2008.12.26

「時代の奔流を見据えて──危機の時代の平和学」

目次 プロフィール
木村 朗 (きむら あきら、鹿児島大学教員、平和学専攻)

第四回 「志布志事件とは何であったのか
──“えん罪”の構図とメディアの功罪を問う (下)」

☆犯罪報道による人権の侵害と救済−メディアの功罪、光と影
  鹿児島大学で2007年1月に行われた公開シンポジウムの席で、松本サリン事件での直接の被害者であった河野義行さんは、 その後、警察当局から “えん罪” の濡れ衣と “報道被害” も受けた経験をふまえて 「最初、私はマスコミによって犯人にされてしまった。 しかし逆にあとはマスコミによって救われた」 と語られています (木村 朗編 『メディアは私たちを守れるか?― 松本サリン・志布志事件にみる冤罪と報道被害』 凱風社、2007年11月、を参照)。
  これと同じ趣旨のことを、まさに志布志事件の当事者であった被害者の方々も異口同音に指摘されており、メディアの持つ大きな影響力、 役割を改めて思わざるを得ません。 ここには、メディアの二面性というべきか、メディアの功罪、光と影という二つの側面が端的に表れており、志布志事件とメディアとの関係で私が最も思うところです。

  今日から振り返れば、松本サリン事件で河野さんが逮捕を免れたのも、志布志事件で12人の被告全員が無罪を勝ち取ることができたのも、 まさに有罪判決とは紙一重の偶然の産物であり、本当に幸運であったとしか言いようがありません。 両事件とも、まかり間違えば “えん罪” の濡れ衣がそのまま既成事実とされ有罪判決が出されていたかも知れませんし、 特に志布志事件の場合は、3人もの被害者の方が自殺未遂をおこすまでに追いつめられていたわけで、 最悪の場合は死者が出ても不思議ではない事件であったと思うからです。

  松本サリン事件が一応収束した後も、「今後も冤罪事件や報道被害が無くなることはないだろう。第二の河野さんが必ず出ることになる」 との多くの声が出されていました。 そして、ある意味で志布志事件はそのことを実証したと言ってもよいかもしれません。 この事件が起きた地元である大隅半島の志布志では、未だに被害者たちに県議会選挙での買収事件は本当にあったのではないのかと疑いの目を向ける人々もいると聞いています。 このことは、警察による逮捕・取り調べという不当な容疑者扱いばかりでなく、メディアによる誤った犯人視報道がいかに人々の脳裏に大きな印象を作り出して、 それが根強く残ることになるかを示しています。
  それでは、なぜこのような “えん罪” 事件や報道被害が繰り返されるのでしょうか。 今回は、特にメディアの役割とメディア・権力・市民の3者の関係に注目してこの問題を考えてみようと思います。

☆メディアは志布志事件をどのように伝えたのか?
        ―初期報道における誤りと報道被害の発生

  志布志事件では、犯罪報道による人権侵害である報道被害も生じています。特に初期報道において、 一部のメディア関係者が捜査当局の誘導に抗うことなくその流れに乗ったばかりでなく、 世間 (一般市民) による被疑者・被告人へのバッシング (村八分的な扱いや嫌がらせ、無言電話など) なども行われ、 その結果、被疑者・被告人たちは失業や体調不良などの二次被害を被っています。
  私は、平和問題ゼミナールという自主ゼミを月1回、学生、院生、留学生だけではなくて、社会人の方、 一般の市民にも加わっていただくような形で1997年からほぼ11年、150回以上続けています。 この志布志事件では、踏み字事件の担当弁護人もされた野平康博弁護士と、警察発表に依存した初期報道を行った誤りを自省しつつ、 その後は事件解明と無罪判決に尽力された KYT キャスターの蛭川雄二さんに、それぞれ別の機会に来ていただいて非常に率直なお話をしていただきました。 そのときに蛭川氏から出していただいた資料の一部をご紹介させていただきます。

◇志布志 ‘えん罪’ 事件は捜査当局の発表を鵜呑みにした報道に警鐘を鳴らした。私は事件の第一報となった 「藤元いち子さん逮捕」 のニュース原稿を書いた。 事件のおかしさに気付いたあと、いくら声高に 「えん罪疑惑」 を叫んだところで、彼女たちを 「犯人扱い」 して報道してしまった事実は一生消えない。 私は今、その十字架を背負いながら事件の真相解明に向け、走り回っている。それがせめてもの 「償い」 だと思っているからだ。

◇事件の舞台とされた懐集落を初めて訪ねた時の衝撃が忘れられない。志布志市の中心部から20キロあまり離れた山間にあり、 わずか7世帯20人が寄り添うように暮らしている。「こんな田舎で買収会合? 191万円もばら撒かれたのか?」 と首をかしげた。 集落の被告たちにカメラを向けるとこんな声が返ってきた。「マスコミも警察と一緒ですがね! 私たちを犯人扱いして! 私たちは警察の作り話で逮捕されたんだがね!」 と。 関係者の証言はどれもその場に居た者でしか語り得ない説得力のあるものばかり。取材を進めれば進めるほど 「自白調書はうそだらけだ。 えん罪に間違いない」 と確信した。

◇県警との対決姿勢を明確に示すことになったのが2006年年9月に日本テレビ系列で全国放送した 「NNN ドキュメント’06」 だ。 被告たちの怒りや供述の矛盾に加え、事件を通して彼らが失ったものなどを描いた。タイトルは 「嘘ひいごろ〜鹿児島選挙違反えん罪疑惑」 に決まった。 「嘘ひいごろ」 とは鹿児島弁で 「嘘つき」のことだ。「えん罪の可能性が高いとはいえ、警察を嘘つき呼ばわりして良いものか?」。 正直迷いもあったが、涙ながらにえん罪を訴える被告たちの姿を思い浮かべ制作に集中した。放送後の反応はすさまじかった。

  これらは後に、「嘘ひいごろ」 「続・嘘ひいごろ」 とか 「でっちあげ」 の制作にもかかわられる蛭川さんの貴重な証言ですが、 ここにもメディアの果たした功罪二つの役割が非常に見事に表れていると思います。
  また、志布志事件の主犯とされた中山信一県議にも、今年 (2008年) 2月の鹿児島大学での公開シンポジウムに駆けつけていただき、 単刀直入に 「報道陣の方にも襟を正していただきたい」 と話されていたことが強く印象に残っています。 フリージャーナリストの粟野仁雄さんの 「もうひとつ、言っておきたいのは新聞やテレビのことだ。 今でこそ捜査陣を糾弾しているが、警察が選挙違反の逮捕を発表した時、現地取材して逮捕記事を書いた記者は少ない。 しかも新聞やテレビは今なお、卑劣な刑事や署長たちの名を伏せて報じている。一体、どこまで権力に気を遣うつもりなのか」 (「選挙違反でっち上げ 鹿児島県警の卑劣」 (『WiLL』 2007年7月号) という指摘も注目されます。

  志布志事件では、松本サリン事件の時に河野義行さんが受けたような、露骨な報道被害はあまりなかったと言えるのかもしれません。 しかし、非公式情報さえ警察・捜査当局は流さない、あるいは被疑者が否認しているか・肯定しているかも答えない、というというような警察・ 捜査当局の不自然な対応・姿勢に疑問を持たず、そうした視点に立った報道もごく一部 (鹿児島新報や西日本新聞など) を除いてなされなかったことも事実だと思います。
  その一方で、例えば中山県議が逮捕されるときには、メディアは警察から事前情報をもらった上で、逮捕の瞬間をとらえてセンセーショナルに実名報道をしています。 また、国選弁護人の解任という重大な問題をめぐって、その解任を報じた記事・ニュースでも、弁護士側の言い分も両論併記で少しは伝えてはいるのですが、 その重大な意味合いをとらえて伝えることはできなかったわけです。
  こうしたメディア側の問題点は、報道被害を直接に受けた被害者やメディアの報道によって事実が歪曲されたと感じられている弁護士の方々に、 メディア関係者が直接問い直してみることによってその理解が一層深まると思います。

  そして、結果的に被害者たちが受けた傷が非常に大きなものであり、捜査当局による過酷な取り調べが直接の原因であるとはいえ、 自殺未遂さえ引き起こされているという事実をメディア関係者もやはり重く受け止める必要があると思います。 被害者の一人の自殺未遂は逮捕時の実名報道後に生じていますし、 被害者たちが逮捕・報道される前から自分の名前が実名で報道されることに恐れを抱いていたであろうことも推察されます。 メディアによる誤った犯人視報道が、まかり間違えば被害者の自殺に荷担することさえあり得るとの自覚がメディア関係者には必要なのではないでしょうか。
  今年1月の公開シンポジウムで、「“えん罪” 事件と犯罪報道の落とし穴―志布志事件を中心に」 という題目で講演をしていただいた梓澤和幸弁護士が、 報道被害によって被害者が自殺した事例を紹介されて注意を喚起されていたことを、ここでも改めてお伝えしておきたいと思います。

☆メディアによる権力の監視と人権侵害からの救済
  志布志事件では、メディアは当初警察情報に沿った報道を忠実に流し、それを鵜呑みにした市民が、 被害者となった人々に対してさまざま人権侵害行為を行なうという事実がありました。 ところが、その “えん罪” や報道被害の流れをつくり出した側に当初は身を置いたメディアの一部が、 やはりこの事件は何かがおかしいという疑問をもった時点から変わりはじめます。 そのことに気づいた何人かのジャーナリストが、現場に直接足を運び、捜査資料その他を丹念に検討し直すとともに、 検察・警察の内部の良心的な人々からの情報提供 (勇気ある内部告発だと思います) を受けて、 犯人視報道から有罪判決になりかねないこの事件の流れを逆転させることになりました。
  もちろん、何よりも被害者とその家族の方々が権力に最後まで屈しないとの強い信念で公判以降一貫して闘われてきたことや、 事件に関わった多くの弁護士がほとんど手弁当で奮闘されてきたこと、友人・支援者が市民による支援団体を作って被害者を支え励ましたこと、 警察・検察の中にも今回の事件での捜査のあり方に疑問を持つ人々が多くいた、ということも無罪判決を勝ち取った大きな要因であることは間違いありません。 しかし、そうした中でも、とりわけメディアはそれまでの流れを変える大きなきっかけをつくり出したことは間違いないと思います。

  メディアがそれまでの初期報道の姿勢を転換してその後いかに奮闘したかについては、 朝日新聞鹿児島総局による一連の調査報道や、KYTによるドキュメント番組 「嘘ひいごろ」(2006年9月17日)、「続・嘘ひいごろ」(2007年3月4日)、 および再現ドラマ 「でっちあげ」(鹿児島県では2007年9月15日、首都圏では翌16日に放送された)、 テレビ朝日の特集番組 「ザ・スクープ」(2007年3月04日)、MBC放送の 「どーんと鹿児島」 での特別番組2007年5月31日) などの取り組みを挙げることができると思います。

  その最初のきっかけは、犯行日が特定されていない1枚の起訴状という不自然さがあり、これに朝日新聞社鹿児島総局 (当時の総局長は梶山 天さん) が気づき、 この事件の徹底的な洗い直しを行うとともに、捜査関係者との極秘の接触を試みはじめたことが大きかったと思います (この経緯については、 朝日新聞社鹿児島総局 『「冤罪」 を追え 志布志事件との1000日』 朝日新聞社、2008年5月、を参照)。 その結果、心ある捜査関係者からの内部告発・情報提供がメディア関係者にもたらされるようになり、志布志事件の捜査の裏側の事情が表に出ることになったからです。
  捜査関係者から報道機関へ届けられた県警内部資料の中でも特に注目されるのが、 前回でも述べた事件の公判前に県警と鹿児島地検が協議した内容が記されていた文書であり、そこには 「調査小票」 と供述調書の矛盾点があるために、 この小票をあらゆる手を尽くして出さない方針を採ることがあからさまに記されていたのです。
  そして、こうしたメディアによる内部告発者の協力を得た確かな情報に基づく調査報道が行われることによって、次第にそれが捜査の流れや世論の動向を変え、 最終的には裁判官を動かして無罪判決を出すにいたった大きな契機・要因となったことは間違いないと思います。

☆報道被害の再発防止策について
  これまでの考察・検討により、メディアと権力 (警察・検察といった捜査当局) との関係の在り方を見直す必要があるのではないでしょうか。 下記の疋田記者のレポートでも指摘されているように、権力と一定の距離を取り、警察情報を一度は疑ってみる、ということが何よりも大事だと思います。 また、特に警察情報への過度の依存構造からの脱却や、現場第一主義の徹底と独自の裏付け調査の重要性をここでは強調しておきたいと思います。

<故疋田圭一郎記者 (朝日新聞社) の1976年9月の社内向けのリポート 「ある事件記事の間違い」>
  1.警察の発表は一度は疑う、 2.現場に行ったり、関係者に当たり裏付け取材する、 3.記事の中で 「警察情報である」 ことを明示する  4.わからないことは 「わからない」 とはっきり書く  5.もっと続報を書く  6.無理に話を面白くしない  7.取材競争での勝ち負けに力点を置いた評価基準を変える


  また、報道機関の方と警察・検察の方は同じ使命感、秩序観に基づく行動の共通点や相互の信頼感・相互依存感情があると言われています。 それはある意味で自然なことかもしれませんが、それが一種の馴れ合いとか癒着につながってはならないと思います。 メディア関係者が警察・検察側に必要以上に親近感を持っているというのは少し問題だと思いますので、 やはり、一定の緊張関係を保持する必要があるのではないでしょうか。

  警察情報を裏付けることの難しさは、実際、密室にいる被疑者・被告人との接触はできないことを考えても容易に推測できます。 しかし、メディア関係者は初期報道が世論を一定の方向に誘導する危険性があることを十分自覚して、取材・報道に臨む必要があるのではないでしょうか。 特に、被疑者が拘束中で直接取材できない段階では、被疑者側の言い分を伝えるためには、弁護士や被害者の家族や支援者などとの協力関係、 信頼関係を構築していく必要があると思います。

  朝日新聞社鹿児島総局の梶山さんや KYT の蛭川さんなど魂のあるジャーナリストが少なからずおられるということは非常に勇気づけられましたが、 彼らは被害者の方と警察や検察の内部の心ある人々との信頼関係を構築したからこそ、貴重な内部情報・捜査資料の提供を受けることができたのだと思います。 メディア関係者が権力側と一定の距離を取りつつ、普段から市民の側に立った人間関係を築いていくことの重要性をここでも強調して起きたいと思います。 具体的には、弁護士側の 「守秘義務の壁」 があるとは思いますが、今後、弁護士の方とメディア関係者だけでなく、 私のような研究者や人権問題に関心のある市民なども加わる形で、日常的な、 例えば隔月ぐらいの割合で顔合わせ (研究会・学習会という形式にこだわらない形で) ができればと考えています。

  もう一つ重要だと思われるのは、実名報道か匿名報道かという原則に関わる問題です。 この問題では、被害者の方から、志布志事件で自分たちは犯人視報道されて非常に苦しい思いをしたので、 せめて初期報道での実名報道はやめてもらいたいとの声が上がっています。 また、弁護士側からは少なくとも、捜査段階、あるいは参考人・被疑者扱い段階での実名報道は控えて欲しいとの意見が出されています。
  メディアが社会的制裁機能を持っているのは客観的な事実であり、ジャーナリストの正義感、使命感が裏目に出るような形で、メディア関係者が犯人捜しをしたり、 意図的なバッシングにつながるような報道をしたりするのはあってはならないことです。 報道被害を避けるためにも、やはり、起訴前の段階では、公人を除いて一般人の場合は実名報道を控えること必要なのではないでしょうか。

  報道被害を避けるためには、犯罪報道の重点を捜査段階から裁判段階へ移行させること以外にも、現行の記者クラブ制度の抜本的見直しを行う、 市民による独立した報道評議会を早急に設置する、などが考えられます。 ここではメディア関係者に、「発表ジャーナリズム」 からの脱却、すなわち裏付けの取れない情報は決して報道しない覚悟を特に求めたいと思います (その前提として警察による捜査情報の一元的管理の見直しと、情報公開の対象拡大を実現が急務であることはもちろん必要ですが)。

  最後に、「権力とメディアと市民との三者関係のあるべき姿は何なのか」 という問題に触れておこうと思います。 近年、メディア・スクラム (集団過熱取材) という問題が過度に報道された結果、マスコミ不信が増長され、 それを利用した形で権力がメディア規制を強めているという流れが一方にあります。 またそれとは逆に、メディア・ファシズム、すなわち権力とメディアが一体化して深層を隠蔽し虚偽をねつ造して垂れ流す翼賛報道状況もあります。 その中で 「権力がメディアを使って市民を陥れる」 というとんでもない事態も生まれています。
  例えば、山口県の光市母子殺害事件をめぐる裁判では、最高裁の法廷に出席できなかった弁護士を、メディアが、 まさに権力 (裁判所・検察) 側に立ってバッシングするという異常な事態が起こっています。 とくに、あるテレビ番組のことですが、記者会見で法廷を欠席せざるを得なかった理由を述べ、被告を正当に弁護しようとした弁護人の主張を非難・罵倒しただけでなく、 その弁護士資格の剥奪を視聴者に呼びかけて、あえて扇動するような発言を繰り返したコメンテーター・出演者の姿と、 それを許した番組の演出・作為はあまりにもひどくて声を失うほどでした。 メディア関係者の方には、特に、「何をするべきか」 以上に、「何をしてはならないか」 という視点・発想を持つことが、 いかに重要であるかという問題をもっと深く考えてもらいたいと思います。

  「疑わしきは罰せず」 とか、「罪を憎んで人を憎まず」 という言葉がありますが、それがほとんど機能していないというのが現状だと思います。 志布志事件は人権をめぐる問題ですが、平和をめぐる問題、民主主義の問題を含めて、とりわけ9・11事件以後の世界と日本の現状はかなり深刻だと思います。 現在、導入が計画されている裁判員制度についても、市民の政治参加による刑事司法の改善と民主主義の拡大をもたらすというよりも、 実は権力による国民の動員・統制につながる大きな危険性・罠があって、将来大きな禍根を残すことになるのではないかという深い懸念を持っています。 また、死刑制度や代理監獄を存置したままで導入がはじまった被害者参加制度についても、 「無罪推定原則」 の形骸化と厳罰化にさらに拍車をかけ、検察側の主張を一方的に通す結果となるとの懸念を持たざるを得ません。

  私は、こういう現在の状況に強い危機感を抱いているのはもちろんですが、未来への希望や展望まで失っているわけではありません。 というのは、今回の志布志事件を通じても、魂のあるジャーナリストや権力に屈しない弁護士の奮闘だけでなく、 何よりも、あの長期の過酷な取り調べ・勾留に耐えて現在も闘っておられる被害者の方々や、 捜査当局 (警察や検察) 内部にも多くの心ある人々がいたからこそ真実が表に出たということを知っているからです。

  現在、何よりも求められているのは、メディアと市民 (弁護士を含む) が、一緒に力を合わせて権力の暴走をチェックすることではないかと思います。 特に、魂のあるジャーナリストが、ジャーナリズム本来の権力批判の原点に立ち返って、 暴走しはじめている国家 (政府) と資本 (企業) に国民、市民の側からチェックをかけていく積極的な役割を果たしていくことが、 民主主義からファシズムへ徐々に (しかし、確実に) 移行しつつある現在の深刻な状況に、歯止めをかける最も有効な方法ではないでしょうか。
(終わり)

<参考文献一覧>
(1) 木村 朗編 『メディアは私たちを守れるか?―松本サリン・志布志事件にみる冤罪と報道被害』 凱風社、2007年11月。
(2) 朝日新聞社鹿児島総局 『「冤罪」を追え 志布志事件との1000日』 朝日新聞社、2008年5月。
   同上 「ドキュメント志布志事件 (上) (下)」 『世界』 2008年1・2月号。
(3) 栗野仁雄 『警察の犯罪―鹿児島県警・志布志事件』 WAC、2008年8月。
(4) 辻 惠 (前民主党衆議院議員・弁護士) 著 『デッチあげを許さない 志布志選挙違反事件の真実」(東京・イプシロン出版企画)、2007年12月。
(5) 梓澤和幸著 『報道被害』 (岩波新書) 岩波書店、2007年1月。
(6) 原 寿雄著 『ジャーナリズムの思想』 (岩波新書) 岩波書店、1994年4月。
(7) 浅野健一著 『メディア 「凶乱」―報道加害と冤罪の構造を撃つ』 社会評論社、2007年12月。
(8) 今村 核著 『冤罪弁護士』 旬報社、2008年1月。
(9) 原 寿雄/田島泰彦/桂 敬一 (共著) 『メディア規制とテロ・戦争報道―問われる言論の自由とジャーナリズム』 明石書店、2001年12月。
(10) 田中克人著 『殺人犯を裁けますか?―裁判員制度の問題点』 駒草出版、2007年4月。
(11) 西野喜一著 『裁判員制度の正体』 (講談社現代新書) 講談社、2007年8月。
(12) 伊藤和子著 『誤判を生まない裁判員制度への課題―アメリカ刑事司法改革からの提言』 現代人文社、2006年12月。
(13) 田中森一著 『反転―闇社会の守護神と呼ばれて』 幻冬舎、2007年6月 。
(14) 森 達也著 『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』 朝日出版社、2008年1月。
(15) 『現代の理論−特集 メディアと権力』 2007年夏季号。
(16) 柴田鉄治・外岡秀俊編 『新聞記者 疋田桂一郎とその仕事』 朝日新聞社、2007年11月。


2008年12月26日
木村 朗(きむら あきら、鹿児島大学教員、平和学専攻)