2009.5.15更新

「時代の奔流を見据えて──危機の時代の平和学」

目次 プロフィール
木村 朗 (きむら あきら、鹿児島大学教員、平和学専攻)

第十二回 「裁判員制度を根源から問い直す
──後世に禍根を残さないために(中)」

3 刑事司法の現状をどうみるか−その深刻な問題点の数々
  ここでは、日本の刑事司法をめぐる現状の評価という問題を少し掘り下げて考えてみたいと思います。 刑事司法の意義は、犯人を迅速に逮捕・検挙し、適正な捜査・取り調べで得た根拠に基づいて起訴し、 裁判・公判審理を経て、適正な刑罰と教育・更正の機会を与えることによって、犯罪を犯した者の矯正と再犯防止 (社会的背景や原因の解明を含む) をはかり、 国民生活に安寧を保障するところにあります。 換言すれば、刑事裁判は、治安の維持・有罪者必罰か、無実の発見・えん罪防止という、両立させることが困難な二つの課題・目的を持っているということです。

  ここで注意すべきは、最優先されるべきは 「疑わしきは罰せず」 「疑わしきは被告人の利益に」 という無罪推定の原則、 すなわち被疑者・被告人の権利保障とえん罪の防止であり、捜査当局 (警察・検察)によって行使される権力の行使は被疑者・ 被告人の基本的人権を侵害するようなものであってはならないということです。 つまり、効率的な犯罪捜査や公平な裁判を通じて事件の真実発見・真相解明を追及するとともに、 適正手続の保障と基本的人権の尊重を貫くことが同時に要請されているわけです。

  しかし、こうした憲法・刑訴法が想定した形で実際の捜査・裁判が現在行われているかどうかについては大きな不安・懸念があると言わざるを得ません。 2007年には鹿児島の志布志事件、富山の氷見事件をはじめ 「えん罪」 事件での無罪判決があいつぎ、警察の取調べにおける人権侵害、証拠隠しといった、 「えん罪」 が作られる構造的な実態が明らかになったからです。 そして、多くの市民にとっては、こうした 「えん罪」 (「でっち上げ」 を含む) 事件が、戦前の日本において特別高等警察 (特高) ・ 憲兵隊や検察官によって行われた甚だしい人権侵害とダブって感じられたのではないでしょうか (拙稿・NPJ第三回論評 「志布志事件とは何であったのか−“えん罪” の構図とメディアの功罪を問う (上)」、を参照)。

  元日弁連会長で重慶大爆撃訴訟弁護団団長を務める土屋公献弁護士は、「検察官が権力を行使して収集した証拠の開示を自ら拒み得る現状、 つまり被告人に有利な証拠の隠匿を許す現状、代用監獄 (警察の留置場) という密室の中で行われる自白強要、その自白に基づく検事調書の証拠能力の認容、 事実を争う被告人に保釈を認めず長期勾留を続ける “人質司法”、証拠と事実認定との結びつきの説明を要しない判決書、 無実を主張することを反省の不足として量刑を重くする実状等々弊害は枚挙に遑がない」 と具体的事例を挙げて、 えん罪を生み誤判の温床にもなっている 「現在の救いがたい危機にある刑事訴訟制度とその運用状況」 を指摘するとともに、 こうした惨憺たる現状を改善する努力をしていたはずの日弁連が、「代用監獄の廃止、取り調べへの弁護人の立ち会い、取り調べ状況の録音又はビデオの開示、 自白調書の証拠能力の否定即ち自白法則 (任意性のない自白を排除すべきこと) の徹底、検察官手持証拠全部開示、権利保釈の徹底 (人質司法の廃止)、 判決理由の明確化等々」 の司法改革が 「どれ一つ実現しないまま、裁判員制度に逃げ込」 んだことを痛烈に批判されています (土屋公献・石松竹雄・伊佐千尋編著 『えん罪を生む裁判員制度 陪審裁判の復活に向けて』 現代人文社、2007年、を参照)。

  また、原爆症認定申請集団訴訟東京弁護団長やハンセン病違憲国家賠償訴訟東京弁護団副団長を務める高見澤昭治弁護士は、 「“判検交流” という言葉をご存知でしょうか。裁判官と検察官とはしょっちゅう人事交流で入れ替わっています。 国の代理人である訟務検事をやっていた者が、突然裁判官になったり、裁判官がいなくなったと思ったら検察庁で仕事しているということが頻繁に行なわれています。 これまでに総計で 1500人もが人事交流で裁判所と法務省・検察庁の間を行き来していることが分かっています。 裁判官と検察官が癒着し、一体感を持つのも当然ではないでしょうか」 「みなさんもご存知のウォルフレンは、有名な 『日本/権力構造の謎』 の中で、 “現在、最高裁事務総局の司法官僚群が日本の司法全体を監視している。裁判実務に携わる裁判官でないこうした官僚が、裁判官の任命、昇格人事、給与の決定、 解任を牛耳っているのである” “法の番人としては最高の地位にある判事も官僚にはかなわない” と書いていますが、 実態はまさにその通りだと思います」 「“裁判官の独立性” を侵している官僚司法制度が今の日本の裁判所の最大かつ根本的な問題だと言っていい」 (『週刊金曜日』 2001年2月16日号より)と述べて、 裁判所と検察庁の 「癒着の構造」 を生み出す判検交流をはじめ、現行官僚司法制度の問題点を鋭く指摘されています。

  この他にも、『犯罪報道の犯罪』 (新風舎文庫、新版版 2004/06) の著作で知られる浅野健一・同志社大学教授は、 「任意捜査段階からの可視化が全く実現せず、代用監獄の存続、“別件” 逮捕の常態化、逮捕状・勾留状などの令状のチェックなしの発付、 無罪判決に対して国 (検察) の控訴が可能 (double jeopardy の禁止に違反)、弁護人が取り調べに同席する権利がないなど、世界でも最悪の人権状況がある。 このような戦前と同じ体質の刑事手続きが存続する中で、公判前手続きからは排除される裁判員が5、6日の連続審理だけに参加する制度は問題。 冤罪被害者のほとんどが “裁判員制度で、かえって冤罪が増える。国民が冤罪づくりの共犯者にされる” “冤罪に加担したとして自死する市民が出るのでは” と言っている」 (鹿児島大学での2009年1月21日の講演レジュメより) と、日本の刑事裁判のあり方に対する批判と裁判員制度への懸念を率直な言葉で語っています。

  このような日本の刑事司法・刑事裁判の戦前への回帰志向、憲法・刑訴法の理念から著しく隔たった運用実態は、個々の具体的事件の真相解明だけでなく、 市民の基本的人権の保障という観点からも深刻かつ重大な問題を孕んでいると思われます。 今後のあるべき刑事司法を考える上で特に重要と思われるのは、過去の 「えん罪」 ・誤判から司法関係者とマスコミ関係者、 そして一般市民が何を学ぶべきなのか、という視点です。 そして、そのような視点から、刑事司法の現行システムや捜査・取り調べのあり方が 「えん罪」 ・誤判を生み出すような構造となっていないか、 あるいは 「えん罪」 ・誤判に対する歯止め・防止策がきちんと機能しているかなどを、もう一度徹底的に検討し直す必要があります。 この点で参考になるのが、国際人権 (自由権) 規約委員会の勧告です。

  国連の自由権規約委員会は、2008年10月に日本政府報告書の審査をふまえた最終見解を発表しました。 その最終見解で、自由権規約委員会は、日本政府に対して、刑事司法の人権にかかわる問題について、代用監獄制度の廃止、証拠開示の保障、 「無罪推定の原則」 の再確認と徹底、弁護人の同席を含む取調べの可視化、起訴便宜主義の問題点とその改善、起訴前保釈制度や被疑者国選弁護人制度の導入、 死刑制度の廃止などを強く勧告しています。前年 (2007年) 5月には、国連の拷問禁止委員会も同じ趣旨の勧告を行っています。 しかし、日本政府や法務省、検察庁、最高裁などが、こうした国連の委員会による勧告を真剣に受けとめて、 早急に制度・運用の根本的な改善・改革に着手する兆しは残念ながら一向に見えません。 そして、多くの問題を積み残しながら裁判員制度がもうすぐ始まろうとしているわけですが、刑事裁判の手続はこのままでいいのかという市民の懸念、 とりわけ 「えん罪」 ・誤判を引き起こすことがあってはならないという問題意識が次第に高まっていると思われるいまこそ、 国連の勧告でも指摘されている現在の日本の刑事司法・刑事裁判が抱えている重大な欠陥・問題点を、 早急に改善して刑事司法の民主化をすすめる必要があるのではないでしょうか。

4 裁判員制度導入で何が変わるのか−「えん罪」・誤判と死刑判決、憲法違反をめぐって
  裁判員制度の最大の問題は、「えん罪」 ・誤判を生じさせる現在の日本の刑事司法・刑事裁判が抱える深刻な構造的欠陥を是正するのではなく、 むしろそれを助長する恐れが強いということです。その理由は、最近の刑訴法の改正によってすでに導入されている公判前整理手続というやり方では、 これまでの弁護活動で用いられてきた無罪獲得のさまざまな手段や方法が使えなくなるばかりでなく、それに代わる有効な方策・対抗手段も見つからないということです。 つまり、第1回公判が始まる前の段階で争点整理が強行される公判前整理手続では、 被告人・弁護人側は原則的に初期段階でその全て証拠の証拠調請求をさせられ (あるいは自らの主張・立証の前倒しを要求され) ますが、 その一方で検察側が握っている全ての証拠 (特に被告人・弁護人側に有利な証拠) の開示を完全に行う保障がないため (逆に違法収集証拠を開示する可能性もあるため)、結果的に被告人・弁護側の防御活動が著しく困難になることは明らかだと思います。 また、裁判官がこの公判前整理手続きに参加することによって予断排除の原則が形骸化することも大きな問題です (前掲 『えん罪を生む裁判員制度』 の第2章 「公判前整理手続はえん罪を増加させる」 を参照)。

  そして何よりも戦慄すべきことは、世界の先進国ではきわめて稀な死刑制度が存置されたまま、 裁判員裁判 (裁判員制度とその運用) が異論を排除・封印する形でまもなく強行実施されようとしていることです。 こうした事態は、裁判員裁判で増加することさえ懸念・想定されている 「えん罪」 ・誤判による死刑判決の決定に一般市民が否応なく加担させられるという、 悪夢のような過酷な結果を招くことも充分あり得ることを意味しています。 これがいかに一般市民である裁判員にとって耐え難いことであるかは、最近世間の注目を再び集めた重大殺人事件で、 かつ本人が否認を貫き通している 「自白なき裁判」 で、決定的な物的証拠を欠き動機の解明もないまま、 曖昧な目撃証言など状況証拠の積み重ねだけで、 死刑判決が最高裁でも出されるにいたった和歌山毒物カレー事件をちょっとでも考えれば分かるのではないでしょうか (例えば、 『冤罪ファイル』 2009年6月号の特集を参照)。 実際に、裁判員裁判で一般市民である裁判員が選択を迫られるのは、 一般に心理的負担が大きいと言われている 「死刑」 か 「無期懲役」 かという 「苦渋の選択」 ばかりでなく、 「死刑」 か 「無罪」 かという究極の 「悪魔の選択」 でもあり得るという厳然たる事実です。

  『思考停止社会−「遵守」 に蝕まれる日本』 (講談社現代新書、2009/2/19) の著者で、 最近の民主党・小沢一郎代表秘書逮捕事件を 「総選挙を直前に控えた “国策捜査” ではないかとの疑念」 を明言していることでも注目されている郷原信郎氏 (桐蔭横浜大学法科大学院教授・弁護士) は、「裁判員制度は中世の魔女狩り」=保坂議員と郷原弁護士がトークライブで異議 (2009年5月9日/ PJ (パブリック・ジャーナリスト) ニュース) の中で、 「米国の陪審制では被告人に裁判方式の選択権が与えられている上、一人でも反対していれば救済されることや、 欧州の参審制では推薦によって参審員が選ばれるとともに、量刑については死刑が廃止されていること」 などを挙げたうえで、 「最近、アメリカでは死刑を求めることもあるが、多数決とは違い、歯止めを掛けている。 日本の裁判員制度は証拠でなく、印象による “民衆裁判” になりかねず、第2の和歌山カレー事件や秋田児童殺害事件を生みかねない。 そうなれば中世の魔女狩りと同じだ」 と核心を突いた批判をされていますが、私もまったく同感です。

  このように見てくると、「国民参加による透明、公正で迅速な裁判と民主的な刑事司法の実現」 を旗印に、 日米両政府や法曹三者・官僚・財界によって上から強力に推進されてきた裁判員制度は、まさに (日弁連も当初求めていた) 陪審制度とは似て非なるものであり、 「国際的にも類を見ないモンスターみたいな制度」 あるいは 「世界に例のない野蛮な制度」 (いずれも郷原氏の言葉) と言っても過言でないことが分かってくるのではないでしょうか。

  さらに、裁判員制度では、裁判の迅速化・期間短縮が何よりも優先され裁判員の負担軽減のために、 事件の真実発見や裁判の公平性・正確性が犠牲にされようとしていることは全くの本末転倒であると言わざるを得ません。 裁判員制度において、裁判員になる一般市民も裁判員裁判を受けることになる被告人も、それが選択できる権利ではなく義務・強制となっていることも大きな問題です。 この点に関連して、伊藤真氏 (伊藤塾塾長・法学館憲法研究所所長) は、裁判員制度について 「自分の意思とは無関係に裁判員に選ばれ、 考えたくもない殺人現場を想像することを強いられたりします。死刑か否かの判断をせざるを得ない状況に置かれるかもしれません。 これらの強制は憲法18条に違反する疑いが強く、また、真摯な内心的理由から裁判員になることを拒んでいる人にそれを強制することは、 思想良心の自由を侵害する可能性 (憲法19条違反−木村) もあります」 と述べていますが、 その他にも、「裁判員は、客観的な証拠と被害者の主張とをしっかり区別しなければ、公平な裁判所の裁判を受ける権利 (37条1項) のみならず、 無罪推定の原則 (憲法31条) にすら反してしまいます」 など、 日本の裁判員制度にはさまざまな憲法上の問題があることを分かりやすく指摘されています (JICL 「中高生のための憲法教室−第44回<裁判員制度>」、を参照)。 また、大久保太郎氏 (「裁判員法の廃止を求める会」 代表代行・元東京高裁部総括判事) も、「裁判官の任命方法」 (憲法80条1項) など、 7つの事柄で違憲の疑いがあると主張しています (池内ひろ美氏との共著 『裁判長! 話が違うじゃないですか-国民に知らされない裁判員制度の 「不都合な真実」』 小学館101新書、2009/4/2、を参照)。

  最後に、裁判員制度のさまざまな問題点を人権と報道・連絡会世話人の山口正紀氏が見事に整理してくれていますので、ご参考までに紹介させていただきます。
  ☆2009年2月1日に鹿児島大学稲盛会館で開催された法文学部主催第4回マスコミ講座公開シンポジウム : 「事件報道のあり方を問う―裁判員制度を前に」 で出された山口正紀氏の資料レジュメ、『鹿児島大学現代GP [地域マスコミと連携した総合的キャリア教育] 2008年度報告書』 所収)
[1] 骨抜きにされた市民参加の利点 (陪審制の精神)
  ・陪審制では、(1) 被告人が、陪審か裁判官裁判かを選択できる (2) 審理は陪審員だけで行い、有罪・無罪の認定を全員一致で評決 (量刑判断はしない)  (3) 検察の上訴権を認めない
  ・「被告人の権利保護」 「疑わしきは罰せず」 の価値観を軽視する裁判員制度

[2] 最大の問題――「公判前整理手続き」
  ・ 「裁判迅速化」 として一部 「先取り実施」 (2005年11月施行)
   「裁判員に負担をかけず短期間に集中審理するため」 として先行導入
  ・被告人の立場からは重大な不利益

1 整理手続き後は新たな証拠調べを請求できないこと
  もし、検察が事件の核心となる重要な証拠を隠していたら?公判開始後に、弁護人がアリバイ証言など新たな証拠を発見したら? (いずれも、過去の冤罪事件で現実にあった)

2 公判前に弁護人に主張・立証内容を示すよう求められること
  「公訴事実の立証責任は検察が負う」 という刑事訴訟法の原則に反し、弁護側に 「無罪立証」 を要求。 もし、弁護側の手の内を知った検察 (警察) が、証人つぶしをしたら?

3 手続き全体が非公開で被告人抜きでも可能なこと
  被告人の 「公開裁判を受ける権利」 を侵害し、裁判を密室化。もし弁護人も被告人の訴えを聞かず、 有罪心証をもったら? 「三者談合」 で、裁判前に審理の方向が決められる (富山冤罪事件などで実際にあった)

4 「自白偏重裁判」 の弊害を拡大すること
  日本の裁判官は、法廷証言より捜査段階の供述調書を重視する。この調書の証拠能力の判断も、今後は密室 (公判前整理手続き) で行なわれる。 それが 「証拠能力あり」 として示されたら、被告人が 「自白は強要されたもの」 と法廷で訴えても、裁判員が耳を傾けてくれるか
● 「自白強要」 をなくすための取り調べ過程の可視化は実現していない
● 「否認すれば接見禁止・長期勾留」 の人質司法も改められていない

5 公判前手続きを担当した裁判官が、そのまま裁判員と合議し、評決に加わること
  刑事訴訟法は裁判官の予断排除を原則とする (起訴状一本主義)。しかし、整理手続きで事件の詳細を知った裁判官は、公判前に 「予断」 を抱く。 しかも、裁判官は事実認定から量刑まで多数決の評決に加わる。法律の専門知識に加え、詳細な事件への予備知識を持った裁判官と 「素人」 の裁判員による審理が、 果たして 「対等」 なものになるか

[3] 想定されていなかった被害者参加制度
  ・裁判員法制定 (2004年5月) 後に作られた被害者参加制度 (2007年6月) を先行導入
  ・裁判員に心理的圧力を与える 「遺族の怒り」

[4] 市民が死刑に加担させられる可能性

[5] 制度に対する検証報道を阻む裁判員の 「守秘義務」

【私 (山口) の評価】
  裁判員制度は、刑事裁判における無実発見のための「市民参加の利点」を最小限にとどめ、「被告人の権利」 を最大限に制限する制度である。

(続く)
2009年5月14日