2008.12.8

「時代の奔流を見据えて──危機の時代の平和学」

目次 プロフィール
木村 朗 (きむら あきら、鹿児島大学教員、平和学専攻)

第三回 「志布志事件とは何であったのか
──“えん罪” の構図とメディアの功罪を問う (上)」

☆刑事司法と犯罪報道をめぐる現状の評価
  近年、警察・検察による人権を無視した違法な捜査とそれに追随するマスコミの犯人視報道によって、 無実の人々・一般市民が大きな人権侵害を受ける、いわゆる “えん罪” 事件が相次いで表面化しています。 こうした冤罪事件は、市民の人権を守る最後の砦であるはずの司法 (警察・検察・裁判所) が、今日まともに機能していないことを示しているのではないでしょうか。 と同時に、本来、権力の暴走を監視・抑止することを本来の使命としているはずのメディアが、 権力と一体化してその役割を放棄していることを意味しているのではないでしょうか。 メディアが権力の行う 「情報操作」(とりわけ、警察による裏情報のリーク) に乗るという形で権力と一体化することが、 “えん罪” と報道被害を生む一つの構図となっていると思います。

  こうした刑事司法と犯罪報道をめぐる現状は、政府によるメディア規制・言論統制の強化、警察による匿名発表の常態化、 個人情報の過度の保護・非公開による地域社会の閉塞化、犯罪防止を大義名分とした街頭ビデオの急増などに見られる監視社会化の動きといった状況とともに、 まさに今日の管理社会・情報社会の落とし穴・危険性を物語っています。 ここで問われているのは、個人のプライバシー保護と国民の知る権利の保障とのバランスばかりでなく、 日本の人権保障と民主主義という社会全体の根本的なあり方です。

  また最近になって、こうした状況に市民がどのように対処すべきか、という文脈で 「メディア・リテラシー」 という言葉が登場してきています。 この言葉は、読者・視聴者である市民が情報を積極的に読み解く能力を身につけること、 すなわちメディアを通じて流されるニュースや情報を、誰がどのような意図でつくっているのか、 この情報によって誰が利益を得るのかなどを理解した上で、主体的に判断・評価する能力の育成を指しており、 権力・政府による真相の隠蔽と神話・虚構の捏造という 「情報操作」 とは表裏一体の関係にあります。 新聞やテレビで流されるニュースや情報が常に正しいとは限らない、特に警察の裏情報には嘘や歪曲・誇張がつきものであることは、 これまでに起きている “えん罪” 事件と犯罪報道のあり方を見れば明らかだと思います。

  そこで、今回は、私の地元でもある鹿児島で起きた、いわゆる志布志事件 (下記の概要を参照) を取り上げて上記のような問題を考えてみたいと思っています。

☆志布志事件の概要と特徴・問題点

≪志布志事件の概要≫
  2003年4月の鹿児島県議選で、鹿児島県志布志町 (現志布志市) で起きたとされる選挙違反事件。 選挙で当選した中山信一県議が志布志町の集落の有権者に現金を配ったとして、13人が逮捕・起訴されたが (うち一人は裁判中に死亡し公訴棄却)、 裁判では全員が容疑を否認。2007年2月23日、鹿児島地方裁判所は自白には信用性がなく、現金を配ったとされる元県議にもアリバイがあるとして、 被告全員に無罪判決を下した。鹿児島地検も控訴を断念し無罪が確定した。 捜査段階での自白の強要や、「踏み字」 行為、そのほかにも異例とも思える長時間の勾留などが問題となった。 「踏み字」 行為への県への民事訴訟では、鹿児島地裁が違法行為を認定し、県へ損害賠償を命じる判決が下り、鹿児島県も控訴しなかったため判決が確定している。
  現在もなお、複数の関連裁判が継続中である。


  最初に、この志布志事件に対する私の見解を述べた、下記のインタビュー記事 「県警に思う 組織全体の暴走、猛省を」 (『朝日新聞』 鹿児島県内版、2007年3月13日付朝刊を一部修正・加筆したもの) をご紹介します。

  「今回の事件は、普通の冤罪事件とは事情が違う。冤罪は見込み捜査などによる捜査機関の重大なミスで起きるのだが、 これは警察・検察による悪質なでっち上げ事件の可能性がきわめて高い。つまり、国家権力による犯罪だ。なぜ、どういう風にして捜査が始まったのか。 意図的に警察・検察が犯罪を捏造したのだとしたら、恐るべき国家犯罪だ。そこを解明しないことには、再発防止は図れない。

  県警は、長期間の勾留による自白の強要など従来の捜査方法を見直すべきだ。 自白を偏重するがあまり、『踏み字』 の強制のようなキリシタン弾圧を思わせる、封建的な人権を無視したやり方が生じた。 警察と検察はもちろん、逮捕状を出した鹿児島地裁の責任も大きい。その中で出た地裁の無罪判決はせめてもの救いだが、あえて言えば中途半端。 捜査の違法性も指摘していなければ、でっち上げたというところまでは踏み込まなかった。知事や県議会、公安委員会も一体何をしていたのか。 県民の人権が侵害されたのだ。県警や裁判所で真相解明できないなら、弁護士などで第三者機関の調査委員会を設置するべきだ。

  これらの問題を踏まえて、捜査の透明化・可視化を改めて考え直さなくてはならない。録音・録画以上に、弁護士の同席を認めるべきだと考える。 取り調べがつらくて、自殺未遂者まで出した事実は重い。 メディアにも反省を求めたい。警察発表を鵜呑みにして、被告人を犯人視した報道を繰り返した。 その一方で、一部のメディアが捜査・裁判に疑問を抱いて事件を追いかけ続けなければ、真相は解明されないままだったかもしれない。 この事件ではメディアの二面性 (功罪、光と影)、すなわちメディア自体が権力化して 『第四の権力』 になるというマイナスの側面と、 一般市民に代わって権力への監視・批判を行うというプラスの側面が改めて明らかになった。 メディアには今後、捜査に携わった当時の署長や警部らを、実名報道してもらいたい。

  それにしても、関係者への処分が軽すぎるなど県警の 『身びいき』」 には言葉もない。県民に対して誠意ある対応をするべきだということを認識していないのか。 最初は一部の幹部の暴走だった志布志事件だが、いつの間にか今も続く県警組織全体の暴走となっている。県警には猛省を求めたい。」

  志布志事件の特徴と問題点を整理すれば、下記のような点を挙げることが出来ると思います。
(1) 警察による、事前に事件全体の構造を描いてそれに見合う供述を引き出していく 「たたき割り」 の手法
(2) 警察による 「踏み字」 の強制や 「切り違い尋問」、密室での取り調べと自白強要 (自白偏重主義の歪み)
(3) 警察による裏情報のリークとメディアを利用した世論誘導 (中山県議逮捕のスクープ映像など)
(4) 捜査当局 (警察・検察) による自白調書や供述調書の捏造 (例えば、見取り図の誘導)
(5) 裁判所による逮捕令状の乱発、長期勾留の決定と勾留時点からの接見禁止決定 (「人質司法」 の典型)
(6) 検察・警察による弁護士と被疑者・被告人との接見内容の調書化 (「接見交通権」 の侵害)
(7) 捜査当局 (警察・検察) の働きかけによる国選弁護人・私選弁護人の解任 (「弁護権」 の侵害)
(8) 自白調書しか証拠を持たない検察による裁判の長期化
(9) 警察による、取調べ中の電話の隠し録り (取調べに関する内部規則への違反) とその隠蔽
(10) 警察内部で、捜査員の異議申し立てに対する恫喝や捜査からの除外・左遷

  ここで特に注目されるのは、捜査関係者から報道機関へ届けられたある一つの県警内部資料です。 それには事件の公判前に県鹿児島警と鹿児島地検が、「調査小票」 と供述調書の矛盾点があるために、 小票をあらゆる手を尽くして出さない方針を取るという協議を行った内容が記されていたのです。 つまり、警察と検察が捜査の誤りと違法な手続きの隠蔽を公判前に口裏合わせをしているということです。

  現時点で私が強調しておきたいのは、第一に、刑事司法のあり方そのものへの根本的疑問です。 志布志事件の本質は、捜査当局の予断や思いこみなどによる重大なミスによって生じた 「えん罪」 事件というよりも、 「でっち上げ」、すなわち警察・検察・裁判所がある意味で三位一体となった 「権力による犯罪」 であったと思います。 というのは、最初に警察が民間の協力者と一緒に 「架空の事件」 を捏造し、途中で検察がそれに積極的に加担し、 裁判所もそれを結果的に容認することになったからです (もちろん、裁判所は途中で変わった裁判官が現地調査を実施して、 中山被告のアリバイ関係を確認し、最終的には全員無罪判決を出したわけですが…)。

  第二に、県警捜査二課の警部と志布志署署長など一部の捜査幹部の暴走を、途中でなぜ止めることが出来なかったのかという問題です。 初動捜査の段階でこの事件での捜査の進め方に疑問をもった捜査員も少なからずいたと言われています。 例えば、2003年6月下旬に志布志署長と警部、約60人の捜査員が集まった会議の中で捜査の進め方に異議を唱えた警部補2人に、 志布志署署長など警察幹部が 「地方公務員法違反で逮捕するぞ」 などの恫喝を行ったとされています。 この会議の後に2人の警部補は捜査から外され (結局は左遷された)、他の捜査員たちはその後、沈黙を余儀なくされることになったと言われています。 また、捜査全体の指揮を取るはずの検察が、肝心の現場検証も行わずに文書審査のみで、 後は警察判断に委ねてしまったことも、警察の暴走を許すことになったという意味でその責任は重大であると言わざるを得ません。

  第三は、県警・検察によるこうした異常な捜査・裁判の実態が、すでに2つの裁判やメディアによる報道などを通して明らかになっているのにも関わらず、 警察の一部関係者にのみに軽い処分が下されただけで、検察・裁判所の関係者への処分は全くなされていないことです。 鹿児島県警による被害者への直接謝罪は今日まで行われていないばかりか、 県警、最高検察庁が無罪判決後の出した報告書も形のみで、再発防止の実効性が本当にあるのか疑問に思われるものでした。

☆「えん罪」事件の再発防止策について

  最後に、「えん罪」 事件 (「でっち上げ」 を含む) の再発防止策について述べておきたいと思います。具体的には、以下の7点が特に重要であると思います。
1. 県警・地検・地裁の関係者への適切な処分と知事、議会、公安委員会の役割の再検討
2. 第三者機関による事件の徹底調査と調査結果の全面的公表
3. 捜査・取り調べの透明化・可視化→全面的な録音・録画とともに弁護士の同席を行うべき
4. 死刑制度を含む現在の警察、検察、裁判所の関係など刑事司法全体のあり方の根本的見直し
5. 弁護士とメディア関係者との協力関係の構築の必要性
6. 被疑者段階と被告人段階とを通じ一貫した公的弁護体制の早期整備 (「当番弁護士」 制度の拡充)
7. 新しい内部告発者保護法制の整備と情報公開制度の充実 (国家・企業などからの個人の独立の保証)

  志布志事件をめぐっては、そもそも、この事件がいかにして起こったのかの端緒情報についての真偽の確認も含めた事件の真相・全体像の解明も未だなされていません。 まさに 「志布志事件はまだ終わっていないのだ」 と言えます。
  この志布志事件の最大の問題点は、ありもしない 「架空の事件」 を 「密室」 の取り調べ室で 「でっち上げ」、 無実と初めから分かっている人々に対して、自分がやってもいない 「犯罪」 の 「自白」 を強制するという、常軌を逸した捜査・取り調べのあり方そのものにありました。 「踏み字」 事件で主任弁護人を担当した野平康博弁護士が、「これはもはや冤罪ではない。捜査機関がグルになった犯罪だ」 と語っておられるように、 これはまさに警察と検察という国家 (司法) 機関によってなされた権力犯罪以外の何者でもありません。 そうした捜査機関の暴走を許した裁判所の責任も非常に重いと思います。

  この点に関しては、鹿児島県弁護士会 (会長・川村重春) が、2007年2月23日の声明で 「本件において裁判所は、安易に逮捕状、勾留状を発付してきた。 勾留に際しては接見禁止決定まで付したのである。 公判が始まってからも接見禁止決定を継続し、保釈請求を幾度も却下した。 ……にも拘わらず、安易に逮捕状、勾留状を発行し、接見を禁止し、保釈を却下した裁判所は、検察の言うがままにこれらを行ったと言うべきであるが、 これでは裁判所の人権保障の砦たる役割を放棄したとのそしりを免れない」 と、裁判所の姿勢や対応についても厳しく批判していることが注目されます。

  志布志事件は鹿児島の片田舎で起きた例外的な事件なのでしょうか。もしこのような人権を無視したやり方が鹿児島・志布志ばかりでなく、 日本全国各地で日常的に行われているとするならば到底許されることではありません。
  特に警察当局は、無罪判決後に、地元の志布志において 「嘘つきは警察の始まり」 と言われるようになったという警察不信の高まりを、 もっと直視する必要があると思います。
  そして、このような事件を二度と起こさないためにも、警察当局による被害者への直接謝罪や内部調査報告書の全面開示はもとより、 現在係争中の損害賠償裁判において事件全体の真相解明 (特に、何が 「でっち上げ」 の発端となったのかという未解決の疑問への明確な回答) が行われるとともに、 取り調べの可視化 (すべての取り調べ過程の録音・録画だけでなく、弁護士同席の義務化を含めて) が実現することを強く求めたいと思います。

  この志布志事件はこれからの日本の人権と民主主義の将来のあり方を決める試金石となっているといっても過言ではありません。 その意味でも、この事件を風化させることがあっては絶対にならないと思います。(続く)

2008年12月8日
木村 朗(きむら あきら、鹿児島大学教員、平和学専攻)