2009.12.11更新

「時代の奔流を見据えて──危機の時代の平和学」

目次 プロフィール
木村 朗 (きむら あきら、鹿児島大学教員、平和学専攻)


第十八回 68回目の“開戦記念日”に想う
−重慶爆撃から日米開戦・原爆投下へ


九平研のメンバーと重慶市の 「大隧道惨案」 の慰霊碑前で

  今日はアジア太平洋戦争の開戦68周年記念日です。今年の8月18日(火)から23日(日)までの5泊6日の日程で、 南京・重慶・上海への平和の旅に九平研のメンバー総勢21名で行ってきました。 この平和の旅は、九州平和教育研究協議会(九平研:長崎平和研究所の創設者でもあった故鎌田定夫先生が長年会長を務められ、 2002年から私がそのあとを受け継がせていただいている)が行った第3回フィールドワークですが、第1回の韓国への平和の旅(注1)、 第2回の中国東北地域(旧満州)への旅(注2)と同じく、大変重く厳しいながらも印象に残る旅でした。 その中国への平和の旅においては、 南京虐殺と重慶爆撃の歴史を現地で被害者とその遺族を含む中国の方々との交流を通じて歴史の認識・記憶を確認・共有するとともに、 日中両国の市民レベルでの反戦・平和のための友好・連帯を深めることが二つの柱でした。 今回は、その中でも重慶への訪問について短く報告させていただくと同時に、 重慶爆撃と原爆投下との関連を 「無差別爆撃の延長としての原爆投下」 という視点から考察したいと思います。

  具体的なコース・訪問地は、福岡→(上海)→南京→重慶→上海→福岡で、南京では 「侵華日軍南京大虐殺記念館」 を訪れて、 当時の生々しい被害の状況を訴える生存者の方のお話を副館長同席の懇談会でお聞きしました。 また、南京から空路で移動した重慶では、重慶爆撃(空爆)による被害地のひとつである 「大隧道惨案」 現場への慰霊参拝を行うとともに、 その当時に防空壕の中で被害にあった方々 (近年、重慶爆撃によって受けた被害に対する謝罪と補償を日本政府に求める損害賠償を要求して訴訟を日本の支援者ととともに提起されている当事者を含む) との面会・懇談も行うことができました。

  南京虐殺事件についてはここであらためて説明することは省かせていただきますが、 重慶爆撃については現在の日本人にはあまり知られていないと思いますので少し触れさせていただきます。 重慶は当時の中国の臨時首都であり、日本軍によるアジアでの初めての無差別爆撃が1938年2月〜43年8月の5年半にもわたって行われ、 218回もの爆撃で1万1889人もの市民が犠牲になっています。 この非戦闘員を大量に殺害・負傷させることになった日本軍による重慶爆撃は、当時の国際社会から強い非難・反発を受けました。 その中心にいたのが米国でした。また、重慶爆撃は日米開戦を導くきっかけとなっただけでなく、 重慶爆撃を最も激しく非難・攻撃していた米国によってのちに東京大空襲を初めとする日本本土空襲が行われ、最後に広島・長崎への原爆投下につながったのでした。 このことはまさに歴史の皮肉な巡り合わせとしか言いようがありませんが紛れもない事実であり、今日の私たちが直視しなければならない出来事であったと思います。

  ※ 「重慶大爆撃とは?」(注3)
  〈重慶大爆撃は、1938年から1943年までの5年半に及んでいる。日本軍が重慶の一般住民の殺戮を意図的に狙った残虐な無差別爆撃である。 日本は、1937年7月の廬溝橋事件で中国への全面的な侵略戦争を開始したが、これ以降日本軍機は上海、南京をはじめとする中国のほとんどの主要都市を爆撃した。 重慶大爆撃が最も激しかったのは1939年から41年までの3年間であった。1939年の 「五・三、五・四」、 1940年の 「101号作戦」、1941年の 「102号作戦」 ・ 「六・五大隧道惨案」 とそれぞれ呼ばれている爆撃では、重慶は甚大な被害を出した。 最近の資料では、この5年半の爆撃による死傷者は6万1300人、うち死者2万3600人、負傷者3万7700人とされる。 重慶大爆撃は、日本の侵略戦争に徹底抗戦する中国の政府・民衆の戦意喪失と侵略への屈服を狙った最大規模の無差別・戦略爆撃であり明白な戦争犯罪であった。〉


  今回の中国への平和の旅は、ほんの1週間足らずのあわただしい訪問ではありましたが、 現地に行って当事者の方々との直接の交流・意見交換を通じて日中両国間に生じた過去の出来事を再認識することは大きな意義を持っていると確信しています。 最近の日本では、田母神論文問題に見られるような歴史認識を歪曲・ねつ造する動きなどが再び浮上しており、 そうした戦争とファシズムへの道につながる危険な動向に有効に対処していくためにも、 今回の中国への訪問旅行で得られた新たな経験・認識を日本の多くの平和を志向する市民の方々と共有できることを願っています。


「無差別爆撃の延長としての原爆投下
−重慶爆撃からヒロシマ・ナガサキへ」
  1945年3月10日の米軍による東京大空襲は、約10万人という史上最大規模の犠牲者を出した。 それは、第一次世界大戦中に新兵器として登場した航空機と1920年代に形成された戦略爆撃の思想を背景にして行われた、 独軍によるゲルニカ爆撃(1937年4月)や日本軍による重慶爆撃(1939年5月)、 さらに米英軍によるドレスデン爆撃(1945年2月)などに続く市民を主な標的とした無差別爆撃であった。

  また、それに続く、悲惨な沖縄戦を経ての、広島・長崎への人類史上初めての原爆攻撃では、双方合わせて21万人以上(広島で約14万人、 長崎で約7万人)という東京大空襲をさらに上回る大きな犠牲者をだすことになった。 そして、このような無差別爆撃による大量殺戮は、第二次世界大戦後も朝鮮戦争やヴェトナム戦争、湾岸戦争やボスニア・コソヴォ紛争などで絶えず繰り返されてきた。 これは、「戦争と殺戮の世紀」 と呼ばれた20世紀が終わり、新しく21世紀を迎えたばかりの今日においても、アフガニスタンやイラク、 レバノンなどを舞台にして新たな形で行われており、それによって多くの貴重な人命が日々失われている。 そればかりでなく、国際社会はいまや、核兵器の先制使用という悪夢が現実化しかねない、 米国単独あるいは米国・イスラエルによるイランへの攻撃が差し迫りつつあるという危機的な状況に直面している。

  その一方で、重慶爆撃・東京大空襲などと広島・長崎への原爆投下を、無差別爆撃と大量殺戮という視点から裁判を通じて問い返す新しい動きが生まれている。 そこで、以下、無差別爆撃と原爆投下の今日的意味を、被害と加害の二重性を念頭に、「無差別爆撃の延長としての原爆投下」という新しい視点から捉え直してみたい。

  原爆投下問題を見直す場合のもう一つの重要なアプローチとして、無差別爆撃と原爆投下の関係を問う視点、 すなわち 「無差別爆撃による大量殺戮の延長」 としての原爆投下がある。そこで、無差別爆撃と大量殺戮という視点から、 まず無差別爆撃の起源から原爆投下への歴史的変遷を概観し、次にその無差別爆撃の今日的形態との共通性を考えてみたい。
  まず 「非戦闘員(民間人)の大量殺戮」 という明らかな戦争犯罪としての無差別爆撃の起源についてであるが、 それは戦略爆撃の思想および実践の変遷と密接な関連をもっている。 この 「戦略爆撃」 という言葉は、当初は軍需施設・工業地帯への 「精密爆撃」 という意味で用いられたものであり、 必ずしも最初から 「無差別爆撃」 と結びついたものではない。 しかし、兵器の性能・破壊力が向上して戦争がしだいにエスカレートするなかですぐに都市住民や都市全体の破壊を目的とする無差別爆撃へと変わることになった。 無差別爆撃は、スペインのゲルニカに対するナチス・ドイツの爆撃からはじまり、日本軍による重慶爆撃、 独軍によるロンドン爆撃やそれに対する報復としての米英軍によるハンブルク・ドレスデンなどへの爆撃、そして日本の東京・大阪・名古屋などへの大空襲、 最後に広島・長崎への原爆投下へとつながることになった。 こうした戦略の残虐さの段階的な上昇と比例して、交戦当事国における人道的価値・倫理的基準は急速に後退・低下することになる。
  そうした戦争の変質と人道的・倫理的基準の転換を背景として注目されるのが、日本軍によって引き起こされた重慶爆撃である。 これは、1931年の満州事変から上海・南京・武漢への日本軍による攻撃・占領が続く中で行われた、 当時の中国の国民党政府が本拠を置いていた臨時首都・重慶に対する初めての長期的戦略爆撃であり、当初から無差別爆撃の様相を色濃く呈していた。

  この重慶爆撃は、1938年2月18日から、1943年8月23日までの5年半の長期間にわたって行われ、死者11,889人、負傷者14,100人を出し、 破壊した家屋17,608戸であったといわれる(注4)。

  前田哲男氏は、重慶爆撃の特徴として、第一に、重慶爆撃は都市全体の破壊、あるいは都市住民の生命の剥奪そのものを狙った攻撃であったということ、 また第二に、空軍力のみによる攻撃であったということ、さらに第三に、それが相手国(指導者および民衆)の戦争への継続意志の破壊、 すなわち戦意喪失が目的であったということ、の3点を挙げている。 そして、その重慶爆撃を無差別都市爆撃の歴史の中に位置づけ、「戦政略爆撃」 なる名称を公式に掲げて実施された最初の意図的・組織的・継続的な空中爆撃で、 それまでの戦争と人間の関係を 「戦争と人間関係の希薄化」 へと一変させた 「(徹底的に)眼差しを欠いた戦争」 であったばかりでなく、 また日米関係史のなかで 「もう一つの真珠湾」 と表現できる意味と影響力を米国人の対日観に今日にいたるまでおよぼし続けていることなどを指摘している(注5)。

  このような中国の首都・重慶に対する日本軍による残虐な無差別爆撃は、「戦略爆撃のブーメラン」(前田哲男氏の言葉)という形で、 その後の日本に対する米国の攻撃(東京・大阪・名古屋等への無差別爆撃と広島・長崎への原爆投下)となって返ってくる。 まさに 「広島に先行するヒロシマ」 「東京空襲に先立つ無差別都市攻撃の先例」 であった。 そして、重慶爆撃と原爆投下に共通する特徴として、以下の諸点を挙げることができる(また、これらの点は、現在のアフガニスタン・イラク戦争にもそのまま当てはまる)。

  第一点は、無差別爆撃を正当化する戦争目的と軍事の論理である。これは、無差別爆撃によって一般国民に 「衝撃」 と 「恐怖(畏怖)」 を与えて、 敵国民の戦意・継戦意思を喪失させるのが最大の戦争目的であることである。 この点は、「衝撃と畏怖」 あるいは 「イラクの自由」 と命名された米英軍等によるイラク攻撃作戦の目的 (戦闘員の戦意喪失および非戦闘員の戦争継続・抵抗意思の剥奪)とも共通している。

  第二点は、無差別爆撃をしても敵との距離が遠いために、相手側の死傷した姿等の惨状を直接目にすることはないために良心の呵責や罪悪感を感じずにすむことである。 この点は、アウシュヴィッツ、南京等での大量殺戮と無差別爆撃・原爆投下との大きな違いでもある。 このことは、安全な遠隔地からのハイテク兵器によるピンポイント爆撃という 「戦争のゲーム化」 にも形を変えて現れているといえよう。

  第三点は、早期終戦・人命救済、すなわち戦争を短期間で終結させて犠牲者を最小限にできるという正当化の論理である。 だが、これは勝つためには手段を選ばないという野蛮な戦争のやり方をあたかも 「人道的方法」 であるかのように言う非常に欺瞞的な動機づけであると指摘せざるを得ない。

  第四点は、無差別爆撃を行う場合に、新型兵器の実験や訓練という要因が常にともなうことである。 例えば、重慶爆撃では、新しい 「零式戦闘機」、あるいは新しい爆撃機 「一式陸上攻撃機」、新しい焼夷弾 「新四号」 等が用いられた。 また、重慶爆撃はその後の日米戦争の前哨戦としての性格、すなわちそのための 「訓練」 を兼ねていたともいわれている。 最近のアフガニスタン戦争およびイラク戦争において、劣化ウラン弾やクラスター爆弾ばかりでなく、デージー・カッター、サーモバリック爆弾、 電磁波爆弾等のあらゆる新型兵器が実戦で使用されたことは記憶に新しい。

  第五点は、第一次世界大戦・第二次世界大戦とともに登場した 「総力戦」 という考え方である。 それは、戦争の勝敗を決するのは最前線での戦闘能力を支える、銃後・後方におけるその国の経済力と国民全体の総合的な団結力であるという戦争観であり、 この 「新しい国民戦争」 に勝つためには本国の産業基盤を破壊することが決定的に重要な意味をもつことになったのである。 そして、「戦闘員と非戦闘員の区別」 や 「軍事目標に限定した戦略爆撃」 という道徳的規範が次第に失われ、 都市全体の破壊や全住民の抹殺を目的とするような無差別爆撃が行われるようになったということである。

  第六点は、植民地主義と人種差別主義の結合という考え方である。これは、自分たちの側が 「正義」 「民主主義」 であって、 邪悪な敵や劣っている民族に対してはどのような手段を用いても構わないというある種の人種的な偏見や差別に基づく考え方である。 その結果、敵国の軍事・政治指導者ばかりでなく一般国民も等しく邪悪であるという 「敵の悪魔化」 「敵の非人間化」 が行われて、 異教徒撲滅あるいは害虫駆除と同じような感覚で敵国人の皆殺しや大量殺戮さえ正当化されるようになる。 東京大空襲や二度にわたる原爆投下を平然と行い、その悲惨な結果を知った上でもなおそれを正当化する姿勢の背後にはこのような考え方があったのである。 また、日本軍による真珠湾攻撃や連合軍捕虜虐待などに対する怒り・憎しみとそれに対する報復という感情がそれに拍車をかけたことも間違いない。

  以上から、無差別爆撃を正当化する論理は、そのまま原爆投下を正当化する論理と重なることがわかるであろう。 しかし、このような考え方は、根本的には植民地主義や人種差別主義に根ざしたものであり、人道的観点からも決して容認できないことは明らかである。 特に問題なのは、こうした無差別爆撃や原爆投下を正当化する考え方が、過去ばかりでなく現在においても形を変えて生き続けているということである。 すなわち、冷戦終結直後の湾岸戦争で 「正義の戦争」 という考え方が復活し、 その後のボスニア・コソヴォ紛争やアフガニスタン戦争・イラク戦争でも 「人道のための戦争」 「平和のための戦争」 という形で拡大・強化されている。 しかし、こうした考え方は、「空からの(国家)テロ」 ともいうべき無差別爆撃の非人道性・残虐性を覆い隠す、きわめて偽善的かつ欺瞞的な考え方であるといえよう。

  そして、この点に関連して吉田敏浩氏が、空爆加害者と空爆被害者の間に横たわる圧倒的な 「距離」 「隔たり」 を、 @ 「空間的距離・隔たり」、A 「心理的距離・隔たり」、B 「身体的距離・隔たり」、C 「政治経済的距離・隔たり」、D 「科学技術的距離・隔たり」、 E 「空間的距離・隔たり」、F 「情報的距離・隔たり」、の7点にわたって指摘されているのが注目される(注6)。 また、生井英考氏は、無差別爆撃が 「見えない戦争」 と化しているとし、「かつての戦争と違って高度に機械化された現代の戦争では、 攻撃する側と攻撃される側の経験があまりにも大きな非対称を描き、敵味方の双方にとってお互いを見えない存在としてしまうのである」 と指摘している(注7)。 まさに空爆加害者が良心の呵責にとらわれない秘密がここに隠されている。

2009年12月8日(68回目の “開戦記念日” を迎えて』

〈注〉
(注1) 「九州平和教育研究協議会主催の 『韓国・平和の旅』 に参加して」 2002年
(注2) 「第2回九平研「平和の旅」 文集−中国東北地方(旧「満州」)を訪ねて
    −歴史の再認識と日中平和交流をめざして」
2006年
(注3) 戦争と空爆問題研究会=編/執筆=荒井信一・前田哲男・伊香俊哉・石島紀之・聶莉莉・一瀬敬一郎 『重慶爆撃とは何だったのか−もうひとつの日中戦争』 高文研(2009年1月15日発行)、 および 「重慶大爆撃被害者の謝罪と賠償を求める闘い」、を参照
(注4) 中国・重慶市で2003年12月に開催された 「重慶爆撃65周年国際シンポジウム」 での報告資料より。 私も参加して報告を行った。拙稿 「原爆投下と無差別爆撃−重慶から広島・長崎へ−」、を参照。
(注5) 前田哲男著 『戦略爆撃の思想―ゲルニカ・重慶・広島』 凱風社、2006年、25〜28頁および438〜440頁。 その他の重慶爆撃と無差別爆撃については、例えば、前田哲男著 『戦略爆撃の思想 ゲルニカ-重慶-広島への軌跡』 朝日新聞社(19877年) および同 「日本が戦争の歴史に加えたこと−『9・11』 への補助線」 磯村早苗・山田康博共編 『グローバル時代の平和学2 いま戦争を問う』 法律文化社(2004年、58〜88頁)、ロナルド・シェイファー著 『米国の日本空襲にモラルはあったか−戦略爆撃の道義的問題』 草思社 (1996年)などを参照。
(注6) 吉田敏浩著 『反空爆の思想』 日本放送出版協会、2006年、24〜27頁を参照。
(注7) 生井英考著 『空の帝国 アメリカの20世紀』 講談社、2006年、201頁を参照。


[関連拙稿・参考文献]
・ 「無差別爆撃と原爆投下の今日的意味 ― 被害と加害の重層性を問う」 君島東彦編著 『平和学を学ぶ人のために』 世界思想社 (2009年6月)
・ 「『正義の戦争』 とアメリカ−米国原爆と劣化ウラン弾を結ぶもの−」 木村 朗編著 『核の時代と東アジアの平和』 法律文化社 (2005年)
・田中 利幸著 『空の戦争史』 (講談社現代新書) 講談社 (2008/6/17)
・荒井 信一著 『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』」(岩波新書) 岩波書店 (2008/08)