2008.12.29

メディアは今 何を問われているか

日本ジャーナリスト会議会員
 桂 敬一
目次 プロフィール

ジャーナリズムはどのような転機に臨んでいるか
―筑紫哲也さんの訃報が考えさせてくれたこと―

  08年11月、元朝日新聞記者、TBS 「ニュース23」 でキャスター編集長を18年余り務めてきた筑紫哲也さんが、亡くなった。 享年73歳。私と同い年で、当然同学年だ。同学年といえば、この年1月に、元TBSのプロデューサー、のちに独立プロダクション、 テレビマンユニオンの創設に携わった村木良彦さんも、亡くなった。この数年、身近なところで同年あるいは前後2、3歳違いぐらいの知人が、相次いで亡くなっていく。 そこへの村木さん、筑紫さんというメディアの世界の知人の訃報だ。なにかひりひりしたものを感じる。
  いったい今、自分の属する時代にどんな変わり目が生じているのだろうか。おまけに師走に入るやいなや、加藤周一さんが亡くなった。 周りの空気が急に冷えるような喪失感に襲われた。脳死状態の政治が日本全体を、目を覆わんばかりの閉塞状態に陥れている。 メディアもこの2か月ほど、ニュース感覚を狂わせ、奇っ怪な変事、血生臭い事件が起きれば、手当たりしだいそれに飛びつくというような紙面、 番組づくりばかりに励んでいる。そこからは、時代の変化の意味は読み取れず、変わりゆく歴史の位相の特徴も、浮かび上がってこない。 ジャーナリズムは発信力を失ったのかと、暗澹たる思いに駆られる。

  そうした思いを抱いていたところに、早稲田大学大学院公共経営研究科と同大学メディア文化研究所 (研究科のメディア専攻部門) が企画した公開シンポジウム、 「筑紫哲也をどう継ぐか―─その人・思想・行動を見つめ直す」 にパネリストの一人として参加する機会を得た。 この研究科は、早稲田出身の筑紫さんが設立に関わり、2005年度まで客員教授を務めてきた場所だ。
  司会の田勢康弘さん (主催の公共経営研究科教授、日経コラムニスト) が64歳、パネリストの森 治郎さん (元朝日記者、同研究所の客員教授) が65歳、 吉岡 忍さん (ノンフィクション作家) が60歳、下村健一さん (元TBSキャスター、市民メディア・アドバイザー) がぐっと若くて48歳。 私は考えてしまった。私はもはや73歳だ。これでは 「筑紫哲也」 を見る、みんなの視線の高さ、あるいは距離が、私とはだいぶ違うのではないか。 始まってみると、案の定そうなった。 ほかのパネリストにとって、そもそも彼は、生きているうちから瞠目すべき先輩で、死んだ後は、仰ぎ見るような偉業の達成者として映る存在だ。 筑紫さんは偉かった、こんな思い出がある、いい人だった、こんな風に仕事をしていた、自分を励ましてくれた・・・。それぞれいい話ではあるが、私は面白くなかった。

  そうではあるまい。「筑紫哲也」 を過去の人間、死者として葬り、祀ろうとするのなら、それでいい、だが目前には、この閉塞した日本の政治・社会状況が置かれている。 また、そこに大胆にメスを入れ、変革をリードし、日本を新たな針路に導く役割を果たすべきジャーナリズムもまた、混迷と停滞に陥っている。 私の目にはそう見える。
  自然に私は、ここに筑紫さんがいたら、自分のそうした情勢の見方、ジャーナリズムの現況に対する捉え方に対して、どういうだろうかと、 想像をめぐらしてしまうのだった。ともに国民学校4年で敗戦を迎え、戦後の同時代をずっと生きてきた仲間としてどう思うだろうか。 そしてジャーナリストとしての彼は、自分の仕事のなかで今、なにを重要な課題と位置づけ、それとどのように取り組もうとするだろうか。 そう考える私のなかの 「筑紫哲也」 は、私が生きている限り、死ぬことは絶対にない。 つねに対話できる相手だ。私は発言のなかでそう切りだし、私のなかに生きる筑紫さんの志と、彼だったら、今、ジャーナリズムとしてなにをどう語るかについて、 思うところを語った。すると、パネリストのみなさんからも、今に生きる 「筑紫哲也」、今生かすべき 「筑紫哲也」 を語る発言が湧出、多くのことを学ぶことができた。

  シンポジウムの宿命だが、終わってから、ああ言えばよかった、こうも言えばよかったと、思うことがたくさん浮かんでくる。 そうした思いも含め、シンポジウムで言ったこと、言いたかったことの一部を、取り混ぜて少し綴ってみたい。 筑紫哲也というジャーナリストはどのような存在であったのか。彼の仕事を今、どのように発展させていくべきか。

  ジャーナリストの先輩は後輩に向かってよく、「ジャーナリストはあまり先走ってはダメだ。もちろん遅れてはいけない。 つねに読者・視聴者の半歩先ぐらいのところを進め」 と説く。読者・視聴者の実感を大切にしろ、その現実感から遊離するな、とする戒めだ。 その伝に倣って言えば、筑紫さんは、出現した新しい状況の分析や、情勢の先行きに対する予見では、読者・視聴者のはるか遠く先をいくのに、 起きたばかりの事件や問題の、現象的な特異性や人間臭い部分に対する驚き、あるいは感覚的な受け止め方は、視聴者・読者の半歩先どころか、四分の一歩、 あるいは数センチも離れていないほど、彼 (彼女) ら受け手に近いところに立ち止まってはばからない、妙にちぐはぐなところがあった。
  例えば、阪神淡路大震災の現地リポートの際、大火の余燼が無数の白煙を立ち登らせている被災地の光景をヘリから俯瞰し、 「まるで温泉街のようだ」 とつい洩らした述懐は、言葉のプロの表現としてはあまりにもシロウト的だ。 また、井上陽水の大麻事件、辻元清美の秘書給与 「詐欺」 事件のとき、彼の才能を愛し、彼女の政治家としての可能性に期待した筑紫さんが、 親しい知人である立場をさらけ出し、メディアのうえで二人を擁護したのも、ジャーナリストというよりは普通の人のやりがちな行動だった。 さらに、TBS が未放映の坂本弁護士インタビューのテープを、オウム幹部にこっそりみせていた事実が発覚したとき、 「ニュース23」 の画面で、激怒の色をストレートに表し、「TBS はそのとき死んだ」 と語ったが、その怒りは、責任を分有する当事者としてのものというより、 視聴者や外部の識者が TBS を叱りつける調子のものだった。

  簡単にいえば彼は、しばしば紛議を巻き起こしたこのような場面では、なんのことはない、ただの野次馬の一人、井戸端会議、床屋政談の仲間の一人に過ぎなかった。 だが、そのようにすぐ蠢動する感覚や好奇心に身を任す一方で、彼は自分の俗情を掻き立てる、ありとあらゆる騒動や事件の深奥に、 いったいどんな本質的な問題があるかを、ほとんどたちどころに見抜き、つづけてそれを理性の力で解明、得られた知見を論理に構築し、 的確な批評とともに伝える努力をも、つねにたゆまず払った。 この取り合わせは実に奇妙なものだが、それは彼のジャーナリズムに、筑紫さんならではの美質というべき特徴を、付与する結果となった。

  第一に言えるのが、シロウトっぽさだ。飛び込んできたニュースに対して筑紫さんはしばしば、驚き、怒り、困惑、喜び、おかしみなどを口にし、 それをまず視聴者に感じさせた。のっけから専門家風な見識をひけらかすことには照れがあったのかも知れないが、むしろ素直な反応だったのだろう。 それは視聴者に親しみを抱かせ、幅広い人気の獲得につながった。 インテリのそうした気取りのなさは、ときに偽悪と受け取られ、シニカルな人たちの嫌悪と反発を買う。ネットにはしつこい筑紫嫌いの言説がつねにくすぶっていた。 だが、大部分の人は、彼の率直さを受け入れ、愛した。とくに女性たちの支持が大きかった。 支持者のあいだでは、筑紫さんはむずかしいことをわかりやすく伝えてくれ、どう考えることが大事かを教えてくれる、とする評価が定まり、根強い信頼感がゆきわたる。 そのことはよくも悪くも、筑紫ジャーナリズムにある種の通俗性を帯びさせた。
  実際、ペンの仕事では、同じ政治記者としては、先輩の石川真澄さんのほうが専門性の高い業績を残しているし、 また、丹念な取材で掴んだ、多くの事実の積み重ねによって真実を明らかにする報道の王道をいくという点では、疋田桂一郎さんのほうがはるかに徹底していた。 さらにテレビというメディアの特性をどれだけ生かし切れたかといえば、 『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』 の著者の一人だった村木良彦さんに遠く及ばないのは、当然だろう。

  だが、シロウトっぽさ、通俗性が欠点かといえば、けっしてそんなことはない。 それは、森羅万象なんでも好奇心の対象にしてしまう筑紫さんの知的な関心傾向と相まって、彼のジャーナリズムを実に間口の広いものにした。 政治はもちろん、復帰前の沖縄特派員、ワシントン特派員の経験を踏まえて国際問題も、『朝日ジャーナル』 編集長として社会ネタ、 文化・芸術、エンタテインメントまでもと、カバー範囲は広がっていった。 さらに現代メディアの花形となったテレビにも積極的に関わっていき、最後はテレビ・ジャーナリズムの有力な一角に確固とした地歩を占めるにいたった。
  陸上スポーツの世界にはかつて近代10種競技というのがあった。そのなかの1種ずつで最高記録を競うのでなく、10種の総合得点でチャンピオンシップを争う競技だ。 さしずめ筑紫さんは、メディア界最強の10種競技選手だった。報じるために取り上げる題材、論評を加えるテーマ・問題は、なんでもござれだった。 また、報じ、論じる場とするメディアも、新聞、雑誌、本、テレビ、ラジオ、すべてOKだった。
  そしてここでもまた、シロウトっぽさと通俗性は、なんでも屋の筑紫さんにディレッタントの面影を宿させた。 だが、そのディレッタンティズムは、新しい社会思潮の変化や現代文化・芸術の動向に関心を抱きはするが、 その取っつきにくさを自力では突破できない普通の人たちに寄り添う優しさがあり、向上心をもつ読者・視聴者を、広くマス・メディアに引きつける役割を果たした。

  おそらくジャーナリスト 「筑紫哲也」 の特徴は、これまで考察した要因すべての混淆物として捉えられるべきものであって、それらのなかのあれかこれ、 主要な一部、あるいは二、三の大きな断片だけで語られるべきではないものであろう。 こうして、なんでも屋の筑紫さんは、ジャーナリズムの俎上にのぼるすべての問題を引き受け、それらをすべて現代の人間と社会に関わる問題として語り、 あらゆる世代、性、職業、社会階層の人たちに投げ返してきたのだ。このようなジャーナリストの面影は、私にはモラリストのそれと酷似しているように思える。
  フランス・ルネッサンスの精神を近代へと橋渡ししたモンテーニュ (『エセー (随想録)』)、ラ・ロシュフコー (『マクシム (箴言集)』)、 ラ・ブリュイエール (『カラクテール (人さまざま、あるいは当世風俗誌)』) などの観察眼を想起させる。
  そこには、人間と社会をつねに全体性において捉えようとする強烈な意識が働いている。現代のハヤリはどちらかといえば、クラスターに分けたものを専門的に、 また分析的に捉え、論ずるやり方だが、筑紫さんは自分のあり方そのものを重ねて、全体性を担保するジャーナリズムの営為を積み上げてきた。 その成果の一つは、現代ジャーナリズムが備えるべきフォーラム機能に大きな役割を与えたことだ。
  すでに 『朝日ジャーナル』 で騒然たる討論の場の現出に成功した彼は、今度は重要情報源をテレビ・スタジオに招き、これを取り囲んで、 一般市民も交えたさまざまな立場の人々が意見を述べ合うコラボレーションを実現した。 このような討論の広場では、少数者の異論が重要な役割を果たす。というより、真のフォーラムは、多くのさまざまな少数意見に発言の機会を与えなければ、成立し得ない。 広場の民衆全員を一つの賛同に導くのでは、ファシズムに堕すだけだ。

  こうやってジャーナリスト 「筑紫哲也」 を振り返るとき、専門領域、メディア、所属企業などの別を超えたところに、 個人として屹立するジャーナリストとしてのその姿を思い浮かべることができる。
  そのことはあらためて私たちに、ジャーナリストとは本来、独立したプロフェッショナルとして存在し、活動する個人なのだ、ということの確認を迫る。 読者・視聴者の期待と信頼に応えるとする目標に仕えることのほかには、従うべき主人はない。 その目標に向かって大胆に進むとき、過ちを犯すこともあるが、それを恐れ、怯む必要はない。 同じ目標を持つ、企業や分野の別を超えた、多くの同僚との連帯や、広範な読者・視聴者の支持が確認できる限り、何度でも立ち直り、 その都度さらに個人としての職業人のあり方に自信を深め、かねてからの目標に、いっそう強固な確信をもって向かっていくことができる。
  政治部から外信部へ、新聞記者から雑誌編集者へ、新聞からテレビへと、あらゆる境界を越え、いわば越境するジャーナリストとしての姿を見せた筑紫さんは、 一見華やかなパフォーマンスを誇示したかに見えるかもしれないが、むしろそれは、独立した職業的個人としてあるべきジャーナリストとしての原点、 基本のあり方を示してきたのだ、といえよう。
  現在のジャーナリズムが陥っている混迷と停滞は、主には政治の劣化、経済的危機、社会的閉塞などに由来するものだが、 これを別の面から見れば、それらに対する独立した個人としてのジャーナリストの、自由に境界を超えて問題を追及する活動が阻害されていることも、 大きな原因となっているように思えてならない。 政治は政治部が、経済は経済部がというような縦割りの枠、主要情報源機関に張り付いていなければならない記者クラブ、 会社ごとの編集トップの思惑などが旧習の打破を阻害し、現代の危機をまるごと捉える観点の設定、 そのもっともクリティカルな問題に対する総力を挙げての迅速な追及などを、妨げている。

  完成度は未熟でもいい。原型として 「筑紫哲也」 のような特徴をもつジャーナリストが今何人かいて、ストレートに問題意識をぶつけ、 取材報道活動を自由に進めることができたら、全体的なメディアのうえの言説のあり方は、かなり変わるのではないか、と想像する。 そして私は、内なる生きている筑紫さんに、そのことについてどう思うか訊いてみる。
  「ぼくがやってきたのは試行錯誤ばっかりだったけれど、それでいいんじゃないか。自分がぶつかった実際の問題に即して、それはこう解決されるべきだと考えたら、 とりあえず徹底した取材をやって、突き進んでいけばいい。そうすれば自ずから道は開ける」 という声が聞こえてきそうだ。
  覚悟さえあれば、筑紫さんのスタートした道に、だれでも足を踏み入れることができる。 そして、現代社会のあらゆる領域の事象、多くの問題・矛盾に気付き、実際にその解決に取り組んでいる人ほど、 筑紫さんのようなジャーナリストになっていく可能性を秘めている。もうそういう若い人が現実に生まれだしてもいる。
  本人は自分はジャーナリストとは思っていない人も含むかも知れないが、21世紀の日本のメディアが必要とするジャーナリストとしては、 つぎのような若い人たちを、私は思い浮かべることができる。『ルポ貧困大国アメリカ』 の堤 未果さん、『反貧困』 の湯浅 誠さん、 『生きさせろ! 難民化する若者たち』 の雨宮処凜さん、イラクでストリート・チルドレン支援活動をつづける高遠菜穂子さん、アワー・プラネットTV代表の白石 草さん、 農業専門家としてアフガンで活動中に惜しくも亡くなった伊藤和也さん、『日本政府よ、嘘をつくな!』 のコリン・コバヤシさん、 ドキュメンタリー映画 『選挙』 の想田和弘さん、少し年長者になるが、アジアプレス・インターナショナルの綿井健陽さん、ミャンマーで亡くなったカメラマン、 長井健司さんなどだ。
  もちろん、急激な経済危機の進展に伴って雇用・貧困問題が深刻化するなか、大メディアの若い記者たちも奮闘しだしている。

  筑紫さんが亡くなっても、その存在は今なお、これらの若い人たちを激励し、自分の歩いた道へと誘い、さらに自分よりずっと先まで進んでくれと、促しているように思える。 そういうことが当たり前となるジャーナリズムの風土を、どうつくっていくことができるかについても、もっと話し合いたいという思いが、私のなかでいっそう募る。