2008.8.7

メディアは今 何を問われているか

日本ジャーナリスト会議会員
 桂 敬一
目次 プロフィール

大分県教員採用汚職を貫くものは何か
―事件報道だけではみえてこないその背景―

  最初の報道段階、子どもや知人を教員にしたがっている人物が、校長や教頭を歴任したような顔の広い元教員などに口利きを頼み、 県教育委員会のなかの実力者に採用時、特別の計らいをしてもらい、その事前あるいは事後に謝礼を払っていた、というような事件で、 ある意味ではどこでもよくある話、あるいはありそうな話と思っていた。
  ところが、校長・教頭などの管理職にある現役教員までが仲介役となり、県教委・教育審議監などの要職にある人物が試験実施に直接介入、成績判定に関与し、 そのプロセスを教育委員長も承知しており、さらに県事務局もそれらの事情は薄々知っていても、みないふりに終始、 あまつさえ、その口利きシステムには、県会議員・国会議員まで絡んでいた、というのだ。 そして、謝礼については、事前に贈る場合、事後に贈る場合のタイミング、だれに贈れば必要な全部の相手に適切に分配されるか、現金がいいのか、 これに代わる品物 (商品券、その他) がいいのか、などの “ガイドライン” も長年の慣習として決まっていたようだ。
  驚いたのは、採用を決めたものに対しては試験採点の際、何点かゲタを履かせ、反対に、落とすとしたものに対しては、できていても、減点していたという事実だ。 しかも、その指示、さらには内密の加点・減点作業を、県教委の実力者が自らやっていたという。それだけでは終わらない。 このような壮大にして精緻なシステムが、教員採用だけでなく、教員の昇進、校長・教頭の登用に際してもフルに稼働していたことが、あとになって判明した。 大分県は本当に大したものだと、怒るよりも呆れ果て、よくもそこまで 「仕事」 してきたものだと、感心さえしたくなるほどだ。
  教員採用や人事の発表も、県議や国会議員が口利き依頼者になっている場合は、正式の結果発表前に、彼らに対して個別に通知していたのだという。 いたれりつくせりだ。県の教員組合にも教員の採用枠が与えられており、それが組合の既得権として尊重され、組合も毎年、 一定人数を採用の枠に押し込むことができた、とする報道も一部に現れた。 さすがに県教組は全面否定したが、そこまでやっていたら、非のうちどころない教員人事システムとなっていた感じだ。

  朝日・7月24日付け朝刊の投書欄 「声」 に、興味深い投書を発見した。 「公務員の採用 世襲で決まる」 と題されていた。「大分県の教員採用汚職事件で、10年も昔の話を思い出した。
  隣町の役場に勤める同級生が50歳を前に退職し農業に専念すると言う。それまでも兼業で頑張ってきたのにと疑問をはさんだら、息子が役場に入るからだと言う。 『1家族で2人勤務はダメ。息子を入れるには親が辞めなきゃ』 と解説された。
  …役場職員のいる家にはワクのようなものがあって、1人が身を引けば次が入れるのだという。『有力者にウン百万渡すのさ』 とも。 その目で見直すと確かに世襲っぽい例に事欠かない」 (投書者は青森在住の58歳男性)。
  これを読んで60年以上前のことを思い出した。縁故疎開先、山梨の農村で暮らしていたころのことだ。敗戦時、10歳・4年生だったが、 当時、国民学校=小学校には、6年の上に高等科 (2年制) があり、圧倒的多数の子どもはそこまでで学校は終わりだった。 旧制の高等専門学校を目指したり、旧制の高等学校に入り、その後大学にまでいこうと考え、6年を終えて旧制中学 (5年制) に進学する男の子は、 10%もいなかったのではないだろうか。あとは、これより多少多かったかと思われるが、5年制の工業・商業・農業・家政などの実業学校に進んだ。 一方、小作農の子どもなど、国民学校6年で学業を終えるものも、かなりいたはずだ。
  敗戦後、いわゆる6・3制になり、義務教育は小学校と中学の計9年となった。新制高校 (3年) は旧制の中学と女子高等学校、 それに各種の実業学校をすべて包含するものとなった。だが、1950年頃だと、新制中学から高校への進学率は、まだ3割を切っていたのではないかと思う。 なかでも、大学進学を志すものは普通高校に進学するが、この部分はやっと1割を超える程度ではなかったか。

  なんでこんなことにこだわるかというと、農村型の地域社会における地場の知的な人材再生産能力は、かつてこの程度のものだったということを確認したかったからだ。 居住する町・村、あるいは隣の町・村の学校に勤める教師になるには、旧制の師範学校 (専門学校) を出ていなければならない。 同じく地元の町・村役場の吏員、いまでいう地方公務員になるにしても最低、旧制中学か新制高校を出ていなければ具合が悪い。 農業会=戦後は農協 (農業協同組合) の職員、あるいは信金など地方金融機関や郵便局の事務職員になるにしても、同じことがいえた。 そうした教育が受けられるのは、ある程度豊かな家の子弟だけだ。
  実際、彼 (彼女) らは、もともと地主や中規模以上の自作農の家の出身者か、親も農業兼営の教員、地方官吏だったり、あるいは親が元高級官僚・幹部級職業軍人、 製材・農業加工などの地場産業経営者、富裕な商店経営者など、農村型地域社会では少数のエリート層、農業以外での事業成功者だったりするものがほとんどだった。
  要するに、その地域が必要とする地方行政、教育、医療、その他の公共サービスの運営・管理に当たる人員の数は限られており、これを充当するぐらいの人材の育成は、 地域の相対的に富裕な層が担ってきたのが、戦前から敗戦直後の多くの地方の状況だった。 これは、富裕層の既得権というより、ある種の社会的責任の履行という面も伴っていたように思える。
  だが、このような状況は、50年代末から高度成長期を通じて、急速に崩壊していく。 農地解放で自作になった農家が豊かになり、生活水準が全般的に向上、子どもの高校進学率が、つづいて大学進学率も、飛躍的に高まっていったことが、 まず挙げられる。高学歴化した若者が田舎を離れ、中央都市部や故郷から離れた工業開発地域に出ていき、サラリーマン、労働者として働き、 そこで所帯をもつ状況も拡大した。流通・交通圏も、モータリゼーションの進展に連れて急激に拡大した。地域の様相は一変したのだ。

  居住地=町・村の必要とする行政・公共サービス要員の数も増えたが、これを上回るかたちで、全県域さらには県外都市部における求人数が大幅に増大、 労働条件がよく、若者の野心にアピールする仕事は、こちらのほうでたくさん見つかるようになった。 高学歴で優秀な若者ほど、どちらかといえばこちらに流れ、地元には二番手の人材、あるいは事情があって家を離れられない若者が残ることになった。
  このような変化は、教員・地方公務員の人材源にも影響し、県域規模での人事交流は当たり前になり、教員に関する限り、 県出身者が東京の大学を出て異境で教員になったり、反対に県外の人間がきて地元の教員になったりすることも生じるようになった。
  だが、こうした状況もまた、変わる。70年代半ば、石油ショック後の景気後退期に、大都市部勤労者の厳しい生活に幻滅、いわゆるUターン現象が始まる。 劣悪な通勤条件、とくに住環境の酷さ、住宅費・教育費の高さ、定年後の生活の不安定さなどから、30歳前後から定年前までのサラリーマンのあいだで、 両親が元気なうちに出身地に帰り、職住接近型の仕事を地元でみつけたい、とする故郷帰還派が続出した。
  この流れは、そうしたことのできる条件に恵まれたものによってつくられたものだが、80年代半ばのバブル期を超え、90年代末近くの就職氷河期到来とともに、 実に世知辛いものに変質する。地元に帰ろうにも、もはや仕事がみつからなくなったからだ。 そうして、地元の教員・地方公務員はノドから手が出るほどの羨ましい職業とみえるものになった。
  おそらく、70年代後半以降のUターン期でも、安定した家業に恵まれないものには、教員・地方公務員はいい就職先と映っていたはずだ。 そうして、いったんそこへの就職ができると、それはいつの間にか世襲化、あるいは利権化し、教員・地方公務員のポスト配分に実権が振るえるものの立場は、 自治体行政・地方政治の場で、かつてないほど強大なものとなったのだ。
  今や虎の子というべき、それらのポストの配分は、教員や町村職員などの既得権をもつものと、自治体幹部・地方政治家など決定権にあずかるものとからなる、 インナー・サークルの談合を通じて行われる―これが大分県教員採用の構図だ。どちらも、自分の権限を失いたくなかったら、秘密はすべて守らねばならない。

  話はこれで終わりではない。新聞もテレビも、この事件を職務規律違反事件、贈賄・収賄の汚職事件として報じてきた。確かにそうには違いない。 しかしこれは、よりすぐれて教育問題なのではないか。その観点からの報道・論評がどれほど行われてきたかといえば、的を衝いたものはほとんど見当たらない。
  話を飛ばす。勤務評定制度導入、校長・教頭の管理職化、教育委員会公選制廃止 (任命制とされる)、「道徳」 教科導入、 国旗国歌法制定、日の丸掲揚・国歌斉唱強制 (違反者処分)、教育基本法 「改正」、教科書検定で沖縄の 「集団自決強制」 記述の削除命令 (その後修正)、 学習指導要領総則に 「国と郷土を愛する日本人を育成する」 の文言盛り込み、職員会議での多数決禁止など、政治と行政のトップダウンによる、 教育の内容・方法に対する変更措置は、新憲法と教育基本法の理念を踏みにじり、これに基づく民主的な教育のあり方を、大きく歪めてきた。 戦後教育の成果を敵視し、その実績を否定しようとするものだ。
  教育現場の自由な気風を圧殺し、間違った教育を無理やり押し通すこのような権力行使の体制こそ、教員採用・昇進の決定・実施の過程のそれと瓜二つ、 というより、まったく同一のものではないか。
  それは、教育に携わろうとするもののうち、こうした教育のあり方、教員採用のあり方、両方に従順で、文句をいわないものだけを、選ぶのに都合のいいシステムだ。 すでに教員になっているものでも、それらのやり方に対して異は唱えるのは困難だ。 もし逆らえば、自分の昇進、あるいは自分の子ども、親類・知人の教員志望について、口利きを頼もうと思っても、だれも聞き入れてくれないことになるからだ。
  こうした関係のなかには、戦後教育制度を貫いていた民主主義が消失、代わって政治的な権力支配が持ち込まれ、強化され、 教員をものいえぬ存在と化してしまった経緯が、浮かび上がってくる。 そうした教育の反動化、権力化こそ、汚職を必然的に生む構造を肥大させ、これを完璧なものに仕上げてきたのだ。

  大分県の不公正な教員採用試験の実態を伝える報道が、こんなことがやられていたのかとする驚きとともに、教育というもののあり方に対して重要な一石を投じ、 根本的な疑問を世間に喚起した意義は、もちろん大きい。
  たとえば、ペーパー・テストの採点における点数の操作でうまく差別化できない場合は、落とすものに対しては面接試験などの 「性格テスト」 のほうで減点して落とし、 あらかじめ入れると決めておいた内定者が受かるようにした、という報道があったが、「適性試験」 ではなくて、「性格テスト」 というものがあったのには驚いた。 ペーパー・テストを主体とした 「適性試験」 なら、あらかじめ定めた適性基準への適合性によって、教員としての適性の程度を判断できるだろう。
  しかし、面接主体の 「性格テスト」 で 「性格」 の良否を判定するのでは、面接者の主観に左右されるところが大きく、ヘタをすれば、「思想テスト」 になりかねない。 質問事項に愛国心とか日の丸、君が代などに対する応募者の考え方を聞くことが入っていたのかどうかは知らないが、もしそんなものが含まれていたのなら、 とんでもない話だ。
  8月6日、県教育長は、県内小中学校の全児童・生徒約9万8700人に 「皆さんやご家族の信頼を裏切ることになり、深くおわびします」 「学校の先生であれ、 悪いことをした人は必ず罰せられなければなりません。これもまた社会のルールです」 「大分県の教育を良くすることを約束します」 とつづった謝罪文を配布したという (読売・8月7日朝刊)。これはもちろん、児童・生徒たちに対する教育的効果を考えてのことであろう。 どのように正しく責任をとるかを教え、彼らの信頼を回復することは、当事者側最高責任者として当然やらなければいけない。 頬かむりしてすますのでは、相手が子どもとはいえ、身近に存在する教育者とその教育に対する不信感を植え付けるだけに終わる。 だが、このような謝罪文を配っただけで、本当に子どもたちの不信感を払拭、しっかりした教育に対する信頼と期待を呼び戻すことができるのだろうか。

  まだやらねばならないことは山積している。この際、教育に対する政治的・行政的で、権力主義的な支配の構造を根本から変革し、 現場の教員の自由な発意が生かされる、活気ある学校に戻していくことこそ、児童・生徒、その親たち、そして多くの教員志望者、現場の先生がたが、 もっとも強く待ち望んでいることではないか。
  21世紀の教育界は、地方にあっても、半世紀以上前の地域社会における自己充足的な人材調達では、もうとてもやっていけるものではない。 かといって、地元自治体行政や政治家の支配体制の下における、利権化した職業世界として安定が追求されていいものでは、ましてない。
  新しい教育のあり方を目指し、教員となることを目指す若者は、今や全国至るところの教育・養成機関で育ちつつある。 彼 (彼女) らに対して、公正でオープンな応募方法を示し、公平で透明な選考基準・選抜過程を適用、学校に有為な人材を集めていくことが、必要とされている。 その対象に、外国人応募者も含めてもいいぐらいだ。さらには、小中学校、高校、大学・大学院全体を貫く人事交流、教育研究の場の拡大も図られていくべきだろう。
  メディアには、そのような新しい教育を語ることのできるジャーナリズムとなることが、求められている。 話題になった東京・杉並の 「夜スぺ」 方式が、行政の思惑がらみで、今度は大阪府でも始められようとしているが、 そんな目くらましをもてはやすだけのメディアであっては話にならない。