件の根本原因を取り除くという点では、ほとんど役に立たないのではないか。
  むしろ福田首相のいう、「社会的背景」 を考えたうえでの 「対応策」 こそ、検討が急がれるというべきだろう。 さらに 「社会的背景」 の検討は主に、不条理な犯行に走りそうな人たちについてなされるものとなるだろうが、今度の事件をめぐっては、 検討の矛先は単に犯行者の成育歴や職業環境、心理状況などに対してのみなされるに止まらず、現代社会のあり方、 その構造的な病理そのものにも向けられる必要があるのではないか、と思える。
  また、現代社会の特質や人びとの社会的性格の形成に大きな役割を演じているメディアのあり方、問題にも、検討が加えられてしかるべきであろう。

  一足飛びの乱暴な議論になるかもしれないが、いまメディアは、読者・視聴者に対して、このような事件の 「社会的背景」 をわかりやすく的確に解明、 そこに潜む重大な問題点を摘示するとともに、その解決方法まで具体的に提案できるかどうか、問われることになっているのではないだろうか。 8日=日曜夜のNHKは、大河ドラマ 「篤姫」 で週間第1位の高視聴率を稼いでいた。
  そして、その直後の8時45分、日曜編成のニュース・天気予報は0.9%の差で第2位、23.9%という、ニュースとしては破格の高視聴率を獲得した。 この時点ではまだ、事件の断片的な情報を繋ぎ合わせただけのニュースなのに、これだけの視聴率を取ったのだ。 その背景には、多数の視聴者が事件に 「なぜ」 とする大きな疑問と深刻な不安を抱き、自分が今いるこの社会の病をどう理解すべきかとする、 真剣な関心を寄せる状況が生じていた、といえよう。
  メディアはこのような読者・視聴者の潜在的な期待にどれだけ応え得ているだろうか。翌日=9日の夕刊をみる限り、 犯人の青年の生い立ちや近況、ネットに同時進行的に書き込まれた犯行までの言動、憎むべき犯行の残酷さ、 悲運に遭遇した犠牲者の姿・家族の嘆きなどは精力的に報じられていた。 だが、9日夕方の段階では、「社会的背景」 の全体的な姿を浮かび上がらせるだけの十分な報道は、まだみられなかった。
  ただ、毎日の報道が、犯人の青年は6月初めごろ、同月末で派遣が打ち切られるものと誤解、5日に作業場にいったところ、 自分のツナギ (オールインワンの作業衣) が見当たらなかったのを解雇に伴う撤去と思いこみ、5・6日と欠勤 (7日=土曜は休日)、 8日に犯行に至ったとする経緯を報じており、「社会的背景」 の一部を理解させる重要な手がかりとして、目を引いた。
  また同日の夕刊各紙は、犯人のネット書き込みを、犯行と同時進行の部分に焦点を絞って報じたが、時事通信 (9日12時28分配信) が、 それ以前、6日の部分に着目、彼が同日未明から 「(職を失って) 住所不定になったのか ますます絶望的だ」 「やりたいこと…殺人 夢…ワイドショー独占」 「誰にも理解されない 理解しようとしない」 と書いた部分を伝えていたのが、注目にされた。 「社会的背景」 の別の部分や、メディアに関する問題も、浮かび上がらせていたからだ。

  これに比べると、8日に独走した観のあるNHKは、しだいに 「社会的背景」 の究明から後退する兆しをみせるようになった。 9日夜、8時45分の 「首都圏ニュース」 はトップで秋葉原・通り魔事件翌日の現場をハイライトしたが、それは犠牲者の友人・知人、 そのほかの現場を訪れた人のインタビュー構成のかたちをとっていた。
  最初の若い女性は 「彼女はこんな目に遭うために生まれてきたんじゃない」 と友人の悲劇を嘆き、涙ぐんでいた。 つぎの中年の男性は 「何も関係ない人になんでこのような酷いことをするのか」 と、憎むべき犯人への怒りをみせた。 3人目の若い女性は 「犯人は自分と同じぐらいの若い人だけれど、なんでこんなことをするのかわからない」 と、理解不能な相手に対する絶望感を表した。 それぞれ実感が籠もった、一見バランスよくできているこのインタビュー構成を、どう受け止めるべきだろうか。
  被害者の運命は同情し尽くせぬほど痛々しい。では、その反作用で加害者を激しく憎み、厳しい懲罰を科せば問題は解決できるのだろうか。 また、身勝手な鬱憤を相手かまわぬ第三者への殺意に変えるようなものは、容赦なく社会から抹殺すればよいと言いきれるだろうか。 さらに、自分と同年輩の人が理解できないというとき、理解できない相手のほうだけに問題があるのだろうか。 理解できない自分のほうにも、実は問題があるのではないだろうか。これらの視点設定では、「社会的背景」 の片側、得体の知れない犯罪の結果に嘆き、 あるいは怒り、苛立つ人びとがこの社会にますます増えているとするだけの報道から、一歩も抜け切れないのではないかと、いわざるを得ない。
  問題となる 「社会的背景」 とはそもそも、動機不明な無差別殺人などを犯す人たちが属する社会の側の事情を指すものであろう。 その事情をより大きな社会的文脈に即して検討、彼らがどういう人たちなのか、なぜこの社会に犯行者として相次いで出現するのか、などの因果関係を解明することこそ、 今報道に求められる作業なのではないか、と考える。

  私の大学教員としての体験からも、1997年に当時の日経連 (日本経営者団体連盟。2002年に経済団体連合会=経団連と合体、 日本経済団体連合会=経団連となる) が、大学新卒者の会社訪問は4年生に対して8月から、求人内定通知は同じく11月からそれぞれ解禁、 としてきた就職協定の破棄に踏み切り、加えて労働者派遣法が改悪され、1999年から一般事務職にも派遣利用が解禁されると、 全体としての新卒者の正規社員就職率が急速に低下し、さらに偏差値の低い大学ほど就職難が酷くなるかたちでの大学間の就職格差が広がっていったことを、 まざまざと思い出す。
  98年の新卒者は全体として3分の2しか正規社員としての就職ができず、あとはフリーターになっていったはずだ。 それが2003年になると統計上、正規社員就職者は半分強、残りはフリーター、派遣という事態にまでなった。
  就職協定破棄は、通年の求人・入社試験実施となり、学生は3年生の段階からいわゆる 「就活」 (就職活動) に奔走するのが当たり前となり、 その歪みは格付けの低い大学にほど強く出て、3年になると勉強もろくにできず、ますます正規社員としての就職がむずかしくなる不利に見舞われる結果となった。
  さらに追い討ちがかけられた。2004年、小泉構造改革によって、従来製造業には禁じられてきた派遣の導入が許されたのだ。 これによって大量の正規社員がリストラされ、その穴をパート、派遣、さらには請負が埋めていった。 彼 (彼女) らは、賃金上昇が望めない有期雇用契約のため、低賃金と雇用継続無保障のせいで、健保・年金・雇用などの社会保険にも入れないものが多く、 雇用契約を打ち切られたとたん、滑り台を滑り落ちるようにホームレスに転落しかねない不安定な状況に、置かれている。
  問題は、一度派遣、フリーターで働き始めると、あるいは正規社員からそうした身分になると、学歴には関係なくだれもが、働き場所は変わっても、 あとはもう派遣、フリーターを繰り返していくほかなくなるという、厳しい現実にぶつかることだ。 この繰り返しに上昇はなく、転落がつきまとう。そこに囚われ、出口がみえなくなったものは、社会のあらゆる方向からくる蔑視にさらされていると感じ、 自分については屈辱と孤独に耐える姿しかイメージできず、ついには激しい自己嫌悪に陥いることが多い。

  日本で今、このような派遣、フリーターと真反対の位置に、どのような人たちがいるだろうか。 私がすぐ思いつくのは、これもメディアが大騒ぎした、「居酒屋」 タクシーに群がる中央省庁の役人たちの存在だ。
  役所のタクシー券で深夜、長距離の客となる役人に、個人タクシーの運転手が缶ビールとつまみを提供するのは、あるいは車中の役人が一息つき、 それでのどを潤すのも、あながち悪いこと、不法なこととはいえない。お互い持ちつ持たれつの生活の知恵だ。 だが、それが数百人もの役人のあいだで10年以上もつづく構造的な慣習となっていた、というのには驚き呆れた。
  それで思い出すのが1977年、社会主義体制の下にあったルーマニア、ポーランドを訪れたときのことだ。 入出国審査、通関、ホテル、旅行社、タクシー利用などの場で、すべて国家公務員というべき係員から円滑な業務処理、サービスを受けたいと思うとき、 僅かな心付けが実に有効だった。とくに米ドル (闇ドル) の効用が大きく、1ドルも掴ませると、たいていの場合、厚遇が得られた。 それは、西欧におけるチップのシステムとはまるで違う。それは社会が公認しているものだ。
  一方、ブカレスト、ワルシャワでの心付けは、公式には禁じられているが、実際には黙認されている賄賂だった。 タクシーの場合など、対ドル交換レートの高い現地通貨で払わず、米ドル現金で払うと、会社所属の運転手でも喜んでエントツで走り、めちゃくちゃ安い料金にしてくれた。 彼は、そのドルを闇レートで自国通貨に替えれば、規定料金での水揚げを会社に納めたうえ、余りを自分の懐に入れられた。 すべて建前上は禁じられているか、好ましからざることとされているが、広く黙認されていた。
  しかし私は、このような黙認の仕組みから生じる利益を手にできる人たちのほとんどが、 権力に近い特権化した層・集団に属するのを発見したとき、この国はやがて滅びると予感した。
  権力は、自分の周辺を構成する集団が受け取る賄賂は黙認、その代わり彼らを自分の支配力とより大きな利益の独占の維持に隷従させる一方で、 いつもちょびちょびと賄賂を払わねばならない側、黙認の仕組みからの利益は何も期待できない人びとを、ほったらかしにしていたからだ。
  賄賂を挟んで人びとが二分されるこの社会の亀裂は、上からの腐敗による自壊によって、または体制を支える民衆的基盤の崩壊または反乱によって、 いずれ取り返しのつかぬ巨大な裂け目となり、国そのものが立っていかなくなる。そう思ったのだ。

  秋葉原の犯人となった若者は、目にみえるカネによってではないにしても、機会、健康、希望、自尊心の止むことのない摩滅によって、 無際限に 「賄賂」 を奪われつづける側に属する一員ではなかったか。 このような人びとが社会の底辺に放置され、ますますその数を増やし、より悲惨な境遇に突き落とされていく限り、土浦、秋葉原の犯人は、 絶えることなく再生されていくのではないか。 一方、「居酒屋」 タクシーには政府も政治家も、さすがに慌てた。けしからん、なんらかの規制措置を取る、と非難を加えた。
  しかし、この種の特権の黙認は、けっして根絶できないだろう。政治家は公務員の特権の悪用や放埒を声高に非難する。 だが政治家自体が、もはや三世、四世といった世襲化した特権階層をかたちづくるに至っている。彼らが手に入れる利益は缶ビールどころの話ではない。 道路特定財源・公共事業費・防衛費などの確保、構造改革・規制緩和の拡大、これらに群がる民間企業に対する便宜の取り計らいからは、大きな利益が転がり込んでくる。 また、政治家も企業も、自分たちのあいだを円滑に取り持つ官僚を必要とする。役人は、黙認される別な 「缶ビール」 の分け前に預かれるわけだ。
  現代日本もすでに、黙認される利益を当てにできる社会階層と、そんなものは絶対に当てにできないばかりか、 持てるわずかばかりの生活的な根拠を失わされつづける人たちとが、交わることなく二分された社会となっている、というべきではないか。
  前者が後者に気付かず、これを放置しつづける限り、社会的参加を拒まれ、そこからから排除される側の人間は、ついには自分の属する社会との同一性さえ失って、 最後の意志を振り絞って自分の存在証明のための自死や、これに代わる他者に対する攻撃へと、暴発する危険がある。
  それは 「自爆テロ」 を偲ばせさえする。政治自体にその不作為の自発的な変更が期待できないとき、出番はメディアではないか。 二つの分裂した社会集団のあいだに立ち、弱者の側のコミュニケーションの回路を支配者側に導き、危機的な 「社会的背景」 の実態と、 急を要する 「対応策」 の実現を彼らに、さらには社会全体に知らせることが、メディアに求められている。

  不安は残る。メディアもまた、無自覚のうちに特権化した社会階層に属し、こちらの利害には敏感だが、社会的参加を阻まれている側の人たちの危機には、 気付きも理解もできなくなっているのではないか、とする危惧が残るからだ。
  「居酒屋」 タクシーに群がる役人の騒ぎが生じたとき、はしなくも、大勢のNHK職員が就業中、日常的に株取引をやっていたという事実が判明したことを、思い出していた。 なんだどっちも似たようなものだ、と思ったからだ。NHKについては例によって報道倫理上の批判を、他の多くのメディアが繰り広げた。 たしかに報道のために知り得た情報をカネ儲けに利用するとは何ごとか、といわねばなるまい。
  だが、もっと恐ろしいのは、仕事の合間にささやかな利殖を楽しむ程度の軽い気持ちでいても、それが当たり前のことになれば、 その常識は、株取引などにまったく縁のない人たちの存在を、いつの間にか見失わせる作用を、取引者にたちに及ぼさないわけがない、という点だ。 そうなったらメディアは、彼らの苦悩や絶望に気付けなくなるのはもちろん、彼らの世界に生じている危機が、 日本の社会全体にも当然及ぶものとなることなど、到底理解できなくなる。
  NHKだけが問題なのではない。多くのメディア企業、そこの組織ジャーナリズムが、二つに分断された一方、 下層の社会と日常的にいかに隔絶しているかを知るにつけ、危惧は深まる。