メディアは今 何を問われているか
ミャンマー・中国の災害救助に自衛隊の派遣検討を
―日本が先頭に立つべきアジアの共生モデルの創造―
日本政府は、サイクロンの被害を受けたミャンマーと、四川省が巨大地震に見舞われた中国に、災害救済支援のために資金 ・ 物品を送る方針を決め、
実施に移しつつある。だが、現地の被災住民の悲惨な状況が伝えられるのをみるにつけ、こういうときこそ日本は、
災害救援隊として自衛隊を派遣してもいいのではないか、と思う。
自衛隊は、戦争の仕方は、憲法で禁じられていることでもあり、経験がなく、うまくないだろうが、日本は地震国であり、台風災害にも頻繁に見舞われているため、
これらの災害救援 ・ 復旧支援には、たくさんの経験を積んでおり、高い能力をもっている。
相手政府と話しがついて、優秀な機械装備を運び込み、機動力を発揮して、重要な初期救援を手伝えば、なによりも現地住民に喜ばれ、
国際貢献に資すべき自衛隊として、大いに面目を施すことになるのではないか。
先例もある。2005年12月、スマトラ沖の大地震が起こり、インド洋津波が沿岸各国に大災害を及ぼしたとき、
1,000人近い規模の陸海空の自衛隊が国際救助隊として現地に赴き、被災者救出 ・ 救命 ・ 防疫、2次災害防止 ・ 道路復旧 ・ 飲料水確保などの支援活動で成果を挙げ、
現地住民から感謝されている。こうした記憶を想起できれば、日本の国民も、拍手をもって災害救援に向かう自衛隊員を、送り出すはずだ。
ミャンマーについていえば、アウンサン・スーチーさんの軟禁をつづけ、軍による政権維持に汲々としてきた政府は、
そのことを日ごろ非難してきた国際機関が救援を口実に国内に入ってきて、政治的な問題についても介入するのを嫌い、
救援物資はもらうが外国の救援組織は入れないとする、頑なな態度をみせている。
欧米諸国はかねてから軍事政権を批判し、民主化・人権尊重を求めてきた。
これに比べると日本は、ミャンマーに多額の政府開発援助を供与しつづけており、ミャンマー政府に対して融和的だった。
援助資金に基づく開発事業は、日本企業がその多くを請け負う関係もあり、日本は相手政権の非を咎めるより、妥協的に振る舞わざるを得ない、というのが実情だった。
欧米の人権派は、日本のこうした態度にも、批判を加えてきた。しかし、いまはその是非を論じている余裕はない。
熱帯の直射日光、雨風にさらされ、飲料水にもこと欠き、多くの人が飢餓と悪疫の蔓延に直面している。
人権派諸国の救援組織の入国 ・ 駐留は毛嫌いするミャンマー政府も、日本の自衛隊なら受け入れるのではないか。
だめかもしれないが、ものは試しだ。日本政府は自衛隊の救援隊としての派遣を、相手国に至急申し出るべきではないのか。
中国についても同様のことがいえる。国難ともいうべき大地震に直面した中国政府の困惑の大きさは、5月13日現在ですでに、1万人をはるかに超す死者、
それを数倍も上回るだろう負傷者の発生が予想される状況の前で、いかばかりかと思われる。
住む家をなくした人びとの数は、想定さえできない。建物倒壊現場での救出作業の模様をテレビでみると、重機類はほとんどない。
大きな梁が落下し、崩れた壁 ・ 屋根の残骸が堆積する現場で、救出作業は人手だけに頼っている。
救出作業の陣頭指揮をとる温家宝首相の姿をみると、被害地域にはチベット族居住者も多く、これら住民により大きい被害が出たり、
その救出に後れをとったりすれば、また厄介な人権問題が国際的に噴出するおそれがあり、政府はそのことにも神経質になっているのではないか、と想像してしまう。
また、滅多なことでは弱音を吐かないだろうが、政府は、迫りくる北京オリンピックの開幕に、この事態がどのような影響を及ぼすことになるのかと、気を揉んでいるはずだ。
一致団結してオリンピックを成功させ、この国難を乗り切ろう、といいたいところだろうが、大勢の被災者を片隅に追いやったままでは、
人権を顧みない国という非難を、また主に欧米の人権派から浴びせられる心配がある。
だが、日本は、そうした非難を自分も受けることになるかもしれないが、この際は自衛隊を送って、
チベット族やそのほかの少数民族も含む被災者の救援、当面の復旧作業の迅速な達成に貢献し、
オリンピック開催の妨げとなる支障を取り除くことに協力すべきではないか、と思える。
迅速な行動、膨大な量の物資 ・ 機材 ・ 人員の運搬には、航空自衛隊の輸送機を何機も使う必要があるだろう。
しかし、ミャンマーも中国も、自国空軍の基地への自衛隊機の駐機、要員=自衛隊員の駐在は、軍事機密保持などの点から、
一定期間のことであっても、嫌うかもしれない。
中国の場合、奥深い内陸部の災害であり、自衛隊機の現地に対する発進と帰着が、日本の基地の利用だけに限られると、思うような行動がとれないおそれがある。
物資・機材は、場合によれば被災現場、ないしその最寄り地点に空中から投下、そのまま帰還する必要が生じるかもしれない。
これらの問題解決に関しては、ベトナム、タイ、台湾などの協力も仰ぎ、臨時的な支援基地を提供してもらう、などのことを検討する必要もあろう。
しかし、日本は、そのような行動をとる意思を明らかにし、アジアにおける災害救助の相互支援体制構築を具体的に提唱、
積極的にこれら近隣国にも協力を呼びかけていくべきではないか。
やれること、やるべきことは民間にもある。14日の報道 (朝日・朝刊) によると、JOC (日本オリンピック委員会) が、6月半ばに慈善ゴルフ大会を開催、
その収益を義援金として被災地に贈ることを決めた、ということだが、むしろJOCはただちに、中国、とくに四川省に進出している日本企業や、
新聞 ・ テレビなどのメディアの協力も仰ぎ、日本の国民に訴え、北京オリンピックを支援する趣旨で、被災者救援 ・ 被災地復旧支援の募金活動を行うべきではないか。
クーベルタンの近代五輪の理想は、国家を超えた友愛の普及にあったことを、いま思い起こす必要がある。
忘れてならないのは、このような具体的に役立つことをし、相手国の政府や国民の困難の解決に手を差し伸べながら、
私たちは同時に、政治の民主化、国民の人権の尊重を訴えていくこともできる、という点だ。
いや、苦労をともにし、大きな危難からの再起を一緒に体験する立場に身を置けばこそ、声高にならず、静かにそのことを訴えていけるのではないだろうか。
ふり返ってみれば、日本の過去は、人権大国であったとはとてもいえない。
現在でさえ日本は、高見に立って、人権擁護制度の劣った、社会的平等の行きわたらない国や人びとに対して、非難混じりに説教するような真似は、できるものではない。
市民革命を十分に経験した欧米諸国の人権観を猿真似し、そのままアジアで他国に説いてみせても、反発を招き、浮き上がるだけだ。
民主化の後れ、人権の未発達は、根深い貧困、全般的な教育水準の低さ、社会発展の不均等、伝統的な社会 ・ 文化習慣の継続、西欧型国民国家の未形成など、
アジア固有のさまざまな要因、それらの複合化した状況のなかで生まれ、あるいは固着しているもので、その発生源をなくしたり、残存物を解きほぐしたりするのには、
長い時間がかかる。大規模災害の救助相互支援というようなことは、口で民主化とか人権とかを、表立っていうものではないが、
実はそうした行動こそ、すべての国や人を大切に思いやる思想への信頼を喚起し、真の民主化、人権尊重へと近づく道に、確実に通じるものではないか。
アジアの問題は、アジア人同士が相談し、またお互いに協力し、アジアのなかで基本的に解決していく。
そのやり方を、アジアの恒久的な地域協力体制にすることができたら、アジアはその地域単位をもってグローバリズムに参加していく。
なにもかもを、西欧モデルに倣ってやっていくことは止める。日本はそろそろ、そういう考え方をアジアの国々に提案し、
まず東アジアの国々との地域協力を、根本から考え直していく必要があるのではないだろうか。
私たちは、西欧モデルへの到達を目指し、明治以来、近代化を進めてきたが、20世紀後半から21世紀初頭にかけて、その欠陥も明らかになってきたのではないか、と思う。
欧米諸国は、19世紀に近代国民国家を完成、国内には民主と人権の体制を築いたが、それによって強まった国力を帝国主義に振り向け、
植民地侵略を展開、後進国を経済的収奪の対象とし、そこでは政治的隷属を強いるために独裁体制を敷くのをつねとしてきた。
第2次大戦後もそうした2重基準は改まっていない。
端的にいって、ベトナム戦争、パレスチナ問題、イラン ・ イラク戦争、第1次湾岸戦争、旧ユーゴ解体の戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争の流れをふり返るとき、
それらに当事者として関わってきた欧米諸国が、他国に民主化と人権を求める資格が果たしてあるのかを、疑わせる。
日本も、西欧モデルの悪しき面を真似て、一時植民地主義に走った。だが、欧米主要国ほどの大規模かつ複雑な関わりにはいたらなかった。
欧米並みになれなかったことは、日本の失敗であるより、幸運だったというべきだろう。
きちんと歴史認識を改めさえすれば、一から出直し、かつて迷惑をかけた国とも付き合ってもらえるはずだからだ。
アジアにはアジアのよさがある。それは地球上の他の地域にはみられない固有の特色であるとともに、その個別性の保持と発展に成功すれば、
他の地域におけるそうした独自の特色の保持 ・ 発展に参考となるモデルが示せるという意味で、普遍性も獲得できるのではないか、と考えられる。
具体的なアジアの特色は、第1に民族の多元性と多様性である。各民族は固有の言語、生活風習、さらに宗教や文化伝統をもっている。
居住地域も多様であり、独自の自然環境、生態系に溶け込んだ暮らし方をしてきた。
このような民族は、近代的な集権国家の国民として生きてきた歴史をあまりもたず、逆にいえば、国境に関係なく生きてきた経験を豊富にもっているといえる。
国家に関係なく、他民族との共生を計ってきたのが、彼らだ。
そこでアジアの第2の特色として、欧米の近代国民国家モデルによらず、いかに独自の方式によって多民族共生の国家をつくっていくべきか、
とする問題が多くのアジアの国々に課せられているという事情が、明らかになってくる。
他民族共生の国家モデルが成功すれば、それは、単一の国民からなる国家同士の衝突を招きやすい西欧モデルの弱点を克服、異なる国家間の共生に道を開く、
近代を超えたモデルとなっていく可能性もある。
単一の国民からなる近代国家の競争は、止まらない戦争、工業への過大な依存による環境破壊、自由主義の名の下での国家間格差の拡大の放置など、
もうどうにもならないほどの行き詰まりさえ、みせるにいたっている。アジアでこれに代わるモデルが創造できれば、
それは中東で、アフリカで、中南米で、支持されるにちがいない。
自衛隊を、在日米軍再編促進に合わせ、日米軍事一体化の動きのなかに組み込むばかりが能ではない。
その流れのなかに自衛隊海外派遣恒久法が置かれることになれば、自衛隊は、アメリカの都合による世界的軍事戦略の発動に、
自動的に組み込まれていくことになり、憲法9条は雲散霧消してしまう。
反対に、アジア災害救助隊としての自衛隊のあり方、活動が、地域各国の政府や市民に認められ、高い評価を得るようになれば、
自衛隊はその行動によって憲法9条の意義を証明する存在となり、9条はアジア地域における平和共存の証とされ、地域全体の財産として保持されていくことになる。
メディアはもうそろそろ、このような歴史的展望、地政学的枠組みで、アジアのこと、そのなかのさまざまな問題、そこにおける日本の役割を、
考えていくようになってもいいのではないか。
2008.5.14
「9条世界会議」参加者の熱気は何を意味するか
―分科会シンポジウムに出席して考えさせられたこと―
5月4日から6日まで、千葉・幕張メッセのイベントホールと国際会議場で、
多くの護憲 ・ 平和団体関係者や文化人が呼びかけ人となった実行委員会によって計画された 「9条世界会議」 が、開催された。
初日=4日は、定員7000名の会場に1万人をはるかに超す多数の来場者が押し寄せ、
急遽会場外でも集会が行われるなどの大盛況になったと、参加した知人のメールで知った。
私は2日目、いくつもの分科会でシンポジウム、交流集会などが催される5日に、会場を訪れた。
「マスコミ関連九条の会」 とJCJ (日本ジャーナリスト会議) が、韓国記者協会の協力を得て主催するシンポジウム、「憲法九条とメディア」 に、
パネリストのひとりとして出席するためだ。
JR京葉線 ・ 海浜幕張駅を降りると、駅周辺ではショッピングモールでのイベント、展示場での 「恐竜展」 などもあり、
連休後半の中日、やはり人出の多さに目を奪われた。沿線途中には、近くに水族館のある葛西臨海公園駅、東京ディズニーランドの舞浜駅などもあり、
それぞれ行楽の乗降客が、多数認められた。にもかかわらず、海浜幕張駅での賑わいも、相当なものだった。
いろいろな目的の訪問者がいたはずだが、駅前広場のうえに張り巡らされた回廊を渡る人の列に混じり、国際会議場にたどり着き、
入場券を取り出したとき、私の前にいた、孫を連れたおばあちゃん風の老婦人が、「ああ、これは違いますよ。恐竜はあっちのほうよ」 と、
受付の女性から入場券を突き返され、照れくさそうにユーターンしていったので、「9条世界会議」 は2日目も盛況なのだということが、よくわかった。
会場1時間前にラウンジに集合、シンポジウムの打ち合わせということで、指定された場所にいった。
三々五々、関係者が集まり、混みだしたラウンジで打ち合わせをやっていると、向かいの部屋の入り口の前に続々人が集まり、長い列をつくっていった。
脇で企画事務局関係者が、「会場の机は出して、椅子だけにしたけれど、それでも会場に入りきれないかもしれない」 と慌てだした。
2階の分科会会場にもいってみた。つぎの会を待つ人で各部屋の前の広い部屋が混雑していた。行き交う人のなかには見知った顔もあり、何度か挨拶された。
定刻数分前ごろ、会場に案内され、私たちパネリストも入室、所定のテーブルに座った。
パネリストは、会場に向かって右からコーディネーターの小中陽太郎さん (作家)、韓国記者協会顧問 ・ 前会長の李成春さん、朝日新聞記者の伊藤千尋さん、
私 (立正大学講師) の4人。
驚いたのは、入り口のドアが大勢の人で閉まらず、壁という壁には立っている人がいっぱい、通路の床は座った人で埋まっており、
とにかく人で溢れているという感じだったこと。
事務局と相談、われわれパネリストが並ぶテーブルも、急遽後退させ、最前列の椅子席の前に空間をつくり、その床のうえにも座ってもらうことになった。
事務局は開会前の連絡をかねた挨拶のなかで、定員140名のところ、200名を超す来会者があったので、やむなくこういうことになったと報告、
運営への協力を参加者に求めた。驚いたのは、みんなが窮屈な思いをさせられており、さらに床に座らされた人たちは同じ入場料を払っているのにと、
それぞれ不愉快に思い、怒ってもいいはずだが、そうした険悪さをひとつも感じさせるところがなかったことだ。
それどころではない。これらの人たちの多くは、大盛況はいいとしても、定員7000名のところに、一説によれば1万数千枚もの券を売ったといわれる、
不祥事が生じたともいうべき初日=4日にまず来場、この日感じた気分の高まりをそのまま体温に残し、2日目のきょう、またこの会場にやってきていたのだ。
会場に入った途端、またパネル席に着き、来場者と対面、目を合わせたとき、パネリスト全員がまず感じたのは、参加者の熱気と、
これから始まる報告 ・ ディスカッションの行方に向けられた真剣な関心だった。
初日の主催者側の不手際、見込み違いは批判されるべきであり、実際その点を不誠実と思い、非難する参加者もいたようだ。
だが、そうした思いを持つ人も含め、ほとんどの人が、いまこの時期にこれだけ多数の人が 「9条世界会議」 に集まった事実に感動、
そこに自分も参加し、非日常的な状況をつくり出す体験をしたことに高揚感を覚えていたのだ。
私はそのことが理解できると、不思議な気がした。ある種、既視感に襲われたといってもいい。
1959年秋、岸信介内閣は、翌年の日米安保改定に先立ち、これに反対する大衆運動の高まりを抑えるために、国会に警職法 (警察官職務執行法) の改悪案を提出した。
当時、政治問題では十分な闘い方ができなかった労働組合も、さすがに怒った。
「デートもできない警職法」、「戦争中のオイコラ警官復活反対」 などのスローガンを掲げ、労働組合は激しい国会デモを敢行、平和裡に国会構内にも進入し、
翌年の大闘争、60年日米安保反対闘争の先鞭を付けた。
そして1960年、安保反対運動は、連日の国会デモもさることながら、企業に閉じ籠もっていた労組を、異なった企業間の労組相互の対話、
さらには異なった産業の労組間の交流に向かわせ、またその裾野は、地域における労組 ・ 住民の共闘、学者 ・ 文化人 ・ 芸術家との協力関係の形成にまで広がった。
59年春に大学を卒業、半年の試用期間を終わって労組に加入した私は、警職法改悪反対 ・ 60年安保では連夜のデモに参加、
またあちこちの共闘会議や各種の集会に参加した。そこには時代が変わると感じられる空気があった。予想できないこと、予定外のことが、いくらでも起こった。
あのときそこにあったのと似た熱気を、私は5日のシンポジウム会場で感じたのだ。
では、あのときといまではなにが違うか。そのことも、私は考えた。
1960年6月15日、全学連デモの国会突入で東大生、樺美智子さんが亡くなると、
在京新聞7紙 (現在の6紙に東京タイムス) は、 “よって来たるゆえんは別として” と、紛争の最大原因、
日米安保改定を与党単独の強行採決で押し切った岸内閣の非民主的な国会運営の責任を棚上げし、とにかくデモなどの騒ぎは止め、
各党が静かに国会で話し合うようにすべきだ、とする 「7社共同声明」 を発表した。
この声明はすぐ地方紙も追随するところとなり、やがて新聞もテレビも、デモなど安保反対の運動については、報道を控えるようになった。
戦時中、朝日の記者だったが、敗戦の8月15日、みずからの戦争責任を恥じて社を辞し、
その後、故郷の秋田でミニコミ 「たいまつ」 を発行したむの・たけじさんは、「7社共同声明」 に接し、新聞は死んだ、と評した。
しかし、少なくとも、新聞もテレビも、59年秋の警職法闘争の立ち上がりから60年6月15日、女子学生死亡の悲劇までは、二つの闘争をよく報じていたといえる。
連夜のデモは疲れる。だが、国会に向かったデモが新橋で解散、帰ろうとしたとき、街頭テレビで、あるいはビヤホールのテレビで、
デモに機動隊が襲いかかるシーンなどが映るのをみると、また地下鉄に乗って国会前にとって返し、どこのデモにでも加わったものだ。
翌朝、前夜のデモの報道が新聞に詳しく載ると、それに激励を受けて出勤、夜になるとまたデモに参加した。
こういう体験をした人はとても多いはずだ。メディアはこのとき、市民・労働者とともに闘っていたのだ。時代が変わる空気を、メディアも熱心に追っかけていたのだ。
5月5日、幕張に出かける前に新聞をチェックしてみた。「9条世界会議」 初日=4日の 「大盛況」 はどう報じられていたか。
朝日 「9条への思い 会場あふれて」 の記事は第2社会面、横長の写真付きでやや目立つ扱いだったが、記事はわずか23行。
毎日も同じ2社面掲載だが、「『9条世界会議』 開会 マータイさん、ビデオ参加」 は40行あった。しかし、こっちは写真が小さいので、目立たないのが難。
一番記事量が多いのが東京新聞。第1社会面での 「9条世界会議 千葉で開幕 『9条で命守られた』 高遠さん語る」 は66行だから読みでがある。
写真があればもっと目立ったはずだ。
日経は2社面の最下段・15行がすべて。
「『人々に希望』 9条を評価 世界会議で平和運動家」。北アイルランドの平和運動家で1976年ノーベル平和賞受賞のマイレッド・C・マグワイアさんに触れただけ。
読売 (14版)、産経に至っては、どこを探しても関係記事なし。
用心のため、人づてに調べたら、読売は千葉版 (13版S) に 「『9条会議』 1万人が殺到」 とする写真入り2段の記事を掲載、と教えられた。
全国通し掲載の社会面には載らなかったわけだ。目につくのは北アイルランドのマグワイアさんの紹介だけということだった。
千葉日報が2社面ながら大きく報じているので、地元対策を考えたということか。
英字紙、ジャパンタイムズが2面ながら大きい記事で 「9条世界会議」 を詳しく報じたのが目を引く。
海外ゲストの顔ぶれといい、9条が大きな政治問題となる日本の国内事情といい、国際ニュースとしての価値はあるとする判断があったせいだろう。
興味深いのが、「国益」 重視の経営委員長をいただく NHK。4日の夜8時45分からのニュースで報じたとのことだが、見た人によると、
幕張メッセの会場の光景を映し、「北アイルランドから来日のノーベル平和賞受賞者、マグワイアさんが平和について語った」 とするニュースを伝えたものの、
「9条世界会議」 の文字は出ず、言及もなかったとのこと。
民放テレビについては、5日のシンポでも話題になったが、どこかのニュースでみたという人がだれもいなかった。
メディアは、だれかが多少なにかやっても、時代は滅多なことでは変わらないという風しか、吹かせていなかったのだ。
だが、実際には時代は大きく変わりつつある。東京新聞 ・ 首都圏編集部記者の鈴木賀津彦さんに現地でお目にかかった。
鈴木さんは新聞の取材 ・ 報道だけに終わらず、自分のブログ 「ハマっち! SNS」 を運営、「9条世界会議」 の速報も手がけていたが、
その経験を踏まえて今回、明治学院大学の学生たちを指導しながら、Eモバイル機材を駆使、「横浜市民テレビ (仮) 150」 と称するインディ局を立ち上げ、
これを拠点にライブテレビ 「JAPAN!ライブカメラコミュニティー Stickam」 による 「9条世界会議」 ・ 現場からの生中継を開始したのだ。
このコンテンツの録画 ・ 録音もネットで公開されているので、5日放送分を拝見したが、国際会議場で見かけた、音楽批評などで知られるピーター・バラカンさんを、
明学の女子学生が体当たり取材しているのが秀逸だった。
会場のモニターでいま撮られている自分をみながら、バラカンさんが 「これは画期的だね、ナマで出ているんだ。
ネットで流れるんだね」 「会議に関係してなけりゃ、ここにいないのだから知るはずはないわけだが、こんなにたくさんの人が来ているということには、
本当に驚いた」 「9条の問題では、政府が憲法改正国民投票法で投票権を18歳以上に与えたので、9条の会の人たちにとっては、
とくに18歳から20歳までの人たちに平和のメッセージを送り、彼らの支持をアテにしている政府の鼻をあかすことが重要な課題になっている」
「そういうことは、大手メディアではなかなかできない。だからこういうネット放送などの役割が重要になっている」 「ネット放送は、規制の多い放送とは違う。
これはむしろ通信だ。制約のない、自由な通信だ。ところが政府は、通信と放送の融合を進め、両者を一緒に扱おうとしている。
そうなると、自由な通信を許さず、これも放送のように規制されることになる危険があるので、警戒しなければならない」。
傾聴すべき発言ではないか。
(※NPJ 注 ライブログで見られます)
学生と鈴木さんはほかにも、辻元清美、湯川れい子、高遠菜穂子などの諸氏のインタビューも行っている。
同様の試みは、市民ジャーナリストによって京都、大阪でもやられていた。
まだ大きな流れとなってはいないが、そこには、変わる時代の息吹を伝える、新しいジャーナリズムの萌芽が認められる。
既存の大メディア、組織メディアは大丈夫なのか─―このままでは時代に後れをとり、取り残されるのではないか、と心配だ。
(シンポジウムの内容とそれについて考えたこと、今年の憲法記念日の各紙論調の特徴などは、5月半ば過ぎごろ、
「マスコミ関連九条の会」 の ホームページ に連載している 「メディアウォッチ」 でお伝えします。)
2008.5.7
東北アジアの聖火リレーから見えてくるもの
―欧米の人権意識では解決できぬ根深い問題―
北京五輪 ・ 聖火リレーが東南アジア、オーストラリアのあと、長野、ソウル、ピョンヤン (平壌) へと移っていく報道を見たり読んだりするのに連れ、
チベットでの人権抑圧で中国に抗議するチベット人や支援の地元住民、これに対抗し、自国の正当性を主張する在留中国人、
両方のデモや、それらの交錯が生む紛糾の中味が、他の地域におけるものとはかなり異なるようになっているのに気付かされ、いろいろ考えさせられている。
タイなど東南アジアにくると、在留中国人の数が多くなるので、人権派に対抗する勢力の声、
北京五輪を擁護しようとする中国人のナショナリズムが、強く表に出てくるようになった。
一方、これに対する人権派のチベット支援の主張は、欧米から始まったそれとほとんど狂いなく重なるものだった。
ところが、長野にくると、それは大きく変わる結果となった。
もちろん欧米型人権派の声、行動様式もみられるが、騒擾的な場面をつくり出した最大の “貢献者” は、
右翼やその主張に雷同する無党派の人たちである気配が濃厚で、日本独自の色が加わったからだ。
4月26日、まだリレーがきてもいない朝のうちの長野駅前で 「数千人単位の大規模な衝突」 が生じ、
「拡声器を使って 『中国人はギョーザを食って帰れ!』 などと過激な発言をした人物が、
周囲の日本人から 『差別はやめろ』 と一斉に非難される場面もあった」 (夕刊フジ ・ 同日ネット配信)。
この報道は、チベット解放、中国独裁国家反対を主張するために長野にきたとする会社員、若者が、2チャンネルなどネットを見て集まった模様も伝えているが、
そのいずれもが、右翼的あるいは反中国的な傾向に染まった日本人だった可能性がある。
そのことは、同日のAFP配信 (長野聖火リレーで妨害行為)、オーマイニュース配信 (聖火の長野に現れた醜い 「ニセモノ」) などの報道によると、もっとはっきりする。
要するに、日本にきた聖火リレーへの抗議は、「反日」 中国に対する反中国の感情が露骨に出てきた色彩が濃く、
チベット支援は口実にされただけではないか、という疑惑を残すのだ。
ソウルではどうだったか。日本でも、政府 ・ 財界は対中国投資 ・ 貿易の利害を考えると、あらゆる問題について中国政府と決定的に対立することはできない。
韓国のそうした利害は、日本の場合よりさらに大きいのではないか。
このような状況を反映してか、ソウルを訪れた聖火リレーの支援に当たる在留中国人の体制は、長野よりよほど大かがりで、
抗議グループを圧倒するほどの勢いがあったように感じられた。
しかし、そこに脱北者、北朝鮮を抜け出し、最終的に韓国に落ち着いた人びとが、やおら登場、中国に対する激しい抗議行動をみせたのには、驚いた。
中朝国境を厳しく閉ざし、脱北者を阻むようになった中国。
困難を冒してそれを突破しても、中国官憲に発見されれば、即、北朝鮮に送り返されるか、
東南アジアへの出国 (その後、韓国に移動) までの滞在しか認められない脱北者。
彼らは中国政府のこうした仕打ちに抗議したのだが、その背景には、韓国の政府 ・ 国民のシンパシーと、対北朝鮮政策をもっと韓国寄りのものにせよとする、
中国に対する暗黙の要請とがあったと、ニュースに接しながら理解した。
そして、ピョンヤンはどうだったか。金日成健在時代の国民的イベントの光景、というより、
中国において毛沢東が率先、文化大革命を指導していた時代の天安門広場の集会 ・ 式典もかくやと思わせる、政府・国民一体となって、
聖火リレーが自国を初めて訪れたのを祝う、完璧な情景が出現した。
これならば中国の政府も国民も文句ないのではないか。いや、政府や国民のある部分は、抗議や批判がまるで出ないのでは、民主化を目指すとする手前、
欧米に対して気恥ずかしく、北朝鮮政府はそこまでやらなくてもよかったのに、と思ったかもしれない。
このような日本、韓国、北朝鮮の聖火リレーの迎え方には、それぞれ異なった特色があったのだが、そこには大きく共通するものもあるように思える。
いやそれは、北京五輪開催国、中国も含めて共通するものだといえそうだ。
欧米が築いた近代に対する 「後進性」 にコンプレックスを感じ、早くそれに追いつかなければとする焦りが、まずある。
オリンピックの開催は、その実現への絶好のスプリング ・ ボードとして理解される。
その目標追求では国家と国民のあいだに齟齬がなく、両者一致してオリンピックの成功を目指す。
そのために国内に過渡的な犠牲の部分が生じてもやむを得ないと考える。
外国がそれを指弾、批判すると、国民がナショナリスチックに反発、自国の立場を擁護する。
とくに自国の 「後進性」 が、欧米諸国による長年の植民地政策 ・ 侵略 ・ 戦争によってもたらされたと考える国では、
いわゆる先進国に対して、憎悪に近いナショナリズムが爆発することさえある。
こうした 「後進性」 を脱しきれない国では、個人としての市民がスポーツを享受する文化が確立しておらず、
クーベルタンによって国家とは無縁なところで追求されるべきとされた近代オリンピックの理想を、理解することができない。
むしろ、それへの参加を通じて、国家と一体化した民族 ・ 国民の力の強大さ、誇りを追求する方向に走りやすい。
この点は、近代オリンピックを発明した先進国でも、国家が国民統合にこれを利用したり、自国の国力を他国に見せつけるために、
その場を絶えず使ってきたりしたので、本来の五輪の意義を後進国に、真面目に理解させることができなくなってきた、という点もある。
いずれにせよ、長野で、ソウルで、ピョンヤンで行われた聖火リレーの、欧米先進国におけるのとは大きく異なった光景が出現したわけは、
このような共通した 「後進性」 によるものだといえそうだ。日本は、朝鮮を植民地とし、中国には侵略のため、攻め入った。
その結果、日中、日韓、日朝のあいだには、中 ・ 韓 ・ 朝とのあいだとは大きく異なる国民感情が残存する。
それにもかかわらず、オリンピックという国際的イベントがこれら国家相互のあいだに立ちはだかると、それが市民 ・ 人権という次元の問題として捉えられるより、
一足飛びに国家とナショナリズムの問題になりやすい体質が強く残っている点は、4か国どこも共通している。
日本については、石原都知事の2016年の東京オリンピック開催への執着が、そのことを証明している。
中国については、聖火リレー最終行程、国内行進の大成功が、まもなくそれを証明するだろう。
いやらしいのは、これらのことを、欧米各国がよく見通しており、そのうえでいがみ合うアジアの国に人権擁護の教訓を垂れていることだ。
これらの国の人びとは、先進国から彼らの基準によって自分たちの 「後進性」 を指摘されれば、それは認めざるを得ないが、
反面、その 「後進性」 をもたらしのはお前たちの近代、「先進性」 の勝手さ、帝国主義、植民地主義などではないか、と改めて思い起こさせられ、
不快感を掻き立てられることになる。
「国境なき記者団」 のロベール・メナール事務局長が善光寺境内に腰を下ろし、「チベット支援の人びとも、北京オリンピックを応援する人びとも、
お互いに自分たちの主張を言い合えたのはよかった。これが民主主義だ。われわれの行動は成功した」 とにこやかに語るのをテレビでみて、少々胸くそが悪くなった。
彼は真面目にそう信じているのだろう。
だが、ヒトラーが発案した聖火リレーを利用、これに抗議しながら人権を訴えるのに、なんで黒シャツなんか着てくるんだ、悪い冗談じゃないかと、
その無神経さに突っ込みを入れたくなった。
戦前、すでに D・H・ロレンス、 J・ジョイス研究の実績を残し、欧米文学に通暁していた、あの理知派の作家、伊藤整が、1941年12月8日、
日本軍のハワイ攻撃のニュースに接し、「我々は白人の第一級者と戦う以外、世界一流人の自覚に立てない宿命を持っている。
はじめて日本と日本人の姿の一つ一つの意味が現実感と限ないいとおしさで自分にわかって来た。
……ハワイをまさか襲うとは……我々も意外であり、米人も予想しなかったのであろう」 と感激、その日の日記に書き残しているのを読んで、
意外の感に打たれた覚えがある (『太平洋戦争日記 (一)』 新潮社)。
しかし、対英米開戦の報に接した彼が、自らの内なる 「後進性」 の由来をたずねつつ、始まってしまった戦争の結末の予想とは関係なく、
欧米に対するそれまでのある種もだしがたい思いがふっ切れたように感じたことは、何かわかる気がする。
表面的には時代も状況も、まったく違うが、欧米の近代、「先進性」 に対する伊藤が感じていた憧れ、敬慕と、苛立ち、嫌悪とが同時に存在する思いは、
いま北京五輪成功のためならなんでもやろうと意を決している中国政府、それを支持せざるを得ない中国国民の気持ちにも、通じるところがあるのではないだろうか。
また、中国より一足先にオリンピックを成功させ、それを民主化へのステップとした経験を持つ韓国、
北京五輪への協力 ・ 参加を国民的経験にしようと考えているらしい北朝鮮にも、同様のことがいえるように思える。
おかしな共通点ではあるが、欧米からの眼差しの下、アジアは一つだという思いを強くさせられる。
その共通点を、いつまでも 「先進性」 の優越的立場にあるものから見下され、バカにされてばかりはいたくない。もう自分たちで解決したい。
E・サイードは、欧米の 「オリエンタリズム」 の視点を暴き、自分のことは自分たちの解釈で理解し、自分の言葉で語る道筋をつけた。
G・C・スピヴァクは、「後進性」 の虜ともいうべき 「サバルタン」 (表現的世界を奪われてきたインドの下層従属民) の思いを西欧的エリートに語らせることはできない
─―そこにいる人びとの声で語っていかなければならない、と述べる (『サバルタンは語ることができるか』 みすず書房)。
希望はある。日本で活躍する中国人ジャーナリスト、莫邦富 (モー・バンフー) 記者は本土出張中、中国は台湾総統選挙が独立派候補の勝ちになったら戦争か、
と大騒ぎしたくせに、味方だと勝手に思っている馬英九国民党候補が当選したら安心し、その結果をテレビがまるで報じないのに呆れ、
「(中国は) 北京五輪で 『開かれた中国』 をアピールしようとしているが、中国には 『鎖国時代の面影』 が依然として色濃く残っている。
馬氏当選によって中国本土と台湾との間で確保できた貴重な平和の期間を大事にして、中国の将来をじっくりと考えるべきだ。
台湾では民衆が政党と指導者を選んだ。香港も17年には実現できそうだ。さて、肝心の中国本土はどうだろうか」 と書いた (朝日・4月19日・be)。
世界を見渡す展望のなかで実に適切に祖国のあり方、問題を浮き彫りにし、いうべきことをいっている。
また、日本のフリーのジャーナリスト集団、「アジアプレス・インターナショナル」 (野中章弘代表) が北朝鮮内でジャーナリストを育成、
彼らによる雑誌 『リムジンガン』 日本語版を4月3日、創刊した (毎日・4月4日朝刊)。
このように東北アジアのジャーナリストが外に向かって国を開き、お互いに自由にものが言い合える関係を構築、共通の歴史認識の確立に向かえば、
欧米近代の 「先進性」 の世話にならずに、あるいはその限界を超えて、自分たちも正当にそのなかに位置づけられる新しい世界像を、
自ら描いていけるようになるのではないか。
2008.4.30
光市母子殺害事件差し戻し審をめぐる憂鬱
―裁判員制度実施直前の死刑判決に縛られるメディア―
4月22日朝、遅い朝飯中、テレビ朝日の情報番組 「スーパーモーニング」 を何気なくみていたら、そのつづきといった感じで、
10時から広島高裁前からの中継を含め、光市母子殺害事件の差し戻し裁判の法廷の様子と判決までを、ライブで放送する、というキャスターのアナウンスが入り、
すっと臨時特番が開始された。試みに各キー局のチャンネルを回すと、東京12チャンネルを除き、NHKを含む全局が同時に、
ほとんど同じ方式の特番体制で実況放送をやっていた。
東京のスタジオには局アナと法律家・評論家などのコメンテーターが控え、現地には、広島高裁前の特設デスクにキー局から派遣されたキャスターが、
応援の系列地元局の放送記者とアナウンサーに囲まれて陣取る、といったかっこうだ。
東京のスタジオは、現地系列局のスタジオと高裁前デスクに結ばれている。
現地局が事前に取材した、被害者遺族 ・ 本村洋さんの談話ほかの関連資料映像や、たったいま廷内から出てきて、
審理の進行状況を中間的にリポートする記者の姿などが、東京のスタジオの大きなモニターに映し出され、そのまま放送できるようになっている。
差し戻しを決めた最高裁判決当時の資料映像などは、もちろんキー局が映し出すが、それらも、現地局スタジオ ・ 高裁前デスクでもモニターできるようになっている。
また、どの局も、このようなシステムをよどみなく動かすために、高性能の放送 ・ 通信 ・ 連絡装置を搭載した中継車などを高裁周辺に配置、
さかんに稼働させている気配だ。
新聞の番組欄を慌てて確かめたところ、こうした実況中継が、10時開廷に合わせ、9時55分からの放送開始となっていたことがわかった。
驚いたのは、実際に放送が始まった途端、テレビの画面が、一つの方向に歩き出す膨大な数の人の群れを映し出したことだ。
広島高裁を囲む広場に集まった、傍聴希望の人たちだ。
どの局がどのようなアングルで撮ったのかはわからないが、なかには空中からこの大群衆を映したテレビ局もあった。
高裁上空にはヘリコプターが何機か舞っていたはずだ。集まったのは4000人だと報じられていた。一般傍聴人の席は26席しかない。
列をつくって進む人たちは、裁判所建物の入り口に向かうどこかでクジを引き、当たったわずかな人間だけが、多数の空クジの人を置き去りにし、廷内に入っていく。
疑問が湧いたのは、一般傍聴人の当たったクジも、実際には新聞、テレビ、雑誌の記者に、かなり流れているのではないか、と思えたことだ。
世間の注目度が高いにもかかわらず、取材記者席の数が限定されている裁判の場合、廷内取材に多くの人を送り込みたいメディアは、前もって謝礼を払い、
アルバイトを多数動員、そのなかのだれかが抽選で引き当てた傍聴券をもらう、という方法をとる。
なぜそう思ったかといえば、10時を10分も過ぎたか過ぎないかの早い時間のうちに、どのテレビも、廷内にいた記者が息せき切って出てきて屋外のマイクの前に立ち、
廷内の様子を伝えだしたからだ。そうしたリポートが、その後も人が代わり、何回も繰り返されていく。
裁判所側との取り決めで、同一取材者が開廷中の法廷に複数回出入りできることになっていたのかもしれないが、常識的にいって、
各局がこんなにせっかちな中間リポートを、記者をとっかえひっかえし、競って繰り返せるのは、県の司法記者クラブで割り当てられた数以外の傍聴券を、
それぞれ手に入れることができたからだ、としか想像できない。被告や本村さんなどを描いた廷内スケッチを、早々と映し出す局もあった。
このような狂騒状態を、なんでテレビはつくり出す必要があるのだろうか。
「みんなで渡れば怖くない」 という言葉があるが、「みんながいっせいに渡るだけになる状況ほど怖いものはない」 と、ぞっとしながら画面に映し出される光景を眺めた。
「主文後回しです。裁判長は判決理由を先に読み上げ始めました」。コメンテーターの法律専門家が 「こういう場合は厳しい判決が出ます」 というと、
スタジオに緊張感が走る。「裁判長は冒頭、取材陣に対して静粛にするよう一喝しました」 「廷内の本村さんの落ち着いた様子は変わりません」。
日本テレビの画面には 「廷内速報」 の字幕が映し出され、フジテレビの画面には、判決理由読み上げ先行となった途端、「極刑へ」 の字幕が出たものだ。
どの局も、判決が真っ先に出ることに備えて特番の準備を整えていた節がある。
廷内からのリポート体制も、その第一報を他社に遅れることなく、劇的に伝え、現場の生々しさをスタジオにインパクト強く伝えることを、眼目としていたはずだ。
だが、少しは予想もしていたろうが、目当ての大きなヤマは外れた。
しかし、事前の意気込みが惰性になっている。開廷20分近くのあいだ、廷内から興奮した面持ちの記者が代わる代わる出てきて、息を弾ませながら廷内の様子を、
カメラの前で繰り返し伝える。「判決理由の読み上げが始まると、本村さんは安堵のためか、ほっと溜息をつきました」
「被告の元少年はまっすぐ裁判長の方を向いています」。どこも、当初の緊張を、判決への期待に盛り上げていきたいとする感じだ。
だが、絵も出ない判決理由読み上げだけでは、緊張の持続も、最後の期待への盛り上げも無理だ。
そこで事前取材の映像が挿入される。被害者の近くの住人が 「本村さんのことを考えると、死刑は当然でしょう」 と、温顔に笑みをたたえながら語る。
スタジオでは、昨年秋、弁護方針の対立をめぐって弁護団を離れた元弁護人が 「情状を重んじず、事実認定で争う弁護方針になったので、
厳しい判決になるのではないか」、検察上がりの弁護士が 「最高裁の差し戻しの判断は、特別の事情がない限り、死刑を回避する理由がないというものだった。
厳しい判決が予想される」 などの論評や予想を試みる。そしてごく自然に、「ではここでコマーシャルを」 の合いの手が何度も入る。
これらの総体が、巨大なテレビ ・ ショーのようにみえた。とても報道とは感じられない。
一つの方向を目指すストーリーの完結を期待する、国民的ショーといった趣だ。
これ以上の巨大なショー、国民が期待するショーは、戦争の、それも勝ちいくさの見せ場しかない。
しかし、それにしては中途半端だ。大方の局が、まず判決ありき、そしてそれを受けたスタジオでの事件回顧 ・ 論評程度でしか特番を考えていなかった実情が、
はしなくも露呈したからだ。判決理由読み上げが長引くなか、フジテレビは10時20分で、テレビ朝日は10時30分で、TBSは10時50分で、それぞれ裁判中継の特番を終えた。
どこもがだいたい、遅らせた通常番組に、何事もなかったように戻っていった。
異色なのが日本テレビ。当初の予定から、特番終了は11時25分までとなっていた。時間を長く保たせるための方針もはっきりしていた。
熊崎勝彦元東京地検特捜部長を起用、最高裁の高裁に対する裁判差し戻しの意味、出てくるであろう判決の意義を詳細に語らせていった。
時間が長かっただけに、法定内のスケッチも枚数が一番多かった。
意表をついたのが、系列広島テレビの女性放送記者、延広記者が、前日朝に被告の元少年と面会しており、そのとき録音した彼の談話を公開したことだ。
「1 ・ 2審では警察で供述した証言だけしか取り上げてもらえなかったが、最高裁のときは初めて本当のことが言えたので、胸のつかえがおり、ありがたく思い、
感謝の気持ちをもった。それからは生きる喜びも感じられたので、かえって死ということの重さも余計に感じるようになった」 と語る、落ち着いた元少年の声は、
いろいろなことを考えさせた。だが、残念ながら、そこに含まれている意味を発展させ、追究する方向に、せっかくの長い時間が活用されることはなかった。
強烈な独占スクープ、注目すべき景物として使われただけだった。
番組全体の流れは、熊崎コメンテーターのリードする方向で貫かれ、国民的合意が整然と集約されていくように思われた。
この壮大なテレビ・ショーでNHKが演じた役割も、興味深いものだった。
9時55分からの特番スタイルの実況中継では民放各局と足並みを合わせ、国民的ショーの揃い踏みに翼賛、花を添えたが、
裁判長の判決理由読み上げが先となると、すぐつづく10時からの通常ニュースの枠で特番を受け、判決が出ないとわかると、ニュースの終わりにともなって、
予定どおりの通常番組に移った。だが、NHKの正午のニュースが始まるとまもなく、その2番トップに扱えるタイミングで、広島高裁の判決が出た。
日本テレビは11時30分からの定時ニュースまで引っ張って待っていたのに、判決を間に合わせてはもらえなかった。
裁判長は、まるでNHKの正午のニュースに合わせるかのようなタイミングで、判決を下したのだ。
国家権力としての裁判所は、「NHKは<国益>に役立つ放送をすべきだ」 と公言してはばからない経営委員長をいただくNHKに期待し、活用したのではと邪推したくなる。
このときばかりは、東京12チャンネルも含めて全局がいっせいに速報で判決を流し、昼の情報番組をもつTBS、テレビ朝日はその枠のなかで、
判決の意味やそれによって生じる波紋を追う特集形式で、番組をつくった。
夜の報道番組はテレビ朝日の 「報道ステーション」、TBSの 「ニュース23」 だけしかみなかった。
前者で古舘メイン・キャスターが、「あのような被告」 に20人を超す弁護団が付き、被告を助けることだけに専念、
被害者への配慮を感じさせない弁護活動をするのには疑問を感じた、と語り、対照的に、本村さんの言葉がつねに重く、心に深く響くものを感じさせるので、
感銘を受けてきた、と述べたのには、汝もまた、とする思いを新たにさせられた。
TBSのほうも、そうした雰囲気が強くはあったが、法律を学ぶ学生や、学者、ジャーナリストなど10数人に今回死刑判決に対する感想 ・ 評価、
近く始まる裁判員制度への影響などについて質問を試み、多様な意見、回答を引き出していたので、ほっとするところがあった。
その日の夕刊、翌日=4月23日の朝刊各紙も似たようなものだった。
朝日、毎日の紙面には少年犯罪に対する厳罰化、裁判員制度への影響を懸念する色合いも多少あったが、
日経の社説が、さらりと 「国民の感覚を映した死刑判決」 と論ずる姿勢が象徴するような空気のほうが、全紙を通じて断然強く、
空気をどう読むかを気にするようになりつつある国民にとっては、そういうメディアの伝え方、論じ方のほうが、自然に受け止められるものとなっていくのではないかと、
暗澹たる思いに駆られた。
気がついたことで、とくにいっておきたいのが、以上のすべてのメディアの報道 ・ 論説を通じて、弁護団の弁護活動の内容や、判決後の言い分を、
具体的に、また詳細に報じたり、論じたりする記事、番組がほとんどなかった、という事実だ。
被害者側の立場や言い分を報じたもの、被害者の立場を支持、擁護する見地からの議論のほうが圧倒的に多く、
それらとの対比で被告と弁護団の言い分が取り上げられても、事実上、批判のために言及されるばかりで、むしろ否定的にみられるだけに終わるおそれさえ、感じられた。
テレビも新聞も、悪気はない。むしろ善意と正義感に溢れているとさえいえる。一生懸命やっているのだ。
けれども、みんなそろって一生懸命、真面目に、また熱心にやればやるだけ、自分でもよくわからないうちに、
なにやらへんな仕組みができあがっていくのではないかと、メディアに関係する人たちは感じないのだろうか。
1985年、「ロス疑惑」 が起こったころのテレビ、週刊誌は、まだ人間の悪徳や犯罪の猟奇性に焦点を絞り、スキャンダラスな面白さを売り物に、視聴率を狙い、
販売部数を追っかけることができた。だが、いまは歪んだ社会の悪や病理から析出されてくる、得体の知れない凶悪さが人と社会の安全を脅かすようになっている。
国民は、そのような凶悪な罪を犯したものは、国家が危険な敵として容赦なくその存在を暴き、その結果に応じた懲罰を厳しく課して駆逐、
社会の安全を確保していくことを望むようになる。
メディアは、そうした国民の期待に応えようとすれば、やがて始まる裁判員制度のなかで、裁判員となる国民が正しいと考える裁きの実現に協力することに、
熱中することしかできなくなるのではないか。いや、そのプロセスは、気づかないうちに、すでに始まりだしているのではないか。
かつての犯罪報道は、いささかの後ろめたさはあっても、自分も面白がりながらはまっていられる体のものだった。
だが、これからの犯罪報道は、敵とする犯罪者を容赦なく追及、駆逐するメディアの仕事として構造化 ・ 体制化され、
永続的に実行しなければならないものと化す可能性がある。その極北に死刑制度が位置する。
4月15日、これまで光市母子殺害事件を番組で扱ったテレビ局に対して、放送界の第三者機関 「放送倫理・番組向上機構 (BPO)」 の放送倫理検証委員会は、
番組中の被告弁護団の取り扱いは公正さを欠くと指摘、改善を求める勧告を出した。
それはそれとしてもっともであり、関係者は改善の努力をすべきだが、22日の広島高裁判決をめぐるテレビ ・ 新聞の報道ぶりに接すると、
BPOの勧告はまだまだ素朴に過ぎるという感じがしてならない。
メディア全体はもっと危ないところに足を踏み入れているのではないか。
法曹界の大先輩、団籐重光氏は、裁判員制度を実施するなら、死刑制度を廃止せよ─―死刑制度をそのままにした裁判員制度には絶対に反対だ、
と述べている (団籐重光 ・ 伊東乾 『反骨のコツ』 朝日新書)。その深刻な意味を、いまメディアこそ、理解すべきではないか。
2008.4.23
もうデフォルトに戻す時期ではないか
―「後期高齢者医療制度」が示す社会保障の行き詰まり―
4月1日、「後期高齢者医療制度」 が実施となった。2日の朝刊各紙は、新制度適用者約6万4,000人に新しい保険証が不達という官側の不手際を、大きく伝えた。
テレビは、保険証は受け取ったけれど、その取り扱い方がわからない老人が、市町村役場の窓口に大勢押しかけてきた光景を、競って報じた。
そして15日は、その保険料が、これら新制度適用高齢者の受け取り年金から天引きされる最初の日の到来だ。
この日の朝刊各紙はそのことを伝え、各紙各様に問題点なども指摘したが、あと2年半ほどで後期高齢者に仲間入りする筆者からみると、
それらの紙面、それにテレビの報道は、なんともかったるいものばかりだった。健保と年金、両制度の改悪結果が一体化し、後期高齢者のうえに襲いかかってきた。
だが、なんでこんなことになったのかという根本原因に斬り込んだ視点や理解が、ほとんど欠落している。
今回のことは、高齢者にとってのみ重大な問題だというものではない。対極にあり、国民健保にしか入れない若者 (それにすら加入できない若者も多い)、
無年金で制度外に放置されたままの若者にとっても、大いに関係のある問題なのだ。
多数の若者がまともな健保 ・ 年金制度からオミットされる結果を生んでいる根も、新しく高齢者を襲った事態発生の根も、実は深いところで通じ合っている。
全国民はいま、大きな怒りをもって国のやり方を批判し、メディアに対しては、社会保障制度再建という、根本的な問題解決を目指した提言を行うよう、
一致して求めていく必要がある。
日本の公的健保 ・ 年金制度は、戦時中の1940 (昭和15) 年、所得税の源泉徴収制度がスタートしてから本格的に整備され、加入者が飛躍的に増大、大きく発展した。
加入者の所得から両保険料も天引きできたからだ。このやり方は、ドイツ・ナチ政府の発案したものだ。
標榜する国家社会主義の建前上、社会保障政策に力を入れ、国民の支持を獲得する必要があったわけだ。
だが、健保制度の整備には、戦争政策の遂行が必要とした急速な重化学工業の規模拡大を支える、大量の労働者の健康保護の狙いがあった。
年金に至っては、制度発足当初は受給者はほとんど発生せず、大量の加入者の支払う保険料が積み立てられていくばかりだったので、
ちょっとこれを拝借、戦費に使わせていただく、というのが本音だった。
こうしてドイツでは国民皆保険、国民皆年金の仕組みができあがった。
そして日本でも、このやり方が真似られ、戦時中に政府健保制度と国民健保制度 (地域組合方式)、厚生年金保険制度が整備された。
後者に関してはその 「強制貯蓄的機能」 が期待され、結果的に日本でも、集まった巨額の積立金は、
戦費に使われていった (百瀬孝 『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』 吉川弘文館)。
こうして始まった公的健保 ・ 年金制度には、いろいろ問題はあったが、国民皆保険 ・ 皆年金というその制度のあり方は、戦時共産主義的な色合いは濃かったけれど、
「能力に応じて負担し、必要に応じて受け取る」 とする、社会保障政策が本来もつべき自助 ・ 互助、平等 ・ 互恵の原理が組み込まれ、
それがうまく作動する特徴が認められた。その運営は、異なる性、年代、居住地、職業、所得階層の人々をできるだけ多数含み、多少のイレギュラーな変動は、
規模の効果によって平準化され、十分吸収していけた。
そして、このようにしてできあがった制度の原型は、加入者から税金とは別に保険料徴収を行って運営する制度、原資の全部を税金で賄い、
全国民に適用する制度、の違いは生じたものの、主にヨーロッパの社会民主主義政権ができた国々では、いまも受け継がれ、そのうえで制度整備が繰り返されてきている。
だから、イギリスも含め、EUでは付加価値税が、日本の消費税とは比べものにならないほど高率なのに、国民から文句が出ないのだ。
アメリカは一時はこうした欧州型の公的制度に向かう動きもあったが、レーガン大統領時代に決定的に 「能力に応じて負担し、
能力に応じて受け取る」 医療 ・ 年金制度=民間金融 ・ 証券 ・ 保険企業の提供する有料サービスに委ねる、とする部分が肥大化し、今日に至っている。
日本ではどうか。筆者は1959年に大学を出て就職、加入者本人 ・ 所属企業 ・ 国の3者がほぼ平等に原資支出を負担する政府健保と国の厚生年金保険に加入した。
皆保険 ・ 皆年金の方式が維持されていたのだ。
だがその後、まず健保が変わった。大企業に独立の健保組合の設立が許されたのだ (のちに複数企業の連合型組合設立も許可)。
つづいて年金も大企業の独立基金設立が認められた (これものちに連合型基金組合設立が許可)。
こうなると、所得 ・ 生活水準ともに高い加入者を抱えた健保組合は、資金は潤沢、疾病罹患率は低くて保険支出は少なく、余剰資金を保養所建設 ・ 運営など、
社員の福利厚生政策にも利用できることになった。
年金基金においても同様のことが起こった。大手証券会社を一任勘定で抱き込み、運用益の最大化を独自に図り、国の制度の給付を上回る給付を実現、
人件費管理を有利に進めることができた。これによってどんなことが起こったか。
いってみれば、経済負担力が乏しく、それゆえに疾病罹患率も高く、保険支出が多くなりがちな企業、加入者が、こっちに残ることとなったのだ。
規模の効果を保つことのできる、皆保険・皆年金の仕組みはこうして壊されていった。
それでもまだ、国民健保、国民年金など、国が責任を持つ制度が社会保障の基礎を支えていた。
ところが、バブル崩壊後の 「就職氷河期」 到来という外部環境の変化と小泉構造改革という政策措置によって、
公的な健保 ・ 年金の制度そのものが壊滅の危機にさらされる状況が出来した。
大きな原因は、雇用状況の悪化によって、長期の勤務継続が期待できる、正規社員の就職機会が少なくなってしまったことだ。
これに構造改革による派遣法の改悪が追い討ちをかけた。
とくに年金は、過去勤務債権 (後払いされる賃金) という性格をもつため、長期勤続が裏付けとしてなければ、十分な金額は生まれない。
長期の勤続に伴う年金から切り離された、このような国民年金だけでは、老後暮らせるものではない。
永続的な仕事に就けない若者は、そんなものは見向きもしなくなった。
国民健保も基本的には、長年の会社勤めに伴う健保のおかげで維持できた健康を土台に、退職後の助けになってもらいたい、というものだ。
だが、そういう関係も、国の健保として残された部分では、どんどん断ち切られるようになっているのが実情だ。
さらに厄介な事態も生じている。バブル崩壊不況の長期化、ゼロ金利時代の永遠化ともいうべき状況のなか、企業による年金基金 (組合) が、二極分解しだしたのだ。
よほどの資金力と、有能な資金運用管理機関の協力がない限り、独自の運用益など生み出せなくなったからだ。
運用益が出せないだけではない。積立金に手を付けなければ給付ができなくなってきたところも少なくない。
このため、国から原資を預かり、国に代わって運用してきた代行部分 (加入者の報酬比例部分) を国に返上、国の制度に戻る基金 (組合) が続出している。
戻れるところはまだいい。基金 (組合) をつくったとき、年金を高くするから代わりに退職一時金は低くする、というような合理化をしたところは、戻るに戻れない。
結果的に加入者は、低くされた退職金、基金 (組合) が維持できる程度に低められた年金しか期待できない。
これでは国の厚生年金に止まっていたほうがよかった、ということになる。
一方、このような情勢にもかかわらず独自にやっていける余裕のある基金 (組合) は、新たに加入者を確定拠出型年金 (いわゆる日本版401K年金) に導こうとしている。
所定の年金原資を加入者に与え、投資信託を運用させ、リスクも大きいが、自己責任で運用益の最大化が追求できるという年金だ。
政府はその原資の会社負担分について経費控除を認め、そうした年金制度の導入を促している。
完全にアメリカ型のやり方だ。こうして基金でも、勝ち組と負け組が分かれる事態となったのだ。
こうした流れのなかで、筆者が一番許せないのが、日本の年金は、後世代負担方式=賦課方式で、同時期の若い世代の支払う原資を、
受給者側=高年齢者の年金支払いに充当する仕組みで成り立っている、とする 「理論」 を、最近政府がさかんに言い立てるようになり、
メディアもそれを真に受けていることだ。
その理屈から、たとえば、少子高齢化の進行に連れて、支払い側人口が少なくなり、受け取る側が多くなると、
両者の均衡が崩れ、支払い側に不公平感が強まるから、高齢者への給付を絞らざるを得ない、とする考え方が導き出されてくる。
しかし、もう一度、皆保険 ・ 皆年金の原理に立ち返ってみよう。そこに認められるのは、いま医者にかからなくても、また、いまは年金は不要でも、
将来それらが必要になるときのために、若いときから積み立てをしていこう、とする自助の考え方が基本になっているということだ。
定年が55歳、平均寿命が68歳弱だった1965 (昭和40) 年ごろ、年金の数理計算をみたら、
自分が払ったものを (企業負担分も含むと考えられる) を全部年金で受け取るには、75歳まで生きる必要があると知って、驚いたことがある。
当時でいえば、自分の払ったものを全部回収するだけでさえ、大変だったのだ。
高齢者が自分では何もせず、若い世代の上納金を奪ってばかりいるかのようにいわれる筋合いは、本当はまったくない。
若者たちも、同じ道を辿っていく点では、何ら変わりはない。政府の 「理論」 はいたずらに世代間の対立を煽り、そこに分裂を持ち込み、
その隙に、全国民が団結できる社会保障制度を解体させようとするものだ。後世代負担方式=賦課方式とは、資金繰りの方式を表現する用語以外のなにものでもない。
しかし政府 ・ 与党は、先に 「高齢者」 なる集団を特定、医療費抑制、事実上の医療費高負担化の仕組みを設けたのち、
さらに 「後期高齢者」 なる被差別集団を囲い込み、若年世代への医療費負担転嫁、負担増を防ぐとして、健保制度の全体的な負担再配分過程からこれを分離、
代わって、あろうことか年金制度を接合、後期高齢者向けの医療のための健保料は本人の受給年金から天引きするという暴挙に出たのだ。
一種の 「自己責任」 主義、ネオリベ的解決だ。年金 (受給権) を質、担保に取るのは、不法行為として禁じられている。
受給者本人が受け取った現金に対してのみ、借金返済等の請求権が認められるのだ。
国がこのような性格をもつ年金を、受給者の同意もなく勝手に医療費用に天引きするのも、不法行為ではないかという疑問が湧く。
それよりもなによりも、皆保険 ・ 皆年金の大きな母体のなかに引き取り、そのなかで改善策を検討すれば、手厚い取り扱いが必要な老人医療費だとしても、
適切な解決策はいくらでも考えられる。
これに対して、無理にもそこから切り離し、老人医療という個別の枠のなかだけでいじくり回すのでは、いい知恵が出てくるはずもない。
「長寿医療制度」 は悪い冗談だ。舛添厚労相の顔つきをみていると、本当は 「長寿が恨めしい医療制度」 といいたいのではないか、と邪推したくなる。
若者たちの健保、年金に対する無関心、あるいはそれらからの離反も、皆保険・皆年金の母体を崩してきたことから生じている、というべきだろう。
大企業優遇、勝ち組優先で改悪されてきた制度は、そもそもそうした企業に入れない若者にとっては無縁なものだ。
やはりここでも、まず第一に、皆保険・皆年金の母体を復元、企業健保組合 ・ 年金基金 (組合) も、そこに含めていくべきなのだ。
いま代行部分返上の基金 (組合) が出てきているのはいいチャンスだ。
できるところからでもそうした方向を追求、公的な健保 ・ 年金の規模拡大、体質改善を目指すべきだ。
ここまで制度的ににっちもさっちもいかなくなったときは、あちこちいじくり回してさらに状態を悪化させるより、いったんデフォルトに戻したほうがいい。
そのうえで、たとえば若者については、雇用状況の改善が決め手になるが、それが不十分でも、
臨時などの有期雇用については健保 ・ 年金の加入を雇用企業に義務づけるとか、派遣に関しては派遣元企業に同様の義務づけを行うなど、やれることはいくらでもある。
とくに健保 ・ 年金の加入者番号が一元化できれば、雇用先や、所属する派遣元企業が変わっても、制度への加入期間の継続 (一種の勤続) が証明できる。
加入期間の長さによって生じる制度上のメリットが理解できれば、非正規 ・ 不定期労働の若者も、雇用に伴う公的な健保 ・ 年金に入ってくるし、
同時に国民健保、国民年金への関心も高まり、これら制度も利用するようになるはずだ。
加入者が減り、不払いが多くなる国民年金の給付水準が生活保護より低くなったから、生活保護の給付水準を下げて均衡を図る、
という政府 ・ 与党はいったい何を考えているのだ。
やることは逆だ。国民年金の給付水準を生活保護のそれより引き上げるのが筋ではないか。
また、なにをやっても落ちこぼれる弱者が出てくるから、そこには社会保障としてセーフティネットが必要だ、というような話しも出てくる。
それは社会保障ではない。チャリティ、慈善ではないか。本来の社会保障は、国民の権利の充足であり、乞わねばならない慈善ではない。
人間の尊厳を保障するのが社会保障だ。メディアには、そうした施策の充実を、先頭に立って求めていって欲しい。
2008.4.17
北京五輪に賛成も反対もできない気分をどうする?
―かつて日本も似たような道を歩いてきたのではないか―
4月6日 (現地)、北京五輪の聖火リレーがロンドンで始まると、中国のチベットにおける人権弾圧に反対し、中国の五輪開催強行に抗議する団体や、
これに同調する市民が、リレーを妨害する激しい行動を繰り広げた。
そして、その模様が大きく報道されると、日本でもネットを含め、メディアがさまざまな論議を始めだした。
大方のマスコミは、スポーツ報道では、各競技とも北京を目指す日本の派遣選手の選考が最終段階に入っているため、
連日だれがいくか、メダルは可能かなど、北京五輪があることを前提に、さかんに話題づくりをしている。
だが、外信 ・ 政治報道の面では、ことがチベット問題に発しているだけに、主に欧米で広がっている北京五輪への抗議の動きには理がある、
とする雰囲気を漂わせがちで、ヘンにちぐはぐだ。
これが新聞では産経や、一部の週刊誌となると、チベット問題で根本方針を変えない限り中国に五輪開催の資格なし、
とはっきりしていて、北京五輪はなくなってもやむを得ない、といわんばかりの姿勢を示す点で首尾一貫しており、いうことがわかりやすい。
それらの姿勢は、そもそも中国は 「反日」 だ、1964年の東京オリンピック開催にも反対した、とするような理屈あるいは感情が根にある。
産経の 「主張」 に熱心に賛意を表明するネットのやりとりは、こういうものがとても多い。
筆者の立場はどうか。北京、東京に限らず、スポーツ催事としての五輪そのものに興味 ・ 関心がほとんどないのが、正直なところだ。
だから、早い話が、日本の2016年・東京五輪の開催など、世界の先進国・巨大都市には珍しい、
銀座のような盛り場に隣接した魅力的な市場=築地を移転させるとする馬鹿げた計画が前提条件となっているので、なんの迷いもなく反対としかいいようがない。
あのロケーションにある築地を永遠に失うことの価値を知らない、あるいは知っていて無視する知事は、とんでもない人物だ。
かつて築地を訪れたことのある外国人はみな、その喪失を惜しみ、移転に反対するだろう。
北京にしても同じだ。一度もいったことはないが、老舎の小説、『四世同堂』、『駱駝祥子』 で読み、一度は訪れてみたいと思っていた古都・北京の独特の居住街区、
胡同 (フートン) がオリンピックの突貫工事の煽りでどんどん破壊されていると、中国の知人から聞く。
1964年オリンピック前の土木工事だらけの東京のことを思い出し、中国も馬鹿なことをするものだ、と思う。
しかし、アジアの後進国、そのころの日本にしても、1988年ソウル・オリンピック前の韓国にしても、五輪開催をきっかけに欧米型の都市開発を進め、
ある種の近代化を達成してきたのだから、中国の場合もしょうがないか、ぐらいに考えていたのが北京五輪に対する筆者のぼんやりした理解だった。
だが、北京五輪についてはチベット問題が絡んできた。これには当惑した。
チベットの僧 ・ 住民と中国側軍警との摩擦 ・ 紛争が首都 ・ ラサで生じたとき、
現地からの報道は最初、新華社や自国政府を情報源とする中国のテレビ局によるものばかりが多く、チベット僧・住民の側が暴徒化し、
警官隊や中国人商店などを襲った─―中国軍警は発砲していない、とする 「暴動」 を印象づけるものが多かったが、信ずる気になれなかった。
いまは中国側情報源も、一部軍警が発砲したことを認めており、その他の情報も総合すれば、当初比較的平穏だった僧のデモに警察が過剰規制をかけ、
住民まで激高、デモに加わり、これに対して規制側には軍も参加、両者の予想を超えて騒乱が拡大していき、
収拾のつかない事態に立ち至ってしまったのではないか、と想像される。
もちろんその背景には、チベットに対する中国政府の性急な集権化、チベット民族からみた漢化があり、
それが民族自治の否定、人権 ・ 文化抑圧、政治的弾圧と受け止められてしまう事情があった、といわなければならないようだ。
しかし、北京五輪を成功させなければとする焦りが先に立ち、また、ヘタに自ら非を認めると、
世界中からチベット弾圧 ・ 人権抑圧反対の大きな批判を招き寄せることになるのではないかとおそれ、
内にあっては党・政府批判を抑え込もうとする力をさらに強め、外に向かっては、反中国勢力のいわれなき中傷や非難に反撃する、とする姿勢を鮮明にし、
ますます引っ込みがつかなくなっているのが、いまの中国の姿ではないか。
筆者の当惑とは、そういうところにロンドンの市民的人権派がチベット支援 ・ 中国批判の過激な動きを強めていることに由来するものだ。
4月7日 (いずれも現地) になると、パリでも同じような光景が出現、ここではドラノエ市長が、市庁舎の壁に人権擁護を訴える横断幕まで掲げた。
さらにサンフランシスコでは、金門橋によじ登った活動家が 「一つの世界 一つの夢」 「チベットに自由を」 のスローガンを掲げ、7人が逮捕された。
彼ら市民は、聖火リレー妨害行動で自国の官憲から暴力を交えた厳しい規制を被り、多数が逮捕されている。
その行動は、中国を批判するだけでなく、中国に対して妥協的な自国政府への批判も籠めているものであることは、容易に理解できる。
いや中国に対しても、政府には批判の矛先は向けるが、市民にはチベット支援行動への参加と連帯を呼びかける意図はあるのだろう。
だが、そうした呼びかけを受け取れる市民なるものが中国に果たしてどれだけ存在するのかが、筆者にはわからないのだ。
むしろ、新疆ウイグル自治区の定住トルコ系民族などイスラム教を信ずる民族などが、そうしたメッセージをせっかちに受け止め、
自分たちもチベット民族と同じように世界中の市民の同情と共感を集められるかもしれないと考え、同様の行動に出はしないかと、冷や冷やする。
もしそうなったら、結果的に欧米市民派はミスリードを犯すことになるとさえ感ずる。
そもそも中国人の目にイギリスはどんな風に映るか。アヘン戦争のあと、1842年に香港島を永久割譲させ、中国に真っ先に植民地をつくったのはイギリスだ。
その完全返還は1997年、つい最近のことだ。中国の国民には、自国にそういう支配を及ぼした国の人々の、
ようやく五輪ができるまでになった中国に対する妨害だと、まずみえてしまうだろう。
フランスだって、中国が宗主権を保持していたベトナムに対する侵略者 ・ 植民地支配者だった。
また、アメリカも門戸開放を叫び、中国の植民地化に参加した点では例外でなかった。
朝鮮戦争ではたたかった相手だ! 半植民地時代の中国ではこれらどの国の人間も、上海の外国人租界では主人顔で振る舞い、中国人を見下してきた。
それらの国は全部、世界最先端の民主主義国であり、国民は市民的平等をすでに享受していた。
しかし、これらの国は同時に、海外の遅れた国に対しては帝国主義を及ぼすことに躊躇せず、「内には民主、外には帝国」 のダブル・スタンダードを遺憾なく発揮してきた。
確かに第2次大戦後は、そうしたことはできなくなった。
だが、これらの国々の市民が、そのような矛盾を完全に克服できたのか─―人権抑圧の傾向を強く残す国を批判する際、
当該国の市民も納得させられる説得的な批判ができるまでになったのかというと、まだまだそこまではいってないのが実情ではないか、と思えてならない。
しかも、そうした欧米市民の迂闊な行動は、中国内部の市民的改革派の立場を強めるどころか、弱めるマイナスさえ伴うことがある。
なぜならば、中国内の民主派 ・ 改革派が欧米の中国批判派市民の過激な動きと結び合おうとすれば、広範な国民の支持は得られず、孤立に追い込まれ、
容易に政府の弾圧の標的とされてしまうからだ。
そしてまた、厄介なことに、これら欧米諸国では、政府もまた自国人権派市民に迎合し、政治的支持を維持する必要があり、
大統領 ・ 首相が、オリンピック開催には反対しないが、開会式には参加しないなど、いいだしている。
人権派市民は国内的にはこれを成功と受け止め、行動をいっそう拡大、激化させようとする気配がある。
すると中国の官民あげての反発はいっそう募り、中国内で民主化を深めようとする人々の政治的環境はますます厳しいものとなっていきかねない。
この悪循環に巻き込まれた国内外のチベット人が身を置く状況も悪化し、中国政府や滞在国政府から与えられる処遇はより過酷なものとされていくおそれもある。
こんな馬鹿なことが生じるのは、オリンピックというと、それを国家の権威や面子の行方に結びつけてしか考えることができない各国政府の姿勢、態度に、
根本的な原因があるといわざるを得ない。この点は、欧米各国政府も、中国政府も基本的に変わりはない。
また、欧米の人権派市民も、これら政府に批判的であるようにみえても、その行動はただ機械的、反射的に取られるのみのもので、
裏返しの国家意識は脱却できておらず、無意識ではあれ、民主国家の国民の優越感を無邪気にむき出しているだけだ。
これでは、民主化の遅れた、抑圧的な政府をいただく国の市民には、ついていけない。
わずかな報道にしか接することができないので、誤解に陥っているのではないかとおそれるが、
「国境なき記者団」 のロベール・メナール事務局長がギリシャの聖火採火式の会場に、5個の手錠で五輪をかたどった旗を掲げ、
突如抗議のため登場したのには驚くとともに、彼もまた、多くの欧米人権派市民と同程度の問題意識しかもてないのかと、少々がっかりした。
彼とは2005年、月刊 『世界』 で対談したことがあるが、彼の説くところによれば、「国境なき記者団」 の目標は、国家に所属せず、
国家のために働くのではないジャーナリストの世界の実現に置かれていたはずだ。
だが、そもそもギリシャでの採火式、そこから出発する聖火リレーというアイデアは、1936年、ベルリン ・ オリンピックを国家の威信発揚と国民統合、
国際的なドイツの国力宣伝にフルに利用したヒトラーの政府によって発案され、開始されたものだ。
映画 『オリンピア』 (第1部 民族の祭典、第2部 美の祭典) を監督したレニ・リーフェンシュタールの思いつきだが、映画中の聖火リレーが世界に感銘を与え、
これがその後のオリンピックでも受け継がれていくことになった。そのことは、オリンピックを国家の呪縛から解放するより、
いっそう強くそれに結びつける役割を果たしてきたのではないか。
メナール事務局長にはそんなことに固執することの馬鹿馬鹿しさをこそ、世界中に明らかにしてもらいたい。
そのときヒトラーは、すでにスペイン人民戦争にコミット、公然とフランコ政府に荷担していたのだ。
1940年に予定されていた東京でのオリンピックは、世界中から非難されるようになっていた日中戦争の行き詰まりで、日本自身がそれどころではなくなり、
返上ということになり、ヘルシンキが代わって開催地になったが、欧州では事実上、第2次大戦が勃発、開催そのものが中止となった。
戦後、48年にロンドン大会でオリンピックが復活したが、その後しばらくは国家色は薄く、64年・東京オリンピックもそのような雰囲気のなかで開かれたのは幸運だった。
筆者は東京オリンピックにも実は大した関心はなかったが、テレビに映った閉会式は感動的だった。
運営の手違いで、選手の入場が国別選手団の順序だった行進、所定の集合場所での整列というわけにいかず、各国選手は入り乱れて三々五々会場に入ってきた。
ようやく顔なじみになったもの、まだ知らぬもの同士、それぞれ思い思いに言葉を交わし、談笑しながら、彼らはレース ・ コースを周回、
さらに国名や選手名を叫んで手を振る観衆に、グランドからも手を振って返し、応えた。
グランドの真ん中に集まっても、各国の選手、若者たちはしばらく、お互いにバッジや小旗を交換したり、手を取り合い、肩を組んだりして、別れを惜しんだ。
最後は、電光掲示板だけに 「ローマでまた会おう」 という文字が浮き上がった、照明の落とされたほの暗い会場を、再開を約束しながら彼らは去っていった。
これが好評で、その後のオリンピック閉会式は、この東京方式が踏襲され、今日までつづいている。
しかしその後、国家の影は大きく、また重くオリンピックにのしかかり、ミュンヘン大会ではパレスチナ・ゲリラによるイスラエル選手団襲撃 (72年)、
モスクワ大会ではソ連のアフガン侵入に反対する国の参加ボイコット (80年)、ロサンゼルス大会ではその報復と解される一部の国の不参加、
対抗的なアメリカ選手による星条旗の多用 (84年)、などの事件や動きが生じた。
日本も獲得メタルの数など、国としての成果、威信をしだいに気にするようになり、メディアもそうした話題を追い求めてオリンピックを報じる傾向を強めてきたところがある。
いまの中国のやり方がいいわけはない。だが、オリンピックはオリンピック、チベット問題はチベット問題と切り離し、
どちらをも冷静に報じ、論じていくことが重要になっているように思える。
日本のメディアは、かつて自分たちが歩いてきた道も顧みて、世界にそうした冷静さを取り戻させる役割を、進んで果たしていくべきではないか、と考える。
2008.4.9/4.13 一部訂正
「8人殺傷事件」と「ホーム突き落とし事件」の警告
死刑制度と裁判員制度はこのままでいいのか
3月23日、茨城・土浦市のJR荒川沖駅とその近くで、通行人など8人が次々に刃物で襲われる殺傷事件が発生した。
24歳の加害者の男はその後、近くの交番に出頭、犯行を認めたが、彼は別の殺人事件で指名手配されていた容疑者だった。
この動機不明の8人殺傷事件は新聞・テレビで大きく報道され、得体の知れぬ恐怖を人々に感じさせたが、その衝撃の余波が消えない25日、
今度はJR岡山駅で18歳の少年が、夜遅いホームで電車を待っている帰宅途中の男性をいきなり背後ろから襲って、進入中の電車の前に突き落とす事件が起こった。
線路内で電車にはねられた男性は、収容先の病院でまもなく死亡した。少年は家出のようにして大阪からきたばかりで、男性とはまったく面識はなかった。
警察は少年を殺人容疑で取り調べることになったが、彼が 「誰でもよかった。最初は人を刺してやろうと思っていた」 と語っていたことが報じられると、
この事件の不可解さもまた、底知れない不気味さを全国に広げていった。
二つの事件に挟まったかたちで26日の各紙朝刊は、最高裁がいわゆる袴田事件について、72歳になった元ボクサー、袴田巌死刑囚の特別抗告を棄却、
再審請求を棄却したニュースを報じた。
この事件は1966年6月、静岡県の味噌会社専務の一家4人を、住み込み従業員だった袴田死刑囚が殺害、
金を奪ったとされた強盗殺人事件で、彼は逮捕後、取り調べ段階では自白したが、公判開始後は犯行を否認した。
68年静岡地裁で死刑判決を受け、その後控訴を繰り返し、80年に最高裁で刑が確定した。
だが、弁護団はその後も新証拠の発見に努め、それらを踏まえて再審を請求、静岡地裁、東京高裁では棄却されたが、2004年9月には最高裁に特別抗告を行い、
再審の開始を求めていた。だが、最高裁は新証拠を認めず、抗告棄却の決定を3月24日付で下したのだ。
事件の発生から42年、再審請求からでも27年、袴田死刑囚は40年以上も東京拘置所に収監され、長年の拘束生活から拘禁症状が出て、
面会もできない状況にあるとも伝えられる。
この3つのニュースに接し、ある種いいようのない不安に襲われた。
ひとつは、人も家族も、地域も社会も、そして国も、はっきりした理由、原因もわからないまま、
果てしなく崩れていくのではないか、と感じられる不安だ。どうしたらいいのか。
犯罪を厳しく取り締まり、犯罪者を容赦なく罰し、見せしめにすれば、崩壊は食い止められるのだろうか。いや、それではダメなのではないか、という不安も重なる。
山口 ・ 光市母子殺害事件以後、被害者の人権の重視、被害感情の尊重が叫ばれるようになった。
そうした風潮の広がりのなか、土浦 ・ 8人殺傷事件の粗暴な加害者は、別件の殺人の容疑者でもあり、裁判で極刑に処すべしとする判決が出ることも考えられる。
また、岡山駅突き落とし事件の加害少年の、凶悪で奇矯な犯行についても、彼が未成年であれ、遠慮することはない、成人並みに厳しく処罰せよ、
とする声が澎湃として起こってくる可能性がある。
しかし、それらの見せしめによって、類似の犯行を防止する効果があがるのだろうか。そこのところは大いに疑問だ。
むしろ逆効果になるおそれさえあるのではないか、と思う。
そしてもうひとつの不安が、死刑制度のあり方だ。
昨年8月、就任した鳩山邦夫法相は、死刑執行命令書に大臣署名を行わず、
自動的に刑が執行できる、なにか合理的な方法はないかと発言、批判を浴びたが、その後これまでに6人の死刑を執行、
法相としては異例ともいうべき死刑推進者ぶりを示している。
ならばいま、特別抗告を棄却され、再審の道を絶たれたかにみえる、心を病んだ袴田死刑囚に対する執行命令書に、法相はなにもためらわずに署名できるのだろうか。
袴田死刑囚の実姉は、第2次再審の追求を口にしている。多くの支援者も最高裁の棄却決定に納得していない。冤罪の可能性が否定しきれない。
しかし、土浦 ・ 8人殺傷事件の場合は、加害者本人の自供がそもそもあり、犯行状況も明白で、証人 ・ 証拠に不足はない。
これなら無辜の被害者や、被害者家族の無念を思い、それを癒すためにも、また類似犯罪の再発を防ぐためにも、死刑制度にそれなりの役割を期待することができる、
と主張する声が聞こえてきそうだ。だが、死刑制度がある限り、袴田死刑囚のような存在が生まれてこざるを得ないのも事実である。
この堂々巡りをどこかでうまく断ち切り、合理的に死刑制度を確立するのは、至難の技だ。
裁判員制度の実施が始まる。死刑制度存続のまま、被害者尊重、裁判厳罰化の風潮の強まるなかでこの制度が動き出せば、
裁判員は死刑制度の励行に動員されることになるおそれがある。
2001年8月、大阪・池田市の大阪教育大附属池田小学校に暴漢が侵入、学童8名を刺殺、教員・学童多数に重軽傷を負わす事件が発生した。
犯行者、職業不定の宅間守 (37歳) は、「エリート・コースを歩く連中に恨みを晴らしたかった」 と述べたが、これも動機不明であり、
事件が社会に及ぼした衝撃は大きかった。だが、事件もさることながら、03年8月、大阪地裁が死刑の判決を下すと、宅間被告が控訴を取り下げ、
翌年9月には早々と処刑を受けたことのほうが、私にはショックが大きかった。
犯人は処罰された。だが、彼がなんであれほど残酷で、無謀な犯罪を行ったかの理由、事情は、まともに解明されずに終わったのだ。
そして、宅間処刑の2か月後、奈良の新聞販売店従業員、小林薫 (36歳) が小学校の女児を誘拐、いたずらしたあと殺し、遺体を遺棄、捕まった。
06年9月の奈良地裁による死刑判決に対して、小林被告も控訴を取り下げ、即座の処刑を希望した。
弁護人が控訴取り下げ無効の手続きを大阪高裁に対して取り、小林被告は拘置されたままだが、暗い成育履歴をもつ彼が無惨な犯行に及んだ経緯も、
解明が進んだとはいえない。
土浦 ・ 8人殺傷の犯行者、24歳の青年の孤独な生活や、岡山駅突き落とし事件の少年が、大学進学の希望を絶たれ、
「誰か殺せば刑務所に入れてもらえるだろう」 と思い、犯行に走ったことなどを知ると、宅間死刑囚、小林被告の不幸や悲劇が日本のいたるところ、
若い世代にまで広がるようになったのではないかと、不気味さがいっそう募る。
これらの動機不明の犯罪は、犯行者自身にも理由や原因が正確にはわからないまま、起こっているのが実情ではないか。
ただ共通していえるのは、ある日、突如犯行に至るまでの長い年月、彼らが、十分な社会的参加の機会に恵まれず、むしろ彼らにしてみれば、
納得のいかないまま、ある種の外部的な力によって自分が社会的に排除されていると感じざるを得ない境遇に置かれてつづけてきた、と推測できることだ。
近代司法制度としての裁判は本来、犯罪個々について、そうした具体的な事情を余すところなく解明、犯罪予防について有益な教訓を得る責務があるのではないか。
1人の犯罪者と1個の犯罪事実との対応関係のなかで量刑を定め、懲罰を科すだけで終わって、いいものであるわけがない。
そのような裁判が死刑を繰り返すだけなら、最後の破壊行為で自己の存在を確認するために、
あるいは自分に不遇をもたらした相手もわからぬままのルサンチマンを晴らすために、凶悪な犯行も辞さないとするものは、死刑を、自己存在確認の最大の証明、
自覚的な非行に対する最高の褒賞と受け止め、それがある限り、かえって社会への盲目的な復讐に精出すことになりかねないのではないか、と恐れる。
それでは私たちは、死刑を選び取るものたちによって威嚇され、復讐され、加えて冤罪の恐怖にもさらされることになる。
イスラエルによって故郷を追われたパレスチナ難民の最後の抵抗手段は多くの場合、身を挺しての自爆攻撃だ。
イラク戦争で占領をつづけるアメリカ軍に対しても、親きょうだい、子どもを殺され、家を破壊された住民 ・ 難民の多くが、自爆攻撃でアメリカ軍に抵抗、復讐を試みる。
攻撃を受ける側はこれを自爆テロというが、テロは、巨大な破壊・殺傷力をもつ近代兵器による、イスラエル軍やアメリカ軍の侵略 ・ 攻撃のほうではないか。
現代日本の、死刑をいとわぬ理由なき殺人者、むしろそれを望む凶悪犯罪者の出現は、パレスチナやイラクの住民・難民の自爆攻撃を連想させる。
状況を構成する要因はまるで違う。しかし、失うものはもうなにもない──残るのは自分が舐めさせられた不公正や不遇に対する不同意の表明だけだとする、
深淵のような絶望が共通して認められる。
昭和9 (1934) 年、東京 ・ 蒲田区 (現大田区) に日蓮会殉教衆青年党という信仰集団が出現した。
日中戦争が本格化する時代のなか、時局に迎合せず、宗祖・日蓮の教えを忠実に実践するとする、戦闘的な集団だったため、警察の監視対象とされ、
指導者 ・ 幹部の逮捕 ・ 拷問などの弾圧を蒙った。彼らは屈せず、集会で 「死のう、死のう、死のう」 と叫んで敬礼を繰り返し、結束を固め、
37年には5人の青年が、国会 ・ 外務次官邸 ・ 皇居 ・ 警視庁 ・ 内務省の前で 「死のう」 と叫んで割腹自殺を試みた。「死のう団」 事件だ。
現代の若者の自己破壊につながる凶悪犯罪の続発は、集団的な行動ではないが、背景となる時代の相を映し出す点で、
共通するものがあるように思わせる。
新聞もテレビも、現代の凶悪な犯罪事件を、犯行者の悪辣さや異常性、被害者やその家族の悲劇などを中心に報じるだけでなく、
社会の病としての犯罪の特徴や問題点を明らかにすることにもっと重点を置き、報じてくれないものかと、つくづく思う。
とくに裁判報道に関していえば、裁判がそうした本来の役割、犯罪の問題点の解明にきちんと努めているかどうかに着目、大いに批判的に報じてもらいたい。
裁判員制度の下の裁判では、裁判員を国家の側に、人質に取られて、取材・報道の面で裁判批判がやりにくくなるおそれがある。
そんななか、厳罰主義、死刑制度維持は当然という国側のリードのなかで裁判が進められ、裁判員がそれに翼賛する役回りを果たさせられることとなったら、
日本の 「自爆攻撃」 を志すもの、現代の 「死のう団」 を、いたずらに挑発し、また、巻き添えで冤罪者を生む危険も余計に招き、ろくなことにはならない。
メディアは社会の理性化、沈静化に全力を挙げなければならない。21世紀に入って、EUは欧州人権条約に基づいて法的に死刑制度を廃した。
隣国=韓国は1997年における執行を最後に10年以上、死刑を行っておらず、国際的に死刑制度撤廃国とみなされるに至っている。
日本は何年もの間、国連規約人権委員会から代用監獄の廃止、死刑制度の見直しを促されているのに、まともな検討をしたことがない。
鳩山法相の下、かえって死刑制度は粛々と強化される感じだ。言論機関は、こういう事態を黙っていみているだけでいいのだろうか。
テレビ朝日が3月19日に放送したシリーズ ・ ドラマ、「相棒」 (直近シリーズの最終回) を、たまたま見た。
25年前に強盗殺人で死刑宣告を受け、最高裁での刑の確定後、20年も獄中にいる死刑囚が病死する。この囚人は冤罪の可能性があった。
年老いた父親が再審実現のため、奔走していた。捜査を担当した刑事も検察官も、有罪に自信がなく、ずっと苦悩を引きずっていた。
とくに地裁で事件を受け持った左陪席 (任官の新しいものの席) だった裁判官の苦悩は深かった。
彼は無罪を主張したが、裁判長と右陪席の2人の判断で有罪とされたからだ。判決文は新任の彼が書かされた。
さらに、法務大臣時代、この死刑囚の死刑執行書に署名できなかった老女がカトリックの修道女になっていたが、
彼女は、歴代法相がこの死刑囚の執行命令書には署名しなくてもいいと、内密で申し送りしていたのを知っていた。
また、彼女が師と仰ぐ神父は、教誨師としてこの囚人に、従容として主のもとにゆきなさいと促したことがあり、後悔に苛まれいる。
この死刑囚の獄死後、真犯人が時効後でもあり、隠していた盗品を動かそうとしたため、「相棒」 の主人公、警視庁特命係のふたりに捕まるというのが筋だが、
彼らの捜査の進展とともに、上記のような苦悩を抱えた関係者の姿が明らかになり、冤罪のものを獄死させた国家の罪も明らかにされていく。
この放送後に袴田死刑囚の特別抗告棄却が報道されるが、読売 (3月26日朝刊) は、袴田事件1審の裁判官だった橋本典道氏が昨年3月、
「自分は無罪の心証だったが・・・2対1で死刑が決まった」 と告白、法曹関係者のあいだに一石を投じ、波紋を広げていたことを報じた。
「相棒」 の脚本家はこの事実を知っていたのではないか。
ミステリー仕立てで興味を引きながらも、観るものに、このドラマの本当の主人公は死刑制度であり、脇役は裁判員制度であることを、理解させる秀作だった。
エンタテインメントでも、死刑制度がむしろ司法のかたちを歪め、人間性や文明のあり方に深刻な影響を及ぼす危険があることを、示せるのだ。
言論報道には、もっと大きなことができるはずだ。
2008.4.1
日本は新しい鎖国時代に入るのか
ネグリの「入国拒否」 に関心ないメディア
朝日・3月20日朝刊の第3社会面に 「ネグリ氏来日延期」 の見出しをみて驚いたが、記事を読んで、ネグリの側の都合による 「延期」 などではなく、
事実上、日本政府による 「拒否」 であることがわかり、腹が立った。そのやり方は巧妙かつ悪質だ。
イタリアの哲学者、アントニオ・ネグリが3月に訪日、京大・東大・芸大で講演するほか、日本の研究者や、市民・労働運動の活動家たちとも討論、
交流するという話は、昨年末ぐらいから各方面で、広く知られていた。
戦後間もないころから、政府の国際交流事業にも協力してきた、財団法人国際文化会館の招待で実現が図られた計画なので、
緊密な関係にある外務省・文化庁など政府機関も、早い段階で彼の訪日の話は知っていたはずだ。
ビザが必要だということなら、もっと早く、間に合うように彼に所要の手続きを取るよう、国際文化会館に促すこともできたはずだ。
しかし、朝日の報道によれば、同会館が外務省から、7月の洞爺湖サミットがあるため入国管理が厳しくなっており、ネグリにビザ申請をさせたほうがいい、
とする説明を受けたのは、ようやく3月17日だった。ネグリは在住するパリの日本大使館に18日、ビザ申請をしたが、
発給待ちの扱いを被ったうえに、入国を拒否される可能性を示唆され、19日、出発を断念、来日を延期したというのが実情だ。
日本到着が20日、国際文化会館のレセプションが21日。これでは断念せざるを得ない。
日本と、ネグリの母国・イタリアおよび居住国・フランスとは、商用、会議、観光、親族・知人訪問等を目的とする、
3か月以内の短期滞在旅行者にはビザを免除する相互協定を結んでいる。ビザの必要など思ってもみなかったネグリも、日本側の関係者も、不意打ちを食らったわけだ。
ネグリはなぜ日本政府から嫌われたか。それは、ネオリベ・グローバリズムに反対する市民たちへの、彼の大きな影響力に対する嫌悪であろう。
彼は2000年、アメリカ人の文学研究者、マイケル・ハートとの、大部の共著書、『帝国』 を刊行 (ハーバード大学出版会)、世界中に大きな衝撃を与えた。
第1次湾岸戦争・コソボ紛争を経、やがて 「9・11」 にいたる世界史的な変動のなかで、「帝国」 はもはや、覇権主義的な一国の支配力や、
その地理的な支配空間の広がりによって捉えられるものではなくなり、国家の支配を脱し、国境を超えたグローバリズムが 「帝国」 を体現することになった、
とする歴史観と政治的展望を示したことが、世界中の研究者や市民の幅広い支持を受けたからだ。
その支持は、「帝国」 に対してより、これに対抗できる勢力として提示された 「マルチチュード」 という考え方のほうに、より大きく向けられることになった、
といえるかもしれない。すでに1999年、シアトルのWTO (世界貿易機関) 総会に対する市民の “蜂起” が起こっており、
その勢いは2001年、ブラジル・ポルトアレグレの第1回世界社会フォーラム、2003年のイラク戦争開戦反対へと連なっていく。
世界中の市民の合流が始まりだしていたのだ。世界いたるところの、多様なかたちで公正な社会参加を求める市民勢力、とでもいうべき 「マルチチュード」 は、
すでにかたちをなしつつあった。日本でも 『帝国』 は、イラク戦争開始の2003年に翻訳が刊行され、注目を集めた。
好かないネグリが日本にくるからといって、なぜこの時期こさせないよう、政府は企んだのか。
やはり7月の洞爺湖サミットを安穏のうちに終えたい─―マスコミのうえで日本政府のホストぶりがかっこうよく報じられ、絵になる場面も華やかに映され、
めでたしめでたしで終わりたい、ということなのだろう。邪魔者を排除するかっこうの口実もある。
ネグリは1979年、イタリアの反政府組織 「赤い旅団」 によるモロ首相殺害事件への関与を疑われ、逮捕されたが、裁判ではこの件は無罪となった。
だが、過激な政治運動に影響を及ぼした言論活動の責任が問われ、有罪となった。
裁判中、イタリア議会に立候補し、獄中にいながら当選、議員の不逮捕特権で出獄中の1983年、フランスに亡命した。
その後、97年に自発的に帰国、国家転覆罪で禁固刑を受け、2003年まで刑に服した。
日本の入管法は、国内外を問わず法律違反で1年以上の懲役・禁固の刑を受けた外国人の入国を禁じている。
ただし、政治犯はこの限りにあらずで、法務大臣の特別許可が受けられる。その場合はビザを申請させ、時間をかけていろいろ審査する。
政府は、ぎりぎりのタイミングでこの手を使ったのだ。こっちが拒否したのではない。相手が延期したのだ、ということにできる。
しかもこの顛末を新聞が報じれば、重要なサミットを迎え、テロリスト対策をしっかりやっているという印象を振りまくこともできる。
世界に対してこれほど恥さらしなことはない。『帝国』 のネグリはこの数年、世界のさまざまな国、とくに影響力のある国をいくつも訪れ、
研究者、ジャーナリスト、労働者・市民と、自由闊達な交流を深めてきている。彼のこうした往来や行動を妨げるなどした国は、どこもない。
それを日本政府も知らないはずはない。初めのうち、日本政府の無知なるが故の妨害かと思ったが、高名な彼をこのような目に遭わせることの効果、
利益を考え、ネグリ入国拒否を仕組んだのが日本政府の真意ではないかと、私はだんだん考えるようになった。
怪しいものはだれも入れない─―高名な学者、ネグリさえ入れなかったのだから、騒ぎを起こすだけの名の知れないチンピラ市民活動家など、絶対に入れない、
とする首尾一貫した姿勢を示すことに、説得力が生じるからだ。
現に3月6日、成田では入国審査官が、洞爺湖サミットに批判的なアジア女性委員会の代表で、
サミット前の国際会議に出席するため来日した韓国女性の入国を、拒否している。
また、本欄前号で既報のとおり、3月10日、小樽港に入港のロシアの貨物船で着いたドイツの農学博士、マルティン・クライメルさんが入国を拒否され、
14日、ロシアに送り返された。日独間には滞在90日間の旅行者のビザ免除協定がある。
所持金の少なさが入国拒否の理由の一つになっているが、彼は国際的に有効なクレジット・カードを所有していた。
彼を反グローバリズムの会合に招いた、身元のしっかりしている日本の受け入れ団体があり、知人もいる。
なぜ彼の入国を阻まれなければいけないかの理由は、彼だからではない。
彼の思想が好ましくないからなのだ (この項は、「G8サミットを問う連絡会」 ホームページを参照)。
ネグリ入国 「拒否」 は、私たちの身の上に直接は関係ないことのようにみえるが、けっしてそうではない。
彼の入国が阻まれ、自由な議論と市民的連帯を求めてさまざまな人が日本に来ようとしても、政府の恣意によってそれらが好き勝手に妨害されるようになったら、
この国のなかで私たち自身が牢獄に隔離され、世界から遮断されることになる。
反共・国内治安法=マッカラン・スミス法を楯にした、米国政府の一方的な判断で、戦後しばらく、日本人がアメリカへの自由な入国を拒否されていたことを思い出す。
今度は日本が、そういうかつてのアメリカみたいな国になったほうが、統治しやすいというのが、政府の本音なのではないか。
これほど国民が舐められるのは、一つにはメディアがこうした問題に鋭く反応しないからではないか、と思われてならない。
ネグリ来日を報じたのは朝日 (3月13日朝刊)、毎日 (同夕刊) だけだったようだ。来日 「延期」 は朝日につづき、毎日、共同、読売、産経も伝えたが、
読売の短信には、犯罪容疑者とされた彼の経歴が、意味ありげに記されていた。
また、ドイツ人、マルティン・クライメルさんのケースの各紙の扱いは、本欄前号で伝えたが、
さすが地元紙、北海道新聞は14日夕刊と15日朝刊で報道、問題を投げかけていた。
しかし新聞は、サミットがあるからこそ、心ある市民が世界中から日本に来ようとすることの意義をもっと重視し、そこに自由な議論の場を確保しようと、
大きな声で求めていくべきではないかと思う。
1996年3月、東大社会情報研究所 (現在の情報学環) が英国オープン・ユニバーシティのスチュアート・ホール教授と
同シティ・ユニバーシティのアリ・ラタンシー教授を招き、カルチュラル・スタディズの国際学術共同研究会を東京で開いたが、
そのあと私は、勤務校の立命館大学に両教授を招き、同様の学術講演会を開催、両教授と近畿一円の研究者との討議の場をつくったことがある。
両教授の招聘は、英国の政府資金によって設置され、活動する国際文化交流機関、ブリティッシュ・カウンシルの全面的な援助に基づいて実現したものだった。
マルクス主義の影響を深く受け、体制批判をも大きな特徴とするカルチュラル・スタディズと呼ばれる学派を発展させたホール教授とラタンシー教授に対して、
政府機関というべきブリティッシュ・カウンシルが後ろ盾となり、海外派遣の面倒をみ、京都滞在中にも細かく世話を焼くところをみ、
私はやや意外の感を催し、そのことをホール教授に、宿に向かうタクシーのなかで口にした。
ホール教授がゆったりした頬笑みを浮かべ、政府には思想、表現、学問研究の自由を保障する義務があるのだから、当然じゃないですか、と私にいった。
一本取られたな、と思った。また羨ましかった。私たちの国はそうはなっていない。
だが、京都で、東京で、ネグリを招いて話し合うことを計画した人たちも、挫けはしない。
朝日・毎日で予告された講演会等を、ネグリなしでも、というより、なぜネグリがいないのかをも問題にし、予定どおり開催することにしている。
市田良彦 (神戸大)、姜尚中 (東大)、木幡良枝 (東京芸大)の各氏が元気に抱負を語っている。以下のサイトで3氏のメッセージをぜひ確かめていただきたい。
ネグリ来日中止 (イベントは予定通り)
2008.3.24
報道・表現の自由追求にもっと緊張と迫力を
共感できる毎日の 「ニュース」 づくり
沖縄とイージス艦を覆い隠した観の 「ロス疑惑」、道路財源・暫定税率と日銀総裁人事で止まった国会。
どの新聞、テレビも、週刊誌も、スポーツの話題、タレントのゴシップ、天皇家の噂、ヒラリーかオバマかなどを騒ぎ立てるほかは、いまなにが大事な問題かを、
国民にちゃんと考えさせようとする気がないみたいだ。だが、現実の事態は、そんなことではすまないところにきているのではないか。
メディアは、こんな状況に安住、商売の勝ち負けにかまけているだけだと、手にしているはずの報道・表現の自由を使う術さえ忘れ、
いざというとき、不正や悪とたたかえないのではないか、と心配だ。
こんなとき、最近の毎日新聞がよく頑張っており、ニュースのとらえ方に新機軸を開きつつあるのが、注目される。
ニュースを一過性のままに放置せず、かつて大きく報じられた事件のその後や、後になってみえることとなった当初のニュースの真実を、
あらためてニュースにするなどのことが、試みられている。
そのなかでまず注目されるのが、ブッシュ大統領のイラク攻撃5周年を迎え、米軍占領下のバグダッドから、直接取材による報道を開始したことだ。
3年半ぶりに現地に入った小倉孝保記者は3月11・12日、米軍施設や政府機関が集まる、安全な 「グリーンゾーン」 を出、
レッドゾーンと呼ばれる危険な一般市街地に入り、町の状況、普通の人々の様子を第1報として伝え、
3月16日の朝刊に、連載企画 「戦争のつめ跡 5年後のイラク」 の第1回、「『防護壁』 が囲むバグダッド 敵意の海、浮かぶ要塞」 として掲載した。
翌17日には連載第2回が載ったほか、大型社説 「イラク開戦5年 不安定さを増した世界 米軍の早期撤退がカギに」 で、
ブッシュ大統領に戦争続行を翻意するよう促すとともに、日本にも 「出口戦略」 の検討を求めた。
バグダッド現地報告は、英インディペンデント紙のパトリック・コバーン記者の 『イラク占領 戦争と抵抗』 (緑風出版) という優れたルポがあるが、
それを裏書きするようなルポを日本人記者が、あらためて現地から送ってくることの意義は大きい。それがあるからこそ、社説も大きな説得力をもつこととなった。
毎日の頑張りはこのほか、3月6日朝刊・6面の企画報道 「REPOルポ」 (外信対抗面企画) の 「ハリケーン禍2年半 ニューオーリンズ ため息の高架下
家屋修復支援制度支給待ちが9万人」 にもうかがえる。写真ともどもの現地直接取材で、アメリカ社会の歪みを、痛切に告発する。
9日朝刊は3面の企画報道 「クローズアップ2008 沖縄米兵暴行から1カ月 くすぶる地位協定 『再発防止の壁』 改定要求の声 進む再編 減らぬ負担」 が、
終わらない沖縄問題を強く印象づける。
また、同日の社会面記事 「長井さん銃撃 最期の写真4枚 米カメラマン撮影 レンズは兵士を追い続けた」 も、迫力があった。
A・ラティーフさんの撮った写真4枚を組構成で掲載、長井健司さんが、最期までカメラを相手に向けつづける姿を克明に伝え、
報道者の仕事もたたかいであることを理解させた。
さらに11日夕刊の 「特集ワイド」 は、先の市長選で落選した山口・岩国市の井原勝介前市長 のロング・インタビュー。
市長交代で一件落着どころか、在日米軍再編がますます地方・市民を苦しめるおそれがある問題点を、浮かび上がらせていた。
毎日の迫力は、重要と思われる問題へのこだわりを深めていくことから生まれている。突発的に起こった事件の見かけの大きさに振り回されるだけではすまさない。
この点、最近の朝日は、なにか迫力がない。なにが重要な問題かとする頑固なこだわりが、あらゆる面でだんだん薄れていく感じだ。
だが、さすが朝日と思わせるところも、まだまだある。
すでに一部の週刊誌が制作者側を非難する口調で騒いでいたドキュメンタリー映画、
『靖国 YASUKUNI』 問題の報道だ。この作品の監督は中国人の李纓さん。
この作品は、文化庁の指導下にある独立行政法人の芸術文化振興基金からの助成基金を受けており、靖国神社を訪れる様々な人々の姿を97年から記録する労作で、
2月のベルリン映画祭にも招待されていた。ところが、若手国会議員の勉強会 「伝統と創造の会」 の会長、稲田朋美衆院議員 (自民) は、
反日の疑いのある作品に国がカネを出すのは問題だ―実態を調べるため、自分たちに一般公開前にみせろと、試写を要求したのだ。
制作者側は文化庁とも相談、一部の議員だけにみせるのは事実上の検閲になるが、全議員参加なら応じられるとし、3月12日に試写会が開かれることとなった。
朝日はその顛末を3月9日朝刊で報じた。
さらに朝日は、13日朝刊で試写会の模様についても追跡報道を行い、大方の議員は、多面的な解釈ができる作品だった、と感想を述べているにもかかわらず、
依然として稲田議員は、「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージを感じた」 と語り、
助成金にふさわしい中立的な作品であるかどうかについて疑問を呈し、その適切性について平和靖国議連との合同勉強会を開いて検討していく、
とする態度を保っていることを報じた。
また、14日夕刊で、試写会案内状に 「協力 文化庁とあるのを文科相がとがめ、映画を推薦したかのような誤解を与えたと、
文化庁を厳重注意したことも報じた。
問題は、ことが報道・表現の自由の根幹に関わる事件であるにもかかわらず、他のメディアがなにも報じなかった点だ。
辛うじて12日、TBSのニュース23が、比較的詳しく、当日の試写会の模様を報じ、映画監督の森達也さんのコメントもしっかり伝えたので、ほっとした。
稲田議員らは、国のカネが絡むから、事前試写を求めるのは、広い意味での国政調査権の行使だと、自分たちの行動を正当化していた。
国会議員が表現の問題で国政調査権を振るうなど、絶対にすべきない─―特定機関による検閲よりよほど悪質だ。
表現には表現で応ずるのが筋だと、森さんは批判した。他の事案で意見が異なるにせよ、どのメディアも報道・表現の自由を守る点では、
こうした原則的な考え方を共有することができるのではないか。それができないとしたら、おかしな話だ。
だが、読売のこの間の姿勢をみると、そのおかしな話が、当てはまってしまいそうで、危ういかなという思いに襲われる。
3月14日、戦時中の最大の言論弾圧事件、「横浜事件」 の再審上告審の最高裁判決が出た。当時適用された治安維持法などが戦後に廃絶され、失効したので、
裁判そのものが法的に成り立たないので 「免訴」 にするというのだ。酷い話だ。原告 (戦時中、訴えられ、有罪とされた被告たち) は、
当時自分たちを裁いた法律そのままの下でも誤捜査・誤審があったのであり、有罪は不当だ、と訴えてきたのだ。
再審制という裁判制度本来のあり方からしたら、それに答えを出す義務があるのに、最高裁が形式的な法律論だけで逃げたのが、今回判決だといえる。
読売はいまや中央公論社の親会社だ。「横浜事件」 で最も大きな被害を被り、有為の人材を失ったのは、改造社と並んで中央公論社だった。
その名誉回復は、自社の切実な問題のはずだ。ところが、15日、朝日、毎日の社説が今回判決を正当に批判したのに、
読売の社説は 「最高裁判決から何を学ぶか」 と題したものの、「致し方のない結論だろう」 「(裁判で) 戦時下の言論弾圧の実態が明らかにされてきた」
「二度とそうした時代にしてはならない、という教訓が残された」 「横浜事件の教訓から学ぶものは多い」 とする生ぬるいものだった。
報道・表現の自由をなんのために使うかも、問題にされなければならない。
その点にもメディア側に不一致、狂いが生じれば、虐げられた民衆や正当な権利を行使できるはずの市民の側にメディアは立てず、
権力の手先となり果ててしまうおそれがある。
いま第1に気になるのが、3月14日、チベット・ラサで生じた 「暴動」 の報道だ。
死者も出たと伝えられる大規模な騒乱がなにをきっかけに起こったのかは、いまだに不明なままだ。
さらに、新華社・中国テレビ側と、ロイター・APなど外国通信側とでは、問題がチベット人住民らの暴力行為にあるのか、
中国政府側の軍・公安警察の襲撃・暴行にあるのか、の判断に影響を及ぼす情報・映像の内容的な方向性が、かなり異なる。
こういうとき、迂闊に 「暴動」 なる言葉を用いれば、チベット人住民が暴動を繰り広げ、中国政府側は過酷であっても、秩序回復に努める側だという構図に収まってしまう。
それで果たしていいのだろうか。朝日は15日朝刊以降、中立的には騒乱の語を用い、チベット人住民の側の行動については抗議行動、抗議デモなどの言葉を使っている。
これに対して他の新聞は、連日 「暴動」 の語をためらいなく使っているが、もっと朝日の慎重さを見習うべきではないか。
読売の14日夕刊に、やっぱり出たか、と思わせる記事が載った。札幌入国管理局が、小樽に入港したロシアの貨物船に乗船、
上陸しようとしたドイツ人男性 (37歳) を 「上陸条件不適合」 として上陸不許可・入国禁止とし、14日夕方、ロシアに送り返そうとしている、とするニュースだ。
滞在日程が不明、帰りのチケットをもたないなど、拒否理由がいろいろ付けられているが、要はサミットが近くある折から、面倒起こしそうなのは追い返せ、
と判断したのが実情のようだ。読売は記事の末尾に、「男性は14日午前、報道陣に対し 『サミットへの反抗が必要とされるところへはどこへでも行く。
…より良い労働環境や社会の実現のために話し合いたい』 と語った」 と記すが、全体的には怪しい奴の排除第1号とする扱いの感じだ。
ところが、この男性について共同通信はもっと早く、マーティン・クラマーさんと氏名まで付けて報道、
彼が15日の札幌市内で開かれるサミット反対集会に出席予定であったこと、13日以後、入管難民法に基づいて入管に異議を申し立てていることも伝えている。
さらに14日の毎日・北海道版朝刊も、クラマーさんが昨年のハイリゲンダム・サミットでも会場付近の抗議活動に参加してきたこと、
日本にいる知人が、「彼はテロリストではない。表現の自由の範囲内で (反グローバリズムの) 活動をしている」 人物であり、
ロシアではそうした活動から弾圧されたこともあり、ロシアに送り返すのは問題だ、と語っていることも伝えている。
世界中どこでも、サミットがあれば必然的に、これに抗議する世界中の市民たちの集会、抗議運動が、これまで繰り広げられてきた。
また、それを報じるのも、サミット報道の役割の重要な一部と考えられてきた。日本のメディアはそれをやるのか、あるいは、世界中からくる 「怪しい奴」 を、
テロリストよろしく排除することに与し、無視することにするのか。まさにサミットを前に問われるところだ。
2008.3.18
「ロスト・ジェネレーション」というな!
ひとりよがりで無神経な朝日の言葉の使い方
昨年=07年の各紙元旦号は、小泉改革の置きみやげ、「格差社会」 をテーマとして取り上げていた。とくに朝日は、元旦から3日つづけて、
「ロスト・ジェネレーション25〜35歳」 という特集企画を連載、その後も折に触れて 「ロスト・ジェネレーション=失われた世代」 なる言葉を用い、
1995年前後からの10年間に大学を出た、07年現在で25歳から35歳の青年たち―─バブル崩壊不況のまっただなか、まともな就職ができなかった若者たちのことを、
取りあげてきた。
だが、最初の正月企画のときからそうだったし、その後の記事でもそうなのだが、読めば読むほど、朝日が使う 「ロスト・ジェネレーション」 なる言葉になじめず、
紙面にこの文字をみるたびに違和感を覚え、いらいらさせられる。最近ではその短縮形、「ロスジェネ」 なる言葉も平気で使うのだから、無神経だ。
昨日=11日の朝刊に載ったコラム、「政態拝見」 の 「オバマ人気 小泉ブームと似て非なり」 は、曽我豪編集委員の筆になるもので、
いま 「変化」 のオバマを支持するアメリカの20〜30代は、05年・郵政総選挙で 「改革」 の小泉を支持した、当時の日本の20〜30代と似ているが、
オバマはいま 「統一」 を志向しており、小泉が 「分裂」 を志向していたのとは事情が異なる─―この点の相違は重要だとする、なかなか興味深い一文だった。
ところが、ここでもまた、日本のこの20〜30代を 「ロスト・ジェネレーション」 と呼んでおり、少なからずがっかりさせられた。
なにか朝日のなかでは、彼らをこう呼ぶのが決まりごとのようになっているみたいだが、それが世間全体の通念になっていると、朝日の人たちは思っているのだろうか。
少なくとも私には納得がいかない。
あらためて 「ロスト・ジェネレーション」 という言葉とその周辺の事情を調べてみた。
調べるまでもなくこの言葉を聞いて思い浮かべるのは、あの 『日はまた昇る』、『武器よさらば』 のアーネスト・ヘミングウェイ、
大作 『U.S.A.』 を著したヘンリー・ドス・パソスなどのアメリカの作家たちだ。彼らは19世紀ヨーロッパの伝統的な社会、文化を崩壊させた第 1次大戦後に青年期を迎えた。
1920年代のヨーロッパは戦後の混乱と疲弊のなかにあったが、戦禍に見舞われない戦勝国・アメリカは未曾有の好景気に沸いていた。
ヘミングウェイ、ドス・パソス、スコット・フィッツジェラルドたちはパリに遊び、アプレゲールと呼ばれた大戦後のフランス社会のなかに生まれてくる新しい文学・芸術から、
大きな刺激を受けた。パリに住む年長の女性作家、ガートルード・スタインの家は、彼らの文芸サロンの趣を呈し、彼女は彼らをまとめて 「ロスト・ジェネレーション」 と呼んだ。
この言葉は、その後日本では 「失われた世代」 と訳されたが、彼らが第 1次大戦後に遭遇した時代状況、パリの社会・文化状況を考えれば、
英語の 「lost」=フランス語の 「perdue」 (「世代」 は女性語なので語尾は e )は、どちらも 「行き当たりばったりの」 「迷子になった」 の意味を含むので、
「ロスト・ジェネレーション」 はむしろ、「迷子の世代」 「行き場がみつからない世代」 の訳のほうがふさわしいのではないか、と思える。
アメリカ文学者の西川正身さんは 「人生の方向を見失い・・・社会と政治に背を向け、・・・新しい文学の世界を切り開こうとしてさまざまな実験を試み (た)」 作家たち、
と評している (平凡社 『世界大百科事典』)。自分たちの世代が、まるごとすぽっと 「失われた」 というような、意気消沈した話ではないのだ。
伝統から断ち切られ、不安に投げ込まれはしたけれど、自力でなにかが選び取れる、大きな自由に飛び込んでいった若者たちの姿が、そこに認められる。
ここから先は私の感じ方になるが、こうした本来の 「ロスト・ジェネレーション」 には、もっと大きな歴史の混沌のなかに進んで身を投じていくエネルギーや、
そこで不正に立ち向かっていく勇気も、ふんだんにあったといえるように思う。
ヘミングウェイとドス・パソスは、ナチの支援を受けたフランコの軍事独裁に反対するスペイン人民戦争に際しては、国際義勇軍に参加、
人民政府軍の側に立ってたたかった。その戦列には、『カタルニア賛歌』、『1984年』 を書いたイギリス人ジャーナリスト、ジョージ・オーウェルも、
『希望』 を書いたフランスの作家、アンドレ・マルローもいた。第2次世界戦争の前哨戦ともいうべきこの戦争に加わったこと、
その体験を通じて希望と失意を味わったことが、ヘミングウェイ、ドス・パソスの文学に大きな世界性を与える結果となったことは、上記の作品を読めば明白であろう。
こうして彼らは、アメリカを世界の現代史のなかで、相対化する大きな役割を果たしたのだった。
彼らが世界のなかで発見したアメリカを、国内の同年代の作家、『怒りの葡萄』 のジョン・スタインベック、『響きと怒り』 のウィリアム・フォークナーも、
大恐慌の嵐に翻弄される農民・労働者の姿、退廃と崩壊に侵されていく南部を通じて、発見していた。
彼らもまた 「ロスト・ジェネレーション」 に属する人々だった。これらの作家は、1910年代の荒れ狂うアメリカの産業資本主義の悲劇、惨状を描いたセオドア・ドライサー、
アプトン・シンクレア、シンクレア・ルイスなどの到達点を、大きく前進させ、20世紀の世界に現代アメリカを注目させる役割を果たした。
フランスの女性批評家、クロード=エドモンド・マニーは第2次大戦後まもなく、『アメリカ小説の時代』 (邦題は 『小説と映画』 中村真一郎・三輪秀彦訳。講談社) で、
伝統的手法にこだわらない文学表現で時代を切り裂いてみせたドス・パソス、ヘミングウェイ、スタインベック、フォークナーの文学を高く評価、
戦後フランスの文学が新たな脱皮を遂げるうえで、彼らの影響を大きく受けたことを証言している。
要するに本当の 「ロスト・ジェネレーション」 という言葉には、歴史的にも、そこに属する人々の属性、仕事にしても、固有の意味があるのだ。
そういう言葉を、安直な風俗的世代論のために援用するというのは、いかにも不見識だ。マスコミ用語で 「失われた10年」 というのもある。
その期間に思春期・青春期を迎えた若者たちの就職難、派遣・請負などの非正規雇用、オタク、引きこもり、ニート、加速する格差社会のなかの差別など、
さんざん問題にされてきたことを総ざらいするために、いま 「ロスト・ジェネレーション」 という言葉に新しい意味を与えようというのは、あまりに安易だ。
パクリどころか、誤用・悪用ではないか。これを 「ロスジェネ」 などの新語にするなど、悪ノリも過ぎるというものだ。
不当な社会的処遇を受けている若者の問題を真剣に追及するというより、「ロスト・ジェネレーション」 といういい言葉を思いついたので、
これをはやらせるために若者たちを材料にしている、という観さえなきにしもあらずだ。
問題の若者たちに対する不当な処遇は、単なる差別というより、不公正な社会的排除というべきものではないか。
そして、そちらに注意を引かれているうちに、後期高齢者といわれる世代の人たちにも、恐るべき社会的排除が始まろうとしている。
もはや公平公正な社会的参加を政治に求めていくべき問題は、世代論ごときものの対応では間に合わなくなっている。
貧乏人たちのジャンヌ・ダルクというべき雨宮処凛さんは、自著 『生きさせろ! 難民化する若者たち』 (太田出版) のなかで、
自分たちのような 「不安定を強いられた人々」 は 「プレカリアート」 だ、と定義する。
イタリア語の 「Precario (不安定な)」 と 「Proletariato (プロレタリアート)」 を合わせた造語だという。
このほうが 「ロスト・ジェネレーション」 より、よっぽど実態に合った言葉、問題をしっかりとらえることができる言い方だ。安易な世代論がつけ込む隙もない。
昨日の朝日の 「政態拝見」 の筆者、曽我編集委員にも、「ロスト・ジェネレーション」 という言い方から離れた目で日本の若者をもっとよくみてもらい、
アメリカのオバマ支持の若者と、支持する相手がみつけられない日本の若者とのあいだに、どんな違いがあるのか、しっかり論じてもらいたいと思う。
2008.3.12
「阿倍定事件」 vs. 「ロス疑惑」再登場
気を取られているうちに何かが進展する
昭和11 (1936) 年は、陸軍皇道派の青年将校が2月、斉藤実・高橋是清ら政府要人を殺害して永田町一帯を占拠するクーデターを決行、
いわゆる 「2・26事件」 を起こし、軍国主義の風潮がさらに重く社会にのしかかる歴史的な転機となった。
彼らは、昭和天皇によって反乱軍とみなされ、討伐の対象とされたため、ほどなく帰順、その後、軍法会議によって首謀者らは死刑を含む処罰を受ける結果となった。
しかし、軍部内や政治家のあいだでは、彼らの国を思う純真さに共鳴するものが多く、中国での行き詰まった戦争の局面を強硬策で突破、
これを妨害する米英との対決も辞さないとする空気は、かえって強まった。
そして翌12 (1937) 年7月には、廬溝橋事件が勃発、昭和6年の満州事変以来、じりじりと深みにはまり込んできた中国での戦争は、本格的な日中戦争に姿を変え、
軍国日本はこれ以降、昭和16 (1941) 年の米英および連合軍との戦争に至る、後戻りできない道に歩を進めこととなった。
この過程では、思想・言論の抑圧体制が強化されていった。昭和11年だけに限っても、大本教に解散命令 (治安維持法違反・不敬罪)、
ひとのみち教団・新興仏教青年同盟弾圧、メーデー禁止、思想犯保護観察法・不穏文書臨時取締法実施、内閣情報委員会設置 (昭和15年12月に内閣情報局へ)、
講座派大学教授一斉検挙、文部省が大学・専門学校に 「日本文化講義」 実施指示、帝国在郷軍人会令公布 (公的機関化) などの動きが生じている。
言論界では、2つの有力通信社、電通 (日本電報通信社) と聯合 (新聞聯合社) の完全合併により、
国策通信社=同盟通信社が設立された (電通の広告部門は分離、広告の株式会社電通へ)。NHKも正式に同盟からニュース提供を仰ぐことになった。
また、このころから内務省警保局が新聞の整理統合を開始、各県警察部によって地方紙の合同・合併が促されていった。
それは最終的に、全国紙3、経済紙=東日本・西日本各1、ブロック紙3のほかは 「1県1紙」 とする、太平洋戦争勃発後の新聞統合に帰結するのだ。
このような重苦しい昭和11年の5月、新聞、雑誌を活気づかせ、世間もその話題で持ちきりとなる 「阿倍定事件」 が起こった。
お定が、愛人・石田吉蔵と東京・荒川区尾久の待合に1週間もいつづけたあげく、情交中に彼を絞殺、男の急所を根もとから切り取り、
それを持ち去ったまま逃亡したのは18日だった。事件が報じられると、人々の関心はいっせいにその行方に注がれ、20日に品川駅近くの旅館でお定が捕まると、
各紙はそろって号外を発行、これを報じた。この事件報道がどう受け止められたかを、下川耿史氏の 『昭和性相史 戦前・戦中篇』 (伝統と現代社) から紹介すると、
つぎのとおりだ。
「この時、国会では二つの委員会が開かれていたが、委員長の緊急動議で会を中断、全員号外を読み耽った」 「 高橋誠一郎 (現・日本芸術院院長。
注:1978年現在) は、『猟奇事件というよりも、むしろホッとした思いで、新聞雑誌の記事を読んだ』 と記し、当時の新聞のなかには、
彼女のことを “世直し大明神” と呼んだところさえあった」 「・・・荒川の待合 『満左喜』 と・・・品川の旅館 『品川館』 は事件後、大繁盛。
『満左喜』 では事件のあった部屋に二人の写真を大きく飾り、二人が使ったドテラ・・・まで展示していた」 「『品川館』 では、
お定の泊まった部屋を・・・そのままにして保存し、・・・枕や・・・敷布、枕もとの水さしなどのそれぞれに、『お定の使用した・・・』 といった紙切れをブラ下げた。
旅館の主人はスクラップブックを片手に、熱弁をふるってその夜のお定を再現したそうである。
また、逮捕前日、お定に呼ばれて体をもんだマッサージ師は、新聞社や雑誌社の取材謝礼でマイホームを新築した」。
メディアの熱狂は翌年、日中戦争本格化後にも冷めない。昭和8 (1933) 年に文芸春秋社が創刊したゴシップ月刊誌 『話』 は、
昭和12年12月号に 「出所後の誘惑を懼れる 『お定』 ―過去の情痴を一場の夢として平凡な女に更正せんとする模範女囚」 とする記事を載せ、
懲役6年の刑で服役中の彼女の近況を、裁判長に取材したとして伝えた。「・・・吉蔵が、『絞めてくれ。・・・もうゆるめてくれるなよ。』 と言っていたというのであるから、
・・・力の限り絞めたと素直に吉蔵に対する罪を認めたのは―矢張り彼に対する心尽くしがさせたのであろう」 「・・・未決囚当時は・・・一見して妖婦と思われていたが、
最近は非常に太って来て、極く平凡な普通の女になっている。此れが帝都未曾有のグロな殺人事件の主人公お定であろうか・・・」 「彼女が、現在、
一番懼れている事は、出所後、料理屋とかカフェーでマネキンとして自分を買いに来る事なのである。
・・・そうした方面から熱心な運動が続けられ・・・一万円を投じても資本の回収は容易であると称している者さえある」
「記者は・・・出所した後の彼女 (が) ・・・何処かの裏店で、静かに余生を送る事が出来たら、それが彼女の本当の幸福だと思える・・・」
(菊池信平編 『昭和十二年の 「週刊文春」』 ・文春新書)。
およそ70年後の平成20 (2008) 年2月、日本のメディアが30年近く前、大騒ぎして日本中の関心を集めた 「ロス疑惑」 の三浦和義元社長が22日、
米自治領サイパンで、アメリカの捜査当局によって逮捕された。容疑は 「ロス疑惑」 当時と同じ殺人だ。これは日本の最高裁で無罪が確定している。
いまなぜまた逮捕なのか。ここではその是非に関する論議には関わらない。みておきたいのは、これが突然大きく報じられると、メディアが一番力を入れて報じていた、
東京湾における海自イージス艦 「あたご」 の漁船衝突問題の扱いが、すっと小さくなったことだ。
いや、それだけではない。その前に起こっていた沖縄・米兵少女暴行事件はもっとトーンダウンした。
そして29日、被害少女の告訴取り下げで米兵が釈放、米軍に引き渡されると、米軍は3月3日、「反省の期間」 を終了、沖縄、岩国、
キャンプ富士 (静岡) の海兵隊基地の軍人・家族らに対する外出禁止措置を解除した (夜間外出禁止は続行)。
岩国市長選で、厚木からの米艦載機移駐を拒否した候補が文字どおりの僅差で敗北した出来事は、はるか彼方に去った感じだ。
当選した市長が移駐受け入れを国側に告げ、政府が停止していた補助金の再給付や新しい米軍基地再編交付金の支給を決めたニュースが、さりげなく報じられた。
イージス艦の関連ニュースは、石破防衛相の責任問題が大きくなると、また新聞では大きく扱われるようになったが、その力点が変わってきている。
石破防衛相は、イージス艦事件を奇貨とし、その発生やその後の問題処理過程における不首尾は、防衛省・自衛隊の指揮・情報系統に根本原因がある、と指摘、
内局=背広組と自衛隊各幕僚監部=制服組を一元的組織に再編、統合する必要がある、とするかねてからの持論の実現を企む気配だ。
3月3日、福田首相が陣頭に立ったかたちで 「防衛省改革会議」 (座長=南直哉・東京電力顧問) 初会合が開かれたが、首相は、イージス艦事件についても、
こういうかたちで石破防衛相に責任を取らせるのだと言明、罷免は否定してきた。
石破防衛相も、自分なりの問題解決を行ったら、事件の責任は自分で取ると、「改革」 に意欲をみせている。
こうなると、事件に際して、警察権を持つ海上保安庁の頭越しにいろいろな行動を取ってきた大臣以下、
防衛省・自衛隊関係者の態度や、石破防衛相の 「軍事法廷」 が欲しいといわわんばかりの言動をみるにつけ、
いよいよ通常の司法権から独立した防衛省・自衛隊内の機密保護・警察・裁判制度ができるのか、と思わせられる。怖い憲兵、軍法会議だ。
メディアの表面での動きとして、とくにテレビのワイドショーや週刊誌の動向は、3月に入って 「ロス疑惑」 再登場にますます入れ込むものとなりつつある。
たくさんのメディアが現地での取材競争にしのぎを削っている。いまは三浦元社長がいつロスに移送されるかに大きな関心が寄せられているが、
ロスでの裁判が始まり、殺人実行犯の名などが出てきたら、もっと騒ぎは大きくなるだろう。
アメリカ本土の捜査当局は、日本メディアのそのような動き、特性も十分に心得て、そつなく日本人の関心を高めていくようすだ。
アメリカのN・チョムスキーとE・S・ハーマンが共同で著した 『マニュファクチャリング・コンセント―マスメディアの政治経済学』 (トランスビュー) という本がある。
チョムスキーとハーマンは、アメリカのマスメディアの制度機構を分析、そこには、体制的エリートが誘導する市場システムの生み出す 「プロパガンダ・モデル」 が作動、
メディアには5つのフィルターで漉されたニュースが強く出てきて世論に影響を与えることになる、とする検証の結果を披瀝している。
そのフィルターとは、「メディアの利益」 「広告への依存」 「政府・大企業情報源とこれらに強い 『専門家』 への依存」
「メディアへの集中的批判の形を取った統制」 「国家宗教と化した 『反共主義』」。
最後の 「反共主義」 を 「拉致問題最優先」 などに変えたら、
このモデル図式は、いまの日本のマスメディアの、無意識のうちにプロパガンダ・メディアと化していく動きも、かなり説得的に解明してくれそうだ。
メディアのうえで 「阿倍定事件」 と今日の 「ロス疑惑」 再登場の果たす役割が、70年もの時間距離を置きながら、
あまりにも酷似しているのに巨大な虚脱感を覚えながら、メディアよ、なんとかならないのか、しないのか、と思う。
2008.3.4
カストロ退任とコソボ独立
―─歴史の進歩の見方が問われる
2月20日の各紙朝刊はそろって、キューバのフィデル・カストロ国家評議会議長が19日、退任表明を行ったことを伝えた。
それより前、17日には旧ユーゴ南部のコソボ自治州がセルビアから独立、単一の主権国家になることを内外に宣言、このニュースも各紙は18日、大きく報じた。
両者に共通するのは、20世紀の後半を通じてつづいた米ソ対立の冷戦構造の下、
アメリカ主導の国際資本主義に対する社会主義陣営の一角を構成してきた最後の部分が、ようやく大きな転換期にさしかかった、という点である。
日本の新聞各紙も、そうした点に触れてそれぞれ論評を試みているが、キューバ、コソボに生じるであろう変化が、これからの世界全体の変革にどんな影響を及ぼし、
また問題を提起することになるかということになると、実に通俗的な見方しか示すことができていないのには、驚くというより情けなくなった。
カストロ議長の退任については、「並外れた権力者」 「カストロ氏」 は、権力を保持しつづけることによって得られる 「利益」 と殺される 「恐怖」 とをハカリにかけ、
弟に権力を譲り、「最晩年を安らかに過ごす道」 を選んだ (21日・朝日 「天声人語」)、「残ったのは・・・21世紀を生き残れそうにない硬直した経済・社会・政治だ」
「一人のカリスマの夢につなぎとめられる政治は、もうこれが最後ではないか」 (同・毎日 「余録」)、
「一切の批判を許さず、言論や体制選択の自由を国民から取り上げてきた独裁体制の置き土産は重たい」 (同・読売 「編集手帳」)、
「共産主義という十九世紀以来の妖怪・・・の呪縛を解き、(キューバは) 新たな道へ踏み出せるだろうか」 (同・日経 「春秋」) というような、
独裁者の負の遺産、社会主義の敗北、暗い将来を心配するというより、やはりこういうことになったではないかと、見下した視線を感じさせる、どれも似たような論調だ。
毎日と読売は同日、社説も掲げたが、毎日 「米国は制裁見直しに動くべきだ」 は、キューバの慢性的な経済不振の根元的な原因は、
カストロ政権ができてから今日まで、アメリカが厳しい経済封鎖を続行してきたことだと、正当に指摘し、その敵視政策の見直しを提唱した。
これが読売となると、「ソ連崩壊で色あせた革命の栄光」 と、ソ連あってのキューバ革命だったが、ソ連が崩壊してからは当然、
やっていけなくなった─―これからキューバがアメリカとの関係を改善すれば、日本ともうまくやっていける─―経済発展も可能となる、というもの。
アメリカ・キューバの関係改善は、アメリカのやり方が変わるか否か問題なのに、おかしな話だ。
朝日は社説はないが、24日朝刊の投書欄下、「世界の論調」 欄に英ガーディアンの18日付社説 「コソボ独立は欧州の試練」 と、
米ニューヨーク・タイムズ20日付の社説 「米政権は 『カストロ後』 に備えよ」 の要約を、並べて掲載した。
前者は、コソボの性急な独立は背後の欧州の動揺が関係しており、独立がもたらす問題の解決に欧州は責任を負っている、と説く。
後者は、上記の毎日社説の視点をもっと具体的な政策に結びつけ、ブッシュ政権に、キューバの政治家、国民に対して直接対話を始めよ、と提言する。
どちらも当然の話だ。残念なのは、朝日がこういう社説を紹介するだけでなく、なんで自分で書かないのか、ということだ。
キューバの窮状、旧ユーゴの混乱、どちらにも日本はほとんど責任がない。
その気になれば、もっと自由で公明正大な立場から、転換期のキューバ、旧ユーゴを世界がどう受け止めていくべきかの議論がリードできるのに、と思う。
コソボの独立については、セルビア政権がコソボのアルバニア系住民に非人道的な民族浄化の虐殺、抑圧を繰り返してきたことが原因であり、
コソボのセルビアからの離脱・独立はやむを得ない、とする論調がほとんどだ。
そのうえで、これが世界各地での民族紛争激化の引き金になってはいけないという問題意識から、「コソボ独立 安定への第一歩にしたい」 (19日・朝日社説)、
「民族衝突を防ぐ慎重な行動を」 (同・毎日社説)、「バルカンの混乱をどう避ける」 (同・読売社説)、「バルカンの悲劇に幕を」 (同・日経社説)など、
当たり障りのない議論を試みているだけだ。
気になるのは、1991年のスロベニア、クロアチアの旧ユーゴからの分離、独立の宣言以後、旧ユーゴで生じた紛争のすべてにわたって西欧とアメリカは、
ひと言でいえば、セルビアが悪い、ですませてきた観がある点だ。
そして日本の政府と大方のメディアも、その見方にならってきた。
また、その背景には、ソ連崩壊、冷戦構造消失のなかでユーゴが解体されるのも当然だ─―それに対していつも悪あがきするのがセルビアだ、
とする実に安易な冷戦史観が、いまにいたるもずっと横たわっていることも、指摘せざるを得ない。
ナチス・ドイツの侵攻を、連合軍の世話にならず、自力で追い出し、第2次大戦後、「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、
2つの文字」 をもつ1つの国家として成立したユーゴスラビア連邦は、社会主義を標榜したが、スターリンの支配を受け入れず、国際的には非同盟の路線を追求した。
また、一元的な国家社会主義的な経済体制を取らず、地域・工場を単位とする自主管理による社会主義の発展を追求した。
こうしたユーゴの存在は、国際政治の面ではソ連の覇権主義を警戒する中国、インドネシア、キューバなどの共感を呼び、
米ソ対決に対する第3の道の可能性を予感させた。
また、東欧の民主化をも激励した。自主管理方式は、ヨーロッパ全体の労働運動に大きな影響を与え、
フランス、スペイン、ポーランドなどでも自主管理方式が普及していった。
1民族1国家による主権国家の考え方を修正し、資本主義でもないし、社会主義でもない、混合経済体制の可能性を示唆した、
このようなユーゴのあり方は、冷戦の勝敗にこだわるだけの世界観を打破する衝撃力があった。
だが、現実には、91年のソ連崩壊にともなって、スロベニア、クロアチアの1民族1国家主義の運動が強まり、
そうした形の主権国家として大国となった英独仏など西欧の各国が両者の独立を支持すると、やがてマケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナの分離を経て、
今日のコソボの独立に至る、果てしのない流血を伴った分解過程が始まったのだった。
国連、NATOがコソボ紛争に介入、米欧が 「人道的介入」 を口実にベオグラードを空爆したとき、
西欧のバルカンに対する原罪というものを思わないわけにはいかなかった。
1977年、ユーゴを訪問、3泊したホテル・ユーゴスラビアは、このときの空爆で破壊された。
西欧の都市にはない、旧市街・スカダリャに漂う独特な生活文化の香り、このとき訪れたブカレスト、ブダペスト、ワルシャワとは異なり、
ドル買い・闇屋・売春婦を見かけることがなく、貧しくても明るく、誇り高い市民。それらが無視され、踏みにじられる無念を痛切に感じた。
民族自決を至上の命題とし、1民族が1国家を、明確に仕切られた国境のなかに建設する権利がある、とする近代主義的なこだわりは、
もう根本から見直されるべきではないのか。それをつづける限り、世界はいたるところで、永久に民族紛争をつづけなければならない。
国境をもたなかった先住民たちは、言語、文化を異にする他民族と共存する点で、はるかにわれわれより賢かったのではないか。
そのやり方に学び、それをもっと洗練させていくことこそ、21世紀において本当に求められるものではないのか。
前記の英ガーディアンの社説がいう 「欧州の試練」 は、そのような取り組みが必要だとする意味において、理解されるべきものではないか、と思う。
キューバが今後、投じる問題の現代的意味についても、深く考えてみる必要がある。
キューバの革命や社会主義は、ただ残骸をさらすのみ、過去の遺物とさえいえないほど役立たずのものなのか。そうではあるまい。
メキシコ・チアパスにおけるサパティスタ民族解放軍の武装蜂起 (1994年)、グアテマラの内戦終結・先住民の権利確立 (1996年)、
ベネズエラのチャベス大統領登場 (1999年。その後、アメリカ企業の利権を没収、石油事業を国有化)、ブラジルに労働組合運動出身のルラ大統領登場 (2002年)、
ボリビアに先住民出身のモラレス大統領が登場 (2005年)、南米南部共同市場 (メルコスル) にベネズエラが加盟、ペルー、チリ、
ボリビアも準加盟国となる (2006年) などの動きをみていくと、そこにはキューバ革命、キューバ社会主義の影響が静かだが、力強く浸透していることに気付かされる。
単にアメリカへの抵抗という思想面だけのことではない。
農業、医療、福祉、教育面での先進国キューバは、これら中南米の国々と実際的な利益を交換する関係のなかで絆を強め、
多くの国がキューバの社会主義からその役立つ面を学び、また、米国経済依存だったがために厳しい封鎖に悩まされてきたキューバも、
中南米諸国とのあいだで経済交流を広げることを通じて、この地域で着実に生きていく力を獲得しつつある。
結果的にこの地域はいま、かつてアメリカの裏庭といわれた、宿命的とも思われた対米従属の鎖を断ち切り、政治・経済・文化、
あらゆる面で自主性を強めつつあるのだ。この地域のこのような発展のなかでキューバが生気を取り戻せば、それは一つの国が再建されるというに止まらず、
アメリカ主導のグローバリズムとは異なる、むしろそれを着実に掣肘する、もう一つのグローバリズムの生成を促す力になっていくと考えられる。
日本がいま陥っており、ますますおかしなことになっていく気配の対米従属のことを考えるとき、転換期のキューバとそれを取り囲むラテン・アメリカの行方に、
メディアはもっと真剣な眼差しを向け、大きな関心を払うべきではないか。
2008.2.26 (2008.2.29 一部訂正)
沖縄・米兵暴行事件と報道
―─再び同胞の苦悩を顧みないメディアを憂う
2月11日朝刊で岩国市長選の結果が報道されたあと、その日起こった沖縄の米兵による14歳の女子中学生暴行事件は、ただちにテレビで報じられたが、
新聞は、休刊明けの12日夕刊で第1報の登場となった。
テレビも一応は、沖縄全島を揺るがせた1995年の少女暴行事件―─
米兵犯罪の捜査権が日本にないも同然の日米行政協定の運用を見直すきっかけとなった事件のことも取り上げ、今度の事件についても大きく報じた。
今回は容疑者米兵が基地外で事件を起こし、日本の警察によってただちに逮捕され、身柄が確保されたため、見直し後の協定運用原則によって、
米軍側が容疑者の身柄を取り返す要求はできず、過去に起こったような紛糾は生じない。
あとは現地警察の取り調べの進展が注目されるわけで、日米両政府のあいだのお定まりの遺憾と謝罪の意の表明・交換のほかは、当分目立った動きは生じない。
すると、テレビの事件のフォローは、目にみえて貧弱となった。
こうなったら新聞の出番だ。なんで同様の事件が性懲りもなく繰り返されるのか、再発はどうしたら可能なのかなど、基地周辺住民の声、両国関係機関の対策、
在日米軍再編への影響など、報じ、論じることは山ほどある。だが、新聞のほうも、どうも反応が鈍いのだ。
もちろん現地の琉球新報、沖縄タイムスは、事件発覚と同時に号外を発行、その後も精力的に報道を繰り広げ、問題の根源は米軍基地があることに尽きる、
とする全島の認識をあらためて強く確認している。沖縄では、米軍再編交付金を当てに地域振興を考える政治家や自治体首長でさえ、
期間や程度の差はあれ、漸減的な基地の縮小・整理、兵員の削減を求める点では変わりはないのが実情だ。
ところが、本土の新聞、とくに大新聞となると、この点ががらりと変わり、沖縄の米兵暴行などの事件は、
沖縄の基地のあり方が特別だから起きる―─いってみれば沖縄問題だと眺める視点が強く、沖縄現地での問題再発をどう防止するかというような、
技術的な議論に終始する調子が蔓延している。
さらに、再発防止は、喫緊の在日米軍再編・日米軍事一体化の進展がこんなことで阻まれてはいけないから、ぜひやらねばならないものだ、
とするような議論さえ、少なからず目につく。それは、日本中に同様の事件、問題を拡散、増加させる結果に行き着くとする理解が、まるでないのには呆れるばかりだ。
そもそも読売は、12日夕刊は他紙と違い、この事件の報道は1面トップではない。トップは、「加工食品の原産地表示を全品についてやるのは困難」 とする記事。
これが休刊明け最初のトップ・ニュースか! そして翌13日朝刊は、各紙全部が事件に触れた社説を掲載したのに、読売は該当社説なし。
この事件に関しては騒ぎを大きくせず、できるだけ静かにやり過ごそうということか。
社説はようやく14日。しかしそれは、米軍に 「実効性ある再発防止策を」 求める一方、日本側に、沖縄の基地負担を和らげるためにも、早く普天間飛行場を名護に移し、
海兵隊をグアムに移すなど、米軍再編を加速する必要がある、という方向に議論をもっていくものだった。
これらの移転措置は、沖縄の基地負担を軽減するどころか、米軍の世界的戦略再編の一環として行われるものであり、
もちろん沖縄も含め、日米一体型の軍事基地の負担を、日本全土で増大させるおそれがあることには、まったく触れていない。
日経 (13日) も同様に、在日米軍再編の遅延という影響が出ることを、一番心配する。
産経 (同) も、「沖縄の県民感情」 を心配するが、本当に心配するのは、やはり米軍再編の遅れなのだ。
これらに比べれば、朝日 「沖縄の我慢も限界だ」、毎日 「凶行を二度と起こさせるな」、東京新聞 「繰り返した米兵の野卑」 の社説 (いずれも13日) は、
もっと強く危機感を募らせ、同じような犯罪が繰り返されるのを許してきた日米両政府の住民無視、有効な対策を講じてこなかった無責任に対する批判も、ずっと手厳しい。
とくに毎日は、各紙の記事が1995年の少女暴行事件以降の米軍犯罪しか概観しなかったのに対して、
55年・嘉手納での6歳女児暴行に始まり、70年 ・ 「コザ (現・沖縄市) 騒動」 の原因となった米兵の傍若無人な交通事故など、多数の事件を紹介し、
それにらによって昔から今日まで、事件の真の原因は基地そのものであることを物語らせたのは、注目に値する。
情けないのは朝日だ。11日朝刊の社説は、岩国市長選の結果に触れなかった。
そこで13日の上記社説は、この日の掲載となった 「岩国市長選 『アメとムチ』 は効いたが」 との組み合わせとなった。沖縄と岩国の組み合わせだ。
ケガの功名とはいえ、またとないチャンスだ。基地の現状とそれが直面する問題の本質に触れた、格調高く、スケールの大きい、両方の出来事に共通する問題を摘示、
解明する社説で紙面を飾ってくれればいいのに、と思ったものだ。だが、残念ながら、岩国は岩国、沖縄は沖縄という程度の社説2本が、同じ社説欄に並んだだけだった。
北海道新聞 (同じく13日) の社説、「謝罪だけでは済まない」 が一番納得がいった。
「沖縄のみならず国内の米軍基地があるまちで、同じような犯罪は後を絶たない」 「米軍基地の整理・縮小という沖縄県民の声を真摯に受け止め、
実行していく責任が日米両政府にはある」。
東京の新聞はろくに報じていないが、北海道でも米第7艦隊の旗艦、揚陸挺総指揮艦・ブルーリッジの小樽港定例利用化が、日米両政府によって策されている。
地元紙としては住民読者にこの問題について、つねに情報提供を行っている。
平和と安全の問題は、地元住民の平和と安全に結びついている、とする基本的な考え方に立っているのだ。
だからこういう社説が書ける。橋下徹大阪府知事は 「国の防衛問題に地方自治体は異議を差し挟んではいけない」 と井原前岩国市長を批判した。
これに対して北海道大学の山口二郎教授は、それならば 「面倒な基地をすべて大阪に移せばよい」 と国に提案、
橋下知事に痛烈な一発をかませた (2月11日・東京新聞朝刊 「本音のコラム」)。私もまったく同感だ。これほど説得力ある提案には滅多にお目にかかれない。
こういうことにならないと、中央の大新聞も、いつまで経ってもなにも自分の問題としては考えないのかもしれない。
2008.2.19
同胞の苦悩を顧みない大新聞
―─今なぜアメリカ一辺倒なのか
2月10日開票の山口県岩国市長選は、有効総投票数 9万2,380のおよそ半分ずつを、2人の候補が分ける接戦の結果、わずかに 1,782票 ( 1.92%) の差で、
岩国基地への米空母艦載機移駐に賛成の福田良彦候補 (前自民党衆院議員) が当選した。
移駐反対の旗を堅持する井原勝介前市長は、これまでの住民投票・市長選挙 (いずれも2006年) を通じて、幅広い市民の支持を獲得してきた。
今回の投票率は76.26%と、前回 (65.09%) を大きく上回っている。これをみれば、井原候補の支持基盤が崩壊したとは、到底いえない。
移駐賛成派による今回の投票者動員がわずかに優った、といえるのみだ。
だが、11日現在 (休日で11日夕刊と12日朝刊は休刊)、東京の新聞各紙をみる限り、
ようやくノドにささった小骨がとれた、といわんばかりのニュースの扱いで、おおむねあとは、日本全体での米軍再編が進むと観測、
それを既定事実として受け入れる風が強いのに、驚く。
臆面もなく再編を推進せよ、と主張──読売、日経、産経
観測どころか、臆面もなく、これを弾みに再編を推進せよ、と主張するのが読売、日経、産経。
社説で 「現実的な判断が下された」 (産経)、「米軍艦載機移駐を着実に進めよ」 (読売)、「・・・民意踏まえ在日米軍再編進めよ」 (日経)が、彼らの言い分だ。
産経の 「現実的な判断」 とは、北東アジアには 「冷戦構造が厳然として残る」 のだから、アメリカに頼るのは当然というもの!。
また、読売は、米軍基地拡大・強化に関して 「政府と協力すれば、様々な地域振興が可能となる」 と、岩国市に助言する。
政府は、在日米軍再編促進特措法に基づく再編交付金を、再編計画受け入れ自治体には大盤振る舞いする一方、
沖縄・名護、神奈川・座間など受け入れ拒否の自治体にはゼロとする阿漕なやり方をしている。読売はこれを当然視するわけだ。
岩国に限っていえば、もともと米軍基地はあり、96年の日米特別行動委員会 (SACO) 報告に基づく米空中給油機受け入れに応じたときの、
新庁舎建設補助金を受給中だったが、井原市長の下での移駐拒否で、政府はこの給付を突然中断、約束違反を犯したのが真実だ。
いくら読売でも、この点は批判すべきではないか。日経にいたっては、なにが 「民意」 かの判断がずさんに過ぎる。
最初の住民投票、市町村合併後の市長選の結果に対する評価がまったくない。僅差の賛成派市民の勝利は、万々歳というものではなかろう。
そこに潜む苦悩をどう汲み取るかの配慮が必要なはずだ。
あとは3紙そろって、これを弾みに沖縄・普天間の名護移転を早くやれと、かねてからの再編促進論のトーンをいっそう上げるだけだ。
政府の責任を明確に批判──毎日、東京、朝日
これらと比べると、毎日の報道の視点設定、論説のポイントは、岩国市民の苦悩に配慮する色合いが濃い。
賛成派候補が市長になった岩国に、政府がかねてからの補助金の再開と新たな交付金の支給の両方を行うために 「新補助金」 を考えている、と報じたニュースは、
政府のインチキさを伝えている。社説の 「国は対立解消の責任果たせ」 も、こじれの原因は政府の強硬策にあるとし、住民の意思の尊重を説く。
だが、社会面報道までみると、基地反対の建前よりも現実のカネが大事だと賛成に転ずる市民が多くなるのはしょうがないか、
とする調子から抜け出せていないのが、やはり情けない。
むしろ東京新聞の社説、「街を分断した国の責任」 のほうが、補助金中断、交付金ノーというムチの政策こそ住民分断の元凶だと、
政府の責任をより明確に批判していて、わかりやすい。
不可解なのが朝日だ。1面トップに 「米軍機容認の新顔当選 反対の前職を破る」 と大きく報じ、
毎日を除くほかの4紙が1面トップ扱いしなかったのとは際立って違った扱いをしたのはいいが、社説はなしだったのだ。
社説は、シリーズ 「希望社会への提言」 の16回目、「年金は税と保険料を合わせて」。曜日指定の決まりものかもしれないが、この日は新聞休刊日で、翌12日は朝刊なし。
2日間の空白のあとの社説になるのだとしたら、いかにも出し遅れの証文というかっこうだ。
社会面もトップ、「アメとムチ 交付金で
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